Share

全てを姉に返す、彼も含めて
全てを姉に返す、彼も含めて
Author: 微気力

第1話

Author: 微気力
医師が検査報告書を私の前に差し出した時、私はちょうど蒼真に電話をかけているところだった。

1回目は誰も出ず、2回目は切られた。

3回目で、姉の優しい声が聞こえてきた。

「結月、蒼真は今運転中だから、電話に出られないの」

受話器の向こうから、蒼真が低い声で注意を促すのが聞こえる。「シートベルト、しっかり締めて」

私はスマートフォンを強く握りしめた。

結婚1年目、私もわざとシートベルトを締めず、彼が身を乗り出して締めてくれるのを待ったことがあった。

しかし、彼は容赦なくアクセルを踏み込み、私の額をぶつけて青痣を作らせた挙句、冷たく言い放った。「結月、いつまでも誰かがお前を甘やかしてくれると思うなよ」

彼は人を甘やかすことができないわけではなかった。

ただ、私を甘やかすつもりがないだけだ。

「どこに行くの?」

「妊婦健診よ」姉は慌てて釈明した。「雅玖が急な出張になっちゃって、蒼真がちょうど空いてたから」

「電話を彼に代わって」

少しして、蒼真の冷淡な声が聞こえてきた。「何か用か?」

私はうつむいて報告書に視線を落とした。

末期の胃がん、多発転移、余命は長くても3ヶ月。

「今夜、一度帰ってきて」

「暇じゃない」彼は一切の躊躇なく断った。「萌奈の胎児の状態が不安定なんだ。本家に送り届けないといけない」

私はその診断書を強く握りしめた。「私も今、病院にいるの」

電話の向こうが一瞬静まり返り、ついに私がどこか具合でも悪いのかと聞いてくれるのではないかとすら思った。

だが次の瞬間、彼の口調に残っていたのは煩わしさだけだった。「結月、また何なんだ?」

「また」という言葉で、私は口を開く気力を完全に失ってしまった。

ここ数年、姉の手から彼を奪うために、私は仮病を使ったり、わざと交通事故に遭ったりもした。

彼が本気で私を見捨てることなどできはしないと高をくくり、自分の身を危険に晒しては、幾度となく彼を無理やり振り向かせてきた。

今、ついにその報いが来た。

私は本当に死にかけているのに、彼は一言尋ねてくれることすら嫌がる。

「なんでもないわ、お姉さんに付き添ってあげて」

蒼真は冷え切った声で釘を刺した。「今日の検査は大事なんだ。くれぐれも押しかけてきて騒ぎ立てるなよ」

私は報告書の「3ヶ月以内」という文字を見つめ、ふっと笑い声を漏らした。「安心して。これからは、もう二度としないから」

姉が3歳で心疾患だと診断されてから、私の人生には「譲る」という文字しか残されていなかった。

彼女が静養する必要があれば、私は南向きの部屋を譲った。

彼女が刺激を受けてはいけないからと、私が理不尽に叱られても泣くことは許されなかった。

18歳の時、私は海外の美術大学の合格通知を手にしたが、両親は学費を彼女の手術代に充ててしまった。

