All Chapters of 椅子に座りますか: Chapter 21 - Chapter 30

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第21話

 その時、助手席へ放り出していたスマートフォンが、狂ったように通知音を鳴らし始めた。 震える手で画面を開く。 例の特設サイト。 投票者たちへ向けて、新しい動画が一斉に配信されていた。『暴食の二世議員――特等席での最後の晩餐』 私は指を止めた。 だが、開かずにはいられなかった。 それは事後報道ではない。 市民ホールの控室に仕掛けられていた隠しカメラによる、爆発直前からの映像だった。 画面の中に久我晃生。 演説前の控室で警護の人間を外へ下がらせ、持ち込ませた高級ケータリングの肉料理を貪るように食べている。 油に濡れた口元をナプキンで拭き。 そして、主賓用に用意された、豪奢な革張りの椅子へ深く腰を下ろした。 次の瞬間。 爆音、猛烈なオレンジ色の炎が、椅子を中心に一気に噴き上がった。 昨日、グランドホテル東京で見たものと、酷似していた。 そして、そのあとに残ったもの、画面越しでは、何が何なのか判別することすら難しいほど、激しく焼損している。 黒く炭化した残骸。 血なのか。 肉なのか。 骨なのか。 映像だけでは見分けることもできない。 絶対的な特権階級の中で生きていた久我晃生は、その豪奢な椅子と共に、人間だった頃の姿形を失っていた。 そして、その映像を見た大衆は歓喜した。『やったぜえええええええッ!!』『隠蔽警察のトップが逃げた代わりに、親のすねかじり豚がホテル社長と同じように消し飛んで草www マジでメシウマ!!! 繰り上げ当選最高!!』『演説直前まで市民ホールで高級フレンチ食ってるとかマジで「暴食」じゃんw 究極のエコなゴミ掃除だな!』『てか数十万人も参加してるとかこのサイト凄すぎだろww 俺たちの神聖な一票が、日本の粗大ゴミを処分したぞ! 俺たちが世界を変えてるんだ!』『次は誰だ!? 本命の隠蔽ポリスを逃したからって、まだ満足してねえぞ! なあ、もったいぶるなよ犯人! 早く次の投票を始めろ!!』 吐き気が込み上げてきた。 もう。 正義など、どこにもなかった。 標的が郷田だったのか。 久我だったのか。 そんなことすら、彼らにとってはどうでもいい。 自分より上の階級にいる人間が、理不尽に死ぬ。 その光景自体が、最高の娯楽になり、完全に脳を焼かれている。 四十万人、圧倒的な数その数の暴
last updateLast Updated : 2026-10-27
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第22話

 私はゆっくり身体を起こした。 数秒表示された名前を見る。 そして通話ボタンを押した。『――真下か』 郷田の声。『どうやら、無事だったようだな』 午前中の記者会見を乗り切った安堵。 そして、いつもの冷徹さ。「……郷田管理官」 私は静かに言った。「ニュースは聞いていますか」『何の話だ』「久我晃生議員が、爆死しました」『ああ』 郷田は、驚きもしなかった。『痛ましい事件だ』「……痛ましい?」『我々の会見直後に発生したのは計算外だったが、高山本部長が会見で「連続無差別テロ」という見解を先に世間へ示せたのは大きい』 私は言葉を失った。『これで事態は完全に我々の土俵だ』「……何を言っているんですか」『我々警察もまた、「無差別テロの被害者側」として堂々と大義名分で捜査に専念できる』「大義名分だと……?」 胸の奥から、怒りが込み上げてきた。「ふざけるな……!」『真下?』「あなたが今、生きているのは、たまたま命拾いしただけだ!」 私は後ろめたさのあまりに怒鳴った。「その結果、市民ホールで久我晃生が死んだんだぞ!」『……』「奴は無差別になんか殺していない! 明確な意図を持って、標的を選んでいる!」『まだそんな妄言を吐いているのか、真下』 郷田の声が、鋭く変わった。 上官として、私を押さえつけるあの声。『私が座っていた椅子も、講堂も無傷だったではないか』「それは――」『お前は昨日から捜査本部を無断で離れ、あろうことか上官である私へ狂ったような暴言を吐いている』 冷たい声。『本来なら、組織の規律を乱したとして即刻懲戒処分にされてもおかしくない』「だったらクビにすればいい!」 私は叫んだ。「真実から目を背け、組織の面子のために市民を危険へ晒すことが警察の正義だというなら!」 血が滲むほど拳を握る。「あんなバッジに未練はない!」 しばらく、電話の向こうが沈黙した。 そして。『……そう熱くなるな、真下』 声が変わった、冷たさが消え、代わりに親が子供を諭すようにひどく穏やかで、恩着せがましい響き。『少しは、自分の置かれた立場を客観的に見たらどうだ?』「……何?」『会見を聞いただろう』「……」『特捜本部内部に、犯人へ情報を流している者がいる』 私は黙った。『いま本部内は、高山本部長の号令で、
last updateLast Updated : 2026-10-27
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第23話

