جميع فصول : الفصل -الفصل 10

12 فصول

第1話

医師が検査報告書を私の前に差し出した時、私はちょうど蒼真に電話をかけているところだった。1回目は誰も出ず、2回目は切られた。3回目で、姉の優しい声が聞こえてきた。「結月、蒼真は今運転中だから、電話に出られないの」受話器の向こうから、蒼真が低い声で注意を促すのが聞こえる。「シートベルト、しっかり締めて」私はスマートフォンを強く握りしめた。結婚1年目、私もわざとシートベルトを締めず、彼が身を乗り出して締めてくれるのを待ったことがあった。しかし、彼は容赦なくアクセルを踏み込み、私の額をぶつけて青痣を作らせた挙句、冷たく言い放った。「結月、いつまでも誰かがお前を甘やかしてくれると思うなよ」彼は人を甘やかすことができないわけではなかった。ただ、私を甘やかすつもりがないだけだ。「どこに行くの?」「妊婦健診よ」姉は慌てて釈明した。「雅玖が急な出張になっちゃって、蒼真がちょうど空いてたから」「電話を彼に代わって」少しして、蒼真の冷淡な声が聞こえてきた。「何か用か?」私はうつむいて報告書に視線を落とした。末期の胃がん、多発転移、余命は長くても3ヶ月。「今夜、一度帰ってきて」「暇じゃない」彼は一切の躊躇なく断った。「萌奈の胎児の状態が不安定なんだ。本家に送り届けないといけない」私はその診断書を強く握りしめた。「私も今、病院にいるの」電話の向こうが一瞬静まり返り、ついに私がどこか具合でも悪いのかと聞いてくれるのではないかとすら思った。だが次の瞬間、彼の口調に残っていたのは煩わしさだけだった。「結月、また何なんだ?」「また」という言葉で、私は口を開く気力を完全に失ってしまった。ここ数年、姉の手から彼を奪うために、私は仮病を使ったり、わざと交通事故に遭ったりもした。彼が本気で私を見捨てることなどできはしないと高をくくり、自分の身を危険に晒しては、幾度となく彼を無理やり振り向かせてきた。今、ついにその報いが来た。私は本当に死にかけているのに、彼は一言尋ねてくれることすら嫌がる。「なんでもないわ、お姉さんに付き添ってあげて」蒼真は冷え切った声で釘を刺した。「今日の検査は大事なんだ。くれぐれも押しかけてきて騒ぎ立てるなよ」私は報告書の「3ヶ月以内」という文字を見つめ、ふっと笑い声を漏らし
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第2話

蒼真が屋敷に戻ってきたのは、それからずいぶん経ってからのことだった。私はめちゃくちゃに壊されたアトリエの床に座り込み、キャンバスから最後に残ったサインの部分を切り離していた。この絵は、私が7年の歳月をかけて描き続けてきたものだ。23歳の蒼真は黒いシャツを纏い、24歳の彼は窓の前に立って煙草を吹かし、25歳の彼は初めて泥酔してソファにもたれかかりながら、姉の名前を呼んでいた。1年が経つごとに、私はこっそりと筆を重ねてきた。長い時間をかけて描き続ければ、いつの日か、彼が私に向ける眼差しもほんの少しは優しくなるのではないかと信じていた。だが、もうその必要はない。キャンバスは私の手でズタズタに切り裂かれ、蒼真の顔だった切れ端が床一面に散らばっている。ドアを押し開けて入ってきた彼は、ちょうど床に散らばった肖像画の自分自身の目を革靴で踏みつけた。「萌奈はもう大丈夫だ」彼の声は相変わらず氷のように冷ややかだった。深夜にわざわざ帰宅したのは、ただ姉の無事を私に宣告するためだけであり、決して私の様子を見に来たわけではない。そう言わんばかりだった。私はうつむいたまま、ハサミを入れてキャンバスの端を切り落とした。「……そう、よかったわ」蒼真は怪訝そうに眉をひそめた。以前の私なら、姉が少しでも体調を崩せば、必ず激しく騒ぎ立てていたはずだからだ。姉の心臓発作が起きて彼が病院へ駆けつけた時は、邸宅の門をきつく施錠し、彼の車のキーを水槽へ投げ捨てた。姉が手術を受け、彼が病院で徹夜した時は、パジャマ姿のまま病院の入り口に座り込み、朝食や書類、充電器などを一つひとつゴミ箱へ放り込んだ。病室にいる姉を指差して、彼を何度も問い詰めたものだ。「お姉さんには夫がいるのに、どうしてあなたが付き添うのよ?」彼はそんな私を、全く話が通じないと激しく罵った。すると私は彼のネクタイを乱暴に掴み寄せ、大勢の人の前で口づけをした。まるで狂人のように、彼が私のものだと見せつけるために。だが、今の私はもう騒ぎ立てる気すら起きなかった。そんな私の態度に、蒼真はかえって戸惑いを覚えたようだった。彼は一枚の検査結果を私の前に無造作に投げ捨てた。「医者の話では、過度なショックを受けただけとのことだ」「明日、病院へ行って謝れ」私はそれに
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第3話

