All Chapters of 主上、今度はわたくしがあなたを捨てます: Chapter 21 - Chapter 30

44 Chapters

21話. 内蔵寮(くらりょう)の帳

耳元に触れていた息が退いた。花は医乃の顔をもう一度覗き込み、返しを待つがごとく首を傾げた。「中宮の君の姉上と仰(おお)せのお方は、何を知ったかぶりなさいましたか」「ことごとくを、じゃ」花が笑うた。「ことごとくを知ったかぶりなさった。書も薬も、人の胸の内も。それでいて、己の足元の崩れゆくは知らぬままで」扇が広げられ、梅香が遠ざかる間、医乃は紀伊の屍の脇に膝を折ったまま、その後ろ姿を見送った。足元の崩れを知らずにいたと申す姉は、今、その足元にて生き返りこちらを見ていた。夜が更けて、医乃は直廬(じきろ)の井戸端にて手を洗うたが、爪の下に染みた血は幾度擦っても抜けなんだ。真(まこと)が物も言わずに差し出した濡れた木綿で爪の下を丁寧に拭(ぬぐ)い取ってから、医乃は顔を上げた。「佐(すけ)さま、願いが一つ、ござりまする」「申されよ」「2年前、廃庶人を追う折に検非違使が押収した物の目録を、見せて頂けまするか。内蔵寮(くらりょう)の入庫の帳(ちょう)と共に」真の眉が上がった。「廃后の君の事は宮では禁忌(きんき)と聞き申したが。何ゆえに?」「突き合わせたき物が、一つござりまする」それ以上を問わず、真は血に濡れた木綿を受け取り、井戸水を一桶(ひとおけ)汲んで、彼女の傍に置いた。「夜の明けぬ内に届け申す。代わりに突き合わせが済まば、拙者にもお知らせくだされ」翌日は朔日(ついたち)、中宮御所の庭にて内名婦(ないみょうぶ)の朝礼が催される日であった。掌侍、命婦、女房らが品の順に列し、中宮が大床(おおゆか)に坐して月の法度を諭した。「師匠、女医が内名婦の朝礼に何ゆえ召されるのです?」蓮が女医の列の末にて医乃の袖を引いた。「中宮の君の召しじゃ」「それがなお奇怪にございまする。昨日のあれだけの事があったのに……」「主上 お成り——!」庭が沸(わ)いた。「主上が朝礼においでだと?」「ご即位より、はじめてではなかったか?」「中宮の君がお喜びになろうな」大床の上で立ち上がりかけ、慌しく座り直す花の頬に、血色が上った。煌仁は大床の脇に設けられし席に坐し、庭を一巡り見渡した。「中宮御所の掌侍が宮女を殺めたと聞く。中宮が内名婦をいかに治めるか、朕が見に参った。常のごとく致せ」花の笑みが口元で固まりゆく間、庭を舐めた帝の目が女医の列の末にちらりと
last updateLast Updated : 2026-11-05
Read more

