All Chapters of 主上、今度はわたくしがあなたを捨てます: Chapter 11 - Chapter 20

44 Chapters

11話. 母の掛け香

医乃は膏の箱を下に置き、襟元に抱えてきた紙を銀の簪の箱の底に押し込んだ。廃庶人、橘氏。父に教わった画で写したあの文字を、再び広げる暇はなかった。戸の外では、灯籠を携えた蓮が足踏みをしていた。「女医所に戻る前にもう一度、純ねえさまの部屋に寄ってみたのです。夜具も敷かれておらず、同房の者らも夕げの片付けの後は見ておらぬと」医乃は問わず、履を突っかけた。二人は夜通し宮の東を探し回った。子の刻を越え、丑の刻が過ぎても、純を見たという者はなかった。「どこぞで隠れて居眠りしておりますって。餅を蒸すのに寝る暇がないって、いつも仰せでしたもの」角を折れるたびに、蓮の声が細くなった。灯籠の心が尽き、東の空が白み始めた頃であった。東の御厨子所の裏庭で、甲高い悲鳴が上がった。水を汲みに出た女房一人が、柄杓を投げ出した姿のまま座り込んでいた。裏庭はたちまち人で埋まった。「水を汲んで落ちたんでしょ」「夜独りで出たらしいよ」「あの大きな甕(かめ)に人がどうやって落ちるの」「縁起でもない、口を閉じて」人の背丈ほどもある水甕の縁に、濡れた裳の裾が引っかかっていた。女房3人がかりで引き上げた体は、すでに冷たく硬かった。蓮の手から灯籠が転がり落ちた。水を吸うて膨らんだ顔を覗き込んだ刹那、医乃も息を止めた。2年前、中宮御所の御厨子所で薬菓(やくか)を焼いていた少女。一の宮が薬菓を好むと知り、蜜を一匙余分に入れ、こっそりひと包み別に取り分けていた子であった。一の宮さまの分でございます、中宮の君。しっ、掌侍(ないしのじょう)さまには内緒ですよ。その子がいま、水甕の脇の濡れた土の上に横たわっていた。「わたしが伝えたのです」蓮が亡骸(なきがら)の傍らにぺたりと膝を落とした。「昨夜、たしかに伝えました。何も口にしてはならぬと。姉さまが笑うて、わかったと、おまえこそ食べなさいって、餅を一つ余計にくださったのに……」嗚咽に呑まれる言の代わりに、蓮が懐から小さな餅の包みを取り出した。包みを握る指の節が白く強ばっていた。医乃は蓮の肩に手を置き、離した。今してやれる慰めは一つだけであった。純がいかに死んだかを、最後まで明らかにして書きつけること。膝を折り、冷え切った額に手を載せ、いつもの言葉がこぼれた。「純。言いさした事を、続けよ。わたくしが代わって
last updateLast Updated : 2026-11-05
Read more