翌日、私は病院へ向かった。病室には両親が揃っていた。蒼真は姉のベッドの傍らに座り、彼女の検査結果を手にしていた。雅玖が出張で不在のため、蒼真が彼に代わって、医師からすべての注意事項を聞き出していたらしい。私の姿を見るなり、姉は咄嗟に下腹部を庇うように手を添えた。その動作はとてもささやかなものだったが、病室にいる全員の目に留まるには十分だった。母が彼女の前に立ちはだかった。「一体何をしに来たの?」「謝りに」私は持ってきたフルーツバスケットを置いた。母は虚を突かれたように固まった。父が冷ややかな顔で叱責した。「萌奈は小さい頃から至る所でお前に譲ってきたというのに、今度はお腹の子までお前のせいで危ない目に遭うところだった。結月、お前は一体いつになったら聞き分けが良くなるんだ?」また、「譲る」の話だ。私は病床の姉に目を向けた。彼女は青白く、か弱く、誰もが腫れ物に触るように大事に守り抜いている。姉も私を見つめていた。彼女は声を潜めて父をなだめた。「結月を責めないで。あのアトリエは結月が一番気に入っていた場所なの。蒼真が相談もなしに壊したんだから、怒るのも無理ないわ」姉は、昔からいつもこうだ。まずは私の味方をするふりをして見せ、その実、私が決定的な過ちを犯したのだという事実を、病室の全員にこれ以上なく印象づけるのだ。案の定、蒼真の眼差しはさらに冷酷さを帯びた。「アトリエを壊したのは俺が決めたことだ。萌奈に八つ当たりするな」私は姉を見つめた。「ごめんなさい」病室が静まり返った。母は、まさか私の口からその言葉を聞く日が来るとは思いもよらなかったのだろう。姉の目はたちまち赤く潤んだ。「結月、やめて……私、怖い」私はなんだか、ひどく滑稽に思えて笑い出したくなった。私が物を壊せば、彼女は怖がる。私が人を叩けば、彼女は怖がる。そして今、私が頭を下げて謝罪しても、やはり彼女は怖がるのだ。結局のところ、私が何をしようと、すべて間違いなのだ。私はバッグから株式譲渡の書類を取り出した。「おばあちゃんが私に残してくれた株よ。もうサインはしてあるから、お姉さんに譲るわ」姉は呆然とした。母がすぐさまその書類をひったくるように受け取った。「今度は何が欲しいっていうの?」その警戒に満ちた顔
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第4話

