頭に浮かぶのは、物語の入口であるあの不可思議な出会いの場面だ。'
凡愚'の冒頭で主人公が偶然立ち寄る場所――古びた書棚の隙間からちらりと見える一冊、そこに触れた瞬間に世界の輪郭が揺らぐようなあの瞬間を映像化してほしい。カメラは人物の顔全体を追うのではなく、手先やページのめくれる音、埃に揺れる光の筋といった細部に寄る。静かな長回しと繊細な音響設計で、不穏さと日常の境界線が次第に溶けていく感覚を作り出すのが肝心だと思う。
次に挙げたいのは、物語の転換点に当たる対峙の場面だ。たとえば師と弟子が互いの真意を突き合わせる場面――舞台は廃れた劇場や閉ざされた階段室でもいい。ここはカット割りを多用して情報の断片だけを断続的に見せ、観客の想像力を刺激する編集が似合う。表情の僅かな変化、沈黙の中で交わされる台詞の余白、ひび割れたセットのテクスチャーなどを活かせば、映像は台詞以上のことを語れる。音楽は抑制し、場の残響や衣擦れの音を大事にすると、画面に張り付く緊張感が生まれる。
これら二つの場面を軸にすることで、映画版は作品の核である「平凡の裏側に潜む異様さ」と「人間関係の微妙な揺らぎ」を同時に可視化できると考える。画作りのリファレンスとしては、色彩と光の扱いが印象的だった'ブレードランナー'のような視覚的濃度の高さを部分的に取り入れつつ、演出は人物の内面に徹底して寄り添う方向が合うだろう。私はそうした映像化が、『凡愚』に潜む余白をより多くの人に伝える力を持つと確信している。