両親は私を抱きしめて言った。「結月、お前は体が丈夫なんだから、これからもまだチャンスはあるだろう」

その日から、私は二度と譲ろうとはしなくなった。

姉が気に入ったスカートは奪い取った。

彼女が欲しがるプロジェクトも横取りした。

彼女が優しく物分かりが良いほど、私は傲慢で悪辣に振る舞った。

物分かりの良い人間は何も得られないということを、私はとっくに理解していたからだ。

中でも蒼真は、私が最も容赦なく奪い取った存在だ。

姉と雅玖が結婚する前、私は蒼真が姉に宛てて書いたラブレターを見つけた。

彼は姉に駆け落ちを求めたが、姉は雅玖のほうを選んだ。

そこで私は、祖母が残してくれた神崎グループの株式を差し出し、神崎家の危機を救う代わりに、たった一つの条件を提示した。

蒼真が私と結婚することだ。

結婚式の日、彼は私の手をきつく握りしめながら、ずっと客席にいる姉を見つめていた。「結月、せいぜい後悔しないことだな」

私は手の痛みを堪え、笑って言い返した。「後悔なんて、死んでもしないわ」

7年が経っても、彼は相変わらず私を愛してはくれなかった。

そして私は、もうすぐ死のうとしていた。

病院を出てすぐ、執事からメッセージが届いた。

【蒼真様が業者を呼び、結月様のアトリエを片付けさせております。萌奈様が本家に戻られてご静養なさるため、あそこはベビールームに改装されるとのことです】

私は取るものもとりあえず、神崎家へと駆け戻った。

アトリエはすでに半ば解体されており、イーゼルは庭に無造作に積まれ、キャンバスは水たまりに落ちて作業員の泥だらけの足跡が無数についていた。

私が7年かけて描いた蒼真の肖像画も、無残に真っ二つに切り裂かれていた。

執事が弁明した。「ここが最も日当たりが良く、お子様に最適だと、蒼真様がおっしゃりまして」

私は彼を突き飛ばし、部屋に足を踏み入れた。

私のトロフィーは段ボール箱に投げ捨てられ、ピアノの上にはベビー用品がうずたかく積まれている。窓辺には真新しいベビーベッドが置かれ、蒼真が自ら選んだおもちゃが吊るされていた。

その瞬間、私の心の中で何かが完全に音を立てて崩れ落ちた。私はハンマーを掴み上げ、ベビーベッドを粉々に叩き壊した。

夕暮れ時、蒼真が姉に付き添って帰宅した。

足元に散乱する惨状を目の当たりにし、姉は瞬く間に目を潤ませた。

「結月、蒼真があなたに相談していないなんて、知らなくて……」

「ここは私のアトリエよ」私はぬいぐるみをゴミ箱に放り投げた。「あなたの子どもには父親がいる。私の夫に面倒を見てもらう筋合いなんてないわ」

蒼真は姉を背後にかばい、氷のように冷たい視線を私に向けた。「謝れ」

私は庭の泥水に踏み荒らされた絵を指差した。

「私が7年かけて描いた絵よ。それを、こんなふうに扱うわけ!?」

「たかが一枚の絵が、萌奈や子どもより大事だとでも言うのか」彼は苛立たしげに私の言葉を遮った。「萌奈は体が弱いんだ。万が一子どもに何かあったら、お前はどう償うつもりだ」

