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映評の世界では、
物差しはたんに数直線上の印ではないと感じることが多い。
自分の場合、まず定性的な基準を定めてから数値化する癖がついている。脚本の構造、演技の説得力、撮影美学、音響や編集のリズム、テーマの深さ――これらを個別に評価し、それぞれに重みをつけて合算する。例えば『市民ケーン』を観ると、映像技法の革新性には高い点数を付ける一方、現代の感情表現との接続性は低めにすることがある。
次に、物差しを示す際には読者への注釈を欠かさない。なぜその尺度が重要なのか、ジャンル特性や公開当時の文脈がどう影響するのかを短く説明することで、単なる点数以上の意味を伝えるよう心がけている。最終的に数字は入口であり、そこで作品のどの側面が光ったかを示す手がかりに過ぎないと考えている。
評価の尺度はツールであって目的ではないと考えている。まず自分の中で何を重視するか優先順位を作り、そこからスコアリングする癖がある。例えば『パンズ・ラビリンス』のような作品では、ファンタジー表現の創造性と物語が伝える残酷性のバランスを重視して点数を配分する。
さらに、私が用いる物差しは静的ではなく、作品ごとに調整される。ジャンルや監督の意図、予算規模に応じて重みを変えることで、数字が作品の評価を不当に平坦化しないように工夫している。最終的に読者に伝えたいのは、点数の背後にある理由であり、それが一番大事だと考えている。
評価を具体化するために、僕はまず直観的な“満足度”を言葉にしてから数値化する流れを取る。観た直後の感触をメモし、それに基づいて脚本、演出、演技、映像美といった項目ごとに点を割り振る。『ショーシャンクの空に』を観ると、感情の揺さぶられ方が最重要基準になるので、情緒的な重みを高めに設定することが多い。
また、尺や公開形態も評価の物差しに含める。短編と長編、低予算と大作では期待値が違うため、単純比較は避ける。点数はあくまで便宜的な表示で、読者には該当する項目の注釈を読むことを勧める。数字が出す印象を補完するために具体的なシーンや演出の例を挙げる作業も欠かさない。
映画の採点法をめぐる議論に参加すると、僕は常にコンテクストを重視する視点を持ち込む。まず作品が意図した到達点と批評の要求水準を突き合わせる作業をするからだ。『ブレードランナー』を例に取れば、ビジュアルと世界観の構築には甘んじない高評価を与える一方で、テンポや説明責任の取り方に対しては異なる尺度で判断する。
具体的には、評価の物差しを多層化する。物語の完成度、技術的な達成度、社会的・歴史的文脈への貢献度、鑑賞体験としての没入感――これらを別個に評価して合算する。数字を出す際は重み付けの理由を明記して、他の批評家や一般観客と比較する際の基準を透明にする。こうした方法で評価の信頼性を担保しようとしている。
批評を書くとき、評価の“物差し”は読者との約束事になると考えている。私のやり方は二段階で、まず観点を明確にする。それからそれぞれの観点に対して定性的なコメントを付け、必要なら星や10点満点で簡潔にまとめる。たとえば『君の名は。』を評する際には、映像美と感情の同期性に高得点を与え、プロットの偶然性についてはやや辛口にすることが多い。
数字だけを投げると誤解が生じやすいので、評価尺度の運用方針を冒頭か末尾で示す。観客にとって重視する項目が違えば評価も変わるという前提を示すことで、同じ映画でも読み手が自分に合うか判断しやすくなる。最終的に、物差しは説明責任を果たすためのツールだと捉えている。