22話. 死せる名

「本日の朝礼は、これにて下がる」花の声は、驚くほどに整って出た。握り締めた掛け香を袖の内に押し込む手にも、揺らぎひとつ無かった。煌仁が先に立ち上がり、花はその背へ向けて折り目正しく腰を折った。袍の裾が庭を抜けゆく間、花は終いまで大床の下を見なんだ。見ずとも、解る。あの目が何処を向いているかは。***中宮御所の経台(きょうだい)の上へ投げつけられた掛け香の珊瑚の枝が、鏡に当たって鋭い音を立てた。「焼け」新しく上がった弓(ゆみ)命婦が腰を屈めて拾い、敷居を越えようとした刹那、花の声がその背を押さえた。「……否(いな)、置け」花が奪い返した掛け香を経台の抽斗(ひきだし)の奥に押し込むと、閉まる音がやけに響いた。「南原(なんばら)の医師が、御(ご)文安(ぶんあん)の脈を取り申してござりまする」「入(い)らしゃれ」道玄は脈を取る取らぬの体(てい)で手を引き、鍵束を膝の上に揃えて置いた。「中宮の君、ご気色(きしょく)がひどう損ねておられまする」「あの女医を宮より除く方(ほう)を申せ。直廬の庭にても、内名婦の庭にても、面目を剝がれたのじゃ」「殺すは容易(たやす)うござりまするが、主上の眼が彼(か)の女医に貼り付いておりまする。掌侍一つで終わりし件が再び生ずれば、此度は尻尾でなく胴(どう)をお探しに相成りましょう」道玄が、ふっと笑うた。「ならば、己が足で宮を出さする方(ほう)が良きに候。彼の女医、波嶺郷(はみねごう)の滝本の下にて学び申したと聞き及びまする」「ゆえに?」「御厨子所の裏にて彼の名を聞きし日、波嶺郷に人を遣わしましてござる。山里の女医ひとりの名籍(めいしゃく)など、郡衙(ぐんが)の戸籍と突き合わすれば、それまで」花が首を傾げた。「名籍が、偽(いつわり)でも、ありようかえ」「名籍とは奇(く)しきものにて、時に生ける者が死せる名を借りて用うることがござりまする」「死せる名、か」花の口の端が、ゆるりと巻き上がった。道玄は笑みを崩さぬまま、脈を取っていた指先を袖で擦り取った。その名の下に誰ぞが隠れておるかは、一言も足さなんだ。***医乃が女医所の務めを終え、処(ところ)に戻ったのは、その日の暮れであった。戸の鍵穴に挟んでおいた髪の毛は落ちており、戸は開け放たれていた。室の内では薬師寮の下人3人が夜具を裂き、薬草
last updateLast Updated : 2026-11-05
Read more

23話. 師(し)

「死んだ、とのう」花が扇を畳んだ。タン——「されば、そなたは何者か。死せる女医の名を用いて宮に忍び入りしは、何者か」庭が沸いた。「死人の名じゃと」「道理で屍に通じておる筈じゃ」「幽霊でもないかえ」医乃は膝上の手を開いた。名籍が死んでおるのは、彼女が誰より先に知っていた。今、糺(ただ)すべきは、その紙に押された判(はん)であった。「首(かしら)女医さま。小官が初めて宮に上がりし折、波嶺郷の郡衙(ぐんが)より上送(じょうそう)せし文書が、女医所の櫃(ひつ)の内にあるはずにございまする」首女医が致し方なさげに頷いた。「……ある。波嶺郷の郡司(ぐんじ)の判も押してあった」「3月前、波嶺郷の郡衙は女医 医乃を宮へ上送し、本日、波嶺郷の郡衙は女医 医乃が2年前に死せしと申しておりまする。同じ判の押された紙二枚のうち、いずれか一方は誤(あやま)りにございまする」道玄が文を畳みつつ笑うた。「然(さ)よう。そして誤りしは、そなたが携(たずさ)えて来し方であろう。死せる者の名籍など、銭数文(すうもん)にて売り買いされる世じゃ」「もう、よい」花が身を起こした。「この女をまず検非違使庁——」「——誤りは、波嶺郷の郡衙(ぐんが)の古き名籍の方にござりまする、中宮の君」庭の入口から嗄(か)れた声が響いた。藤堂典薬が先に立ち、その後ろに白髪の老人が杖を突いて従い入ってきた。長き道を来し身らしく、道袍の裾に黄(きば)んだ土埃(つちぼこり)が乾いて付いていた。払う間もなく、老人は薬師寮の別当に向けて腰を折った。「波嶺郷にて医者を営む滝本(たきもと)にござりまする。藤堂典薬とは、ともに鍼(はり)を修めし仲にて」「別当さまに、臣めが出入りを願い出ましてございまする」藤堂が強(こわ)ばった顔で老人の脇に伏した。坐したまま目を離せぬ医乃の前で、老人の頬(ほお)は3月の間に一段窶(やつ)れていた。老人は庭に入りて以後、一度も彼女の方を見なんだ。目が合う瞬間に何か見破られる者のごとく、懐より手擦れの帳(ちょう)を取り出し、開くことにばかり専(もっぱ)らであった。「2年前の波嶺郷の疫(えき)の折、病(やまい)の庵(いおり)に入りし者らを記せし帳にござりまする。女医 医乃、霜月(しもつき)3日、庵に入る。20日、熱下がる。師走(しわす)10日、歩きて庵
last updateLast Updated : 2026-11-05
Read more

