家族5人の新居に、私の部屋だけがなかった のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

10 チャプター

第1話

引っ越し祝いの夕食が終わると、母は栗の焼き菓子を切った。そして、用意したプレゼントを開けるよう、私たちをリビングへ促した。兄には、発売されたばかりのゲーム機器一式。梨奈には、彼女がずっと欲しがっていたヴィンテージのバッグ。父にも、新しい急須と湯呑みのセットがあった。私の番が来たとき、ローテーブルの上にはもう何も残っていなかった。母は数秒固まったあと、思い出したように自分の頭を軽くたたいた。「やだ、私ったら。知佳は何でも持ってるから、余計な物はいらないと思ったのよ」梨奈はバッグを抱え、少し気まずそうに言った。「お姉ちゃん、よかったらこのバッグ、しばらく使う?」「何言ってるの」母はすぐに梨奈を手で制した。「知佳は、そういう物に興味ないでしょう。昔から何も欲しがらない、手のかからない子なんだから」私はうつむき、栗の焼き菓子をひと口かじった。甘いと分かっているのに、不思議と苦さだけが広がっていく。子どもの頃、うちには余裕がなかった。兄がスニーカーを欲しがり、梨奈がピアノを習いたいと言うたび、私は早くから「何もいらない」と答えることを覚えた。その後、家の暮らしが楽になっても、家族の習慣は変わらなかった。兄は欲しい物のリンクを送れば、買ってもらえる。梨奈が少し長く眺めていた物は、翌日には部屋に置かれていた。私の欲しい物を聞かれると、母はいつも同じことを言った。「知佳はしっかりしてるし、何でもいいのよ」長いあいだ聞き分けのいい子でいると、気にかけてもらう手間まで省かれてしまうらしい。夜10時になり、私は借りている小さなマンションへ帰ろうとした。父が眉をひそめた。「こんな日に帰るのか?この家に寝る場所がないわけじゃないだろう」母も手招きした。「ゲストルームのベッドなら、今日の午後に整えておいたわ。今夜くらい泊まっていきなさい」ゲストルームの壁際には、折り畳みベッドが置かれていた。その横には、まだ開けていない段ボール箱が積まれている。クローゼットには、梨奈の部屋に収まりきらなかった季節物の服が詰め込まれ、ベッドのそばには小さな台さえなかった。母は予備の洗面用品を持ってきて、笑いながら説明した。「この部屋ね、本当は物置にするつもりだったの。でも、ベッドを残しておいてよかった。じゃなか
続きを読む

第2話

翌朝、私は近所の店へ朝食を買いに行った。戻って指を当てると、玄関のスマートロックが3回続けて認証エラーを告げた。インターホンを押そうとしたところで、住人らしい女性がエレベーターから降りてきた。私を見ると、不思議そうに足を止めた。「どちらのお宅へ?」私は目の前の扉を指した。「両親の家です」女性はさらに驚いた。「水野さんのお宅は、4人暮らしじゃなかった?この前、奥様からそう聞いたんだけど」ちょうどそのとき、内側から扉が開いた。顔をのぞかせた梨奈が、笑いながら私を中へ引っ張った。「お姉ちゃん、どうして指紋で開けなかったの?」私は母を見た。母はダイニングテーブルでゆで卵の殻をむきながら、顔も上げずに答えた。「取り付けた日は仕事だったでしょう。月に何度も来るわけじゃないし、わざわざ登録しなくてもいいと思ったのよ」スマートロックには、7件の指紋が登録されていた。父と母、兄、梨奈。家事代行のスタッフの分まである。思わず笑ってしまった。「確かに、必要ないね」母はようやく私の口調に気づき、顔を上げた。「また何か気にしてるの?今から登録すれば済むでしょう。そんな大げさなことじゃないんだから」母に言われ、私は指紋を登録することにした。ところが、登録には管理者の認証が必要だった。管理者になっている父は散歩に出ていて、スマホも置いたままだった。母は2度試したあと、面倒そうに手を振った。「もういいわ。今度にしましょう。用があればインターホンを押せばいいじゃない。開けてあげないわけじゃないんだから」私は手を引っ込めた。「分かった」朝食を済ませると、管理会社の担当者が入居者情報の最終確認に訪れた。母は4人分の名前を伝えた。私のことになると、少し間を置いた。「この子はここに住んでいません。来客扱いで大丈夫です」担当者は手元の端末を操作し、私のスマホに来客用のQRコードを送った。有効期限は3日間だった。画面に表示された「来客」の2文字を、しばらく見つめた。昨夜、母は家族のグループチャットで、ここが私たち5人の新しい家だと言っていた。けれど実際に登録するとき、私は住人にさえ数えられなかった。靴を履き替えた兄が、何気なく言った。「知佳の車も駐車場のシステムに登
続きを読む

