Alle Kapitel von 主上、今度はわたくしがあなたを捨てます: Kapitel 31 – Kapitel 40

44 Kapitel

31話. 山寺の遣い

医乃はその一行から目を離せなかった。「必ず」の字の終いに、墨がひと粒、丸く凝っていた。書き写した筆がそこでしばし逡巡した跡であった。灯明の近くに紙を寄せると、薬種の匂いの下に別の匂いが混じっていた。香の匂いであった。法堂の柱に長く染みついて、紙を開くたびに少しずつ解けてくる匂い。紙の肌も、宮で使うものとは違った。楮(こうぞ)の皮を荒く漉き、黒い斑のところどころに残る、厚く粗い紙。山寺の僧が手ずから漉く紙は、確かにこういうものであった。錦の荷のなかから薬種の包みをひとつ取り、結びを解くと、折り目の内側に親指の爪ほどの朱印が捺されていた。——仁寿堂(じんじゅどう)。十余の包みが、どれも同じ朱印を宿していた。薬種町は、施薬院(せやくいん)の前に薬種屋が軒を連ねる通りであった。半月に一度は山道を登っていた者が、その辻で薬を調えて帰った。危ういところへひとりで参るな。処(ところ)の塀の前で、勅(みことのり)じゃと帝が付した条件が耳の奥に引っかかった。包みを結び直す間に、清涼殿の文机の上で、俯せた独楽を覆っていた手の平が浮かんだ。この紙を持って帰れば、これもあの手の平の下に入る。一の宮は、身罷った。そう告げた顔には、揺るぎがなかった。揺るぎのない顔で、彼女に背を向けて殿を出たことのあるお方であった。蓮は藁の円座の上でなお眠っていた。掛けてやった上衣の下で、丸まった肩が息に合わせて上下していた。医乃はその上衣を取らず、空の白む前に検屍所を出た。門の番士は象牙の牌を見るなり道を開けた。出入りの帳面に「検屍の支度、卯の刻 出宮」と書き入れられるのを、医乃は横目で見た。この一行は、日の落ちる頃には清涼殿に届く。それまでに帰っていればよい。宮の外の道を自らの足で歩くのは、入宮の日以来であった。朝市へ出る木樵の荷が肩をかすめ、雑炊屋の釜から湯気が立った。誰ひとり彼女に頭を下げず、誰ひとり彼女を振り返らなかった。薬種町は朝から薬の匂いが立ち込めていた。軒下に甘草の束と干した当帰が垂れ、薬研(やげん)を転がす音が路地を埋める。仁寿堂はその通りの端、ひときわ軒の低い店であった。腰の曲がった主が、薬研の柄を握ったまま顔を上げた。医乃が処方の紙を広げて見せると、薬研の輪が止まった。「これは、どこで手に入れなされた」「この処方
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-11-05
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32話. 先に受けた刃