24話. 松(まつ)の独楽(こま)

「……南原が、あの夜、中宮御所におったと申されまするか」「戸の内にあったか、外にあったかまでは存じませぬ。されど、薬師寮の医師が、薬箱も携(たずさ)えず、彼(か)の刻(とき)に彼の道を歩む筈は、ござりますまい」滝本が燈火(ともしび)の心を掻き立てた。「あの折は、この年寄りを識(し)る気色(けしき)もござりませなんだ。されど今日(こんにち)庭にて見奉りますれば、あの者はあの夜を忘れておらぬようにござりましてな」再び思い起こしたあの夜の中宮御所、一の宮の倒れし後に駆けつけた薬師寮の医師らの中に、鍵束を提げた者は、おらなんだ。あの夜一晩、その名を呼ぶ者もなかった。呼ばれなんだという事は、その刻、彼の者が何処にあったか、誰も書き取らなんだという事であった。「そして、山寺(やまでら)の子の事にござりまする」医乃が顔を上げた。蓮より伺(うかが)うた噂を老人に打ち明けたは、半時(はんとき)前であった。「小官が存ずることは、ござりませぬ。ただ、未だ耳にのみ、留(とど)めておかれませ。胸に入れますれば、足取りが乱れまする」一月(ひとつき)が、そうして流れた。蓮は毎朝 御膳(ごぜん)の菓子を捧げ持ちて女医所の庭を一巡りし、初めの数日は毒味を取るがごとく薬菓の端を小さく齧(かじ)って居(お)ったが、10日を過ぎる頃には受け取るや半ばを食うた。残りの半ばを、必ずや医乃の折敷(おしき)に分け置いた。「師匠、本日は主上が清涼殿にて師匠を5度ご覧になりました。検屍書お差し上げの折に2度、お退(しりぞ)きの折に3度にございまする」「検屍書をお読みであったのじゃろう」「検屍書は、字が逆(さかさ)に見ゆる処にござりましたのに」菓子を届けに参った伏見(ふしみ)がそれを耳にし、懐より日記(にっき)を出して何事か書き記した。蓮が爪先立ちて覗き込まんとするや、伏見が日記をぱたんと閉じた。「幼き者が、年寄りの日記(にっき)を覗くでない」「5度、合うておられまするな?」「……6度じゃ」その一月、煌仁は彼女に私(わたくし)の言を一つも寄越さなんだ。検屍書を受け取れば読み、読み終われば退がれと申した。その無心な面前にて、医乃はむしろ背を伸ばして伏せる事ができた。道玄は、擦れ違うたびに笑うた。回廊でも、薬種庫の前でも、鍵束の音を先立てて近づいては、安否(あんぴ)を問
last updateLast Updated : 2026-11-05
Read more