 日下部なら、本当に来るだろう。警察手帳を投げ捨てても、出世の道を自分から閉ざしてでも、私のところへ駆けつける。 だが、その姿を想像した瞬間、三年前の記憶が鮮明に蘇った。 私は何のために、炎の中へ飛び込んだのか。 何のために、日下部の命を救ったのか。 今ここで、あいつをまた同じ泥沼へ引きずり込むためではない。「……お前は来るな」 電話の向こうで、日下部の息が止まった。「郷田に尻尾を振ってでも、そのバッジにしがみつけ」『真下さん!?』「いいか、日下部」 私はフロントガラスの向こうへ視線を向けた。冷たい雨が灰色の東京を覆い、街の輪郭を滲ませている。「警察の正義を中から変えられるのは、泥にまみれて、もう組織の外へ転がり落ちかけている俺じゃない」『……』「お前だ…出世しろ。ちゃんと上へ行け。真っ当な権力を持て。そして、俺みたいな人間が二度と潰されない組織に変えてくれ」『真下さん……』「それができるのは、お前みたいな奴だ」 自分でも驚くほど、声は穏やかだった。「……俺の分まで、生き残れ」 電話の向こうで日下部が何かを叫んだが、私は最後まで聞かなかった。その悲痛な声を遮るように通話を切り、今度こそ端末の電源を完全に落として、助手席へ乱暴に放り投げた。 私は郷田の言葉を考えていた。  高く評価している。頼りにしている。郷田はいかにも部下を思いやる上司のような言葉を並べていたが、結局のところ、あの男が言いたかったことは一つしかない。 内通者探しで本部全体が疑心暗鬼に陥っている間も、自分に逆らわず、便利な手駒として泥水をすすれ、少しでも勝手な行動を取れば、お前を内通者として本部長へ差し出す。 それだけだった。 吐き気を催すような、究極の飼い殺しだ。 日下部の話が正しければ、郷田はすでに本部内で、いざという時にすべての責任を私へ押しつけるための布石を打ち始めているのだろう。 警察組織そのものが、事件の真実を隠そうとしている。 そんな状況の中で郷田という男は、足元のどこかに潜んでいるかもしれない本物の内通者を追うことよりも、無実の部下を恩着せがましく脅し、自分の『特等席』だけを守ることを選んだのだ。 私は無意識に胸ポケットへ手を伸ばした。 だが、そこに警察手帳はない。 昨日、謹慎処分を言い渡された時、すでに特捜本部のデスクへ置い
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第24話 第四章:見えない糸

