連絡先に隠された、もう一つの家庭의 모든 챕터: 챕터 1 - 챕터 10

10 챕터

第1話

個室に響いていた囃し立てる声が、ぴたりと止んだ。その場にいた全員の視線が、朋花の手元のスマホに集まった。朋花は慌てて画面を操作したが、指が震えて何度も失敗した。電話の向こうでは、子どもが甘えた声でせがんでいた。「パパ、いつママを迎えに来るの?先生が、今日は家族みんなでごはんを食べる日だって言ってたよ」朋花の顔がみるみる青ざめていった。彼女はようやく通話を切った。私は朋花を見つめ、思いのほか落ち着いた声で尋ねた。「亮介とは、いつ結婚したの?」朋花の目から、涙が一気にこぼれた。唇を噛みしめ、しばらくしてようやく答えた。「7年前……」耳鳴りがした。7年前、亮介は私の誕生日にプロポーズしてくれた。大学の池のほとりで片膝をつき、手のひらに指輪の箱をのせた彼は、緊張のあまり言葉もろくに出てこなかった。彼は言った。「乃絵、今回の海外プロジェクトが終わって帰国したら、すぐに婚姻届を出そう」あのとき、朋花は人混みの中で、私以上に泣いていた。彼女は私を抱きしめて言った。「乃絵、絶対に幸せになってね」あの婚約指輪は、今も薬指にはめたままだ。もうすぐ結婚できると思っていたのに、彼はすでに朋花の夫になっていた。そのとき、朋花のスマホが再び鳴った。着信画面を見た彼女は、慌てて通話を切ろうとした。けれど、その前に私は彼女の手を押さえ、スマホを取り上げて応答ボタンを押した。電話の向こうから、亮介の声がした。「ママ、子どもと一緒に下まで来たよ。早く降りてきて、一緒に帰ろう」喉が詰まり、私はかすれた声で彼の名を呼んだ。「亮介……」電話の向こうが、急に静まり返った。少しして、通話は一方的に切られた。朋花の表情がこわばった。「乃絵、話を聞いて、説明させて……」私はスマホを彼女に返し、個室を飛び出した。エレベーターがなかなか来ず、ハイヒールのまま非常階段を駆け下りた。ホテルのドアを押し開けると、冷たい風が正面から吹きつけてきた。歩道脇には、見覚えのある黒い車が停まっていた。亮介が車のそばに立っていた。後部座席には子どもが座り、その隣には小さなリュックと恐竜のおもちゃが置かれていた。私が追いかけてくると分かっていたのか、亮介は驚きもせず、黙って子どもの座っている側の窓
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第2話

車の中で、子どもが窓に顔を寄せ、小さな声で尋ねた。「パパ、このお姉さん、誰?」亮介はとっさに窓を遮り、声を落とした。「大人の話だ。子どもは気にしなくていい」でも、もう分かっていた。彼は忙しくて結婚できなかったわけじゃない。夫としても父親としても、彼の居場所はとっくに別の家庭にあったのだ。亮介は運転手に鷺坂千隼(さぎさか ちはや)を先に家まで送るよう頼み、自分はホテルの前に残った。朋花は私の前に立っていた。目は真っ赤で、何度も私の手を取ろうとしたけれど、そのたびに私は身を引いた。朋花は震える声で言った。「乃絵、ごめん。本当に、わざと隠してたわけじゃないの」朋花を見つめると、胸が締めつけられた。「7年……朋花、ウェディングドレスの試着にも付き合ってくれたし、招待状も一緒に選んだよね。亮介がいつになったら結婚してくれるんだろうって、私が話すのもずっと聞いてたのに」声がかすれていく。「どうして何も言わずにいられたの?」朋花の目から涙がこぼれた。口を開いて何か言おうとしたものの、まともに言葉が出てこない。亮介は眉をひそめ、朋花をかばうように前へ出た。「乃絵、もういいだろ」私は顔を上げ、思わず笑った。「もういい?亮介、私は8年もあなたを待った。あなたは7年も私を騙してきた。それなのに、今さらもういいって言うの?」彼は眉間にしわを寄せた。「子どもはまだ小さいんだ。今夜、こんなところで騒ぐな」「騒いでるのは私?」思わず声が震えた。「電話では彼女をママと呼び、子どもにはパパって呼ばれてる。それなのに、騒いでるのは私だって言うの?」朋花は泣きながら首を振った。「違うの、乃絵。私が悪いの。だから、亮介を責めないで」私は彼女を振り返った。「彼を責めないなら、あなたたちに感謝でもすればいいの?」朋花の顔は青ざめていた。「あのときは、ただの過ちだったの」私は彼女を見つめた。「過ちって、何?」亮介はしばらく黙っていたが、やがてかすれた声で口を開いた。「7年前、あの同窓会のあと、俺は酔ってたんだ。朋花がホテルまで送ってくれて、俺たち、どうかしてたんだ。そのあと、朋花が妊娠した」頭の中が真っ白になった。7年前の同窓会には、私も行くつもりだった。
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第3話