12話. 濡れた書付

身を屈めて医乃の顔を覗き込む紀伊(きい)の、細く絞られた目が、額から眉へ、眉から瞳へと降りてきた。扇の先に支えられた顎が僅かでも震えれば、終いであった。「畏れながら中宮の君、小官(しょうかん)が見惚れておりましたのは、結び紐にございます」「結び紐?」「翡翠の蝶を編んだ結びがほどけておりまする。貴き品が落ちて砕けやせぬかと案じるあまり、無礼を働きましてございます」花が扇を引き、慌しく持ち上げて検めた掛け香は、まことに結びの一つが緩く解けかけていた。紀伊の視線も、医乃の顔を離れ、花の指先へ移った。母が編んだ五色の結びは、編み方を知る者でなければ結び直せぬものであった。「……紀伊、これを結び直せ」「は、中宮の君」紀伊が結びを手に取り、あちこち回してみたが、結びは結ばれるどころか益々解けていった。医乃は頭を垂れたまま、結びの一つに足を鳴らす花を横目で見た。父が側室(そくしつ)に得た娘。5歳でこの屋敷の大門を越えた日、人見知りして柱の陰に泣いていた子の手を、先に取ってやったのは医乃であった。これからは、わたくしがそなたの姉じゃ。こわい事があれば、姉のところにおいで。母はその子をわが子のごとく胸に抱いた。その手を取ってやった対価が、これであった。「もうよい、捨て置け!」花が紀伊の手を払った。「それから、この屍は足を滑らせたゆえ、その体(てい)で処理せよ。朝から縁起でもない」「中宮の君、この女房は足を滑らせたのではございませぬ」医乃は純の手首を持ち上げて示した。「両の手首に結縛(けっぱく)の痕があり、口中が裂けておりまする。何者かが手を縛り、無理に毒を飲ませた後に水に——」「黙りゃれ!」花の投げつけた扇が医乃の額を打ち、土の上に転がった。扇の骨先が掠った跡から血の筋が一本滲んだが、医乃は拭わなんだ。「御前(ごぜん)付きと申して、目に入るものがないと申すか! 帝が井戸端の屍を一つ検めよと申されたのじゃ、宮中の屍を勝手に捏ね回せよとではない!」「変死の屍は検屍(けんし)を経ずに葬れぬが、国の法(のり)にございます」医乃の声が裏庭の隅まで透きとおった。「中宮の君が足を滑らせたと仰せでも、検屍官が記さねば、この女房は墓に入れませぬ」花の口が開き、音もなく閉じた。扇を失った空(から)の手が、宙で拳を握り、開いた。「ちゅ、中
last updateLast Updated : 2026-11-05
Read more

13話. 南原 道玄(なんばら どうげん)

「あの日 薬を、か」背後から響いた柔らかな声に、医乃は書付を握ったまま振り返った。いつの間に来たか、濃い藍の袍姿の男が一人、後ろ手を組んで立っていた。40に差しかかった顔は白く端整で、口元には穏やかな笑みが掛かっていた。腰に提げた鍵束が、歩を運ぶたびちりりと鳴った。薬師寮の薬種庫の鍵であった。近づいてくると、薬の匂いの間に、かすかに鉄の匂いが混じった。錆びた銭を半日握っていた手から立ち上るような、生臭く冷やかな匂いであった。御厨子所の女房らが慌てて頭を垂れた。「南原(なんばら)の医師さま……」「薬師寮の南原 道玄(どうげん)じゃ。藤堂典薬が加減がよろしからぬゆえ、わしが代わって来た」道玄が医乃に向けて軽く顎を上げ、袖を払って水甕の縁を一瞥した。「そなたが名高い御前(ごぜん)女医じゃな。溝から附子(ぶす)を拾うて舌に当てたとかいう」「……は、御医師さま」「大したものじゃ。薬師寮の医師にも、その胆力はおらぬ」声を上げて笑うのに、道玄の目尻の皺は一筋も畳まなんだ。その目が医乃の顔を舐めるように降りていった。花のように火傷の痕で止まらず、定方のごとく忌まわしげに逸らしもせぬ。薬種を選ぶ手のごとく、傷の下に何があるかを一つ一つ摘まみ上げる目であった。「聞けば、薬種庫の附子半斤の件で、帝がいたくお怒りとな」道玄が鍵束を指先でとん、と突いた。ちりり——「鍵は常にわが腰にあったがのう。鼠にでも咥(くわ)えて行かれたか。近頃、宮に鼠が多いゆえ」昨夜、文書庫で父も同じ言を口にした。近頃、宮に鼠が多いと。医乃は面(おもて)を消し、ゆっくりと頭を垂れた。鉄の匂いと、昨夜の袍の梅香とが、ひとつの手に結ばれる気配が、ふと背を撫でた。「その書付、見せてくれぬか」躊躇(ためら)う間もなく、道玄が医乃の掌から書付を取り上げた。女医が医師の手を払うことは出来ぬ。指先が触れ、離れた。冷たく、滑らかな手であった。「ふむ、あの日 薬を、か。何日のことか、何の薬かも無いのう」道玄が書付を朝日に透かして見て、舌を打った。「このような濡れた紙切れが証(あかし)になろうはずもあるまい」そうして事もなげに離した指先から、書付がふわりと舞い、脇の水甕の中へと落ちた。ぽとり——医乃が手を伸ばしたときには、既に遅かった。滲んでいた墨が、黒い糸のよ
last updateLast Updated : 2026-11-05
Read more