 翌日の早朝。 昨夜、私は裏情報屋の『カラス』へ連絡を取り、残る中継設備や犯人の足取りを追うよう依頼した。 だが、犯人が構築した強固な分散型ネットワークの壁は厚く、カラスの腕をもってしても解析には時間がかかるとのことだった。  デジタルな手掛かりを待つ間、私は雨の街を一人で這いずり回り、事件の端緒を探し続けた。だが、警察の情報網から外れた丸腰の刑事一人の足で、姿なきテロリストの尻尾がそう簡単に掴めるはずもなかった。  だからこそ、私はここへ戻ってきた。 私は、新宿署の特捜本部が置かれている道場へ足を踏み入れた。 胸ポケットのあたりが、ひどく軽い。 身分を証明する鉄の板が一枚ない。それだけで、長年通い慣れてきたはずの署内の空気が、まるで他人の家へ勝手に入り込んだかのように冷たく、余所余所しく感じられた。 昨日、電話越しに聞いた郷田の声が、耳の奥で不快に蘇る。『お前のその真っ直ぐで泥臭い正義感を、私は高く評価している。私の指示通りに動き、これ以上勝手な真似をしなければ、お前が内通者にされることはない』 ねっとりと首輪を握り締めるような声。 私を内通者の身代わりに仕立て上げ、その一方で、自分の都合のいい手駒として利用し続けようという卑劣な脅迫だった。 警察組織への絶望は、泥のように胸の底へ沈殿している。 それでも、私はここへ戻ってきた。 郷田のためではない。 腐りかけた組織を守るためでもない。 義父が教えてくれた、(泥水をすすってでも、誰かの命を引きずり上げる) という、あの不器用な正義の灯火だけが、私の背中を押していたからだ。 バッジがあろうとなかろうと私は刑事だ。 百五十名を超える合同捜査員がひしめく道場の重い扉を押し開けた瞬間、私は室内の異様な変化に気づいた。 熱気そのものは一昨日と変わらない。 何十台ものキーボードを叩く乾いた音。絶え間なく鳴る電話。壁際に並ぶモニターから漏れる青白い光。徹夜明けの捜査員たちが放つ疲労と焦燥。 だが、道場の最前列――特捜本部の実質的な権力を握る幹部たちの布陣が、一昨日までとは明らかに変わっていた。 本庁捜査一課の精鋭と、サイバー犯罪対策課の技術官たちが顔を突き合わせ、激しい議論を交わしている。 しかし、その中心で指揮を執っているのは、郷田ではなかった。「――おや、真下じゃないか。
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第25話

 本庁や所轄から集められ、捜査情報を直接共有する刑事たち――およそ五十名が、一斉に巨大なホワイトボードへ顔を向けた。 壁際に急造されたサイバー犯罪対策課や通信班のブースでは、依然として無数のモニターが光り、キーボードを叩く音が続いている。 その中で、特捜本部の中心だけが、急速に張り詰めていった。 ホワイトボードには、一昨日の天楽建設社長。 そして昨日の久我晃生議員。 二件の爆殺事件のタイムラインが、凄惨な現場写真と共に克明に記されている。 捜査員たちが、それぞれ足で稼いだ情報を報告していく。 私は一番後ろの席で腕を組み、その声を聞きながら、思考の深淵へ潜っていた。 犯人は、郷田が昨日の正午に記者会見へ出席し、壇上の『特等席』へ座ることを完璧に見越して爆弾を仕掛けていた。 それだけではない。 私が江東区の地下施設で第一ゲートウェイを破壊し、郷田への起爆を止めた瞬間。 システムは寸分の狂いもなく、第二候補である久我晃生へ標的を切り替えた。 しかも。 久我晃生がその時間、市民ホールの控室に滞在していること。 一人になる時間帯。 警備の配置。 そうした情報は、本来、関係者以外へ簡単に漏れるものではない。(サイバー空間からのハッキングだけで、ここまで完璧に人間の動きを読めるものか?) 答えは否、どれほど天才的なハッカーであっても。 直前に変更された警察の配置や、人間の突発的な行動まで、すべてを完全に予測することなど不可能だ。 ならば、残る仮説は一つしかない警察内部に犯人と繋がっている人間がいる。『内通者』『スパイ』 私は、熱心にメモを取る刑事たちの背中を、一人ずつ静かに見回した。 捜査の中核にいる刑事だけでも、すでに五十人。 特捜本部全体なら百五十名を超える。 人間が増えれば、情報に触れる者も増える。 誰が狐で。 誰が狸なのか。 見分けることは、さらに難しくなる。 こちらが新しい捜査情報を共有するたび。 その瞬間に、同じ情報が、犯人のもとへ流れている可能性がある。 郷田は、自分の面子と出世、そして私をどう利用するかしか考えていない。 本庁から来た綾瀬管理官が、内部の状況をどこまで把握しているのかも分からない。(誰も信じられない) 胸の奥が強く締めつけられた。(この部屋の中の誰かが、悪魔へ情報を売っている
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第26話