切っ先が肌に触れる寸前、何者かが彼女の手首を引ったくった。体がくるりと回り、硬い胸板にぶつかった。鼻先に沈香が押し寄せた。ビリ——絹の裂ける音が耳元で鳴った。彼女を抱いた腕が大きく震え、頭上で低い息が、断たれるように漏れた。顔を上げると、白の狩衣(かりぎぬ)に深く編笠(あみがさ)を下ろした男が見えた。笠の影のもと、噛みしめた顎の線が黄昏の中にもくっきりと浮かんでいた。「……主上」答える代わりに、煌仁は彼女を塀の際へと押し込んだ。背に彼女を隠して振り向いた手には、狩衣の内から抜き放った打刀(うちがたな)が握られていた。刺客の刃がふたたび振り下ろされた。チャリン——鉄の音が狭い路地の壁にぶつかって、鋭く跳ね返った。東宮の頃、弓場で日が暮れるまで弦を引いていた手首は、刃を受け止めてなお揺るがなかった。ただ、受けるたびに、左の脇の下あたり、狩衣の裾が黒く湿っていった。次の刃が入る瞬間、半歩踏み込んだ煌仁の打刀が、刺客の刃の下をすべり込んだ。抑えつけた呻きとともに刺客の膝が折れ、黒布に包まれた顔が土の上に打ち伏せられた。「後ろ!」医乃の叫びに煌仁が身を翻した。路地の口を塞いでいた今ひとりが、いつの間にか背後まで迫っていた。脇腹を押さえながら回る足運びが、半拍、遅れた。思うより先に手が出ていた。医乃は懐の銀の簪を抜き、刃を握る刺客の手の甲にまっすぐ突き立てた。簪の先が肉を貫く感覚が、手の平まで震わせた。刺客が獣のような声をあげて刃を取り落とし、煌仁が土の上の刃を爪先で蹴り払った。簪を抜き戻した手首が、ようやくじわりと痺れて震えてきた。亡骸(なきがら)の肌はいくたびも裂いたが、息ある肌に鉄を押し込むは、これが初めてであった。カン、カン——大通りのほうから拍子木の音が鳴った。血の流れる手を押さえた刺客が音のほうを振り返り、塀の上へ身を跳ね上げた。瓦が数枚すべり落ちて割れ、黒い影は塀の向こうの闇へと消えた。静まり返った路地で、土の上に俯せた刺客の背は、もはや起伏しなかった。医乃の手には、まだ銀の簪が握られていた。砒霜(ひそう)に黒く死んだ先に、此度は赤い血がこびりついていた。煌仁の目がその簪に留まり、やがて、血の気の失せた震える指の節へ移った。「……それで、突いたのか」「突くべきものが、これよりほかにござりま
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-11-05
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33話. ひと針ずつ

医乃は、逃げなかった。だらりと垂れた煌仁の腕を己の肩に回し掛け、腰を支えて起こした。男ひとりの体が、これほど重いとは知らなんだ。塀と塀の間、人ひとりがようよう割り込める隙に、医乃は彼を半ば引きずって押し入れ、己の身で外を塞いだ。濡れた狩衣から滲んだ血が、彼女の袿(うちぎ)の前襟までも染めた。松明が路地へ折れ込んできた。「ひとり死んでおる」「女は」「血が続いておる。遠くへは行けぬ」塀を辿って近づいてくる灯を前に、医乃は脇腹を巻いた木綿の上を手の平で押さえた。血の滴(したた)る音さえ、この狭い隙のなかでは太鼓のごとく大きく響いた。彼の息が、彼女の項(うなじ)に触れた。熱く、浅い息であった。灯が隙の口にかかった。もう一歩入れば、終いであった。カン、カン、カン——「誰(たれ)ぞ! 夜更けを過ぎたぞ!」大通りのほうから拍子木と喚声(かんせい)が重なって弾けた。先ほどの夜回りが騒ぎを聞きつけて引き返して来たらしい。松明は一斉に消え、足音は路地の反対側へと散っていった。医乃はそのまま、しばしのあいだ立ち尽くした。夜回りの声が俯せの死骸の前で止まり、人を呼ぶ声に変わるまで。血が続いておるという声が耳に残り、医乃は被(かず)いていた上衣を脱いで彼の腰にもう一巻き巻き足し、裾の端を己の手首に巻きつけた。これより落ちる血は、まず上衣が受け止めねばならぬ。施薬院の塀の裏、二つ目の路地。藤堂の典薬が滝本 玄庵(たきもと げんあん)を宮に引き入れた折、教えてくれた住まいがその辺りであった。戸を三度叩くと、灯明を手にした玄庵が戸の隙から顔を覗かせた。血まみれの彼女を見るなり、老いた手の中で灯明が傾いた。「お方様、これは一体——」「お問いにならず、戸をお閉じくださいませ、お師匠様。針と、糸と、焼酎を」奥の間の床の間際に彼を横たえる間、玄庵が薬櫃(やくき)を掻き回して針巻と桑の内皮を縒(よ)った糸、焼酎の瓶をひとつ出してきた。藤堂は薬師寮に宿直で、家にいなかった。木綿を解くと、口を開いた傷の上にふたたび血が湧き上がってきた。医乃は針を灯明の火で灼き、焼酎に浸しては引き上げた。焼酎を傷に注ぐと、半ば意識の遠い彼が体を折り、玄庵がその肩を押さえつけた。「噛むものをお含ませなされませ」玄庵が丸めて差し出した木綿の布を、彼は首を振って
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-11-05
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34話. 帯の裏の焼印