25話. 朕を欺けると思うたか

医乃は振り返らなんだ。木切れを握る指の節が痺(しび)れた。沈香(じんこう)の匂いが背後に留まっていた。振り返れば、この夜が何になってしまうか、知れぬ。医乃は袖にて目尻を拭い、膝を回して伏した。「……主上は、何ゆえかくも粗末(そまつ)な裏庭に、お成りにございまするや」「誰(たれ)の供(く)である」「波嶺郷(はみねごう)に埋(う)めて参りし、幼き弟の誕生日にございまする。宮の法度を犯せし罪は、甘んじて受け申しまする」彼女を過ぎて折敷(おしき)の前に止まりし足音の主(ぬし)が、身を屈めて小皿を見下ろした。「甘草、一撮(ひとつまみ)」「……」「波嶺郷の弟も、苦き薬を飲めなんだか」「子は、みなさようにございまする」土の上に倒れた木切れを拾い上げし煌仁の掌の上にて、傾いだる木切れが燈火を受けて影を長う引いた。「棗(なつめ)は木目が固く重い。かように削れば、廻らぬ」彼の親指が、鈍(にぶ)き頭を撫でた。「あの子の独楽(こま)は、松であった。朕が削ったゆえ、知っておる」或る冬の日、東宮御所の庭の松の下、東宮の膝に坐(すわ)りし一の宮が、鉋屑(かんなくず)を頭に浴びて笑い転げた。お気を付けなされませ、手を切られまする、と小言を言うていたのが彼女であった。あの日削りし松の独楽は、一日中よろけずによう廻った。熱く塞がりゆく喉の奥を押さえ、医乃は歯を噛みしめて身を起こした。「夜が更けましてございまする。小官はこれにて——」彼を避(よ)け過ぎようとせし刹那、左の手首が掴まれた。手を引き抜かんと後(あと)ずさっても、手首は抜けず、彼女が退(しりぞ)きたる歩み分、彼が踏み入って来た。二足三足にて背が処(ところ)の塀に触れた。トン——煌仁のもう一方の手が、彼女の耳の脇の塀を押さえた。土の屑が肩に落ちた。抜ける隙は、彼の袖一枚の幅も残らなんだ。燈火を背負うた顔が近く降りてきた。「朕を欺けると思うたか」低き声が額(ひたい)に触れた。「中宮」廃されしあの夜より初めて、彼女に向けて呼ばれた呼び名であった。懐の銀の簪が、胸骨(きょうこつ)を軽く押した。医乃は自由な右手にて彼の胸を押した。掌の下にて袍(ほう)が皺(しわ)になれど、彼は一寸も退(しりぞ)かなんだ。代わりに絹の向こうより、何かが掌を打った。速く、荒く。彼女の胸の内にてど
last updateLast Updated : 2026-11-05
Read more

26話. 取引の条件

夜風が、触れ合うた手の甲の間を縫うて流れた。煌仁はしばし彼女を見下ろしたまま、言わなんだ。「左大臣か」「未だ、名を申し上げる刻(とき)にはござりませぬ。屍(しかばね)がことごとく語り尽くす前に筆を下ろせば、それは唯(ただ)の推(お)しにございまする」煌仁の口の端が、少し緩んだ。笑みと申すには短く、溜息と申すには軽過ぎた。「変わらぬのう。その頑(かたく)なさも」彼が彼女の手の内の牌(はい)を見下ろした。「妹一人にて終わらぬと申すならば、その末(すえ)に朕の名が、記される事もあろうかの」「……屍が、指しまするならば」医乃は目を逸らさなんだ。煌仁も逸らさなんだ。夜風に燈火が一度大きく傾ぎ、またまっすぐに戻った。医乃は牌を握る手に力を込めた。「……お受け致しまする」煌仁の肩より、何かが下りた。彼が半歩退き、背後の塀がようやく冷たく感じられた。「ただし、小官にも条件がござりまする」「申せ」「第一に、小官の検屍にお手を触れなされますな。死せる者の申すところを、生ける者の都合に合わせて書き替える事は、致しませぬ。その末に、主上に利する名が出でようが、害する名が出でようが」「よかろう」早過ぎる返しに、医乃は目を細めた。「主上に害する名が出でまするも、でございまするか」「朕は盤(ばん)を敷くのみじゃ。判は、そなたの筆が下ろす。薬師寮の屍室にて、さよう申したではないか」判は、女医の検屍に従う。あの日、道玄の前で背を向けつつ投げし一言を、この男はあの折、既に彼女への約定(やくじょう)と受け取っていたらしい。「……第二に、蓮を此度の件より外して下さいませ。あの子に何事(なにごと)か生ずれば、取引はその日にて終わりにござりまする」「あの子に毎朝菓子を下しておる者が、誰ぞと思うておる」「菓子にて、命は護(まも)れませぬ」煌仁が短く息を吐いた。「相解った。その代わり、そなたも危うき処(ところ)へひとりにて参るな。誰ぞが尾(つ)け参るならば、その足にて朕へ告げよ。これは、御命(ぎょめい)じゃ」「さようなる御命が、何処にござりまするや」「たった今、下りたのじゃ」「検非違使 佐が尾けまするも、ご言上申し奉りまするや。矢の件にて、女医所をようお尋ねなされまするが」煌仁の眉が、片方だけぴくりと動いた。「……彼(か)の者は、殊(こと)に
last updateLast Updated : 2026-11-05
Read more

