医乃は膏の箱を下に置き、襟元に抱えてきた紙を銀の簪の箱の底に押し込んだ。廃庶人、橘氏。父に教わった画で写したあの文字を、再び広げる暇はなかった。戸の外では、灯籠を携えた蓮が足踏みをしていた。「女医所に戻る前にもう一度、純ねえさまの部屋に寄ってみたのです。夜具も敷かれておらず、同房の者らも夕げの片付けの後は見ておらぬと」医乃は問わず、履を突っかけた。二人は夜通し宮の東を探し回った。子の刻を越え、丑の刻が過ぎても、純を見たという者はなかった。「どこぞで隠れて居眠りしておりますって。餅を蒸すのに寝る暇がないって、いつも仰せでしたもの」角を折れるたびに、蓮の声が細くなった。灯籠の心が尽き、東の空が白み始めた頃であった。東の御厨子所の裏庭で、甲高い悲鳴が上がった。水を汲みに出た女房一人が、柄杓を投げ出した姿のまま座り込んでいた。裏庭はたちまち人で埋まった。「水を汲んで落ちたんでしょ」「夜独りで出たらしいよ」「あの大きな甕(かめ)に人がどうやって落ちるの」「縁起でもない、口を閉じて」人の背丈ほどもある水甕の縁に、濡れた裳の裾が引っかかっていた。女房3人がかりで引き上げた体は、すでに冷たく硬かった。蓮の手から灯籠が転がり落ちた。水を吸うて膨らんだ顔を覗き込んだ刹那、医乃も息を止めた。2年前、中宮御所の御厨子所で薬菓(やくか)を焼いていた少女。一の宮が薬菓を好むと知り、蜜を一匙余分に入れ、こっそりひと包み別に取り分けていた子であった。一の宮さまの分でございます、中宮の君。しっ、掌侍(ないしのじょう)さまには内緒ですよ。その子がいま、水甕の脇の濡れた土の上に横たわっていた。「わたしが伝えたのです」蓮が亡骸(なきがら)の傍らにぺたりと膝を落とした。「昨夜、たしかに伝えました。何も口にしてはならぬと。姉さまが笑うて、わかったと、おまえこそ食べなさいって、餅を一つ余計にくださったのに……」嗚咽に呑まれる言の代わりに、蓮が懐から小さな餅の包みを取り出した。包みを握る指の節が白く強ばっていた。医乃は蓮の肩に手を置き、離した。今してやれる慰めは一つだけであった。純がいかに死んだかを、最後まで明らかにして書きつけること。膝を折り、冷え切った額に手を載せ、いつもの言葉がこぼれた。「純。言いさした事を、続けよ。わたくしが代わって
Last Updated : 2026-11-05 Read more