 背筋を、強烈な悪寒が走った。 最初の電車、グランドホテル東京。 そして今回すべて同じ犯人の『署名』だった。 私はシールを凝視した。 頭の中へあの理知的で、冷たい笑い声が蘇る。 これは、ただの自己顕示欲ではない。 犯人は隠しカメラの向こうから久我を、そして、事件後にここへやってくる警察をこのシール越しに笑っている。 他人の犠牲の上で生き罪悪感もなく。 特権階級として当然のように、一番立派な椅子へ座る。 郷田が、記者会見の『特等席』へ座るのか。 それとも久我晃生が、この控室の『椅子』へ座るのか。 二人とも何の疑いもなく、自分のために用意された席を選んだ。 そして深く腰を下ろした。 犯人はカメラ越しに、その瞬間を見ていた。(自分の意志で、処刑台へ座った) そう嘲笑うようにこの一枚のシールは、警察をそして世界の「特等席」へ座る大人たちを容赦なく挑発している。「柴田さん、ありがとうございます」 私はクレーターから顔を上げた。「このシールが今回も残されていたこと、本部に共有します」「ああ」 焦げ臭い空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくり吐き出す。 孤独な戦いは、もう始まっている。 私は柴田さんへ深く一礼した。 証拠写真を端末へ収め、市民ホールを後にした。 *  *  *  特捜本部へ戻った私は、離れた席でふんぞり返る郷田の目を避けるようにして、綾瀬管理官のデスクへ向かった。「綾瀬管理官」「どうした」「久我晃生の現場でも、これが残されていました」 私は端末を差し出した。 鑑識写真。『椅子に座りますか』 綾瀬はしばらく無言で文字を見つめ、やがて目を細めた。「……やはりな」「やはり?」「単なる自己顕示欲による悪戯ではない」 綾瀬は静かに言った。「犯人の行動には、一貫した規則がある。歪んではいるが、極めて強固な『システム』としての規則性だ」 そして。 周囲を一度見回した。 捜査員たちは皆、慌ただしく動き回っている。 綾瀬は、その誰にも聞こえないほど声を落とした。「真下」「はい」「君に、特捜本部全体の捜査とは別に、単独で動いてもらいたい案件がある」「……私に?」 綾瀬はデスクの引き出しを開けた。 そこから、黒い縁取りが施された、一枚の『関係者用パス』を取り出した。 表面は金文字、久我家を
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第27話

 *  *  *  午後六時。 青山葬儀所の外周は、冷たい氷雨と、それ以上に異様な熱気に包まれていた。 空を覆い尽くす黒雲。 絶え間なく落ちてくる雨。 防護柵の向こうには、雨合羽を着込んだテレビ局のカメラマンたちが、ずらりと砲列を作っている。 週刊誌の記者。 スマートフォンを掲げたネットメディアの配信者。 次期総理候補の一族を襲った前代未聞の爆殺事件。 その特ダネを一秒でも早く抜こうと、まるで、血の匂いに集まるハイエナの群れだった。 黒塗りの高級車が門をくぐるたび。 怒号、呼びかけ、白いフラッシュ。 目が眩むほどの光が、雨の中へ何度も弾ける。 正面ゲートでは、防弾チョッキ姿の機動隊員とSPが、一人ひとりの顔とパスを厳重に照合していた。 私は地味な喪服に身を包み、黒い傘を深く差しながら、列の最後尾へ並んだ。「関係者パスを確認します。ご芳名を」 ゲート前にSPが無機質な声で言った。 私は綾瀬管理官から渡された黒いパスを差し出した。 SPは裏面のセキュリティコードを端末へ読み込ませる。 数秒、鋭い目が、私の顔を確認する。 そして無言で道を開けた。 私は小さく息を吐き、厳重なセキュリティゲートを通過した。 式場の分厚い扉を開ける。その瞬間、白菊と胡蝶蘭。 おびただしい数の花の香りが、室内の熱気と混じって一気に肺へ流れ込んできた。 むせ返るほど濃い。 会場内は、黒い喪服をまとった政財界の大物たちで埋め尽くされていた。 私は気配を殺し、壁際を選びながら、ゆっくりと祭壇へ向かった。 すると雨音と衣擦れ、その合間からひそひそと交わされる声が、耳へ飛び込んでくる。「まさか、あの晃生くんがネットの投票で殺されるとはな」「ああ。いよいよ父親の地盤を継いで、次期衆院選に出馬するって矢先だったのにな。明日の決起集会での演説、かなり気合が入っていたらしいぞ」 話しているのは、初老の政治家たちだった。 声には、若くして命を落とした人間への哀悼などほとんどない。 あるのは、明日は我が身かもしれないという恐怖。 そして野次馬じみた好奇心。「警察は『無差別テロ』と発表しているが、そんな言葉を信じる奴がどこにいる。完全に狙われているのは、特権階級だ」「だが、あのサイトに書かれていた『暴食』ってのは、一体何の罪なんだ?」「さあな」
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第28話

