歴史の影が濃く落ちるフィクションほど、現実の痕跡がはっきり見えてくるものだ。僕がまず手に取りたくなるのは、政治的動機や時代背景をそのまま
殺し屋像に変換した作品群だ。
たとえば'ジャッカルの日'は典型的だ。フレデリック・フォーサイスの小説は、第五共和政初期のフランスを震撼させた実際のクーデター未遂や過激派の動きを下地に、冷静で計画的な暗殺者を描いている。作中の細部には当時の郵政や身分証制度、国際線の運行など現実の資料が反映されており、そのリアリズムが読み手に「あり得る話」としての恐怖を与える。映画化でもその緊張感は色褪せず、現代の
諜報劇やテクノロジー犯罪を扱う作品に通じる短所と長所を示している。
冷戦期の不安を吸い上げた'The Manchurian Candidate'も外せない。この作品は党派闘争やプロパガンダ、洗脳のテーマを殺し屋と結びつけ、個人が政治的道具にされる怖さを提示した。歴史的事象──朝鮮戦争や反共キャンペーンといった時代背景──が物語の核を成しており、単なるサスペンスを越えて当時の社会心理を映し出す鏡になっている。
ゲームの域へ目を向けると、'Assassin\'s Creed'シリーズは別のやり方で歴史を取り込む。ルネサンスや
十字軍、革命などを舞台に、実在の人物や事件をフィクションの暗殺者像に絡めることで、プレイヤーに歴史的《もしも》を体験させる。対照的に、長寿漫画の'ゴルゴ13'は実在の紛争や政治的事件をプロットの糸口にして国家間の緊張感を持ち込むことで、世界観の現実味を強めている。
こうした作品を読むと、歴史の事実そのものが殺し屋フィクションの筋肉となり、倫理や動機、方法論に奥行きを与えることがわかる。現実を反映したディテールが加わることで、暗殺者は単なる冷酷な存在を越え、人間性や時代精神の象徴にもなり得るのだと感じる。