翌日、私は朋花と亮介の家を訪ねた。朋花がSNSに載せていた写真を手がかりに、2人の住むマンションを探し当てた。インターホンを何度も鳴らし、しばらくしてようやく朋花がドアを開けた。私を見るなり、彼女の目が赤くなった。「乃絵……」私は朋花の脇をすり抜け、家の中を見渡した。玄関にはスリッパが3足並び、靴箱の上には子どもの工作が置かれていた。冷蔵庫にも、子どもが描いた家族の絵が貼られていた。絵の中では、パパとママが男の子と手をつなぎ、3人の頭上には大きな太陽が描かれていた。壁に飾られた写真も、3人で写った家族写真ばかりだった。その真ん中には、子どもが生まれた日に撮った写真が飾られていた。亮介は生まれたばかりの千隼を抱き、朋花は病院のベッドにもたれていた。顔色は悪かったが、幸せそうに笑っていた。写真の下には、日付が書かれていた。6年前の9月12日。指先が強張った。その日は、亮介と一緒に結婚式用のスーツを見に行く約束をしていた。午後から夜まで待って、ようやく届いたのは、たった1通のメッセージだった。【プロジェクトで急な問題が起きた。結婚式はもう少し先にしよう】あのとき、私はウェディングドレスのカタログを抱え、自分に言い聞かせていた。大丈夫。彼はただ忙しいだけ。けれど、私が結婚式を先延ばしにすると告げられたその日、彼は朋花と千隼と一緒に家族写真を撮っていたのだ。背後で、朋花が涙声で謝った。「乃絵、ごめんなさい……」私は振り返らなかった。「この何年か、私が亮介の悪口を言うたびに、あなたも一緒になって彼を責めてくれたよね?」朋花はさらに激しく泣いた。私は乾いた笑いを漏らした。「結婚してくれないし、いつも海外にばかり行ってるし、私のことなんてそれほど好きじゃないのかもって話すたび、あなたは私を抱きしめて、考えすぎだよって言ってくれた。朋花、私を抱きしめながら、何を考えてたの?」朋花は口元を押さえ、立っているのもつらそうなほど泣いていた。亮介が駆けつけてきても、最初に口にしたのは私を気遣う言葉ではなかった。部屋の様子を見るなり、彼の顔色が変わった。すぐに朋花に向き直り、問い詰めた。「どうして家に入れたんだ?千隼もいるのに」私は小さく笑った。「今になっても、あなた
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第4話

