月は沈み、夜明けを抱く早川慎一(はやかわ しんいち)の初恋の相手であり、彼が想いを寄せていた内山佑紀子(うちやま ゆきこ)が不慮の飛行機事故に遭った後、彼は親同士が決めた許嫁である菅野純佳(かんの すみか)を仕方なく妻に迎えた。
入籍から一年足らずで二人は可愛らしい娘に恵まれ、早川桃香(はやかわ ももか)と名付けた。
桃香が生まれてから、純佳と慎一の間にあったわだかまりも少しずつ溶けていった。あんなに冷たかった彼も、だんだん家族を大事にするようになって、すっかり「普通のお父さん」みたいな優しい顔を見せるようになった。
そんな変化が嬉しく、このまま穏やかな日々がずっと続くのだと、純佳は信じて疑わなかった。慎一と姑の早川千春(はやかわ ちはる)が話しているのを、偶然聞いてしまうまでは。
そこで初めて思い知らされた。
これまでの幸せはすべて、純佳自身を陥れるために仕組まれた茶番に過ぎなかったということを。
「母さん、もう待てない。弁護士にはもう離婚協議書を作らせた。俺は佑紀子と結婚する!」
「駄目よ。まだこの早川家に跡取りとなる男の子を残していないのに、離婚騒ぎなんて絶対に許さないわ。どうしても別れたいなら、あの女に次を継ぐ男の子を産ませてからにしなさい」
曲がり角の壁に身を潜めていた純佳は、その言葉を聞いて心臓がぎゅっと縮み上がった。佑紀子は、慎一がずっと忘れられない女だ。死んでなどおらず、あろうことか彼とよりを戻していたなんて!
胸がぎゅっと締め付けられ、手にしていた哺乳瓶を無意識に強く握りしめた。
愕然とする純佳の耳に、彼が桃香をあの女に引き渡し、自分を早川家から追い出そうとする企みが飛び込んできた。
ただ、慎一は完全に忘れているようだった。
結婚する前の純佳が、風津市の名門大学で法科大学院を優秀な成績で修了した、法学修士だったってことを。