第3話

入社の手続きは、思っていたより早く進んだ。3日後には南ヶ丘本社へ出社することになり、社員寮も用意された。私は新幹線の切符を取り、家族には何も伝えなかった。昔から、家族は私がどんな進路を選ぶのか、ほとんど気にしていなかった。進学先も就職先も、ぎりぎりになってから知るのが当たり前だった。大学の志望校を決めるとき、父は私がどこへ行きたいのか、聞いてもくれなかった。私が就職活動をしていたときも、母は私のことを気にかけるどころか、梨奈の応募書類を直してほしいと頼んでくるだけだった。あとになって両親は、私なら何でも自分で決められるから、心配しなくても大丈夫だと言った。何度もそう言われるうちに、私も、自分には親の心配など必要ないのだと思うようになっていた。秋の連休の最終日、両親は親戚を招き、新居のお披露目をした。家へ入ると、リビングの壁に見慣れない飾りが掛かっていた。木をかたどった立体的な家族のオブジェだった。幹の根元に父と母の名前があり、上へ伸びる枝は2本に分かれている。左には兄、右には梨奈の名前。その下には、将来それぞれの家族の名前を足せるよう、空白まで残されていた。私は、その前でしばらく動けなかった。台所から出てきた叔母が、私の肩を軽くたたいた。「素敵でしょう?お母さんがわざわざ頼んで作ってもらったのよ」「名前がひとつ足りなくない?」叔母は返事に詰まった。ちょうど料理を運んできた母が、私の視線を追い、すぐ笑った。「決まった大きさしかなくて、子ども3人の名前を入れると窮屈になるって言われたの。それに知佳は女の子なんだから、結婚すれば苗字も変わるでしょう。ここに名前があってもなくても同じよ」リビングにいた人たちが、一瞬黙った。兄が眉をひそめた。「母さん、何言ってるんだよ」母も、まずいことを言ったと思ったのだろう。慌てて言葉を継いだ。「そういう意味じゃないの。ただの飾りなんだから、知佳は気にしないと思っただけよ」その場にいた全員の視線が、いっせいに私へ向いた。私が「母の言うとおりだ」と認めるのを待っているようだった。私は笑った。「うん。気にしてないよ」母は、目に見えてほっとした。食事の途中、祖母が私に、なぜ両親と一緒に新居で暮らさないのかと尋ねた。私が答える前に
続きを読む