27話. 未(ひつじ)の刻の茶の席

「……茶、にございまするか」医乃は我が耳を疑うた。ひとりにて歩むなとの御命(ぎょめい)よりも、なお的(まと)を外れた条件であった。「毒味の掌侍(きみ)が、おりまする」「掌侍の茶は、苦い」「茶葉を長く浸すなと申し付けくだされば済む事に」「申し付ければその日は苦からず、翌日はまた苦し」煌仁が涼しき顔にて袖を払うた。「毎日未(ひつじ)の刻、清涼殿へ茶を献(ささ)げよ。証(あかし)にても検屍書にても、その茶盆(ちゃぼん)に載せて参れば良い。女医が日毎(ひごと)に清涼殿へ出入りする名目(めいもく)にて、これ以上のものはない」聞けば、尤(もっと)もに響いた。尤もに響く分、なおさら小面憎(こづらにく)く思えた。「……第二の条件は、何にござりまするや」「茶の味を見て、決めよう」翌日の未の刻、茶盆(ちゃぼん)を捧げて清涼殿に入る医乃の後を、蓮が火鉢(ひばち)と湯鑵(とうかん)を抱えてぴたりと付き随うた。「わたしがお持ち申しまする! 湯鑵は、どれほど重いか!」「清涼殿の内には入れぬ」「戸口までで良いのです! 戸口にて、おとなしゅう致しまする!」戸口におとなしく膝を折った蓮は、医乃が茶葉を削(けず)る前より、既に指を一本折っていた。初日、煌仁は茶碗を唇に当てるや置いた。「薄い」翌日は一口を飲み下し、眉を顰(しか)めた。「苦い」医乃は茶盆の下にて拳を握り、開いた。東宮妃の折にも、この男はかくあった。新しき茶葉を献ずれば、一日は薄き、一日は苦きと難癖を付け、3日目にて何も申さず碗を空にし、空の碗を彼女の方へ押し置いていた。その折にも、彼女はその難癖が茶葉の咎(とが)にあらずと知っていた。東宮御所の茶の局(つぼね)より茶を運ばせず、態々(わざわざ)東宮妃を呼び寄せるがための口実であった。3日目、煌仁は何も申さなんだ。一碗を空け、空の碗を押した。また空け、また押した。傍らに立つ伏見(ふしみ)の懐より取り出せし日記(にっき)の上を、筆先がさらさらと鳴らした。『主上、茶を3碗お空(あ)けあそばす。苦きとのお言葉なし。常(つね)は半碗』「伏見」「……は、主上」「何を記しておる」「天気(てんき)にござりまする。本日は、陽(ひ)がようござりまする」窓の外には朝より重き雲が低う掛かっていた。煌仁は返さぬまま、空の碗をもう一度押した。
last updateLast Updated : 2026-11-05
Read more

