All Chapters of 椅子に座りますか: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話

*  *  *  翌朝。 警視庁の特捜本部が置かれた広大な道場は、百名を優に超える捜査員や技術官たちが放つ熱気と焦燥感で、今にも膨張して破裂しそうな空気に包まれていた。 壁際ではサイバー犯罪対策課の捜査員たちが血眼になってキーボードを叩き続けている。その一方で、郷田管理官は中央のホワイトボードの前に立ち、額に汗を滲ませながら、相変わらず焦点のずれた指示を怒鳴り散らしていた。「いいか! 犯人は大衆を煽る愉快犯のサイバーテロリストだ! ネット上の過激な書き込みをすべて監視しろ! 模倣犯が出る前に、何としてでもサイトのサーバーを物理的に特定してシャットダウンするんだ!」 的外れもいいところだった。 犯人は、サイバー空間の中だけに潜むハッカーなどではない。 天楽建設の社長や久我晃生が一人になる瞬間を完璧に把握し、確実に仕留めるための物理的なネットワークと実行部隊まで構築している。末端のネットユーザーの書き込みをいくら監視したところで、犯人の足元へ辿り着けるはずがない。 私はその喧騒から少し離れた幹部用デスクへ目を向けた。 綾瀬管理官が、一人静かに報告書へ目を通している。 私は真っ直ぐ彼のもとへ歩み寄った。「綾瀬管理官、昨夜の通夜の報告です」 綾瀬は資料から顔を上げ、冷たい眼差しを私へ向けた。「ご苦労。どうだった、政界の怪物の様子は」「久我晃一郎は、息子の死をほとんど表に出していませんでした。まるで、最初から予定されていたトラブルを冷徹に処理しているような、異常な落ち着きです」 私は一呼吸置いて続けた。「それと、弔問客の政治家たちから興味深い話を耳にしました。殺された久我晃生は、父親の地盤を継ぐ前、ある男の秘書を務めていたそうです」「……ほう。誰の秘書だ?」「佐々木義泰、副大臣です」 私の報告を聞き、綾瀬は唇の端を僅かに持ち上げて頷いた。「素晴らしい。やはり君の泥臭い嗅覚は正確だ。これで捜査の的が絞れる」 綾瀬は手元のタブレットへ情報を打ち込み始めた。 私はその横顔を見ながら、昨日から胸の奥で燻り続けていた違和感を、思い切って口にした。「綾瀬管理官。一つ、お聞きしてもいいですか」「何だ?」「昨日、管理官は私を特命に就かせる際、私の過去を調べたとおっしゃいました」 綾瀬は黙ってこちらを見た。「ですが、特別養子縁組の記録は
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第32話

「虚偽……嘘つき、か」「はい。ネット上では、次に選ばれるのは誰だ、また政治家か、それとも一昨日の会見で嘘をついた警察上層部か、と完全に祭り状態です。アクセス数は100万人に迫る勢いで、大衆は完全に狂乱状態です」 私は画面を睨みながら、ゆっくり目を細めた。 犯人はこれまで、社会の暗部に潜み続けてきた人間を狙っている。 もし次の『虚偽』が過去に巨大な嘘をつき、その嘘を隠し誰かを踏み台にしながら今も特権階級の椅子へ座り続けている人間だとすれば。(佐々木副大臣……) そして。(久我晃一郎……) 正午の候補者発表まで、あと二時間。 これ以上、ネットの海を眺めていても真実へは辿り着けない。「少し外へ出てくる。情報に動きがあったら、すぐ端末へ連絡をくれ」 私はコートを羽織り、若手捜査員へそう告げて道場を後にした。 背後からは、綾瀬管理官が他の捜査員たちへ的確な指示を飛ばす、冷静な声が聞こえていた。 *  *  *  新宿署の重い回転扉を抜けると、昨夜から降り続いていた雨は完全に上がっていた。 雲の切れ間から薄日が差し込み、濡れた東京のアスファルトを白く照らしている。 私は駐車場へ向かいながら、内ポケットからスマートフォンを取り出し、裏の情報屋『カラス』への暗号化通信を立ち上げた。 三度のコール音。 やがて、無機質な電子音声が繋がった。『やあ、真下。昨日はよく眠れたかい?』「寝ている暇はない」 私は歩きながら答えた。「昨日の通夜で、殺された久我晃生が、かつて佐々木義泰の秘書をしていたという話を聞いた。