朋花の顔が、さっと青ざめた。子ども部屋に駆け込み、ベランダや洗面所まで探し回る。千隼を呼ぶ声は、だんだん上ずっていった。「千隼!」亮介も慌てていた。管理人に電話をかけながら、階段へと駆けていった。私は玄関に立ち尽くした。心臓が嫌なほど速く打っていた。ついさっきまで部屋にいたのに、どうして急にいなくなったの?もう気まずさを気にしている場合ではなかった。私も2人と一緒に千隼を探し始めた。エレベーターや階段を調べ、中庭から地下駐車場まで走り回った。何度も千隼の名前を呼び、すぐに声がかれた。昨夜、ハイヒールで擦りむいたかかとの傷から、また血がにじんできた。1歩踏み出すたびに、鋭い痛みが走る。それでも、足を止めなかった。朋花は今にも倒れそうなほど取り乱していた。支えようと手を伸ばすと、朋花は熱いものに触れたように、さっと手を引いた。拒まれたことが、思いのほかこたえた。1時間後、管理人から連絡があった。防犯カメラには死角があり、今のところ、千隼がどこへ行ったのか確認できていないという。朋花はとうとう耐えきれなくなった。髪を振り乱し、真っ赤な目で私の前に詰め寄った。「乃絵、私を恨むなら好きなだけ恨めばいい。私に何をしたっていいから、子どもには手を出さないで」私は朋花を見つめ、息が詰まった。「私は千隼を隠してなんかいない」「じゃあ、どうしていなくなったの?」朋花の声はかすれ、涙が次々と頬を伝った。「もう、あの子しかいないのに……」その言葉が、何よりこたえた。以前、彼女は私を抱きしめて言ってくれた。「乃絵には私がいるよ」それなのに今、朋花は亮介の隣に立ち、私が子どもを使って仕返しをするのではないかと疑っていた。亮介も、いら立ちを隠そうともせず私を見ていた。「乃絵、これ以上みっともない真似はするな」亮介の言葉に、心がすっと冷えた。「あなたも、私が千隼を隠したって思ってるの?」亮介は私を見据え、聞いたこともないほど冷たい声で言った。「あの子が朋花にとってどれだけ大切か、分かってるだろ。それなのに、子どもに八つ当たりするなんて。八代乃絵、お前、いつからそんなにひどい人間になったんだ?」その瞬間、私は何も言えず、その場に立ち尽くした。私だって、さっきからずっ
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第5話

亮介と朋花がマンションの裏門近くにあるコンビニに駆けつけると、千隼はレジの横に座り、泣いていた。手にはいちご味のキャンディーを握りしめ、目は真っ赤になっていた。朋花が駆け込んでくるのを見ると、すぐに椅子から飛び降り、その胸に飛び込んだ。店員がそばで事情を説明した。千隼は1人で店に入ってきて、背伸びをしながらキャンディーをカウンターに置き、1個いくらなのかと尋ねたという。「ママが泣いてるから、甘いものを食べたら泣かなくなるって言ってましたよ」それを聞いた朋花はその場にしゃがみ込み、千隼を抱きしめて泣いた。肩が小刻みに震えていた。「ママはここにいるよ。大丈夫だからね、千隼。怖がらなくていいから」千隼は小さな手で朋花の服をぎゅっとつかみ、しゃくり上げながら尋ねた。「ママ、あのお姉さんって悪い人なの?」朋花の泣き声が、ぴたりと止まった。コンビニの明るい照明が彼女の顔を照らしていた。唇を何度か動かしたものの、すぐには言葉が出てこなかった。そばに立つ亮介も、まだ動揺を隠せずにいた。千隼の言葉を聞くと、亮介の表情もこわばった。長い沈黙のあと、朋花は千隼をいっそう強く抱きしめ、震える声で答えた。「違うよ。悪いのは、ママなの」亮介ははっとしたようにきびすを返し、外へ飛び出した。朋花が顔を上げた。「亮介?」彼は振り返らず、短く言い残した。「乃絵がまだ上にいる」けれど、亮介が部屋に戻ったとき、そこに私の姿はなかった。リビングの明かりはまだついていた。子ども部屋のドアは開いたままで、床には千隼が置いていった恐竜のおもちゃが散らばっていた。亮介は管理室へ駆け込み、防犯カメラの映像を確認した。画面には、1人でマンションのエントランスを出ていく私の姿が映っていた。うつむいたまま、ゆっくりと歩いていく。かかとの傷がまた開き、1歩踏み出すたびに鋭い痛みが走った。遠ざかっていく私の後ろ姿を見つめながら、亮介の呼吸は次第に速くなった。彼は私に電話をかけた。1回、2回、3回。何度かけても、電源は切られたままだった。朋花は千隼を抱いたまま、亮介の後ろに立っていた。泣き腫らした目で、監視カメラに映る私の寂しげな後ろ姿を見つめ、震える声で尋ねた。「乃絵、家に帰ったのかな……?」亮介は答えず、車
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第6話