 犯人は明確な意図を持って久我を『大罪人』と定義し、一人になる時間まで正確に把握したうえで隠しカメラを仕掛け、確実に殺害した。 そこまでして標的に選ぶだけの理由が、必ずあるはずだ。 そして、その答えは久我晃生が『佐々木副大臣の秘書』として過ごしていた時代に隠されているのではないか。 私は焼香台の前へ進み、白い粉を指先でつまんで香炉へ落とした。 細い煙が、ゆっくりと立ち上っていく。(私の決断が、あなたを巻き込んでしまった。本当に……申し訳ない) 心の中で深く謝り、顔を上げた。 その時、遺族席の最前列に座る久我晃一郎と、一瞬だけ目が合ったような気がした。 息子を失った父親のはずだった。 それなのに、その横顔には悲壮感がほとんど見えない。 私は久我へ深く一礼し、そのまま踵を返した。 犯人は、ただの愉快犯ではない。 人間の命を秤へ乗せるだけではなく、そこから生まれる罪悪感まで計算し、それさえ盤上の駒として弄ぶ底知れない化け物だ。 私が郷田を救った結果、この男が死んだ。 その十字架を、これから一生背負うことになったとしても構わない。 だからこそ、もうこれ以上、誰かの命が黙って奪われるのを見過ごすわけにはいかなかった。 どれほど泥水をすすうことになっても、必ず真実へ辿り着く。 私はそう胸の中で決意し、雨とマスコミのフラッシュが待ち受ける外の世界へ向かって歩き出した。 この戦いは、まだ始まったばかりだった。  *  *  *  斎場を出た私は車のドアロックを解除し、運転席へ滑り込んだ。 その瞬間、助手席へ置いていた私用のスマートフォンが短く震え、白い光を放った。 画面に表示されているのは『非通知』。 だが、着信音を聞いた瞬間、普通の電話ではないと分かった。私が独自に設定している暗号化通信アプリの特殊なコール音だった。 私は車のドアを閉めた。 それまで耳へ直接叩きつけられていた雨音が、一気に遠ざかる。 数秒ほど画面を見つめたあと、通話ボタンを押した。「……真下だ」ほとんど間を置かず、低く加工された電子音声が返ってきた。『ごきげんよう、真下刑事。謹慎中の身にしては、ずいぶんと忙しそうに走り回っているようだね』 裏の情報屋――『カラス』。 江東区の地下施設にあったシステム中枢へ私が辿り着くための情報を与えてくれた、唯一
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第29話