14話. 朕が屍を好いたゆえ

返しを選ぶ間に、担架は回廊を折れ、薬師寮の屍室の戸は医乃の鼻先で閉ざされた。「判が下るまでは、女医を入れぬ」道玄の声が戸の向こうから柔らかに流れ出た。鍵束のちりりと鳴る音が、ひとつ響いた。閉じた戸の前に立ち、格子の隙(すき)に耳を欹(そばだ)てると、筆が紙を掻く音が漏れてきた。鋭く、短く、迷いのない運びであった。足を滑らせた——道玄がその一言を書くに、半時(はんとき)もかかるまい。手首の縛痕(ばくこん)も、裂けた口中も、みな水に落ちて生じた傷となってしまう。純が最後まで引っ掻いて耐えた夜が、筆先一つで、水に沈んだ夜へと塗り替えられてゆく。「師匠、このままに、なさるのですか」蓮がぱんぱんに腫れた目で見上げた。「否(いな)」「それならば、どうなさいます」医乃は口を開けなんだ。末席の女医が薬師寮の医師の判を阻む術(すべ)はない。帝の御命(ぎょめい)は検めよ、であり、道玄はその隙を正確に突いた。一度書かれた判は、覆るまでに幾人もの屍を踏む。「帝、お成り——!」廊の端から伏見の声が響くや、屍室の前に立っていた下人らが肝を抜かれて平伏した。「て、帝が、薬師寮の屍室に……!」「主上が参られるような処ではないぞ」「伏せろ、はよう!」医乃も蓮の後ろ首を押さえて共に伏した。廊に伏した下人らの肩が、一様に震えていた。袍の裾が廊を掃いて屍室の戸の前で止まると、中から道玄が慌しく戸を開いて出、床に平伏した。鍵束の鳴る音さえ、その場に気を遣うように絶えた。「主上、かくも狭汚(きたな)き処に、何ゆえのお成りに?」「通りがかりじゃ」「や、薬師寮の屍室にございまするか」「朕は近頃、屍を好うなった」伏した者らの間に、静けさが流れた。伏見の鼻先から、細い溜息が洩れた。「……主上」「何じゃ」「いいえ、何でもございませぬ」床に額をつけた蓮の肩が震えた。笑いを堪えているのか泣いているのか、知れなんだ。煌仁が伏した医乃を見下ろした。「御前(ごぜん)女医」「……は、主上」「御厨子所の女房の検屍書は何処にある」「薬師寮にて判じると申されたゆえ、未だ上げておりませぬ」「そうか」煌仁の視線が道玄へ移った。「朕は変死をすべてあの女医に検めよと申した。その検屍書を朕に直ちに上げよ、ともな」「主上、検むることと判ずることとは画然と異
last updateLast Updated : 2026-11-05
Read more