爆殺された天楽建設の社長と、久我一族。この二つの点を繋ぐ線が、必ず佐々木の周辺にあるはずだ」 通信の向こうで、カラスが短く息を吐く音がした。『さすがだね。……ああ、君の言う通りだ』「何か見つけたのか」『俺もついさっき、ディープウェブの最深部で暗号化された過去のアーカイブを漁って、ようやくその「見えない糸」に辿り着いたところだ。正直、今回こうして調べるまで、俺自身もまったく知らなかった事実だがね』 カラスの声が、一段低くなった。『真下。今から十五年前、政界の裏で起きた「天楽建設・裏金事件」を知っているかい?』「十五年前……? いや、全く知らない。何だ、それは」『無理もない。現在三十二歳の君は、当時まだ十七歳の高校生だ。それ
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第33話

『残念ながら、俺の手元にも、それを完全に裏付けるダミー団体の全リストや、決定的な証拠データまでは残っていない』 カラスが、電子音の向こうで忌々しそうに鼻を鳴らした。『完璧に揉み消された事件だからね。当時の連中が物理的に記録を消したか、あるいは絶対にネットへ繋がらないオフラインの金庫へでも隠したんだろう』 一拍置き、声がさらに低くなる。『ただし、ディープウェブの底へ残された不自然な資金移動の偏りと、当時の人脈、企業と後援会の繋がりをパズルのように組み合わせていくと、影の終着点は一人の男へ行き着く』 私はすぐに答えた。「……その政治家が、佐々木義泰か」『ご名答』 やはり。 胸の奥がざわついた。『ただ、佐々木は表向きの「集金マシン」に過ぎない。奴がここまでのし上がれたのは、すべて次期総理候補――久我晃一郎の引き上げがあったからだ』「久我晃一郎……」『佐々木は久我の忠実な手足であり、必要なら自分が泥を被るための強固な防波堤だ。久我晃一郎が次期総理の座を確実なものにするため築き上げた政治基盤。その足元には、佐々木という便利な傀儡と、十五年前に桜工事部長が流した血で汚れた金がある』 頭の中で、ばらばらだったパズルのピースが一気に繋がった。 強欲(グリード)として燃やされた天楽建設の社長。 十五年前、自社の工事部長へ責任を押しつけ、死に追いやった。その裏で佐々木を経由し、久我派閥へ莫大な資金を流し込んでいた。 そして、暴食(グラトニー)として処刑された久我晃生。 彼は、その血塗られた金の上に築かれた権力の甘い汁を吸い、佐々木の秘書として「特等席」への階段を上っていった。 犯人が、この二人を選んだ理由。 そこへ一本の線が見え始めていた。『……それと、もう一つ』 不意にカラスの声から、いつもの飄々とした響きが消えた。『すべてを被らされて自殺した桜工事部長には、当時、一人の子供がいたらしい』「子供……?」『ああ。当時の年齢は十九歳』 私は足を止めた。『どうやら、当時の俺と同い年だったみたいだ』 その一言には、同じ時代を生き、今もネットの深い闇の中を歩いている者としての、痛切な共感が滲んでいた。『自分の親が、政治家たちの保身のために汚職の全責任を押しつけられ、自殺へ追い込まれた』 カラスは静かに続けた。『その地獄を、俺と同じ十
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第34話

「本日の正午、『虚偽』のターゲットとして犯人に狙われるのは、佐々木義泰議員です!」 私がそう言い切った瞬間、それまで道場を満たしていた喧騒が、水を打ったように静まり返った。五十名近い捜査員たちの視線が、一斉に私へ突き刺さる。「き、貴様……何を馬鹿なことを言っている!!」 直属の上司である郷田が、顔面を蒼白にして叫んだ。「佐々木先生がターゲットだと!? 貴様、何の根拠があってそんな妄言を吐いている!」「根拠は、これまでの被害者にある強固な『繋がり』です!」 私は怯むことなく、デスクに広げた相関図を力強く指差した。「爆殺された天楽建設の社長、そして久我晃生。久我晃生は議員になる前、佐々木副大臣の秘書を務めていました。