28話. 再び黒く

先に動いたは、医乃であった。茶盆の上の手を引き下げて膝に置き、敷居の内まで響くほどに頭(こうべ)を垂れた。「……女医は、如何なる碗にても先に検め奉りまする。主上が2年前の事を思い起こされまするほどに、見慣れたる癖にございまする」「さようか」「銀の簪が白きとて、悉(ことごと)くが清きにあらず」医乃は帝の前の碗を引き戻し、小指の先を浸して舌に当てた。乾きし菊、棗(なつめ)、蜜(みつ)少し。舌先が痺れず、喉も締まらぬ。「毒は、ござりませぬ」「それでも、下げよ」弓命婦が膝にて進み出、茶壺を引き取った。腰を伸ばす際(きわ)に、その目が医乃の懐の辺りに一度留まった。簪を収めし、そのまさしき処(ところ)にであった。弓命婦が退(さ)がるや、煌仁が伏見に目配せした。伏見が音もなく、その後を跟(つ)けて行き、半時(はんとき)の後に戻り申した。「御厨子所にも御(お)茶処(ちゃどころ)にも寄らず、まっすぐに中宮御所の奥に入り申した。茶壺は未だ手に携(たずさ)えしままにて」煌仁は答えなんだ。医乃もまた、頭(こうべ)を上げなんだ。その日の未(ひつじ)の刻の茶の席は、空の碗一つを間に、終いまで静かであった。その夜、医乃は処の戸の鎖(じょう)に髪の毛を挟みつつ、初めて指先が震えた。『見慣れたる癖』の一言が、弓命婦の耳に如何(いか)ほど残ったか、知れなんだ。『癖は変わらぬ』の方は、遥かに長う残ったであろう。翌日、東(ひがし)の明けぬ前であった。「師匠! 師匠!」切迫して処の戸を叩きし蓮が、戸が開くや息を切らして西(にし)を指した。「西の脇門の前に針女房の一人が倒れておるとの事にございまする! あの針(はり)の方、純ねえさまの代わりに薬種のお使いに参られておった方!」医乃は履(はきもの)を突っかけつつ懐を探った。銀の簪と、象牙の牌。門番と兵士数人が囲みて立つ西の脇門の前、その真中に女房が一人、横に伏していた。背に負うた風呂敷の紐が肩に食い込んだままであった。「下がれ。薬師寮へ知らせしゆえ——」前を塞がんとせし門番(かどもり)に、医乃は袖より牌を取り出して差し出した。「検屍差配(けんしさはい)にござる」門番の目が象牙の牌の花押に触れるや、腰が折れた。蓮が医乃の背後にて目を丸くした。屍の脇に膝を折れば、40の針女房であった。指先ごと
last updateLast Updated : 2026-11-05
Read more

29話. 一の宮は、身罷(みまか)った

「師匠、何(なん)と書いてあるのです?」頭を差し入れる蓮の前にて、医乃は独楽(こま)を掌の内に握り込んだ。「……何も。傷(きず)じゃ」独楽を木綿に再び包み、袖の奥深くへ入れた。手が震えぬよう、手首に力を入れた。『未(いま)だぞ』折れんとする膝を支え、医乃は錦(にしき)の凝(こご)りし手を握った。死者の手が、生者の手よりも硬かった。『未だ、崩れてはならぬ』「屍を女医所の検屍所(けんしどころ)へ運べ。瓢(ふくべ)と風呂敷も共に。己(おの)が目の前にて一つも零(こぼ)すな」兵士らが担架(たんか)を広げる間、医乃は脇門の前の土を見た。錦が倒れた処より脇門まで、朝露の湿りし土の上を10歩ばかり。数歩先にて倒れれば、錦は宮の外の路傍(ろぼう)にて倒れたことに相成(あいな)る。宮の外にて死にし女房は、宮の検屍を経ぬ。路上の客死(きゃくし)の女房として記され、風呂敷は路の誰かの手に落ちていたであろう。毒を含ませし手が算盤(そろばん)弾きし見当(けんとう)より、砒霜(ひそう)が少し早う回った。「蓮」「は、師匠」「今日目にせし独楽の事は、誰にも申すな。錦が姪御(めいご)に渡さんとせし物じゃ。さよう、心得よ」目を瞬かせる蓮の顔に、更に何事(なにごと)か問いたき気色(けしき)が浮かんだが、医乃の顔を見るや、口を固く結んで頷いた。担架が検屍所の敷居を越ゆる前に、聞き知りし鍵束のちりりが回廊の端より近づいて来た。「砒霜の中毒とな。薬種庫の砒霜の欠けし件と絡む屍ゆえ、薬師寮が引き取り申そう」道玄が下人2人を連れて笑いつつ立った。医乃は担架の前へ進み出、袖より象牙の牌を取り出して掲げた。「検屍差配(けんしさはい)にござる、御医師さま。この屍の検屍が済むまで、誰(たれ)も手を触れ申さぬ」道玄の目が牌の裏の花押(かおう)に触れた。笑みは其(そ)のままなれど、鍵束を握る指の節が白く浮かんだ。「……主上が、貴(とうと)き物を下されたか」下人らに顎(あご)にて示し、踵(きびす)を返す直前、道玄の目が、担架の端に載った錦の風呂敷の上に一度触れて、離れた。検屍所にて、医乃は検屍書を書き進めた。針女房 錦、41歳。死因は砒霜(ひそう)中毒。口の内が爛(ただ)れ、喉に大蒜(にんにく)の匂いの残り、吐物(とぶつ)に血の混じりあり。懐に携(たずさ)えし
last updateLast Updated : 2026-11-05
Read more