飛行機が着陸したころ、空はようやく明るくなり始めていた。私は窓際の席に座り、見知らぬ街の明かりを眺めていた。客室乗務員が降機を案内しても、しばらく席を立てなかった。周りの乗客がほとんど降りてから、ようやくゆっくりと立ち上がった。かかとは痛みで感覚がなくなりかけていた。昨夜の傷が靴下に張りつき、少し動かすだけでも、また傷口が開きそうだった。スーツケースを引きずって空港を出た。冷たい風が頬に当たったとき、私はずっと泣いていたのだと気づいた。ここは凪浜市。思いつきで選んだ街ではない。大学を卒業した年、私は凪浜市にある会社から内定をもらっていた。あのころ、亮介は起業したばかりで、食事をする暇もないほど忙しかった。彼は私を抱きしめて言った。「乃絵、行かないでくれないか。俺にはお前しかいないんだ」朋花も笑いながら、引き止めた。「凪浜市は遠すぎるよ。本当に行っちゃったら、私、どうしたらいいの?」それで、私は残ることにした。あのときは、彼を愛していたからここに残るのだと思っていた。今思えば、私は何年もの間、自分から同じ場所にとどまり続けていただけだった。まずは病院へ向かった。医師はかかとの傷を処置しながら、眉をひそめた。「どうしてこんなになるまで受診しなかったんですか?」私は自分の足元を見つめ、小さく答えた。「歩き回っていて……」医師はそれ以上何も聞かず、薬を処方してくれた。緊急連絡先の欄に記入しようとして、ペン先が止まった。以前なら、迷わず亮介の名前を書いていた。急性胃腸炎で病院に運ばれたとき、駆けつけた彼のネクタイは曲がっていた。私の手を握り、これからはどこにいても真っ先に自分を頼ってくれと言ってくれた。その後も、彼は仕事であちこち飛び回っていた。ただ、私のために戻ってくることはなくなった。私は連絡先の欄を空白のままにして、用紙を看護師に返した。看護師から、できれば誰かの連絡先を書いておいたほうがいいと勧められた。私は首を横に振った。「大丈夫です」病院を出ると、新しい携帯回線を契約した。以前使っていたSNSのアカウントにも、ログインしなかった。2人が私を探しているのかも、後悔しているのかも、知りたくなかった。私は小さな部屋を借りた。窓からは海が
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第7話

亮介がウェディングドレスの店を訪ねたのは、私がいなくなってから3日目のことだった。店員は私のことを覚えていた。あの日、私がドレスを試着している最中に階段から落ち、足首がひどく腫れていたことも。「病院にお連れしようとしたんですが、彼氏が迎えに来てくれるから大丈夫だっておっしゃって……」店員は亮介を見ながら、少しためらいがちに続けた。「そのあと、ずっと入口で待っていらしたんです。外が暗くなってから、ようやくウェディングドレスの入った袋を持って、1人で帰られました」亮介はその場に立ち尽くし、顔をこわばらせた。あの日、私から電話がかかってきたことを思い出していた。電話越しの私の声は、痛みで普段とは違っていた。けれど、あのとき亮介は千隼と一緒に親子教室にいた。先生に促され、父親たちが子どもを抱っこしてゲームをしていた。朋花はそのそばで笑っていた。私からの着信に気づくと、亮介は教室の外へ出て電話に出た。迎えに来てくれるかと尋ねる私に、彼はこう言った。「乃絵、俺は本当に疲れてるんだ。そんな些細なことでわがまま言わないでくれ」その夜、亮介が帰宅したとき、私はもう眠っていた。ベッドのそばに痛み止めが置いてあるのを見ても、彼はただ、私の肩まで布団をかけ直しただけだった。翌日、彼は花を買ってきて、何事もなかったかのように私の機嫌を取った。店員は袋を1つ取り出した。「こちらは、八代さんがお忘れになったヘアピンです。取りに来ていただこうと思っていたんですが、何度電話してもつながらなくて」そのヘアピンは、朋花と一緒に選んだものだった。結婚式の日には、これをつけたら絶対に似合うと言ってくれた。亮介はヘアピンを受け取った。握る指先が、少しずつ白くなっていった。ウェディングドレスの店を出た亮介は、次に私が勤めていた会社へ向かった。同僚によると、私は数日前には退職を申し出て、引き継ぎも進めていたという。「しばらく休みたいって言ってました。どこへ行くのか聞いても、教えてくれませんでした」私は衝動的に姿を消したのではない。ずっと前から、この街を離れる準備を進めていたのだ。亮介は、そのことにまるで気づいていなかった。朋花も私を探していた。何度もメッセージを送ったが、どれも送信エラーになって
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第8話