 ブラウザが強制的に立ち上がり、あの不気味な黒と赤を基調としたアンケートサイトが表示される。 トップページに映し出されていたのは、市民ホールの控室だった。 主賓用の豪奢な椅子、そこへ久我晃生が腰を下ろす瞬間を捉えた、隠しカメラの映像、ただし、爆発する瞬間は映されていない。 久我が周囲を気にすることもなく、自分のために用意された椅子へ深く腰を下ろす。そこで映像は途切れ、再び最初へ戻る。 何度も。 何度も。『彼は、自らその席を選んだ』 犯人は、その事実だけを強調するように、同じ場面を延々と繰り返していた。 その下のコメント欄には参加者はさらに膨れ上がっていた。 六十万人。 書き込みは、もはや文字として読むことが難しいほどの速度で流れていた。『見たかよ! 隠蔽警察が逃げた代わりに二世議員が炭になったらしいぞww』『親のすねかじりのゴミが消えてマジで最高! 次は誰だ!?』『俺たちの投票で世の中が浄化されていく! もっとやれ! 腐った特権階級を全部燃やせ!』『次は「怠惰」か「色欲」か? 早く新しい候補者のリストを出せ!!』 画面から溢れ出しているのは、純粋で、無責任な狂気だった。 彼らには、自分たちが殺人に加担しているという自覚など、ほとんどない。 安全なディスプレイの向こう側。 自宅。 電車。 職場。 自分だけは決して血を浴びない場所から、自分より恵まれている人間が引きずり下ろされ、惨たらしく処刑されていく様子を、極上の娯楽として消費している。「……これが、犯人の手口か」 私はスマートフォンを強く握った。 犯人は、自分の殺人を正当化するために、大衆の『ルサンチマン――嫉妬と怨恨』を徹底的に利用している。 警察が真実を隠す。 大衆が警察を疑う。 犯人が、その隙間へ「自分こそが真実を暴く者」という顔で入り込む。 そして、警察への不信が強まれば強まるほど、犯人は『ダークヒーロー』として祭り上げられていく。 その熱狂に、新たな人間が加わる。 さらに投票が増える。 憎悪が膨らむ。まるで雪崩だった。 一度動き始めれば、もはや誰にも止められない、もし警察が、このまま犯人を止められなければ。 この狂騒はやがて、ネットの中だけでは収まらなくなる。 社会全体が誰かを『悪』と決め、誰かを『裁く』ことに酔い。 数の暴
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第30話 第五章:虚偽のブラフ

 深夜十時を回った頃、私は足立区の寂れた商店街の片隅に佇む、小さな交番の前に車を停めた。 雨はすでに小降りになっていたが、冷気は濡れたアスファルトから底冷えするように這い上がってくる。交番の赤色灯が路面に滲み、不気味なほど鮮やかな赤を揺らしていた。 引き戸を開けると、使い込まれた木の机の奥で、白髪交じりの初老の警察官が書類に目を通していた。 真下修造――五十八歳。 私の義父であり、この巨大な警察組織の中で唯一、私が無条件で心を預けられる男だった。「……ジョウか。こんな夜更けに、しかもずぶ濡れの喪服でどうした」 修造は老眼鏡を外し、鋭さの中にも温かみのある目で私を見た。かつては本庁捜査一課で「鬼の真下」と恐れられた凄腕の刑事だったが、今は一線を退き、地域課の警部補としてこの小さな交番の所長――ハコ長を務めている。「義父さん……」 声を出した瞬間、胸の奥にせき止めていた泥のような感情が、一気に喉元までせり上がってきた。 久我晃生の通夜で見た、固く閉ざされた棺。私が郷田の命を救うために地下施設のシステムを破壊した結果、標的は自動的に切り替わり、久我晃生が死んだ。 私が信じた「目の前の命を救う正義」が、結果として別の命を理不尽に散らしてしまったのだ。 それ以上、言葉を続けることができなかった。私はただ、濡れた前髪から滴る雨粒を手の甲で拭った。 修造は私のただならぬ様子を察したのだろう。何も問い詰めることなく立ち上がると、交番の奥にある狭い休憩室へ私を促した。「……座れ。タオルを貸してやる」 パイプ椅子に腰を下ろした途端、ゴワゴワとした清潔なタオルが、乱暴ながらも優しく頭に乗せられた。続いて修造は、自販機で買ってきたらしい温かい缶コーヒーを私の膝へ押しつける。「ニュースは見てる。久我幹事長の息子が爆殺されたそうだな。それに、お前がその特捜本部へ放り込まれていることも、鑑識の柴田から聞いたぞ」「柴田さんから……相変わらず耳が早いな」 私は缶コーヒーのプルタブを開け、一口飲んだ。甘く、どこか泥水のようにも感じる味だったが、その温かさだけは、冷え切った内臓へゆっくり染み込んでいった。 缶を握る両手が、微かに震えている。「今日、久我晃生の通夜に潜り込んだんだ」 私は缶を見つめたまま、低く続けた。「……義父さん。俺は、間違っていたんだろうか?
last updateLast Updated : 2026-10-28
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