第4話

出発の前日、私は今の会社で最後の引き継ぎを終えた。午後3時頃、母から電話がかかってきた。昨日のやり取りなどなかったように、いつもどおりの声だった。「今夜、家へ来てくれない?ゲストルームの荷物を動かすの、手伝ってほしいのよ」「どうしたの?」母は電話の向こうで笑った。「梨奈が電子ピアノを買ったの。あの子の部屋に置くと狭くなるから、お父さんと相談して、ゲストルームをピアノの部屋にすることにしたのよ。普段は誰も使わないでしょう。知佳が泊まるときは、ソファで寝るか、狭くても梨奈の部屋で一晩寝ればいいから」私はしばらく黙った。「分かった」家に着くと、折り畳みベッドは兄の手で解体されていた。梨奈は床にしゃがんで防音マットを貼っていた。私を見ると、少し気まずそうにした。「お姉ちゃん。私がこの部屋を使いたいって言ったわけじゃないよ。空けておくのはもったいないって、お母さんが……」私はうなずき、残っていた2箱を一緒に運び出した。そばで母が指示を出した。「知佳、自分の段ボール箱も持って帰ってね。いつまでもここに置いておくと、場所を取るから」私は何度も車まで往復し、荷物を運び出した。20年以上の思い出が詰まった自分の箱も、一緒に持ち出した。最後の箱を運ぼうと、私は玄関で靴を履き替えていた。私に渡された使い捨てのスリッパは、もう形が崩れかけていた。その隣には、4足の特注のスリッパが変わらずきれいに並んでいる。母は私の視線に気づき、ようやく思い出したように言った。「そうだ。今度、知佳の分も頼んでおくわね」私は靴に足を入れた。「もういらないよ」母は笑いながら、私を軽く押した。「まだ気にしてるの?最近、何でも悪いほうに受け取るのね。買ったって、月に2回くらいしか来ないんじゃ、ほこりをかぶるだけでしょう」私も笑った。「そうだね」確かに、買ってもらう必要はなかった。もう、この家でスリッパを履くこともなくなるのだから。最後の箱を車のトランクへ入れると、父が家から追いかけてきた。手には、何枚かの印刷用紙を持っている。「ちょうどよかった。これを見てくれ」家族4人で行く、年末年始の南の島への旅行日程表だった。ホテルはツインの部屋1室とシングル部屋を2室予約する予定で、航空券は
続きを読む

第5話

南ヶ丘駅に着いたのは、正午を少し過ぎた頃だった。ふたつのスーツケースを引いて改札を出ると、会社から迎えに来てくれた同僚が手を振った。「水野さんですよね?トランクを空けてきたので、荷物は全部入りますよ」何気ないひと言なのに、私はすぐに返事ができなかった。これまで家族で出かけるとき、私はいつも荷物を抱え、後部座席の真ん中に座っていた。兄はいつも言った。梨奈は車に酔いやすいから助手席に座らせよう。父と母は年を取っているから、後部座席は広く使わせてあげよう、と。最後に残った場所が、私の席だった。私が来る前から、荷物を置く場所まで空けてくれる人もいるのだ。入社手続きが終わったのは、午後5時頃だった。同僚は社員寮まで案内し、エントランスと部屋の鍵を渡してくれた。「こっちが建物のエントランスで、もうひとつが部屋の鍵です。なくしたら言ってください。予備は総務にありますから」手のひらに載った鍵を見ていると、自然に笑みがこぼれた。そのとき、母からメッセージが届いた。【夜は何時に帰ってくるの?お父さんが、知佳の好きなカニを買ってきたわよ】私は返信しなかった。午後6時半には、兄から催促が来た。【今どこ?父さん、もうカニをさばくって言ってるぞ】7時10分、梨奈が食卓の写真を送ってきた。5人分の食器がきれいに並んでいる。私の席だけ、出入口に一番近い端に、付け足したように用意されていた。【お姉ちゃん、早く。あとはお姉ちゃんだけだよ】7時20分、とうとう母から電話がかかってきた。電話に出るなり、母は強い口調で問い詰めた。「どういうつもりなの?機嫌が悪いのは勝手だけど、食事くらい帰ってきなさいよ。家族みんなで知佳を待ってるのよ」私は鍵を回し、自分の部屋の扉を開けた。「もう、そっちには帰れないよ」母は黙り込んだ。「帰れないって、残業なの?」「今、南ヶ丘にいるの。今日、入社手続きを済ませたところ」「南ヶ丘?」電話の向こうが静まり返った。数秒たって、遠くから父の声がした。「知佳は何て?」母は意味が分からないように、もう一度尋ねた。「南ヶ丘へ何をしに行ったの?」私はベッドの端に座り、静かに答えた。「南ヶ丘に本社がある会社に転職したの。今日、正式に赴任したの」次の
続きを読む