医乃は答えられなかった。その名は、波嶺郷(はみねごう)の冬、焼け落ちた仮の住まいの前に埋めて来たものであった。死んだ女医の名を借りて着て以来、誰ひとりその墓を掘り起こさなかった。塀の際で中宮と呼んでいたこの御方さえも。袖口を握る手から力が抜け、瞼がふたたび落ち、浅かった息が少しずつ長く伸びていった。その手を敷布の上に置ききれぬまま、医乃は灯明の芯が尽きるまで座っていた。寅の刻になる前、伏見がどこで調えたのか、覆いをかけた輿をひとつ、柴の戸の前に寄せた。宮の西の小さな脇門は、その顔ひとつで音もなく開いた。***「昨夜のことは、覚えておらぬ」煌仁は寝所の褥(しとね)に斜めに凭(もた)れていた。顔の色は紙のように白く、こちらへ眼差しを向けはしなかった。返事もせずに押し開いた前襟のなかで、一晩じゅう滲み出た血に無名の布が強張っていた。水に浸して戻してから、ようやく剥がせた。「熱(ねつ)がお高うございました。お記憶のおぼろなのも、無理のうございます」「であろうな」七針はひとつも破れておらず、赤く腫れた傷の縁にも膿は寄せていなかった。その上に新しい膏を広げて塗り、新しい無名を巻いた。「ならば、わたくしから申し上げまする。主上は昨夜、刃を素手にてお受けになり、お倒れの折、わたくしに逃げよと仰せでございました」「……」「わたくしが逃げておりましたら、主上は今ごろ路地の塀の下に臥していらっしゃいます」無名の端を納める手が、覚えず荒くなると、煌仁の眉間が狭まった。「もうひとつございます。熱に浮かされながら、何かを仰せになりました」「知らぬと申したであろう」言葉の切れる前に、答えが先に来ていた。結び目を結ぶ手を止めて見上げた眼は、彼女ではなく、屏風の梅の枝のあたりを彷徨っていた。脇に平伏していた伏見が、昨夜の口惜しさを払いきれぬ顔で、懐から日記を取り出した。「主上、お覚えなければ、拙(せつ)が読み上げまする。子の刻ごろ、離れの戸の隙にて、主上は女医の袖を取られ、低くお仰せになりますには——」「伏見」「……は、はい、主上」「その日記、今宵、焚き口に入れよ」「拙の30年の労(いたわり)が籠もってございます」「ゆえに、入れよ」伏見が日記を懐に抱え、後ずさった。戸の隙から立ち聞きして見咎められた者にしては、あまりにも理不尽な顔
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-11-05
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35話. あの日、廃さずにいたなら