そして天楽建設は、古くから佐々木派閥の有力な支援企業です。つまり、これまで殺された二人の中心には、共通して『佐々木義泰』という大物政治家が存在している!」「だ、だから何だと言うんだ!」 上座に座っていた高山本部長が、顔を真っ赤にして机を叩きつけた。「秘書と支援企業が狙われたからといって、佐々木先生本人が狙われる理由にはならん! それに、次なるターゲットの罪名は『虚偽(ウソ)』だ! 先生のどこに嘘があると言うんだ!!」 その怒号には、明らかな焦りが混じっていた。 高山は間違いなく、十五年前に揉み消された何かを連想している。だが、私はあえてそのタブーの核心には触れず、犯人の異常な思考そのものを根拠に押し切ることにした。「俺は、佐々木議員が現実に罪を犯していると言っているんじゃない! テロリストが、狂った妄想の中で彼を標的にしている。と言っているんです!」 私は高山の目を真っ向から見据え、声を張り上げた。「犯人は特権階級を憎悪し、『七つの大罪』に見立てて私刑を下している異常者です。奴の歪んだロジックから見れば、これまでの被害者たちの接点であり、大衆の目を最も惹きつける大物政治家こそが、何か巨大な『虚偽』の中心にいる巨悪だと認定されてもおかしくない! 今すぐ松濤の私邸へ部隊を送り込み、佐々木議員を保護しなければ、確実に狙われます!」「ええい、黙れと言っている! ただのプロファイリングの妄想で、国家の重鎮の家に踏み込めるか! 郷田! こいつをつまみ出せ!!」 高山が激昂し、郷田が私の腕を掴もうとした、まさにその時だった。「――本部
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第35話

*  *  *  正午まで、残り一時間を切っていた。 渋谷区松濤。都内屈指の高級住宅街の、さらに奥まった場所に、佐々木義泰の巨大な私邸は周囲の空気まで圧迫するように建っていた。 三メートルを超える堅牢な石壁に囲まれ、巨大な鉄扉の正門には屈強な民間警備員やSPが数名配置され、鋭い目を周囲へ向けている。 私の運転する覆面セダンが正門前へ乱暴に滑り込むと、助手席から郷田が勢いよく飛び出し、警察手帳をこれ見よがしに頭上へ掲げた。「警視庁特捜本部の郷田管理官だ! 現在、佐々木副大臣が連続爆破テロの標的にされているという緊急情報が入った! 我々が直接、先生を保護する。ただちに門を開けろ!」「け、警視庁の特捜本部……!?」 ただの所轄刑事ではなく、本庁捜査一課の『指揮官』を名乗る郷田の威圧的な態度と、突きつけられた警察手帳の威力に、警備員たちは顔色を変え、慌てて重厚な鉄門を開いた。 屋敷の中へ案内されると、雨上がりの外の冷たい空気とは打って変わり、重厚なマホガニーの香りと、むせ返るような高価な葉巻の匂いが鼻をついた。 通されたのは、一階奥にある巨大な応接室だった。 壁一面を分厚い洋書が埋め尽くし、床には足首まで沈み込みそうなペルシャ絨毯が敷かれている。部屋の中央には、特注と思われる巨大なアンティークデスクと、漆黒の最高級レザーチェアが鎮座していた。 そのレザーチェアへ深く腰を沈め、傲慢な笑みを浮かべていた男こそ、佐々木義泰副大臣、五十四歳だった。脂の乗った体躯と野心に濁った瞳が、いかにも権力の中心で生きてきた人間らしい威圧感を放っている。 だが、私が息を呑んだのは佐々木ではなかった。 その傍らのソファに座り、静かにマイセンのティーカップを傾けている男を見た瞬間、心臓が凍りつくような感覚に襲われた。 佐々木より年上でありながら、微塵の隙も感じさせない冷徹な能面のような顔。 与党幹事長であり、次期総理の最有力候補――久我晃一郎。(……なぜ、この男がここにいる?) 応接室へ足を踏み入れた瞬間、強烈な違和感と嫌悪感が全身を駆け抜けた。 昨夜は、彼の実の息子である久我晃生の通夜だった。本来なら今日、この時間は告別式が執り行われ、父親として喪主の挨拶に立っていてもおかしくない。 それなのに、政界の怪物と呼ばれる大物政治家が、実の息子の弔いを身内や秘書
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第36話

