楽譜をめくるたびに気づくのは、
サリヴァンが単なる伴奏屋ではなく、舞台全体を音で設計するタイプの作曲家だということだ。批評家の多くは、彼の代表作をまず旋律の豊かさと劇伴としての機能性で評価してきた。たとえば『H.M.S. Pinafore』の軽快なアリアや合唱部分については、メロディラインの把握しやすさと同時に、舞台の動きや喜劇的間を補強する和声処理が巧妙だと指摘されることが多い。ヴィクトリア朝の聴衆が求めたエンターテインメント性と、当時の演出事情をよく理解した音作りが批評家の支持を集める理由の一つだと感じている。
同時に、批評家はサリヴァンの作品がしばしば軽視されてきた歴史にも言及する。グローヴやオペラ史の文脈では、彼は「本格的なグランドオペラの作曲家」には分類されず、あくまでオペレッタや趣味的音楽の範疇に置かれがちだ。だが最近の再評価では、編曲の精密さやオーケストレーションの色彩感に注目する論考が増えている。楽器ごとの使い分け、典雅な管弦楽の流れ、台詞と音楽の接着の巧みさ――これらは単なる「軽さ」では説明できない技巧の証拠だと私は感じている。
さらに社会的・文化的観点からの批判も無視できない。『The Mikado』のような作品をめぐっては、風刺の対象や表現方法が現代の価値観と衝突するという指摘があり、批評家の評価は一枚岩ではない。舞台芸術としての完成度を称賛する声と、題材選びや表現の倫理を問う声が同居している。総じて言えば、批評家はサリヴァンを技巧派でありながらも時代に
束縛された創作者として読み解くことが多く、私はその二面性こそが彼の面白さだと考えている。