医乃は帯を油紙で包み、袖の奥深くに納めた。悴(かじか)む指の先で油紙の端を折りたたむ間、堀川は何も言わずに灯明を掲げ、その手の上を照らしてくれた。「これは、如何なされる」「わたくしが携えて参りまする」どこへ持ってゆくかは問わぬまま、堀川は灯明を下ろし、骸の上に薦を引き被(かず)けた。「ならば、拙者(せっしゃ)は骸の守りをいたそう」清涼殿へつづく薄暗い回廊で、医乃は袖のうちの帯を幾度も握っては放した。これが文机に載れば、女医ひとりの検屍書が左大臣を狙う刃となる。清涼殿は日が落ちてもなお、障子紙ごとに灯の色が黄に滲んでいた。弓を取るなと申し渡したゆえ、煌仁はその代わりに筆を執って文机の前に座していた。前襟は巻いた無名の布に、わずかに膨らんでいた。彼女の顔色を見た伏見が、音もなく戸を閉めて退くと、医乃は文机の前に平伏し、袖から油紙を取り出して広げた。「刺客の腰帯にございます。裏に近衛府の焼印と、三組の番号がございます。刀の柄には、紀伊の口を縫うた矢と同じ縒糸が巻かれておりました」その脇に下ろした銀の簪は、砒霜に黒く死んだ先の上に、血までもが黒く乾いて貼りついていた。「逃げた者の右の手の甲に、この簪の先が入ってございます。10日は塞がりませぬ。近衛府三組の下人のうち、右手を包んだ者を捜させなさいませ」焼印の下の三画の上を撫でていた煌仁の親指が止まり、眼差しが焼印を越えて簪へと移った。取り上げた簪の上、梅の花びらのあたりまで這い上がった黒い気を、親指がふたたび撫でた。「……また、黒くなっておるな」「錦の瓢(ふくべ)に浸しましてございます」返事の代わりに文机の抽斗を開け、絹に包んだものを取り出した煌仁が、それを彼女の簪の脇に並べて下ろした。一対であった。ひとつは最初に受けた日のように白く、ひとつは黒く死んでいた。その脇に、あの日の俯せたそのままに、底を隠した松の独楽があった。「三組と聞かれても、お驚きになりませぬ」「察しておった」眼差しは、並ぶ簪の一対に留まったままであった。「いつよりでございますか」答えはなかった。「紀伊の口に矢の刺さった日からでございますか。それより前でございますか」「……」「この帯を巻く下人たちを手にする御方はひとりでございます。主上も、わたくしも存じております」医乃は息を整えた。「わたくし
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-11-05
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36話. 空の櫃(ひつ)

彼の腕はふたたび締めつけてくることも、ほどけることも、なかった。その内に待つ医乃の耳元には、灯明の芯の燃える音ばかりが満ちた。答えは、来なかった。先に身を引く彼女を、凍てついていた腕は引き留めなかった。膝で退って座り直し、文机の上の黒く死んだ簪を取り、懐に納めた。「帯は、主上の下に残して参りまする。証(あかし)は先に差し上げると、お約束申し上げました」「……和(なごみ)よ」「医乃にございます、主上」彼女は額を板に当てた。「波嶺郷の女医、医乃にございます」文机の上から浮いた煌仁の手が、彼女の俯す方へ半ばまで伸びかけて、白い簪の脇に下りた。そしてそのまま、残された簪ひとつだけを、掌の下に覆い入れた。清涼殿の戸を開けると、戸口にうずくまっていた伏見が中腰で立ち上がり、彼女の顔を一度見遣っては、懐へ伸ばしかけた手をまた下ろした。日記は、ついに出なかった。翌日より、未の刻の茶の席は半時(はんとき)を超えなかった。茶の盆を捧げて入り、茶葉を量って湯を注ぎ、一杯を注げば、次は帝の前襟を開いて膏を替え、無名を巻き直す番となる。その間、先に口を開くは常に帝であり、医乃は問われた言葉にのみ短く答えた。「苦い」「明日は、薄く淹れまする」「傷が、痒(かゆ)い」「塞がりつつございます。お掻きになりませぬよう」縫い目は日ごとに塞がり、赤く腫れていた縁は沈み、糸の結び目の下から薄紅の新しい肉が湧いて来た。医乃はその傷のみを見た。その上を上下する息も、膏を塗る指先を追う視線も、見なかった。それきりであった。二杯目を注ぐ前に、彼女はすでに盆を携えて立ち上がっていた。脇に控えた伏見の筆の先が、日記の上を引っ掻いた。「主上、苦い、と仰せ。女医、薄く淹れまする、と申して退がる。主上、残りの茶をおひとりにてすべて干されき。苦い、と仰せたその茶を」清涼殿の戸口で待っていた蓮は、女医所の庭に入るまで口を噤んでいたが、ようやく手を差し出した折には、指が幾本も折れていた。「今日、主上は師匠を12度ご覧になりました。師匠は、主上を——」蓮が指をまた折り畳んだ。「ただの一度もお見になりませんでした。わたしがこの数(かず)を数え始めてから、初めてです、こういう日は」「茶碗を見ておったゆえじゃ」「茶碗は、主上の前にございましたのに」返事のない横顔を長く見
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37話. 刃先の癖

