考えてみると、批評家が
マルゴのキャラクター性を語るときには、いつも複数の作品や人物を引き合いに出してその層の厚さを説明しようとしています。私が読んだレビューやコラムでは、まず彼女の“冷めた知性”と“内向的な反抗”が強調され、ここでしばしば持ち出されるのが『ロイヤル・テネンバウムズ』のマーゴ・テネンバウムです。マーゴ同様、マルゴは表面的には落ち着いていて計算高く見えるけれど、その下で家族や過去に対する複雑な感情が渦巻いている──という構図を批評家たちは指摘します。外見的な不器用さや孤独さ、そして“演じることで自分を守る”という演出面の共通点が、比較の根拠になっていることが多いです。
また別のラインの比較としては、『ドラゴン・タトゥーの女』のリスベット・サランデルが挙げられることが多いです。ここでの焦点は“強さと脆さの同居”という点で、批評家はマルゴを単なる冷徹なキャラクターと片付けず、過去のトラウマや不信感が彼女の行動原理にどう影響しているかを読み取ろうとします。リスベットのように戦略的で自己防衛的な面がある一方で、その内面には繊細さや傷つきやすさが見え隠れする──こうした二面性の扱い方が両者の比較を促しているのだと感じます。
さらに、物語上の“ミステリアスさ”や観客に対する操作性の観点からは、『ゴーン・ガール』のエイミーの話法や仕掛けられたイメージ操作と対比されることもあります。ここでは批評家が、作者や脚本がどの程度キャラクターを“計算して見せている”か、そして観客の同情をどのように誘導しているかに注目しています。一方で感情の扱い方に関しては、『レオン』のマチルダのような痛みと愛情の混ざり合いを持ち出して、マルゴの行動を単純な悪役や冷たい女というレッテルに収めない読みがされることも多いです。
総じて言えるのは、批評家による比較は一つの固定的な人物像を示すためではなく、マルゴというキャラクターの多層的な側面(孤独、計算、脆さ、演技性、復讐心、家族関係の歪み)を説明するための参照点として機能しているということです。個人的には、こうした比較があることでマルゴの輪郭がより立体的に見えてくるのが面白いと思いますし、どの参照先を重視するかで印象がガラリと変わるところが、このキャラクターの魅力だと感じます。