15話. 山寺(やまでら)の子

煌仁の手が動いた。彼女の腕へ、躊躇うごとく。瘡痕(そうこん)の走る手の甲が、彼女の火傷の上に影を落とした。指先が肌に届く一寸前で、手は止まった。医乃は息を継げなんだ。屍室の中の誰も動かなんだ。道玄の目のみが、帝の手先と彼女の腕の間を、のろのろと往き来した。一呼吸。二呼吸。宙に留まった手が退き、袍の袖の内へと拳に巻き込まれていった。「……何処で焼いた」低く割れた声であった。「火が、ございました」「火」「……は」「痛かったであろう」医乃は袖を引き下げつつ頭を垂れた。「覚えておりませぬ」嘘であった。焔が戸の金物を伝って手首を巻き上がった刹那も、肉の焦げる匂いも、彼女は一日たりとも忘れた事はなかった。煙の中、彼女の背を裏口の外へと押し出した、水仕事で荒れた女の掌までも。しばし言のない煌仁が、やがて踵(きびす)を返して戸口へ向かった。「検屍書は今日のうちに上げよ。判は、女医の検屍に従う」道玄が何事か言わんと口を開いたが、煌仁は既に敷居を越えていた。伏見が慌しくその後を追うたが、遠ざかる足音は駆け出す寸前のように速かった。***薬師寮の廊の角を折れて人気の絶えた処で、煌仁は柱に手をついて止まった。「主上!」伏見が驚いて駆け寄り、支えようと手を差し出したが、煌仁はその手を見もしなんだ。柱を押さえた己の手の甲を見下ろす彼の瘡痕の上に、青い血の管が浮き上がっていた。「……肘までじゃ」「は?」「あの火が、肘までも、あの者を焼いたのじゃ」何も言えぬ伏見の前で、煌仁が目を閉じた。肩の震えが絹の下で一度収まり、また持ち上がった。柱に当てた指先が木目に食い込むように白く引いていった。やがて柱から手を離して上げた顔は、再び帝の顔に戻っていた。「先ほどの見習い女医。虫を数えておると申した者よ」「は、主上」「賢(さか)しき子じゃ。明日より、御膳(ごぜん)の折の菓子を一皿ずつ下し参(まい)らせよ。あの者の傍におる子を、飢えさせる訳には参らぬ」伏見が口をあんぐりと開け、やがて閉じた。「……は、主上」伏見は懐から手擦れの日記を取り出しかけ、帝の目に引っかかって、そろりと戻した。***その日の暮れ、純の死因は附子中毒および結縛後の溺死と改め書かれた。医乃は判(はん)の末に己が名を記し、最後の画を終いまで押し下げた。
last updateLast Updated : 2026-11-05
Read more

16話. 中宮御所の梁(はり)

揺れる灯明の心を覆う手の内で、心はすぐにまっすぐ立ったが、掌が熱くなるまで医乃は手を引けなんだ。ならば、あの子も。考えはそこで止まった。一歩でも踏み出せば、2年の間かろうじて盛り上げた塚を、己の手で掘り返すことになる。信じて空事であれば、あの子をもう一度埋めねばならぬ。『噂じゃ。山寺に子が一人おるのみじゃ』床に落ちた箸を拾い上げて灯明の傍に揃える間、蓮は固くなった餅の包みを抱いたまま、彼女の膝の傍で寝息を立てていた。障子紙(しょうじがみ)が白みはじめた頃、戸を叩く音がした。「見習い女医の蓮が、この部屋におるかの」戸を開けると、伏見が紅い袱紗(ふくさ)を掛けた折敷(おしき)を捧げて立っていた。目を擦りつつ起きた蓮が蔵人の装束を見て、そのまま固まった。「ひょ、わたくしでございますか? わたくし、何か仕出かしましたか」「仕出かした子に、御膳の菓子を下さるものかえ」伏見が袱紗を払った下に、蜜を塗った薬菓、松花(まつはな)の押し菓子、干柿巻きが花びらのごとく並んでいた。「帝が下されるのじゃ。本日より毎日な」蓮が医乃の袖を引き、耳元に口を寄せた。「師匠、虫を数えておったのを見られてしまったゆえにございますね? これ、食べたら死ぬのでしょう?」「御膳の皿に載ったものじゃ。毒味も通っておるはずじゃ」「だからよけい、こわいんですよ……」そう言いつつも蓮の手は薬菓を一つ取り、置き、また取り上げていた。蜜の匂いの前で、怖さは長くは持たぬ。指先が蜜でぺたりと光るまで、迷いは続いた。伏見が長く息を吐き、懐から手擦れの冊子を取り出して何事か書きつけ、また仕舞い込んだ。「御前(ごぜん)女医は辰(たつ)の刻までに清涼殿へ参れ。御厨子所の件で一日延びた御目見(おめみえ)が、今日じゃ」清涼殿には既に人々が伏していた。左大臣 定方と薬師寮の別当、その後ろに藤堂典薬と道玄。医乃は純の検屍書を捧げ持ち、末席に額をつけた。「薬種庫の附子の半斤は、出納を任された藤堂典薬の落ち度にございまする」定方の声に澱(よど)みは無かった。「30年薬師寮に身を置きつつ帳の一つも守れなんだゆえ、厳しく糺(ただ)して綱紀を立てるべきにございまする」藤堂の背がぴくりと震えた。附子の失せた帳をそのまま抱えて清涼殿へ駆けつけた者が、今はその帳に首を掛けられていた。薬師寮
last updateLast Updated : 2026-11-05
Read more