第6話

翌朝、会議室へ入ったところで、兄から電話がかかってきた。電話に出ずに切ると、兄はかけ直さず、写真を1枚送ってきた。梨奈が買ったばかりの電子ピアノは、彼女の部屋へ移されていた。片づいたゲストルームの壁際には、新品らしきベッドが置かれている。写真の下に、短いメッセージがあった。【母さんが、慌てて用意したんだ】私はひと目見て、画面を閉じた。午前中は、3時間続けて会議だった。会議が終わると、同僚に昼食は何がいいかと聞かれた。反射的に答えた。「何でもいいです。好き嫌いはないので」同僚は笑った。「何でもいいって言われると、かえって迷っちゃいますよ。水野さん、何か食べたいものはないですか?」私はしばらく返事に詰まった。「オムライスがいいです。ケチャップたっぷりの」「決まりですね。行きましょう」同僚と食べる、ごく普通の昼ご飯だった。それなのに、家族で引っ越しを祝ったあの夜より、ずっと気が楽だった。午後になると、母からメッセージが届いた。最初の写真は玄関だった。淡い水色のスリッパが1足、並べてあった。甲には、私の名前が刺繍されていた。次は、スマートロックの管理画面だった。【知佳の指紋も登録できるわよ。帰ってきたら、お母さんがやってあげるから】最後の写真は、作り直した家族の木のデザイン案だった。父と母の名前から、今度は3本の枝が伸びている。私の名前は、その真ん中にあった。母は尋ねた。【これならいいでしょう?】私はしばらく写真を見つめてから、母に電話をかけた。母はすぐに出た。「写真、見てくれた?あの部屋のマットレス、お父さんがわざわざ選びに行ったのよ。腰が悪い人でも楽に寝られるんだって。家族の木も作り直してもらうことにしたから、今度はちゃんと知佳の名前も入ってるわよ」母は早口で話し続けた。今からでも私の分をあれこれ用意すれば、これまでのことは帳消しにできると思っているようだった。私は、母が話し終えるのを待った。「お母さん。私、ベッドがなかったから出ていったんじゃないよ」電話の向こうで、母が黙った。「じゃあ、どうしてほしいの?」母の声には、もう自分が責められているかのようなやるせなさがにじんでいた。「部屋も用意した。スリッパも買った。家族の木も作り
続きを読む

第7話

南ヶ丘へ来て初めての週末に、兄がひとりで訪ねてきた。兄は会社へ押しかけたりせず、前もって私の都合を聞いてきた。私たちは、社員寮の近くのカフェで会う約束をした。顔を合わせると、兄はまず辺りを見回して尋ねた。「こっちの暮らしには慣れた?」「うん。寮は会社から少し遠いけど、必要な物は何でも買えるよ」兄はうなずき、それきり黙った。これまで、こうして座って話すことはめったになかった。実家では、兄と梨奈がいつも楽しそうに話し、私はたいてい聞き役だったからだ。しばらくして、兄はバッグから古いアルバムを取り出した。「母さんが押し入れを片づけてたら、出てきたんだ」私は最初のページを開いた。そこには、子どもの頃の写真ばかりが並んでいた。兄が初めて自転車に乗った日は、私が後ろから支えている。梨奈が初めて発表会の舞台に立った日は、私が舞台の前にしゃがみ、動画を撮っていた。父が入院していたときの写真もあった。私は父のベッドの端に顔を伏せたまま、眠っていた。母が転んでけがをした年には、私が車椅子を押して再診に付き添った。最後のページまでめくったところで、兄が言った。「これ、知佳が写ってるの、こんなに少なかったんだな」私は顔を上げなかった。「ほとんど、私が撮ったから」兄は黙った。しばらくして、兄が小さくつぶやいた。「くそ……最悪だな」私は笑った。「今頃、気づいたの?」兄は顔を手でこすった。「こんなことになるまで、本当に考えたことがなかった。知佳は俺たちよりずっとしっかりしてると思ってた。父さんも母さんも、何かあれば最初に知佳を頼るし、いつもちゃんとやってくれてたから。だから、こういうことは気にしないんだって、勝手に決めつけてた」私はアルバムを閉じた。「気にしてなかったわけじゃないよ。いつも私から『私にも』って頼まなきゃいけないのが嫌だったの」兄は何も言わなかった。それが、かえってありがたかった。別れ際、兄が母からの伝言を口にした。「母さん、年末年始の旅行はやめるってさ。みんなで家にいて、知佳が帰ってくるのを待つって言ってた」私は首を横に振った。「待たないで。今年は帰らないから」兄は少し眉を寄せたが、説得はしなかった。「分かった。そう伝える」2歩ほ
続きを読む