家に戻り、私はサインを済ませた離婚協議書を机に置いた。その内容に目を通すなり、蒼真の顔色がスッと険しく沈んだ。「1日中騒ぎ立てていたのは、これが目的か?」「サインして」彼は最後のページをめくり、財産分与の条項に目を落とした。その眼差しは、さらに冷徹さを増していた。家も、車も、株式も、私は何一つ要求していなかった。彼は協議書を真っ二つに破り捨てた。「結月、俺に無理やり結婚を迫った時は、死ぬまで俺を手放さないと言い張っていただろう。今度は離婚を盾にして、俺に頭を下げさせる気か?」確かに、私はそう言った。結婚式の日、私は彼に指輪をはめ、列席者の前でこう宣言した。「この先私が死ぬまで、誰にも蒼真は渡さない」と。蒼真は覚えている。私も覚えている。だからこそ、今の私がここを去ったとしても、決して嘘をついたことにはならないのだ。「あなたに頭を下げさせようなんて思っていないわ」私は結婚指輪を外し、机の上に置いた。「サインしなくてもいい。これはただの通知だから」彼はその指輪を、射抜くように睨みつけた。「また家出の真似事か?」この7年間で、私は11回の家出をした。短い時は2時間、長い時で3日間。そのたびに、彼が探しに来てくれるようわざと手がかりを残していた。一度だけ彼がなかなか迎えに来ず、ホテルの部屋で深夜までじっと待ち続け、結局自分から電話をかけて彼をなじったこともあった。だから蒼真は、私が決して彼から離れられないと高を括っているのだ。彼は嘲笑うように言った。「今回は何日隠れるつもりだ?」私は彼を見つめ、静かに答えた。「少し、長くなるかもしれないわ」その時、彼のスマートフォンが鳴った。姉が突然腹痛を訴え、再び病院へ運ばれたという。蒼真はジャケットを手に取り、すぐさま部屋を出ようとした。私のそばを通り過ぎる時、彼が一瞬だけ立ち止まった。「家で待ってろ。離婚の件は、俺が戻ってからだ」昔の私なら、彼が「戻る」と言えば、馬鹿みたいにただひたすら待ち続けていた。料理がすっかり冷め切るまで、夜が明けるまで、そして彼が姉の病室の消毒液の匂いを体に染み込ませて帰ってくるまで、ずっと待ち続けていた。今回も、私は素直に頷いた。蒼真は満足したようだった。彼は手を伸ばし、私の頬に軽く触れた。
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第5話

蒼真が病院から戻った時、邸宅には明かりひとつ点いていなかった。以前なら、彼がどれだけ遅く帰ろうとも、リビングの壁のランプが必ず一つ灯されていた。そして結月がソファに座って彼を待っていたものだ。なぜ萌奈のそばにそれほど長く付き添っていたのかと問い詰め、なじる夜もあれば、わざと料理をひっくり返して、最初から食事に付き合い直せと駄々をこねる夜もあった。だが今夜は、何もなかった。ダイニングテーブルの上は空で、寝室にも誰もいなかった。蒼真が明かりをつけると、机の上に置かれた結婚指輪が真っ先に目に入った。指輪の下には、すっかり黄ばんだ一通の手紙と、新たに印刷し直された離婚協議書が重ねて置かれていた。そのラブレターを手に取った瞬間、蒼真の顔色がスッと険しくなった。それは7年前、彼が萌奈に宛てて書いたラブレターだった。かつて結月がそれを盾にして結婚を迫り、今またこうして残していったのは、いまだに自分が彼の急所を握り続けているのだと思い知らせるための、ただの当てつけに過ぎない――蒼真はそう思っていた。彼はスマートフォンを取り出し、結月の番号を呼び出した。電源は切られていた。蒼真は冷たく鼻を鳴らし、結月にメッセージを送りつけた。【夜が明ける前に戻ってこい】数分待っても、返信はない。苛立ちを募らせた彼は、すぐさま二通目を送りつけた。【結月、嫉妬の当てつけに離婚を持ち出すな】だが、結月からの返信は依然としてなかった。蒼真はウォークインクローゼットへ足を踏み入れ、ふいに立ち止まった。クローゼットの中のものは、すべてそのまま残されていた。彼が贈ってくれた宝石も、ドレスも、バッグも、何ひとつ欠けていない。結婚記念日に彼が適当に買い与えたダイヤモンドのブレスレットも、一度も封を切られていない箱のまま置かれていた。かつて結月は、彼の手で直接着けてほしくて、1ヶ月もの間、その箱を彼の枕元に置き続けていた。最後は彼が邪魔そうに引き出しに放り込み、結月は怒りのあまり鏡を叩き割った。それなのに今、結月はそれすら持っていかなかった。蒼真が金庫を開けると、不動産の権利証や車のキー、そして一枚の物品目録が整然と並べられていた。目録の一番下には、結月のサインがあった。その文字を見つめていると、蒼真の胸の奥底に、ふ
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第6話