 ソファに座ったまま、久我晃一郎がマイセンのティーカップを優雅にソーサーへ戻していた。 その一言を聞いた瞬間、佐々木の野心的な目が大きく見開かれた。「……く、久我先生……? しかし、こいつは私を……」 つい先ほどまで怒りに任せて怒鳴り散らしていた佐々木が、蛇に睨まれた蛙のように顔色を変え、しどろもどろになっている。(……これが、本当の力関係か) 私は息を呑んだ。 佐々木は表向きこそ派閥の重鎮として大きな顔をしているが、彼をここまで引き上げたのは久我晃一郎だ。久我の前では完全に萎縮し、頭が上がらないのも当然だった。 実の息子の告別式を離れてまで、この密室で何が話し合われていたのか。 少なくとも、この部屋で本当の意味で権力を握っているのは佐々木ではない。 久我晃一郎――この男だ。「十五年前の亡霊に取り憑かれたテロリスト、か」 久我は能面のような顔をこちらへ向け、薄く笑った。「そういえば君は、昨夜の通夜に来ていたね。あの時も、どこか思い詰めたような鋭い目をしていた」 その言葉に、背筋が凍るような戦慄を覚えた。 政界の重鎮の通夜。数多くの弔問客が出入りする異常な熱気の中で、久我は遺族席から、最後尾近くへ紛れ込んでいた私の存在を正確に記憶していたのだ。「それで?」 私の動揺を見透かすように、久我が続けた。「そのテロリストの妄想は、何重ものセキュリティに守られたこの強固な屋敷の中にいる佐々木を、どうやって狙うと言うんだね。刑事くん」 久我の底知れない視線に晒されながら、私は佐々木が腰を沈めている巨大な漆黒のレザーチェアを指差した。「……犯人は、標的が『自ら座る椅子』に細工をします」 尋常ではない悪寒が、背筋を駆け上がった。「もし、先生が毎日座り続けているその玉座そのものが、清掃業者などに扮した犯人によって密かにすり替えられ、あるいは改造されていたとしたら?」 私は佐々木を真っ直ぐに見据えた。「佐々木先生、その椅子から今すぐ立ってください!」 自分でも驚くほど、声が震えていた。「な、なんだと……?」 佐々木が恐怖に顔を引き攣らせ、椅子から腰を浮かせようとした、まさにその時だった。【正午(ゼロ)】 応接室の壁に設置されていた巨大な薄型テレビが、バチン、と音を立てて突然起動した。 同時に部屋の照明がすべて消え、スマートホーム
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第37話

『その椅子から完全に腰を浮かせた瞬間、座面に仕込まれた感圧式の起爆スイッチが作動し、あなたは上半身ごと吹き飛ぶことになる。数ヶ月前の屋敷の改装工事の際に、僕が清掃業者に紛れ込んで仕込んでおいたんだ』 佐々木の動きが、ぴたりと止まった。 中腰の姿勢のまま、顔から一瞬で血の気が引き、土気色へ変わっていく。『……なんてね。嘘ですよ』「……え?」『そんなハリウッド映画みたいな爆弾、仕込んであるわけがないでしょう。……まだ、ね』 犯人が、スピーカーの向こうで悪魔のように笑った。 佐々木は中腰のまま、立つことも座ることもできず、顔を引き攣らせている。『ですが、信じられますか? 今回の第三の大罪のテーマは「虚偽(ウソ)」だ。あなたが十五年間吐き続けてきた嘘に相応しい舞台を用意した。本当に爆弾はないのか。それとも、「爆弾はない」と言った僕の今の言葉そのものが嘘なのか』 犯人は、愉しむように続けた。『賭けに出て、自分の足で立ち上がって確かめてみますか。佐々木先生』「う、あ……あぁ……っ」 佐々木は立ち上がることもできず、全身をがたがたと震わせていた。 犯人が本当に爆弾を仕掛けていない保証など、どこにもない。もし立ち上がった瞬間に爆発すれば、それですべてが終わる。 自分の命を賭けて犯人の言葉を試す勇気など、佐々木にはなかった。 額から滝のような脂汗を流しながら、彼は再び、爆弾が仕掛けられているかもしれない漆黒のレザーチェアへ、ゆっくりと深く腰を沈めていった。「ひぃッ……ば、爆弾……!?」 郷田は応接室の扉へ向かって這うように逃げようとしていたが、スマートホームのロックが掛かっているのか、扉はびくともしなかった。 