耳元に触れていた息が退いた。花は医乃の顔をもう一度覗き込み、返しを待つがごとく首を傾げた。「中宮の君の姉上と仰(おお)せのお方は、何を知ったかぶりなさいましたか」「ことごとくを、じゃ」花が笑うた。「ことごとくを知ったかぶりなさった。書も薬も、人の胸の内も。それでいて、己の足元の崩れゆくは知らぬままで」扇が広げられ、梅香が遠ざかる間、医乃は紀伊の屍の脇に膝を折ったまま、その後ろ姿を見送った。足元の崩れを知らずにいたと申す姉は、今、その足元にて生き返りこちらを見ていた。夜が更けて、医乃は直廬(じきろ)の井戸端にて手を洗うたが、爪の下に染みた血は幾度擦っても抜けなんだ。真(まこと)が物も言わずに差し出した濡れた木綿で爪の下を丁寧に拭(ぬぐ)い取ってから、医乃は顔を上げた。「佐(すけ)さま、願いが一つ、ござりまする」「申されよ」「2年前、廃庶人を追う折に検非違使が押収した物の目録を、見せて頂けまするか。内蔵寮(くらりょう)の入庫の帳(ちょう)と共に」真の眉が上がった。「廃后の君の事は宮では禁忌(きんき)と聞き申したが。何ゆえに?」「突き合わせたき物が、一つござりまする」それ以上を問わず、真は血に濡れた木綿を受け取り、井戸水を一桶(ひとおけ)汲んで、彼女の傍に置いた。「夜の明けぬ内に届け申す。代わりに突き合わせが済まば、拙者にもお知らせくだされ」翌日は朔日(ついたち)、中宮御所の庭にて内名婦(ないみょうぶ)の朝礼が催される日であった。掌侍、命婦、女房らが品の順に列し、中宮が大床(おおゆか)に坐して月の法度を諭した。「師匠、女医が内名婦の朝礼に何ゆえ召されるのです?」蓮が女医の列の末にて医乃の袖を引いた。「中宮の君の召しじゃ」「それがなお奇怪にございまする。昨日のあれだけの事があったのに……」「主上 お成り——!」庭が沸(わ)いた。「主上が朝礼においでだと?」「ご即位より、はじめてではなかったか?」「中宮の君がお喜びになろうな」大床の上で立ち上がりかけ、慌しく座り直す花の頬に、血色が上った。煌仁は大床の脇に設けられし席に坐し、庭を一巡り見渡した。「中宮御所の掌侍が宮女を殺めたと聞く。中宮が内名婦をいかに治めるか、朕が見に参った。常のごとく致せ」花の笑みが口元で固まりゆく間、庭を舐めた帝の目が女医の列の末にちらりと
Last Updated : 2026-11-05 Read more