第8話

1か月後、父と母、梨奈が南ヶ丘へ来た。母から連絡があったのは、3日前だった。【知佳に会いに行こうと思うんだけど、時間ある?忙しかったら、私たちだけで観光して帰るから。会社に急に行ったりしないから、安心してね】「会社に急に行ったりしない」という文字を、私は長いあいだ見つめた。迷った末、短く返した。【日曜の午後なら大丈夫】3人は、本当に約束した時間に現れた。マンションに着いても、母はそのまま上がってこようとはせず、私に電話をかけてきた。「知佳、今、マンションの前に着いたの。迎えに来てもらっても大丈夫?」外へ出ると、梨奈が紙袋を抱え、ふたりの後ろに立っていた。梨奈は私を見ると、きゅっと唇を結んだ。「お姉ちゃん」以前の梨奈なら、私を前にしてこんなに緊張することはなかった。私は3人を部屋へ案内した。母は中へ入ると室内を見回したが、以前のように「こんな物を買って、もったいない」「これ、何に使うの?」と、私の買った物に口を出すことはなかった。ただ、窓のほうを見て、ひと言だけ言った。「日当たりがいいね」父もソファに座り、珍しく実家へ戻れとは言わなかった。梨奈が紙袋を差し出した。中をのぞくと、入っていたのはプレゼントではなかった。南の島行きの航空券4人分のキャンセル確認書と、作り直した家族の木の写真だった。梨奈は小さな声で言った。「お姉ちゃん、これだけしたんだから許してって言いに来たんじゃないよ。ただ、ちゃんと謝りたくて」私が顔を上げると、梨奈は目を赤くしていた。それでも泣くまいと、こらえているようだった。「お母さんが何でも私を優先してくれるの、当たり前だと思ってた。お姉ちゃんもいつも『いいよ』って言ってくれるから、本当に気にしてないんだって思ってたんだ」梨奈は紙袋の端を指でいじった。「ピアノの部屋のこともそう。あそこが、お姉ちゃんが実家に泊まれる唯一の部屋だって分かってた。それなのに、お母さんから空けておくのはもったいないって言われたら、私もそうだと思った。今考えると、本当にひどかった」母が口を挟もうとした。梨奈はすぐ、母を止めた。「お母さん、かばわないで。私ばっかりいい思いをしてたんだから」部屋が静かになった。梨奈が両親にかばってもらわず、自分の非を認め
続きを読む