蒼真が海市に到着した時、すでに夜は白々と明けていた。本来なら4時間はかかる道のりを、彼は3時間足らずで車を飛ばしてきた。道中、彼が何度結月の番号に電話をかけ直したか知れない。だが、受話器の奥からは無機質なアナウンスが繰り返されるばかりだった。彼はふと思い出した。以前の結月なら、彼のスマートフォンが30分でも繋がらなければ、彼の知人という知人に連絡を取って探し回っていたことを。会議室のドアを叩き壊す勢いで押し入り、彼の車を塞ぎ、会社のビルの下で夜通し待ち伏せすることすらあった。それなのに今、彼は結月が海市に何日滞在していたのかすら知らなかった。助手席はがらんとして空っぽだった。けれど彼の目には、誕生日パーティーの夜の結月の姿が映っていた。結月は萌奈のネックレスを奪い取ろうとも、ケーキをひっくり返して暴れようともせず、代わりのプレゼントを強請ることもしなかった。ただ彼に、あの日が結月の誕生日でもあることを覚えているかと尋ねただけだった。彼は「プレゼントは、後日改めて埋め合わせをする」と言った。結月は首を振り、「いいえ、結構よ」と答えた。あの時の彼は、結月が気を引くための駆け引きをしているのだと思い込んでいた。今になってようやく、彼は思い知らされたのだ。結月が何も欲しがらなくなったのは、駆け引きなどではなく、静かに別れを告げていただけなのだと。ホスピスの廊下には、消毒液の匂いが充満していた。蒼真が正面玄関に飛び込むと、医療スタッフがストレッチャーを押して角から出てくるのが真っ先に目に入った。ストレッチャーの上の人間は酸素マスクをつけ、口元には拭ききれなかった血の痕が残っている。だぼだぼの患者衣に包まれたその体は、痛々しいほど骨と皮ばかりに痩せ衰えていた。結月の手首に残るあの古い傷跡を見なければ、彼には到底結月だと信じられなかっただろう。それは結婚2年目、萌奈を迎えに空港へ向かった彼を、結月が車で血眼になって追いかけた時に負った傷だった。あの時、結月は彼の手を強く握りしめて言った。「蒼真、見て。結局あなたは、私を選んだじゃない」今もその傷跡は残っているけれど、結月はもう、彼に選ばれる必要などなくなっていた。「結月!」蒼真が駆け寄ろうとしたが、看護師に阻まれた。「患者さんは現在救命処置
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第7話

私がそう言い放つと、病室は長いこと静まり返っていた。蒼真はその同意書を握りしめ、指の関節はみるみるうちに白く強張っていった。「結月、今は意地を張っている場合じゃない」「意地なんか張ってないわ」私は枕に寄りかかった。一言発するたびに、胃の中を鋭い刃物で掻き回されるような激痛が走る。「蒼真、私はただ、もうあなたがいらなくなっただけ」彼の顔から、さっと血の気が引いた。きっとこの言葉は、私の診断書以上に彼にとって受け入れがたいものだったのだろう。何しろこの10年間、私は彼を手に入れるためなら、自分が惨めな笑い者に成り下がることも厭わなかったのだから。姉のドレスを奪い取ったのも、彼に着て見せたかったから。神崎家のプロジェクトを強引に横取りしたのも、私が姉に劣っていないと彼に思い知らせたかったから。あのラブレターが私宛てではないと知りながら、あらゆる手段を使って彼に結婚を迫った。彼は、私からの愛にすっかり慣れきっていたのだ。いつの日か、その愛がすり減り、完全に尽き果ててしまう時が来るなど、想像すらしたことがないほどに。「治療の件は後で話そう」蒼真は同意書を枕元に置き、まるで私の代わりにすべてを決めてしまったかのように言った。「すでに専門医の手配は済ませてある。今日の午後にはここに着くはずだ。ここは設備が悪い。お前の状態が安定し次第、すぐに転院するぞ」私は黙ってナースコールを押した。看護師が入ってくると、私ははっきりと告げた。「今この時から、この男性が私の病室に入ることも、私の治療方針に関与することも一切禁じます」看護師は困ったように蒼真へ視線を向けた。彼の瞳の奥で、必死に取り繕っていた冷静さが、ついに脆くも崩れ去った。「俺はこいつの夫だ」「離婚訴訟はもう始まっているわ」「判決が下りていない以上、1日だって俺はお前の夫だ!」彼が唐突に声を荒らげたため、廊下にいた人々が一斉にこちらに目を向けた。蒼真と出会って長いけれど、彼がこれほど無様に取り乱す姿を見たのは初めてだった。彼はいつだって冷静で、いつだって私を見下ろしていた。あの年、私が株を盾に結婚を迫った時でさえ、結婚式の場で「後悔するなよ」と冷ややかに言い放っただけだったのだ。今の彼は、まるで退路を断たれ、絶望に追い詰められ
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第8話