17話. 偽(いつわり)の証人

花の肩が袍の下で揺れた。嗚咽は庭の末まで届くほどに程好く大きく、医乃を指した指は下ろされなんだ。煌仁の目が伏した中宮を越え、屍の脇の女医で止まった。頭を垂れたまま玉の手を握る医乃には、今この男が何を言うにせよ、末席の女医一人を巡って中宮と対する言になるのが明らかであった。庭に満ちた女房らの耳目が、唇を固く結んだ主(あるじ)の一言を待っていた。「主上!」息を切らせて庭に駆け入った承(しょう)の官(かん)の後ろから、定方が悠然と歩を進めて入ってきた。「北辺より火急(かきゅう)の飛報(ひほう)が上がりましてございまする。参議衆(さんぎしゅう)が揃うて、清涼殿にて主上をお待ち申しておりまする」「左大臣も参議であろう」「臣は、中宮御所の変事を収めてすぐ追い掛け参らせまする。国境の事が急にございますゆえ、主上はまずお戻りくださいませ」定方を見下ろす煌仁の口元を、庭中の目が窺うていた。国境の飛報を差し置いて末席の女医の傍に留まれば、その謂れを訝(いぶか)しからぬ者はおらぬ。「検屍の済むまでは、屍に手を触れるな」その一言を残して背を向ける折、煌仁の目が伏見の顔に短く留まって過ぎた。袍の裾が庭の外へ消えるや、花の嗚咽はぴたりと止んだ。袖で目元を幾度か押さえて立ち上がった顔は、白粉(おしろい)ひとつ崩れてなかった。「父上(ちちうえ)」「よう、承知した」定方が庭をひと回り見渡した。「この女房を最後に見た者は、おるか」女房らが互いに目配せし合う中、紀伊が後ろに立つ童女(どうじょ)一人の背を押すと、童女が前へと倒れ込むように伏した。「し、臣が、見てございまする。昨夜の亥(い)の刻ごろ、あの女医が玉の部屋の前を徘徊(はいかい)しておりまするを……」「嘘にございます!」いつの間に追って来たか、蓮が人の間を割って飛び出した。「師匠は昨夜、一晩じゅう、わたくしと共におられました! 処(ところ)を一歩も出ておられませぬ!」「あら、見習いの分際で、どこから口を出すか」花が蓮を睥睨(へいげい)して笑った。「己の師を庇う言、誰が信じようか。のう?」証言した童女は、額を地に押しつけ、終いまで顔を上げなんだ。裳の裾を掴む手の甲が白く引き攣れて震え、幾度も唾を呑む音が洩れた。その背の上に、紀伊の影が長く降ろされていた。定方が医乃の前へ歩み出て、立ち止
last updateLast Updated : 2026-11-05
Read more