15日後、朋花は同窓会のグループチャットに長文のメッセージを投稿した。メッセージでは、7年間結婚していることを隠していたこと、亮介が海外出張だと言っていた日の大半は実際には朋花と千隼と過ごしていたことを明かした。さらに、千隼がいなくなったあの日、私も一緒に探していたのに、亮介と2人で私を疑ってしまったことも認めていた。投稿のあと、グループチャットにはしばらく誰からも返信がなかった。以前、私を羨ましがっていた同級生たちが、遠慮がちに尋ね始めた。【乃絵は?】【今、どうしてるの?】朋花は何も答えなかった。彼女にも、私がどこにいるのか分からなかったからだ。亮介がそのメッセージを読んだとき、彼はまだ私の部屋にいた。私が残していったものを、次々と段ボール箱に詰めていた。ペアのマグカップ、マフラーの入っていた箱、3年前の結婚式の招待状。それに、私が書き込んだ結婚式の進行表もあった。どのページにも、私の字で細かく書き込まれていた。ヘアメイクの開始時間、式場に向かう時間、披露宴で各テーブルを回る時間。朋花が当日着るドレスの色まで、細かく書き込んであった。亮介はその1行を見つめているうちに、目を赤くしていった。結婚式を1度延期しても、もう1度延期しても、亮介は私がいつまでも待つと思っていた。私が彼を愛しているから。彼を諦められないから。けれど、どれほど深く愛していても、失望が重なれば、いつか気持ちは冷めてしまう。亮介は、そのことを分かっていなかった。朋花は千隼を連れて、家を出た。引っ越す日、千隼は恐竜のおもちゃを抱え、玄関に立っていた。小さな声で亮介に尋ねた。「パパ、お姉さんはまた帰ってくる?」亮介は答えられなかった。朋花はしゃがみ込み、千隼の頭をそっと撫でた。「もう帰ってこないよ」千隼は目をぱちぱちさせた。「僕があの日、勝手にいなくなったから?」朋花の目が、また赤くなった。「違うよ。悪いことをしたのは、大人のほうだから」亮介はそばに立ったまま、胸が詰まる思いだった。朋花は鍵を靴箱の上に置いた。「亮介、私たちも、もう終わりにしよう」亮介は顔を上げ、彼女を見た。朋花は静かに続けた。「あのとき、子どもを産むと決めたのは、怖かったから。そのあ
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第9話