両親が去った後も、蒼真は病室の外に立ち尽くしていた。母がおそらく彼に何かを言ったのだろう。彼は突然、看護師の制止を振り切って病室へ押し入ってきた。「あいつら、知らなかったのか?」私は何も答えなかった。「お前の病気のこと、白石家の人間は誰も知らなかったのか?」「……今、知ったところよ」蒼真はベッドのそばまで歩み寄った。その両目はひどく血走っていた。「どうして誰にも言わなかったんだ」「言って、どうなるの?」私は静かに目を閉じた。「お姉さんを驚かせないように、大人しく死んでくれって説得されるだけでしょう?」彼の唇が微かに震えたが、言葉は一つも紡がれなかった。枕元でスマートフォンが鳴った。姉からだった。切ろうとしたが、姉は立て続けに3回もかけてきた。根負けして、私は通話ボタンを押した。「結月、今どこにいるの?」お姉さんの声は相変わらず優しく、微かに泣き声すら帯びていた。「お父さんとお母さんが急に海市へ行っちゃうし、蒼真も電話に出てくれなくて。あなた、何かあったの?」私が口を開くより早く、そばで薬品を整理していた看護師がふと顔を向けた。「あら、お電話のお相手、あなたのお姉さんだったんですか?」私は顔を上げた。「お姉さんに会ったことがあるんですか?」看護師は少し怪訝そうな表情を浮かべた。「数日前、あなたが検査を受けて倒れられた際に、報告書を落とされたんです。それをある女性の方が拾っていかれたんです。てっきり、ご家族にお渡しになるものだと思っていたのですが……」電話の向こうが、不自然なほど静まり返った。スマートフォンを握る私の手に、じわじわと力がこもる。「……私の報告書、見たの?」「ゆ、結月、私……」姉は慌てて弁解し始めた。「私、あの時はあなたの名前しか見えなくて、中に何が書いてあるかなんて本当に知らなかったのよ」看護師が眉をひそめた。「報告書は床に開いた状態で落ちていましたよ。『胃がん末期』ってあんなに大きく書いてあったのに、見えないはずがありません」電話越しに、姉の呼吸が乱れるのが分かった。しばらくして、彼女は泣きじゃくりながら言った。「わざとみんなに隠してたわけじゃないのよ!あの日、お腹の子の状態が不安定で、お医者さんから絶対にショックを受けちゃいけないって言われ
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第9話