櫃の蓋を音を立てずに被(かぶ)せ、掛け金まで掛けた後、医乃は指先でもう一度押さえて確かめた。窓辺で堀川は、老いた外記と出納簿を挟んで、まだ揉めていた。 「外記の御方」 老いた外記が振り返った。 「この文書庫の櫃を開けし者は、何処(いずこ)に記されまするか」 「……文書庫の鍵を借り出だす者は、鍵の出入り帳に名を書き入れる。それは、何ゆえ問う」 「検非違使庁に、照らし合わすべきものがひとつ、増えたそうにございます」 堀川が目ざとく頷くと、外記はぶつくさと零しながら、壁棚から薄い冊子をひとつ取り出してきた。 開いた最後の頁には、日と刻、借りた由、借りし者の名が一行ずつ記されていた。最後の行は、まさに昨日であった。 戌の刻、薬師寮の医案の写しの納入。 その下の名の桝だけ、白く毛羽立っていた。 冊子を傾けて窓の光に当ててみれば、削られた所の左端は針で突いたごとく小さく窪み、右端へ向かうほどに紙が舌のごとく丸く巻き上がっていた。薬種の蔵の帳面で見た跡と、ひとつも違わぬ目であった。 「また、あの目でござるか」 肩越しに首を突き出す堀川を置いて、医乃は外記に冊子を返し向けた。 「外記の御方は、字を誤って書かれし折、如何(いか)にして消されまするか」 「刃を寝かせて紙の目に沿い、薄く削ぐのじゃ。さすれば、その上にまた書ける」 「蔵人所の外記は皆、そうなさいまするか」 「この文書庫にて30年を老いた。そうせぬ外記は、見たことがない」
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-11-05
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38話. 燃え残りの草案

堀川が彼女の視線を追って首をめぐらせると、垂木の釘を覆っていた手が、ようやくそこで下りた。 「……あの御方が、何故ここに」 堀川が隙の外に退(しりぞ)き、医乃も被衣の襟を合わせて続いた。 路の口の男は、こちらへは近づかぬまま、烏帽子の影のもと、眼差しだけを堀川の手から彼女の腰のあたり、ふたたび堀川の顔へと移した。 「検非違使庁の佐は、路地にても働くようじゃな」 「はっ、お方様。折よく、働きし最中にござる」 堀川が「主上」ではなく「お方様」を選び、腰を折った。笑みは其のままでありながら、折った腰は常より深かった。 その時、路地の奥から怒号が破れた。 「あすこじゃ!」「押さえよ!」 路地の突き当り、魚を焼く炭火の前に、幕太が背をつけて立っていた。菅笠三人がその前を半円に取り囲むや、幕太は荷包みを胸に抱き込んだ。 「これを懐に抱(かか)えたまま俺を殺せば、俺の骸は、これを誰の前に差し出すと思うておるか!」 菅笠の一人が荷包みをひったくり、紐を解き放った。折り畳まれた紙が一枚出てくるや、迷いなく、その紙を真っ赤な炭火の上へと投じた。紙の角に火が付き、別の一人が刀を抜いた。 刃を素手にて受けたあの路地とは違い、此度は、彼もまた一人では来なかった。男が手を挙げると、塀の上と軒の下から、無名の衣を着た男が四人、同時に飛び降りた。腰の刀の柄に、近衛の赤い房が揺れていた。 菅笠どもは、刃を交えようともしなかった。三人がひとつの身のごとく踵を返し、魚箱を踏んで塀の向こうへと消え去った。
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-11-05
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39話. 墨の検屍

