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報道を追ってきて思うのは、当てになったと言われる予言の多くが解釈次第でどうにでもなる点だ。ある政治的事件や人物の運命を予告したとされる話もよく取り上げられるが、私が興味深いと感じるのはそれをどのように受け取るかという問題だ。
例えば「トップに変化がある」「権力に揺れが来る」といった漠然とした表現は、実際に異動やスキャンダル、辞任などが起こると簡単に結び付けられる。私はジャーナリスティックな目で過去の発言と事実を比較することが多いが、具体性に欠ける予言は後で都合よく一致させられることが多いと考えている。だから、的中例として語られる政治関連の話も、裏付けの有無や発言の原文を冷静に検証することが重要だと思っている。
記憶に残るのは、世間で特に的中例として挙げられることの多い震災関連の話だ。宜保愛子さんについて語るとき、最も頻繁に名前が出るのは'阪神・淡路大震災'をめぐる言及で、当時のメディアや人々がその関連性を取り上げたことで印象が強く残った人は多いと思う。
私自身は当時の報道を断片的にしか知らないけれど、彼女の「近い将来、大きな地震がある」といった趣旨の発言が後から結び付けられた例が多いと感じる。的中と言われる場合、その具体性や時期の幅がどれほど狭いかが鍵になる。直接的に「この日この場所で」と断言した記録は少ないため、後付けや解釈の広さを考慮すると、完全に確証があるとは言いにくい。ただ、そうした発言が人々に注意喚起を促した側面は否定できず、信じる人にとっては強烈な的中体験になっているのも確かだ。
好奇心旺盛な友人みたいな気持ちで話すと、私が最も心に残っているのはテレビ出演での比較的具体的な言及が後々「当たった」と評価されるケースだ。あるとき彼女が語った出来事の象徴的なイメージが、後から現実の事件と結びつけられ、ファンや視聴者の間で伝説化されたのを見ていると、人間の物語化の力に驚かされる。
その印象的な事例は、個人的には真偽よりも言葉が人々に与える影響力を示していると思う。確かに「的中」と言われることがあるけれど、多くの場合は比喩的な表現や象徴的な描写が後から具体的事象に当てはめられた結果だ。私はその過程を追うのが好きで、予言そのものよりもそれがどう伝播し、どんな感情を生むかに興味を持っている。
人づてに聞いた話でいちばん印象的だったのは、行方不明者に関する助言が実際に捜索に何らかの手がかりを与えたとされるケースだ。私が見聞きした範囲だと、家族や近隣の人が相談をしたところ、彼女の言葉が捜索の方向性を変え、結果的に発見につながったと語る人がいた。
ただし、その手がかりがどれほど狭い範囲の情報だったのか、あるいは既に警察や関係者が持っていた情報を別の言い回しで伝えただけなのかは判断が難しい。私の感覚では、そうした事例は真実と偶然が入り混じって語られやすく、聞き手の期待や後からの解釈によって「的中」が強調されることが多い。とはいえ、実際に救いにつながったと語る家族の声がある限り、その価値は否定できないと感じる。
古いインタビュー映像を見返すと、彼女が比較的小さな出来事をピンポイントで指摘していたとされる話に胸がざわつくことがある。私の場合、それらの例は「局所的に当たった」と評されることが多く、完全な未来予知というよりは偶然と洞察が混ざった産物に見える。
率直に言うと、確実に的中したと断言できる決定的な事例は少ない。でも、周囲の反応や後からの語り直しで事実が膨らんでいく様子を見ていると、人々が確証を求める心理と物語作りの過程が浮かび上がる。だから私は、彼女の予言を語るときには当時の文脈と伝聞の流れも合わせて考えるようにしている。