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第4話

作者: 満福うつわ
出発の前日、私は今の会社で最後の引き継ぎを終えた。

午後3時頃、母から電話がかかってきた。

昨日のやり取りなどなかったように、いつもどおりの声だった。

「今夜、家へ来てくれない?ゲストルームの荷物を動かすの、手伝ってほしいのよ」

「どうしたの?」

母は電話の向こうで笑った。

「梨奈が電子ピアノを買ったの。あの子の部屋に置くと狭くなるから、お父さんと相談して、ゲストルームをピアノの部屋にすることにしたのよ。

普段は誰も使わないでしょう。知佳が泊まるときは、ソファで寝るか、狭くても梨奈の部屋で一晩寝ればいいから」

私はしばらく黙った。

「分かった」

家に着くと、折り畳みベッドは兄の手で解体されていた。

梨奈は床にしゃがんで防音マットを貼っていた。私を見ると、少し気まずそうにした。

「お姉ちゃん。私がこの部屋を使いたいって言ったわけじゃないよ。空けておくのはもったいないって、お母さんが……」

私はうなずき、残っていた2箱を一緒に運び出した。

そばで母が指示を出した。

「知佳、自分の段ボール箱も持って帰ってね。いつまでもここに置いておくと、場所を取るから」

私は何度も車まで往復し、荷物を運び出した。20年以上の思い出が詰まった自分の箱も、一緒に持ち出した。

最後の箱を運ぼうと、私は玄関で靴を履き替えていた。

私に渡された使い捨てのスリッパは、もう形が崩れかけていた。

その隣には、4足の特注のスリッパが変わらずきれいに並んでいる。

母は私の視線に気づき、ようやく思い出したように言った。

「そうだ。今度、知佳の分も頼んでおくわね」

私は靴に足を入れた。

「もういらないよ」

母は笑いながら、私を軽く押した。

「まだ気にしてるの?最近、何でも悪いほうに受け取るのね。買ったって、月に2回くらいしか来ないんじゃ、ほこりをかぶるだけでしょう」

私も笑った。

「そうだね」

確かに、買ってもらう必要はなかった。

もう、この家でスリッパを履くこともなくなるのだから。

最後の箱を車のトランクへ入れると、父が家から追いかけてきた。

手には、何枚かの印刷用紙を持っている。

「ちょうどよかった。これを見てくれ」

家族4人で行く、年末年始の南の島への旅行日程表だった。

ホテルはツインの部屋1室とシングル部屋を2室予約する予定で、航空券はすでに4人分押さえてあった。

父は紙をめくりながら説明した。

「知佳は年末年始も仕事のことが多いだろう。今回もそうだと思って、聞かなかったんだ」

年末年始の休みについては、2か月前に母へ伝えてあった。

そのときは母も、「引っ越しが済んだら、やっと家族みんなで旅行に行けるね」と言っていた。

それなのに、いざ予約する段階になると、また私のことを忘れたらしい。

父は私が黙っているのを見て、付け加えた。

「知佳も行きたいなら、今から航空券を1枚追加すればいい。ホテルは狭くても梨奈と同じ部屋に泊まれば、何とかなるだろう」

いつもそうだった。私が目の前にいて初めて、家族は私の寝る場所や席をどうにか用意してくれる。

臨時のベッドを置く。椅子をひとつ足す。航空券を1枚だけ追加する。

だから家族は、私をひどく扱ったとは思っていない。

けれど、本当にこの家に自分の居場所があるのなら、私の分は初めから用意されているはずだった。

私は日程表を父へ返した。

「みんなで行って。年末年始は予定があるから」

父は、あからさまに不機嫌になった。

「一応聞いただけなのに、またそんな顔をするのか。家族で暮らしていれば、全員のことに毎回気が回るわけじゃない。知佳は昔から一番手がかからなかったのに、最近はどうしてそんなに扱いにくくなったんだ?」

父を見ても、もう説明したいとは思わなかった。

「私、怒ってないよ」

父は信じなかった。

「もういい。帰って寝れば、何日かしたら落ち着くだろう」

私は短く返事をした。

今度は、言い返さなかった。

その夜、自分の部屋へ戻り、ふたつのスーツケースに必要なものを詰めた。

管理会社にはすでに退去を連絡し、鍵の返却方法も確認してあった。電気や水道の解約手続きも済ませていた。

母からは、夜になって300万円が振り込まれていた。

振込メモには、ひと言だけ書かれていた。

【家族なのに】

その文字をしばらく見つめたあと、私は入金を確かめた。

以前のように、母へ送り返すことはしなかった。

夜11時を過ぎても、家族のグループチャットには次々と通知が届いた。

梨奈がピアノの部屋の写真を送り、母がセンスを褒める。兄は、週末に棚を取り付けに行くと言った。

父は南の島の観光情報を送り、3人に泊まりたいホテルを選ばせていた。

私が無事に帰ったか尋ねる人はいなかった。

今日、私があの家から持ち出したのは、思い出の詰まった箱だけではなかった。

けれど、家族の誰も、そのことには気づいていなかった。

私は部屋の鍵をテーブルへ置き、南ヶ丘本社から届いた案内を開いた。

【明日午後2時までにご出社ください。社員寮のお部屋を確保しています】

私はスマホで、予約していた新幹線の切符を確認した。

午前6時5分発。南ヶ丘までは6時間以上かかる。

またスマホが震えた。

母が家族のグループチャットで私を呼んでいた。

【明日の夜は帰ってきなさい。お父さんがカニを買ってきたから】

【そんな小さなことで、いつまですねてるの。家族なんだから、もう忘れなさい】

私は返事をしなかった。

スマホの通知音を切り、最後のスーツケースを閉じた。

家族は皆、私が少し不機嫌になっているだけだと思っている。

ひと晩眠り、何度かなだめれば、また以前のように戻ってくると信じている。

けれど、誰も知らなかった。

明日の朝、この町を出たら、私はもうあの家へ泊まりに戻ることはない。

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