医乃が紙から目を離さぬまま呼ぶと、無名の端を結んでいた蓮が顔を上げた。 「灯明をもうひとつ運んでおくれ。今宵は、そなたの部屋にて眠ってくるがよい」 「また、おひとりになさるおつもりですか」 「骸の脇に居るのと同じじゃ。この紙にも、言い残したことがある」 蓮は口を尖らせながらも、灯明をひとつ余分に点してから退がった。 二つの灯明を紙の両脇に置くと、交わり合う光が紙の上の影をきれいに拭い去った。骸の前に座する折のように、彼女はひと息を整え、手を膝に置いた。 まず、色味を見た。廃庶人 朝井の氏、その冒頭の画の先は、乾きながら青みを帯びていた。松を焚いて受けた煤で拵えた松煙(しょうえん)の墨が、そうなる。 ところが罪目の行まで降りてくると、画の先が温かな光に褪せていた。油を焚いて受けた煤で拵えた墨が乾けば、必ずかく、茶に赤みの差す色となる。 紙を斜めに傾ければ、冒頭の行は光を吸い込むようにしっとりと沈んだが、罪目の行だけ、漆を塗ったごとく照っていた。油煙に膠(にかわ)をたっぷり溶かさねば出ぬ艶であった。 次に、折り目であった。 蔵人所に入った草案は、半折にされ束に綴じられる。その縦の筋が通る冒頭の行の「廃」の字の真ん中は、墨が筋を追って細く裂けていた。先に乾いた墨の上を紙が折れ、墨の皮がはじけた跡であった。 同じ筋が、罪目の行の「害」の字をも通っていた。ところが「害」の字の墨は、裂けるどころか、折れた谷を伝ってもったりと溜まり、ぷっくりと脹(ふく)らんでいた。すでに谷の付いた紙の上に筆を下ろしてこそ、墨はかく溜まるのである。 冒頭の
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-11-06
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40話. 女院御所の文安(もんあん)

医乃は盆の上に突いた手を、引くことができなかった。 女院御所。この御方の嫡母(ちゃくぼ)の住まう御殿。中宮御所に住まった頃、朝ごとに文安(もんあん)に参上すると、いつも笑いながら手を取ってくださる御方であった。 「……皇太后さまが、何故に」 「妃候補(ひこうほ)の間別当(かんべっとう)は、女院御所の主宰じゃ」 煌仁が焦げた草案を指先で押しやった。 「中宮の候補の単子(たんし)が、事の3日前に蔵人所に入ったという。その単子を受け取った処も、女院御所であった。その後、女院御所は中宮の後ろ盾とならった」 女院御所の池の鯉が腹を返すという蓮の饒舌が、唐突に耳をかすめた。 「この件は、朕が引き受ける」 草案を折って入れた文机の抽斗は、検屍書と白い簪の納まる、あの抽斗であった。 「そなたは当分の間、女院御所のほうには足を向けるな」 「……は、主上」 答え終わるより前に、戸口の外が騒がしくなった。伏見が戸を開けると、紫の袿(うちぎ)を着た老いた女房がひとり、敷居の外に平伏していた。 「女院御所の至密(しみつ)にございます。皇太后さまが、明朝の文安の席に、御前の女医も同席を、と仰せにございます。中宮さまが、尊き女医がおりますと奏上なされたとのこと」 清涼殿のうちが凍てつくなか、煌仁の顎の筋がひとたび浮かび、沈んだ。 皇太后の召しは、帝でも遮ることができぬ。遮れば、遮った由を、皇太后が先に問う。 女房が退がると、煌仁が低く口を開いた。
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-11-06
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