翌日の午後、ホスピスには全員が顔を揃えていた。姉は雅玖に支えられながら病室へ入ってきた。ゆったりとした白いワンピース姿の彼女は顔色も青白く、片手で絶えずふっくらとした下腹部を庇っていた。両親は彼女にぴったりと寄り添い、ほんの少しのショックすら与えまいと過保護に振る舞っている。蒼真は窓辺に立ち尽くしていた。以前のように歩み寄って彼女を支えることもなく、それどころか彼女の方を見ようとすらしない。姉は目を赤くして彼を呼んだ。「蒼真……」雅玖の顔がサッと曇った。彼は姉の夫だ。だがこの数年間、姉が何かあるたびに真っ先に頼る相手は、夫ではなく決まって蒼真だった。以前は、誰もがそれを当たり前のことだと思っていた。雅玖は年中出張で不在がちだから。二人は幼馴染だから。姉は体が弱いから。まるで狂人のように嫉妬して騒ぎ立てているのは、私一人だけだったのだ。「揃ったな」蒼真はタブレットをテーブルに置いた。「なら、これを見ろ」監視カメラの映像が再生された。姉が診断書を拾い上げ、報告書を隠し、執事にアトリエを改装するようほのめかす様子が、全員の目の前にありありと映し出された。真っ先に口を開いたのは母だった。「萌奈はきっとパニックになってしまったのよ。あの子は体が弱い上に身重なんだから、普通の人と同じ基準で責め立てないでちょうだい」動かぬ証拠を突きつけられてもなお、母は本能的に姉を庇おうとする。父も眉をひそめて同調した。「報告書を隠したのは良くないが、萌奈だって結月に悪意があったわけじゃないだろう」「悪意がなかった?」蒼真が画面を指差した。「萌奈は結月がもうすぐ死ぬと知っていた!それなのに、俺がアトリエを取り壊すのを黙って見ていて、誕生パーティーでお前たちがこいつ一人だけを祝うのも黙って見ていたんだぞ。その上、結月が欲しがっていたあのネックレスまで身につけていたじゃないか!」姉はビクッと体を震わせた。「あれは、あなたが……お腹の子にって、贈ってくれたから……」「どうして俺がそれを贈ったか、分からないとでも言うのか?」蒼真は彼女を冷たく見据えた。「お前がオークションのカタログを見て、あれを結月が欲しがっていると知っていたからだろう。あの日、お前は俺の目の前でわざと言ったんだ。『ピンク色は赤ちゃんのラッキーカラー
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第10話

両親と姉が帰った後、ホスピスには数日のあいだ静寂が戻った。蒼真は依然として近くに留まっていた。無理やり病室に押し入ろうとすることも、転院を強要してくることもなくなった。毎朝、看護師が白いトルコキキョウの花束を運んでくる。私がかつて何より愛し、そして二度と触れようとはしなくなったあの白バラではなかった。白バラは、姉のための花だ。誕生日のパーティーから結婚式に至るまで、誰もがそれを姉の一番好きな花として疑わなかった。本当は、幼い頃に白バラを好きになったのは私の方が先だった。だが、姉が「綺麗」と口にした途端、母は私にこう言った。「萌奈が珍しく欲しがっているんだから、譲ってあげなさいな」それ以来、私は「白い色は嫌い」と嘘をつくようになった。蒼真が贈ってくるトルコキキョウに、メッセージカードは添えられていない。それでも、送り主が彼であることは分かっていた。5日目、看護師が車椅子を押してやって来た。「蒼真さんが、あなたをある場所へお連れしたいと。もし気が進まなければ、下で待つだけで上へは上がりませんから、とおっしゃっていました」断るつもりだった。だが、看護師はさらに一枚の写真を差し出した。写真に写っていたのは、綺麗に整え直された私のアトリエだった。長い沈黙の末、私はその車椅子に乗ることにした。蒼真自らがハンドルを握り、道中、私たちは一言も口をきかなかった。神崎家に戻ると、取り壊されたはずのアトリエはすっかり元の姿に復元されていた。窓辺にベビーベッドはなく、ピアノの上に置かれていたベビー用品も跡形もなく消え去っている。私のトロフィーは磨き上げられ、一つひとつ丁寧に飾り棚へ戻されていた。泥水に踏み躙られ、切り裂かれていた絵画も、修復に出されたのだろう。再び元の壁に掛け直されていた。私が7年がかりで描き上げた蒼真の肖像画も、繋ぎ合わされていた。だが、亀裂はまだ残っており、修復師の腕をもってしても完全に隠しきれてはいない。絵の中の23歳の彼と、29歳の彼とが、一本の痛々しい裂け目によって無残に分断されている。「ひどく損傷してしまった絵もあってな」私の背後に立つ蒼真の声は、ひどく沈んでいた。「修復師にも、これが限界だと言われた」私はその亀裂を見つめた。「とてもいいわ」「どこがいいん
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