面白いテーマだね。ファンだからこそ、クラシックタイトルを“
クソゲー”と呼びたくなる瞬間って確かにあるし、その判断が全くの無根拠というわけでもない。長く作品を追いかけていると、愛情と辛辣さが同時に湧き上がってきて、良いところも悪いところも遠慮なく語りたくなるものだから。自分の体験を交えつつ、どの条件なら正当と言えるかを整理してみたい。
まず、単なる「古さ」「難易度の高さ」「当時の作風」だけをもってクソゲー扱いするのは短絡的だ。古いゲームはハードの制約や当時の開発事情に縛られていることが多く、それが特有の魅力や独自のプレイ感につながることもある。けれど、本当に“クソゲー”と呼ぶに足る状況というのも存在する。例えば、プレイを続けられないほどバグが多くて進行不能になる、操作レスポンスが著しく悪くて意図したプレイが成立しない、ルールが不明瞭で失敗の原因が完全にプレイヤーのせいにされるような設計だった場合は、批判されるべきだと思っている。具体例を出すと、業界の教訓として語られることの多い『E.T. the Extra-Terrestrial』や、操作性のせいで理不尽に感じられる『Dr. Jekyll and Mr. Hyde』のようなタイトルは、単に懐かしむ対象だけで済ませられない欠陥がある。
次に、判断の仕方だが、感情的に「嫌いだからクソゲー」と断じるのではなく、比較と文脈を持ち込むと説得力が増す。たとえば同時代の同ジャンル作品と比べて何が劣っているのか、当時の技術的制約の中でどれほど妥協が許されるのか、開発コストや発売スケジュールが問題を招いたのか──そういった観点を挙げると、批評が単なる悪口から有益な議論になる。ファンであればこそ、作品の裏側や開発史を知っていることが多いから、その知識を活かして建設的に語る義務があると感じている。
最後に、コミュニティへの影響について。好きだからこそ厳しく言うのは一方で健全だが、ラベルを乱発すると後年の再評価や文化的価値を見落とすことにもつながる。『クソゲー』という言葉は強烈で面白いが、歴史的評価や保存の観点からはもう少し丁寧な言い方も必要だと思う。結局、ファンがクラシックを“クソゲー”と判断する行為はあり得るし、時に正当化される。でも、その判断は具体的な根拠と時代背景の理解、そして相手(作品や他のファン)への敬意を伴ってこそ説得力を持つ、というのが自分の結論だ。