私はただ呆然と彼を見つめ返した。

たかが一枚の絵。

彼の目をどうにか描き上げようと、私は47回も筆を入れ直した。

彼にモデルになってもらおうと帰りを待ち続け、アトリエで数え切れないほどの夜を明かした。

それは私が彼を7年間愛し抜いた証拠だった。

なのに、彼の目には一文の価値もない。

姉がそっと彼の袖を引いた。その目は赤く潤んでいる。

「もういいの、蒼真。結月が嫌がるなら、私が出ていけばいいだけだから。どうせ小さい頃から、彼女に譲るのには慣れてるし……」

蒼真の目の奥に浮かんでいた最後の一抹の躊躇いは、瞬時に冷酷さへと変わった。

彼は私を、救いようのない狂人を忌み嫌うような目で見下ろした。

「萌奈は小さい頃から、何でもお前に譲ってきただろう。今だってお前のアトリエを数ヶ月借りるだけなのに、どうして未だに萌奈を許容できないんだ?」

私はふと笑い声を漏らした。

――そうか。姉が私の部屋を奪えば「譲らない私が悪い」ことにされ、彼が私の7年間の心血を踏みにじったことは「たかが一枚の絵」で片付けられるのか。

彼らの目には、姉が欲しがりさえすれば、私の物はもう私の物ではなくなる。

それを両手で恭しく差し出さないことさえ、悪辣な罪だと断じられる。

私は手を振り上げ、絵の具を派手にひっくり返した。

姉が悲鳴を上げて後ずさると、蒼真が弾かれたように彼女をかばった。

次の瞬間、私の頬に平手打ちが振り下ろされた。

衝撃で顔が真横を向き、口に血の味が広がった。

蒼真は自らの行いにハッとしたように固まり、手を伸ばして私に触れようとした。

だがその時、姉が突然胸を押さえ、彼の腕の中へと崩れ落ちた。「蒼真、苦しい……」

彼は咄嗟に彼女を抱き上げた。

私のそばを通り過ぎる時、冷たい一言だけを残していった。「もし萌奈や子どもに何かあったら、俺は永遠にお前を許さない」

ドアが重々しい音を立てて閉ざされた。

私は顔を覆い、唐突に声を上げて笑い出した。「お姉さんが、私に何を譲ってくれたっていうの?」

両親は彼女ばかりを溺愛してきた。

彼女は自分が嫁ぎたかった相手に嫁いだ。

そして私の夫の心でさえ、ずっと彼女のものだった。

私を愛してもいない男を7年間も寄り添い続けてきたというのに、どうして彼女が身を引いて譲ってくれたことに感謝しなければならないのか。

その時、胸の奥に突然激痛が走った。

イーゼルにしがみつきながら咳き込むと、吐き出した血が蒼真の肖像画に生々しく飛び散った。

バッグから検査報告書が滑り落ちた。

私は身をかがめてそれを拾い上げ、ゴミ箱へ投げ捨てると、そのまま弁護士にメッセージを送った。

【離婚協議書を用意してください。私名義の株式も、すべてお姉さんに譲渡します】

誰もが口を揃えて、姉はずっと私に譲り続けてきたのだと言うのなら、私がそのすべてを彼女に返してあげる。

蒼真のことも含めて、何一つ残さずに。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 全てを姉に返す、彼も含めて   第12話

    個展を終えて3日後、私は海へと向かった。医師からは猛反対されたが、私は無理を押し通した。蒼真は車を手配し、ありとあらゆる救急薬を積み込んでくれた。彼は道中ずっと、私の後ろを黙ってついてきた。私がどこへ行くつもりなのかと、問い詰めることすらなく。海風はひどく冷たく、強かった。砂浜にイーゼルを立てた時、太陽はまだ昇っていなかった。蒼真は手際よくキャンバスを固定すると、すぐさま数歩後ろへと下がった。私の選択に勝手に干渉しないことを、彼はすでに学んでいた。筆を握る手は、どうしようもなく小刻みに震えていた。その震えのせいで、最初の一筆はキャンバスに歪な跡を残してしまった。蒼真が反射的に身を乗り出しかけ、ぴたりと動きを止めた。「……手伝おうか?」私は静かに首を振った。「この絵だけは……私一人で描き上げたいの」私は、一人の女性の姿を描き始めた。彼女は海辺に立っている。その後ろには、両親も、姉も、夫もいない。彼女はもう、誰のことも見ていなかった。ただ真っ直ぐに、昇りゆく朝日だけを見つめている。絵が半ばまで仕上がった時だった。不意に咳き込み、一口の血を吐き出した。砂浜に散った真っ赤な鮮血は、打ち寄せる波にさらわれ、あっという間に滲んで消えていく。蒼真が血相を変えて駆け寄り、私を抱きとめた。今度ばかりは、振り払おうとはしなかった。ただ単に、そうするだけの力がもう残っていなかったのだ。彼は私の口元の血を拭いながら、ティッシュを持つ手が震え、今にも落としてしまいそうだった。「病院へ戻ろう」「一緒に……日の出を見てくれないかしら」彼は息を呑んで立ち尽くした。結婚して1年目の頃、私は彼に「一緒に海へ日の出を見に行きたい」とせがんだことがあった。彼は頷いてくれたのに、出発の直前、姉が心臓の不調を訴えた。たった一本の電話で、彼は私を置いて飛び出していった。私はただ一人、海辺で夜が明けるのを待ち続けた。家に帰った後、狂ったように寝室の物を手当たり次第に叩き壊した。彼は私を「頭がおかしくなったのか」と罵った。けれど本当は、私との約束を忘れないでほしかっただけなのだ。それから7年もの歳月が過ぎて――彼はようやく、私に付き添ってくれている。私たちは並んで砂浜に腰を下ろした。はるか沖合の水平線が、少しずつ