巨大テレビでは、百万人の大衆が書き込むコメントが、滝のような速度で流れ続けている。『十五年前の汚職の黒幕って佐々木だろ!』『第三の大罪ってこいつのことか! 許せねえ!』『数日後のスキャンダルってなんだ!? その前にこいつを血祭りに上げろ!』『早く爆発しろ! 裏金ジジイごと消し飛べ!』 大衆も、そしてこの場にいる私たちも、この瞬間の標的が佐々木義泰であると確信していた。 だが、画面の向こうにいる人々は知らない。 いま現実の佐々木が、『爆弾があるのかないのかさえ分からない椅子』へ座らされ、立ち上がることすらできなくなっていることを
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第38話

『さっきも言った通り、この爆弾は僕のただの「嘘」かもしれない。だったら、君が代わりに座ってあげればいい。そうすれば佐々木先生は立ち上がれるし、ただの普通の椅子なら誰も死なない。最高のハッピーエンドだ』 犯人の声が、地を這うように低く、ねっとりとした冷酷さを帯びた。『ただし……もし僕の「嘘ですよ」という言葉そのものが嘘で、本当に感圧式のセンサーが仕込まれていた場合、佐々木先生が立ち上がるのと同時に、君がその椅子へ全体重を乗せて座り直さなければ、爆発は防げない』 犯人の声には、明らかな愉悦が滲んでいた。『さあ。百万人の賛成票が過半数を超え、ロックが解除される前に、君は自分の命を賭けて、このロシアンルーレットの席へ座る勇気があるかい?』 私は戦慄した。 犯人は、佐々木をただ殺すだけでは満足していない。 私という人間に、究極の『命の重さ』を天秤にかけさせようとしているのだ。 この男を見捨てれば、爆弾が本物である限り、佐々木は死ぬ。そして私は、『権力者を見殺しにした刑事』として、犯人の狂気と同じ側へ足を踏み入れることになる。 だが、私が身代わりとなって椅子へ座れば、嘘か本当か分からない死のスイッチが、今度は私自身の命へ直結する。 テレビ画面のカウンターが、無情に回り続けていた。【処刑に賛成:三十万票】 過半数の五十万票まで、あと僅か。 時間にすれば、数十秒しかない。「……真下刑事、助けてくれ……!」 佐々木は、嘘か真実か分からない死の恐怖に顔を涙と鼻水と脂汗でぐしゃぐしゃにしながら、震える手を私へ伸ばした。「金ならいくらでも払う! 昇進も約束する! だから、お前の言う通りにする! 私を助けてくれぇっ!!」 あまりにも醜悪な命乞いだった。 久我晃一郎ですら、その惨めな醜態をソファから冷たい目で見下ろしている。 佐々木には、十五年前に他人の命を犠牲にしたことへの反省など微塵もないように見えた。ただ、自分が死ぬことだけが怖い。その恐怖から逃れたい一心で、金も地位も差し出そうとしている。(こんな男のために、俺が命を懸ける必要があるのか……?) どす黒い葛藤が、胸の奥で渦巻いた。 見捨てろ、と私の中の黒い感情が甘く囁く。 こいつは死んで当然の男だ。 十五年前、一人の父親を死へ追いやり、その血の上で権力の椅子へ座り続けてきた。 ならば、
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第39話

 佐々木がこの椅子から完全に腰を浮かせた瞬間、座面に仕込まれているという感圧式の起爆スイッチが作動する。犯人の言葉が真実なら、その瞬間にすべてが終わる。(こんな奴、このまま見殺しにすればいい……!) 再び、どす黒い感情が胸をよぎった。 だが、その瞬間、昨夜の交番で聞いた義父の声が脳裏に蘇った。『流れを止めるな。ジョウ、止まるな』 あの太く温かい手で肩を叩かれた感触まで、鮮明に蘇ってくる。 正義とは、相手が善人だから救うという条件付きの免罪符ではない。 誰に憎まれようと、相手がどれほど醜悪な人間であろうと、目の前にある命が不当に奪われるのを防ぐ。 それが、泥水を啜りながらでも自分の人生を懸けて守ると誓った、私の刑事としての誇りだった。 私は佐々木へ向かって全速力で踏み込み、胸ぐらを掴むと、横へ力任せに引き剥がした。「ヒィッ……!?」 