18話. 検非違使(けびいし)佐

定方の眉が一度上がり、下がった。検非違使が自ら足を運んで引き取ると申すならば、拒む謂れは無い。「よし、連れて行け。しかと糺(ただ)せよ」「は、大臣さま。ああ、それから」真(まこと)が首だけ回して後ろの下人らに合図を送った。「屍もお連れ申す。検非違使の案件の証(あかし)にござれば」下人らが担架を広げ、玉を慎重に運び載せる間に、定方の口元が固くなった。検非違使庁へ渡せと命じたのは当の彼であり、屍だけ置いて行けと申す筋は無い。花が扇を広げて口元を覆った。「あら、屍までも? 検非違使は、仕事が細々(こまごま)しておるのう」「細々しているのが、検非違使の禄(ろく)を頂く所以(ゆえん)にござる、中宮の君」にっこり笑うて腰を折った真が、医乃の腕を支えたまま庭を出た。腕を包んだその手には、力はまるで入っていなかった。文書庫で彼女の腕を後ろへ捩じった下役らの手と違い、振り払えば何時なりとも離してくれそうな、軽き手であった。検非違使庁の直廬(じきろ)は、御所の西の垣(かき)の下に接していた。宮中に生ずる罪をまず捕らえる当直所(とうじきしょ)であった。直廬の庭に入るまで、真は医乃を結(ゆ)わなんだ。脇の局(つぼね)に続く分かれで下人の一人が躊躇うと、真は反対を指した。「後ろの倉へ」「佐(すけ)さま、糺しは」「屍が先じゃ。生きた者は待てるが、死んだ者は日ごとに言を失う」直廬の裏手、日の差さぬ湿った土の匂いのする倉が一つ、検屍所(けんしどころ)に充てられていた。石壁(いしかべ)より冷えた気が滲み、胡麻油の燈(あかし)の脇に、酢の甕と銀の簪、検屍に用いる物差しが整然と並んでいた。下人らが玉を平床に下ろして退(しりぞ)くと、真は戸を閉めて壁に背を預けた。「お掛けあれ。……いや、女医は言うても屍の傍にまず参られようの」「……何ゆえ、小官(しょうかん)を連れて参られましたか」「検非違使もこの件を追うておりし故」真が袖から取り出した折り畳みの紙数枚は、福と純の検屍書を書き写した副本(ふくほん)であった。彼女の筆跡を写した書記の文字が、拙く並んでいた。「掃司(かにもりのつかさ)の福、御厨子所の純。いずれも2年前は中宮御所におった。此度(こたび)の女房で三人目にござる。これを偶然と呼ぶならば、検非違使の門を閉じねばならぬ」「ならば何ゆえ、よりに
last updateLast Updated : 2026-11-05
Read more

19話. 鉢(はち)

「……検非違使 佐さまが、夜を徹される機(おり)が無くばよう存じまする」医乃は玉の手を平床の上に揃えて置いた。「この宮にて小官が夜を徹するは、またも誰かが死んだという事にございまするゆえ」笑みを引いた顔で、真は戸口の柱から手を離し、玉の足元に向けて短く頭を下げた。返しの間は訪れなんだ。庭で下人の切迫した声が倉の敷居を越えてきた。「佐(すけ)さま! 帝が直廬(じきろ)へお成りにございまする!」直廬の庭に陽が傾いていた。参議衆を払うや駆け付けたと見え、煌仁の袍(ほう)の裾には、未だ清涼殿の墨の匂いが染みていた。その前に、紀伊と偽りを申した童女が引かれて伏し、傍らに定方と花が立ち並んでいた。「この女房の死を判じよ」真が退いて空けた前席で、医乃は伏したまま口を開いた。「玉の頸には縄が二つにございまする。梁に掛かりし太き縄の痕は、耳の後ろへ斜に上がりまするが、その縄には鬱血がござりませぬ。その下に水平に巻かれし細き縄にのみ、鬱血がござりまする」「その意は」「息のあるうちに絞められし処にのみ、血は溜まり申します。玉は細き縄にて先に絞められて果て、梁に懸かりしは息の絶えた後にございまする。倒れし床几(しょうぎ)は膝の高さにて、玉の身の丈にてはそれに乗りて立ちても、梁に縄を掛けるに指が足り申さぬ」庭に、ざわめきが広がった。「絞め殺しだと」「縊死(いし)ではないと?」「ならば、あの女房は誰が……」「細き縄の際には、縄を外さんと己が爪にて掻いた傷が交差し、両の手首の内側には親指の痕(こん)が並び申しまする。前にて一人が手首を一纏めに押さえ、後ろよりもう一人が絞めまいた。唇が白く腫れしは、附子の徴(しるし)にございまする。先に毒を飲ませ、力を奪うた上にて」医乃が顔を上げ、紀伊を見た。「掌侍さま。その手の甲の布を解いて頂けまするか」紀伊の右手が袖の奥に逃れ入った。「薬罐(やくかん)に焼けし由(よし)、ご言上申し上げたる筈にございまする。昨日、手の甲か腕を引き裂かれし者を挙げる折、中宮御所はすでにその旨(むね)を奏上し奉りてございまする」「伏見」「……は、主上」伏見が懐から折った紙を取り出し、唾を付けた指で名を一つずつ辿った。「引き裂かれし者17人の内、紀伊の名はござりませぬ。薬罐の火傷(やけど)との故にて除かれ申したとの事」医乃が巻
last updateLast Updated : 2026-11-05
Read more