30話. 甘草(かんぞう)ひとつまみ

茶湯の冷めゆく音さえ聞こえそうであった。医乃はその言葉を末まで聞いた。あの夜「そなたがやったのか」と発(た)たせし声よりもなお沈着にて、一字も震えなんだ。「……さようでございまするか」医乃は茶壺を取り上げ、冷めし茶碗を空け、新しい茶を注いだ。手は、震えなんだ。震えぬ手を見下ろしつつ、彼女は、おのれがこの男に似てゆくのだ、と思うた。「その独楽は証にございまする。検屍所へ戻しとうございます」「これは、朕が置く」「主上は、判定に手を触れぬと仰せにございました」「判定には触れぬ。独楽に触れておるのじゃ」文机の上の手を退かさぬ煌仁に、医乃はそれ以上を請わず、茶盆を取り上げて立った。敷居を越え、戸を閉じゆく際、戸の隙より彼が見えた。独楽を覆っていた手が、ようやく少しばかり持ち上がっていた。伏せた独楽の底を見下ろすその背が、深う曲がっていた。戸が、閉じた。夜更けても、女医所の検屍所の灯明は、消えなかった。蓮は隅の藁(わら)の円座の上に海老(えび)のごとく丸まり、安らかに眠り込んでいた。先に戻れと3度諭したに、屍の傍らに師匠ひとりを残しては行けぬと、意地を張り通した末であった。「女医どの」戸口に立った堀川は、検非違使庁の袖に墨の飛沫(しぶき)を散らしたまま、脇に分厚い帳面を1冊、挟んでいた。「薬種庫の出納帳(すいとうちょう)を借りて参った。砒霜1両の出し入れの所に、また署名の欄が小刀で削られておった」帳面を受けて灯明の下に開くと、名があるべき所が白く毛羽立っていた。爪(つめ)で押さえても、毛羽は伏せなかった。目を閉じると、蔵人所の文書(もんじょ)蔵にて月光の下に広げた出納帳が、よみがえった。廃后の宣旨(せんじ)の下書きを捧げし者の名の欄にて、指に引っ掛かった毛羽の、その同じ目(め)が浮かんだ。「刃の先が左より入りて、画の終いで上へ跳ね上げて抜けておりまする。ゆえに、右の端のみ紙が剥(は)げ、巻き上がっておるのでございまする」堀川が灯明の近くへ身を屈めた。「……まこと、さように見える。じゃが、それを如何(いかが)にして一目で見分けるのか」「同じ目を、以前にも見たことがございまする。何処(いずこ)にてかは、未だ申し上げられませぬ」彼女を暫し見入っていた堀川は、それ以上を問わず、帳面を再び脇に挟み、戸口へ退(しりぞ)いた。「
last updateLast Updated : 2026-11-05
Read more
PREV
12345
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status