凪浜市で新しい仕事を見つけた。給料はそれほどよくない。それでも、もう誰かの都合に合わせて予定を変えなくていい。毎朝、海に架かる橋を渡るバスに乗る。窓の隙間から潮風が吹き込み、ほのかな塩の匂いが鼻をかすめる。しばらく風に当たっていると、少しずつ頭がすっきりしていく気がした。最初の1か月は、夜中に何度も飛び起きた。あの個室で聞いた、電話越しの声。千隼に、パパを取っちゃうのかと尋ねられたこと。朋花に頬を打たれた瞬間。目を覚ますと、部屋は真っ暗で、窓の外に街灯がぼんやりとにじんでいるだけだった。以前は、悪夢にうなされるたびに亮介が私を抱きしめてくれた。「怖がらなくていい。俺がいるから」けれど、彼は朋花や千隼にも、同じように「俺がいる」と言っていたのだ。少しずつ、1人で暮らすことにも慣れていった。1人で病院へ行って、足の傷を診てもらう。1人で食事をする。着なくなった服を処分する。ある週末、朋花からもらったマフラーを紙袋に入れ、マンションの下にある古着の回収ボックスに入れた。手を離した瞬間、胸がちくりと痛んだ。それでも、もう拾い上げる気にはならなかった。2か月後、亮介が私を見つけた。その日、仕事を終えて会社のビルを出ると、街灯の下に彼が立っていた。ずいぶん痩せていた。顎には青いひげが伸びている。私に気づくと、彼の目がぱっと輝いた。「乃絵」私は足を止めた。潮風が頬をかすめていった。彼の声を聞いても、昔のように胸が高鳴ることはなかった。懐かしいはずの声が、もう戻れない過去から聞こえてくるようだった。亮介が近づいてきた。声はかすれていた。「ずっと探してたんだ」私は彼を見つめた。「何のために?」亮介は小さく喉を鳴らした。「千隼は見つかった」「知ってる」「俺たち、お前を誤解してたんだ」私は小さく笑った。「それで?」その言葉に、亮介は黙り込んだ。謝罪も言い訳も、後悔を伝える言葉も、きっと何度も考えてきたのだろう。それでも、いざ私を前にすると、うまく言葉にできないようだった。「乃絵、俺が悪かった。お前を騙して、ずっと1人で待たせてしまった。千隼がいなくなったときも、あんなひどいことを言ってしまった。本当にすまなかった」亮介の目が赤
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第10話

亮介が凪浜市に滞在して3日が経った。無理に近づこうとはせず、毎日会社の前に立ち、私が出勤してから退勤するまで見ていた。3日目の夕方、朋花もやってきた。千隼は連れていなかった。彼女は1人で通りの向こう側に立ち、紙袋を手にしていた。私を見つけると、たちまち目が赤くなった。「乃絵……」私は足を止めた。亮介は少し離れたところに立ったまま、こちらへは来なかった。朋花は紙袋を差し出した。紙袋には、2人の思い出の品がいくつか入っていた。大学時代に2人で撮ったプリクラ。朋花が額を5針縫うけがをしたあと、私が買ってあげたヘアピン。それから、私が贈ったお守りのペンダント。朋花は涙声で言った。「本当は、こんなものをいつまでも持っている資格なんてないよね」私は受け取らなかった。朋花の手が、宙で止まった。長い沈黙のあと、彼女はゆっくりと手を下ろした。「あの日、千隼がいなくなったとき、乃絵を疑うべきじゃなかった。それに、あなたを叩いたりして……本当にごめんなさい」涙が頬を伝った。「謝ったくらいじゃ、どうにもならないって分かってる。でも、私は本当に、あなたにひどいことをした」彼女を見ていると、ふいに、ずっと昔のことを思い出した。狭いベッドで2人並んで寝た夜、朋花は1枚しかなかった厚い布団を私にかけ、自分は寒さに震えていた。胃が痛くて動けなかったときには、私を背負って病院の廊下を走ってくれた。体を大事にしない私に、泣きながら文句を言っていたこともあった。あの頃、彼女が優しかったのは本当だ。それでも、裏切られたことに変わりはない。私は静かに口を開いた。「朋花、私たち、昔は本当に仲がよかったよね」朋花は、さらに激しく泣き始めた。「だから、もうここで終わりにしよう」朋花の肩がびくりと震え、顔がみるみる青ざめた。ようやく亮介がこちらへ歩いてきた。私を見つめ、かすれた声で言った。「乃絵、俺と朋花は離婚するつもりだ。千隼のことは俺も責任を持って育てる。でも、お前にしてしまったことも、できる限り償いたい」私は首を横に振った。「あなたが私にしたことは、もうなかったことにはできないよ」「じゃあ、あの8年間はどうなるんだ?」彼の目には、深い痛みがにじんでいた。
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