佐々木の身体が椅子から外れ、そのまま無様にペルシャ絨毯の上へ転がり落ちる。 座面が跳ね上がろうとした、その刹那。 コンマ数秒の間に、私は自らの身体を投げ出すようにして、漆黒のレザーチェアへ全体重を叩きつけた。 ギシッ、と特注の分厚い革が深く沈み込む音が響いた。 私は両手で肘掛けを死に物狂いで掴み、固く目を閉じた。 次の瞬間には、座面の下から数千度の業火と爆風が突き上げ、身体ごと吹き飛ばされるかもしれない。 その覚悟で、息を止めた。 一秒。 三秒。 五秒。 しかし、何も起こらなかった。「……え?」 私は目を閉じたまま、耳を澄ませた。 爆発音はない。 熱もない。 身体を引き裂く衝撃もない。 その代わり、けたたましく鳴り続けていた警告音が唐突に止まり、ハッキングされたスピーカーから愉快そうな拍手と大爆笑が響き渡った。『あははははははッ! ブラボー! スタンディングオベーションだ、真下刑事!』 私はゆっくりと目を開けた。 全身に冷たい汗が噴き出している。心臓は今にも胸を突き破りそうな勢いで脈打っていた。 呆然とテレビ画面を見つめる私に、犯人は楽しそうに言葉を浴びせてくる。『いやあ、傑作だ。まさか本当に自分の命を賭けて、こんな薄汚い悪党の身代わりになる刑事がいるなんて! 君のその正義感には、心底頭が下がる思いだよ!』「どういう……ことだ……。爆弾は……」 私がかすれた声で呟くと、
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第40話

「君の政治生命は、私がついている限り微塵も揺るがない。世間のノイズなど、すぐに揉み消してやる。……君はこれからも、私の大事な右腕だ。こんなくだらない茶番で弱腰になるな」 私は思わず息を呑んだ。 普通なら、即座に切り捨ててもおかしくないほどの大醜態だった。 だが、久我は佐々木を見捨てない。 百万の人間が声を上げようが、自分が一言命じれば、その炎上などいくらでも消し去れる。 それほどまでの絶対的な権力と自信が、この怪物のような男にはあるのだ。「そ、そうだ……! 久我先生のおっしゃる通りだ! 私は何も終わっていない!」 久我の言葉に強烈な庇護を感じ取った佐々木は、たちまち権力者としての傲慢な顔を取り戻し、一気に立ち上がった。 そんな二人の背中へ向かって、私は怒りで震える拳を握り締めた。 どうしても、聞かずにはいられなかった。「……久我幹事長。一つだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」 私の低い声に、久我がゆっくりと肩越しに振り返る。「本日は……今この時間は、ご子息である晃生議員の『告別式』が執り行われているはずです。それを放り出してまで、佐々木先生とこの密室で何を話し合っておられたのですか」「貴様、幹事長に向かってなんという無礼なことを!」 郷田が顔色を変えて叫んだが、久我は歩みを止めることも、表情を変えることもなかった。「政局は、身内の不幸を待ってはくれないのだよ、真下刑事」 久我は能面のような顔のまま、淡々と答えた。「今、この国は姿なきテロリストの脅威に晒され、大衆は不安と狂乱の渦中にいる。このような非常時に、国家の舵取りを担う者が、たった一人の血肉の死を悼んで立ち止まることなど許されると思うかね?」 そこには、嘘や言い訳の響きが一切なかった。 ただ純粋に、自らの信念を語る絶対者の声だった。「顔なき民というものは、常に正しく導いてくれる強大な存在を必要としている。私が私情に流され、足元の盤石を崩すようなことがあれば、一億の国民が路頭に迷うのだよ」 久我は私の目を真っ直ぐに見据えた。「明日を生きる民の生活を守り抜き、この国を正しい方向へ導くことこそが、上に立つ者の絶対的な『責務』だ。……故人を送る涙など、身内と秘書に流させておけば十分だ」 私は言葉を失った。 この男は、自分を神か救世主とでも信じているのではないか。 し
last updateLast Updated : 2026-10-28
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