  • 全てを姉に返す、彼も含めて   第11話

    離婚の手続きを終えたその日、私は医師から、残された時間はあと十数日ほどだろうと告げられた。さして悲しいとは思わなかった。最初に宣告された3ヶ月と比べれば、十数日も大して変わらない。どうせ、私が最後にやりたいことなど、もうたった一つしか残されていないのだ。「個展を開きたい」看護師は私が冗談を言っているのだと思い、「そんな……今のお体で耐えられますか?」と心配そうに尋ねた。「耐えられなくたって、開くんです」私はこれほど長く絵を描き続けてきたというのに、自分のための個展を一度も開いたことがなかった。18歳の時、私は海外の美術大学に合格した。だが、両親はその学費を姉の手術代に充てた。その後、自力でコンクールに出場して得た賞金も、父が会社の赤字を穴埋めするために奪っていった。結婚してからは、蒼真だけを唯一のモデルにして描き続けた。彼を誰よりも美しく描きさえすれば、いつか私を見てくれると信じていたからだ。死の淵に立たされて、ようやく分かった。私が最も描くべきだったのは、他の誰でもない、私自身だったのだと。この話が耳に入った蒼真は、海市で最も大きなギャラリーを手配してくれた。「手伝おうか」などと恩着せがましいことは一切聞かず、ただ会場の資料だけを看護師に託してきた。選択権は、私に委ねられていた。私はそれを受け入れることにした。彼を許したからではない。ただ、残されたわずかな命と引き換えにしてまで、プライドに固執して張り合う時間が、もう私には残されていなかったからだ。個展のタイトルは、「譲」と名付けた。展示された最初の一枚は、あたたかな日差しが差し込むベビールームの絵だった。部屋の中には、小さなベッドが二つ並んでいる。片方のベッドには柔らかな真っ白のシーツが敷かれ、枕元にはぬいぐるみが溢れんばかりに置かれている。そしてもう片方は、光の当たらない薄暗い部屋の隅に追いやられ、ペラペラの古い掛け布団がたった一枚置かれているだけだった。二枚目の絵は、姉の名前だけが書かれたバースデーケーキだった。画面の端の薄暗がりには、一度も火を点けられることのなかったろうそくを握りしめた少女が立っている。三枚目は、無残に真っ二つに引き裂かれた海外の美術大学の合格通知書だった。四枚目は、結婚式だった。祭壇に

  • 全てを姉に返す、彼も含めて   第10話

    両親と姉が帰った後、ホスピスには数日のあいだ静寂が戻った。蒼真は依然として近くに留まっていた。無理やり病室に押し入ろうとすることも、転院を強要してくることもなくなった。毎朝、看護師が白いトルコキキョウの花束を運んでくる。私がかつて何より愛し、そして二度と触れようとはしなくなったあの白バラではなかった。白バラは、姉のための花だ。誕生日のパーティーから結婚式に至るまで、誰もがそれを姉の一番好きな花として疑わなかった。本当は、幼い頃に白バラを好きになったのは私の方が先だった。だが、姉が「綺麗」と口にした途端、母は私にこう言った。「萌奈が珍しく欲しがっているんだから、譲ってあげなさいな」それ以来、私は「白い色は嫌い」と嘘をつくようになった。蒼真が贈ってくるトルコキキョウに、メッセージカードは添えられていない。それでも、送り主が彼であることは分かっていた。5日目、看護師が車椅子を押してやって来た。「蒼真さんが、あなたをある場所へお連れしたいと。もし気が進まなければ、下で待つだけで上へは上がりませんから、とおっしゃっていました」断るつもりだった。だが、看護師はさらに一枚の写真を差し出した。写真に写っていたのは、綺麗に整え直された私のアトリエだった。長い沈黙の末、私はその車椅子に乗ることにした。蒼真自らがハンドルを握り、道中、私たちは一言も口をきかなかった。神崎家に戻ると、取り壊されたはずのアトリエはすっかり元の姿に復元されていた。窓辺にベビーベッドはなく、ピアノの上に置かれていたベビー用品も跡形もなく消え去っている。私のトロフィーは磨き上げられ、一つひとつ丁寧に飾り棚へ戻されていた。泥水に踏み躙られ、切り裂かれていた絵画も、修復に出されたのだろう。再び元の壁に掛け直されていた。私が7年がかりで描き上げた蒼真の肖像画も、繋ぎ合わされていた。だが、亀裂はまだ残っており、修復師の腕をもってしても完全に隠しきれてはいない。絵の中の23歳の彼と、29歳の彼とが、一本の痛々しい裂け目によって無残に分断されている。「ひどく損傷してしまった絵もあってな」私の背後に立つ蒼真の声は、ひどく沈んでいた。「修復師にも、これが限界だと言われた」私はその亀裂を見つめた。「とてもいいわ」「どこがいいん