20話. 尻尾(しっぽ)

紀伊の身が後ろへ折れた。支えていた下人らは思わず手を離し、縹(はなだ)の裳(も)が直廬(じきろ)の敷居の上に崩れた。「お身を低く! 主上!」真(まこと)が我が身を以って帝の前を遮(さえぎ)る間に、下人らが刀を抜き、塀の方へ駆けた。「塀の向こうじゃ! 屋根を検めよ!」「あちらの殿舎の裏へ逃れ申した!」「逃すな!」医乃は伏さなんだ。裳の裾を掴み、戸口へ駆け寄り、紀伊の頭を膝に受けた。鏃(やじり)は口蓋(こうがい)を貫いて深く刺さり、羽の付いた箆(の)のみが口の外へ突き出ていた。唇の端に血の泡がひと膨らみして消えた。頸(くび)に指を当ててみても、脈は取れなんだ。焦点を失うた瞳が空を仰いで見開かれていた。中宮の君が、の続きは、終ぞ出なんだ。背後にて、花の扇の下から、ごく小さな吐息が洩れた。下人らは陽が落ちるまで直廬の塀の向こうの殿舎を漁(あさ)ったが、矢を放った者の影も見出さなんだ。直廬の戸を見下ろす空(から)の渡殿(わたどの)の屋根の上に、瓦一枚が割れていたのみであった。医乃は敷居に坐したまま、その屋根を見上げた。直廬の庭より引き出さるるには、必ずこの戸を通る。その戸を見下ろす屋根に先んじて上り、弦を引いていたとなれば、紀伊が本日の暮れ、この戸口に立つことを誰かが知っていたという事になる。紀伊が直廬の庭へ呼ばれたのは、半時(はんとき)前の事。そのわずかな間に、弓の者を屋根に上げる手は、この宮に多くはない。「一矢にて口を貫いた。しかも塀の向こうより。並の腕にあらず」医乃の脇にしゃがんだ真の顔に、笑みの色は失(う)せていた。医乃は突き出た箆を握り、口蓋をこれ以上裂かぬよう捩(ねじ)りつつ丁寧に抜いた。血に染まった矢を燈火の下へ運ぶと、煌仁が傍に歩み寄って立った。鏃は刃が三本に分かれた鉄鏃(てつぞく)で、箆は竹であった。羽は雉(きじ)の羽を3枚糸にて巻き付けていたが、その糸が異様であった。「主上、この糸をご覧くださいませ」医乃が爪の先で羽を持ち上げると、下の糸は、紅糸と黒糸を撚(よ)り合わせて一筋とした物であった。「里の猟矢(りょうや)ならば麻糸一筋を巻き申します。紅と黒を撚り合わせて巻くは、近衛府(このえふ)にて矢を作る折の仕様にございまする」真の目が細まった。「近衛府ごとに糸の色にて己が矢を分け申す。紅と黒の
last updateLast Updated : 2026-11-05
Read more
PREV
12345
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status