第9話

お正月の1週間前、家族のグループチャットが急に静かになった。12月27日になって、父がようやくメッセージを送った。【年末年始をどう過ごすか、各自で教えてくれ。誰かが勝手に決めるのはなしにしよう】兄は仕事。梨奈は友人とスキーへ行くことになっていた。父と母は、ふたりで家に残るという。私の番になり、短く返した。【南ヶ丘で過ごす】母からの返事は、ひと言だけだった。【分かった。何か食べたい物はある?送るから】初めは、何もいらないと返そうとした。途中まで書いて、消した。【手作りのたくあんがいいな。それと、お母さんが作る辛みそ】10分後、母から感嘆符が3つ並んだ返事が届いた。【分かった!!!辛みそは多めに入れておくね】思わず笑った。家族の好意を受け取っても、また私ばかりが我慢する関係に戻るわけではない。その優しさで私を縛ろうとしないのなら、受け取ってもいいのだ。大みそかには、帰省しないプロジェクトの仲間が何人か、私の家へ食事に来た。同僚たちが、鍋の素や飲み物を持ち寄って集まってきた。袋いっぱいのミカンを提げてきた研修中の後輩は、部屋に入ると私に尋ねた。「水野さん、どこに座ればいいですか?」私はダイニングテーブルを指した。「好きなところに座って、みんなの席はちゃんとあるよ」それほど大きくないテーブルに、6人分の食器がきちんと並んだ。誰ひとり、あとから用意された小さな椅子に座ることはなかった。食事の途中、母からビデオ通話がかかってきた。画面の中では、父と母だけが食卓についていた。私は少し驚いた。「お兄ちゃんと梨奈は?」母は笑った。「言ったでしょう。ひとりは仕事、もうひとりはスキーよ。若い人には、それぞれ予定があるんだから。私たちだって、ふたりでゆっくり年を越せるわ」父も画面へ顔を寄せた。「お母さんも、ようやく分かったんだよ。無理に全員そろえるのは、家族団らんじゃなくて出欠確認だろ」母が父をにらんだ。「何よ。分かったようなことを言って」私は声を上げて笑った。母は玄関へスマホを向けた。あの淡い青色のスリッパは、今もそこに置かれていた。けれど母は、帰ってきたときに履いてとは言わなかった。ただ、穏やかに尋ねた。「今の部屋、慣れた?」「
続きを読む

第10話

翌年の秋の連休、私は実家へ帰らなかった。ちょうど大事なプロジェクトが終わり、ようやく取れた3日間の休暇を、自分の家で過ごすことにした。半月ほど前、両親から尋ねられていた。【今年は、知佳の家へ行ってもいい?都合が悪かったら、断ってくれていいから】私はメッセージを見て、ひと言だけ返した。【来てもいいよ】家族が着いたのは午後4時を過ぎていた。兄と梨奈も休みを取り、両親と一緒に来た。私は4足の来客用スリッパを用意して待っていた。母は履き替えながら、足元をしばらく見つめた。「今度は、どうして4足なの?」後ろにいた兄が、あきれた声を出した。「母さん、わざわざ自分が落ち込むようなこと聞くなよ。ここは知佳の家なんだから、自分のスリッパはあるだろ」皆が笑った。母も笑ったが、目は少し赤くなっていた。リビングへ入った母は、仕事用のスペースを見て足を止めた。「ここは、知佳が使っているの?」「うん。家で残業するときに使ってる」そこには壁一面の本棚と、広い机があった。窓辺には、半年ほど前から育てている観葉植物があった。母は机の角を、指先でなぞった。「知佳、子どもの頃から、自分の机が欲しかったんじゃない?」私は料理を皿に盛る手を止めた。「欲しかったよ」子どもの頃、兄には自分の部屋があった。梨奈が生まれると、両親はもうひとつの部屋を子ども部屋にした。私が眠っていたのは、物置を片づけて作った、ベランダ脇の小さな部屋だった。宿題を広げられる大きな机が欲しいと、一度だけ母に言ったことがある。母は、兄や梨奈と張り合わないの、と私をたしなめた。母も、そのときのことを思い出したのだろう。しばらく黙ったあと、静かに言った。「私、自分で思っていたよりずっと、知佳に我慢させてたのね」私は「もう昔のことだから」とは言わなかった。あったことまで、なかったことにはできない。代わりに、洗ったブドウを母へ差し出した。「食べる?甘いよ」夕食の支度は、皆で分担した。父が料理を作り、兄が野菜を洗い、梨奈が果物を切った。母も手伝おうとしたが、私は椅子に座らせた。母は不満そうに言った。「6時間以上もかけて来たのに、お母さんはお客さんなの?」私はわざとうなずいた。「そうだ
続きを読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status