  • 全てを姉に返す、彼も含めて   第9話

    翌日の午後、ホスピスには全員が顔を揃えていた。姉は雅玖に支えられながら病室へ入ってきた。ゆったりとした白いワンピース姿の彼女は顔色も青白く、片手で絶えずふっくらとした下腹部を庇っていた。両親は彼女にぴったりと寄り添い、ほんの少しのショックすら与えまいと過保護に振る舞っている。蒼真は窓辺に立ち尽くしていた。以前のように歩み寄って彼女を支えることもなく、それどころか彼女の方を見ようとすらしない。姉は目を赤くして彼を呼んだ。「蒼真……」雅玖の顔がサッと曇った。彼は姉の夫だ。だがこの数年間、姉が何かあるたびに真っ先に頼る相手は、夫ではなく決まって蒼真だった。以前は、誰もがそれを当たり前のことだと思っていた。雅玖は年中出張で不在がちだから。二人は幼馴染だから。姉は体が弱いから。まるで狂人のように嫉妬して騒ぎ立てているのは、私一人だけだったのだ。「揃ったな」蒼真はタブレットをテーブルに置いた。「なら、これを見ろ」監視カメラの映像が再生された。姉が診断書を拾い上げ、報告書を隠し、執事にアトリエを改装するようほのめかす様子が、全員の目の前にありありと映し出された。真っ先に口を開いたのは母だった。「萌奈はきっとパニックになってしまったのよ。あの子は体が弱い上に身重なんだから、普通の人と同じ基準で責め立てないでちょうだい」動かぬ証拠を突きつけられてもなお、母は本能的に姉を庇おうとする。父も眉をひそめて同調した。「報告書を隠したのは良くないが、萌奈だって結月に悪意があったわけじゃないだろう」「悪意がなかった?」蒼真が画面を指差した。「萌奈は結月がもうすぐ死ぬと知っていた!それなのに、俺がアトリエを取り壊すのを黙って見ていて、誕生パーティーでお前たちがこいつ一人だけを祝うのも黙って見ていたんだぞ。その上、結月が欲しがっていたあのネックレスまで身につけていたじゃないか!」姉はビクッと体を震わせた。「あれは、あなたが……お腹の子にって、贈ってくれたから……」「どうして俺がそれを贈ったか、分からないとでも言うのか?」蒼真は彼女を冷たく見据えた。「お前がオークションのカタログを見て、あれを結月が欲しがっていると知っていたからだろう。あの日、お前は俺の目の前でわざと言ったんだ。『ピンク色は赤ちゃんのラッキーカラー

