読後すぐに思い浮かんだのは、物語が意図的に曖昧な終わりを選んだということだった。僕は『
凡愚』のラストシーンを、救済と諦念のせめぎ合いとして読んでいる。主人公の行動は完全な昇華でも完全な堕落でもなく、むしろ“選択の重さ”が浮き彫りになるように描かれている。具体的な台詞や描写が省略されることで、読者それぞれに道徳的な判断を委ねる構造になっていて、そこが好きだし恐ろしいとも感じた。
場面ごとの象徴性にも注目している。例えば終盤に繰り返される小さな日常の仕草や、過去の回想が断片的に挿入されることで、変化が達成されたのか否かが読者の解釈に委ねられる。これは『海辺のカフカ』のようなラストに見られる“読者に意味を委ねる技巧”と近いけれど、こちらはもっと地に足のついた倫理的問いを投げかける。だから一部の人は「救いのある終わり」と読み、別の人は「救いのない現実の肯定」と読む。どちらの解釈も本文の細部を根拠に説明できる余地があるのが面白い。
結論的には、僕は『凡愚』の結末を「問いを残すことで読者を成熟させる結末」だと捉えている。作者が明確な答えを出さなかったのは、キャラクターたちの罪や過ち、そしてそれに対する責任の重さを一人一人が持ち帰るべきだと考えたからだと思う。それによって作品は単なる物語の終幕に留まらず、読後の議論や再読を促す装置になっている。個人的には、その余白が作品の力だと感じるし、読むたびに違う角度から線を引き直したくなる。