  • 全てを姉に返す、彼も含めて   第8話

    両親が去った後も、蒼真は病室の外に立ち尽くしていた。母がおそらく彼に何かを言ったのだろう。彼は突然、看護師の制止を振り切って病室へ押し入ってきた。「あいつら、知らなかったのか?」私は何も答えなかった。「お前の病気のこと、白石家の人間は誰も知らなかったのか?」「……今、知ったところよ」蒼真はベッドのそばまで歩み寄った。その両目はひどく血走っていた。「どうして誰にも言わなかったんだ」「言って、どうなるの?」私は静かに目を閉じた。「お姉さんを驚かせないように、大人しく死んでくれって説得されるだけでしょう?」彼の唇が微かに震えたが、言葉は一つも紡がれなかった。枕元でスマートフォンが鳴った。姉からだった。切ろうとしたが、姉は立て続けに3回もかけてきた。根負けして、私は通話ボタンを押した。「結月、今どこにいるの?」お姉さんの声は相変わらず優しく、微かに泣き声すら帯びていた。「お父さんとお母さんが急に海市へ行っちゃうし、蒼真も電話に出てくれなくて。あなた、何かあったの?」私が口を開くより早く、そばで薬品を整理していた看護師がふと顔を向けた。「あら、お電話のお相手、あなたのお姉さんだったんですか?」私は顔を上げた。「お姉さんに会ったことがあるんですか?」看護師は少し怪訝そうな表情を浮かべた。「数日前、あなたが検査を受けて倒れられた際に、報告書を落とされたんです。それをある女性の方が拾っていかれたんです。てっきり、ご家族にお渡しになるものだと思っていたのですが……」電話の向こうが、不自然なほど静まり返った。スマートフォンを握る私の手に、じわじわと力がこもる。「……私の報告書、見たの?」「ゆ、結月、私……」姉は慌てて弁解し始めた。「私、あの時はあなたの名前しか見えなくて、中に何が書いてあるかなんて本当に知らなかったのよ」看護師が眉をひそめた。「報告書は床に開いた状態で落ちていましたよ。『胃がん末期』ってあんなに大きく書いてあったのに、見えないはずがありません」電話越しに、姉の呼吸が乱れるのが分かった。しばらくして、彼女は泣きじゃくりながら言った。「わざとみんなに隠してたわけじゃないのよ!あの日、お腹の子の状態が不安定で、お医者さんから絶対にショックを受けちゃいけないって言われ

  • 全てを姉に返す、彼も含めて   第7話

    私がそう言い放つと、病室は長いこと静まり返っていた。蒼真はその同意書を握りしめ、指の関節はみるみるうちに白く強張っていった。「結月、今は意地を張っている場合じゃない」「意地なんか張ってないわ」私は枕に寄りかかった。一言発するたびに、胃の中を鋭い刃物で掻き回されるような激痛が走る。「蒼真、私はただ、もうあなたがいらなくなっただけ」彼の顔から、さっと血の気が引いた。きっとこの言葉は、私の診断書以上に彼にとって受け入れがたいものだったのだろう。何しろこの10年間、私は彼を手に入れるためなら、自分が惨めな笑い者に成り下がることも厭わなかったのだから。姉のドレスを奪い取ったのも、彼に着て見せたかったから。神崎家のプロジェクトを強引に横取りしたのも、私が姉に劣っていないと彼に思い知らせたかったから。あのラブレターが私宛てではないと知りながら、あらゆる手段を使って彼に結婚を迫った。彼は、私からの愛にすっかり慣れきっていたのだ。いつの日か、その愛がすり減り、完全に尽き果ててしまう時が来るなど、想像すらしたことがないほどに。「治療の件は後で話そう」蒼真は同意書を枕元に置き、まるで私の代わりにすべてを決めてしまったかのように言った。「すでに専門医の手配は済ませてある。今日の午後にはここに着くはずだ。ここは設備が悪い。お前の状態が安定し次第、すぐに転院するぞ」私は黙ってナースコールを押した。看護師が入ってくると、私ははっきりと告げた。「今この時から、この男性が私の病室に入ることも、私の治療方針に関与することも一切禁じます」看護師は困ったように蒼真へ視線を向けた。彼の瞳の奥で、必死に取り繕っていた冷静さが、ついに脆くも崩れ去った。「俺はこいつの夫だ」「離婚訴訟はもう始まっているわ」「判決が下りていない以上、1日だって俺はお前の夫だ!」彼が唐突に声を荒らげたため、廊下にいた人々が一斉にこちらに目を向けた。蒼真と出会って長いけれど、彼がこれほど無様に取り乱す姿を見たのは初めてだった。彼はいつだって冷静で、いつだって私を見下ろしていた。あの年、私が株を盾に結婚を迫った時でさえ、結婚式の場で「後悔するなよ」と冷ややかに言い放っただけだったのだ。今の彼は、まるで退路を断たれ、絶望に追い詰められ

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status