風も月も、そして彼もいない
「二宮様、こちらがご依頼に基づく偽装死サービスです。方法は交通事故、加害者は――あなたの夫、遠山正樹さんとなっております」
二宮雪乃の指先が「遠山正樹」という四文字に触れた瞬間、その瞳に複雑な影が揺らめいた。
だが、彼女は躊躇うことなく、依頼者欄に自分の名前を書き込んだ。
去り際、スタッフが思わず尋ねた。
「お使いの香水は何ですか?とても珍しい香りですね」
雪乃は微かに微笑んだ。
「手製のものです。『蝕骨』と名付けました」
スタッフは驚き、思わず口元を押さえた。
「まさか……あなたが、ネットで話題の謎の調香師、雪乃様ですか?」
雪乃は否定しなかった。
スタッフは興奮して言葉を続けた。
「伺いましたよ、あなたが愛する方のために、世界に一つだけの香水『愛の讃歌』をお作りになったんですよね。二人はきっと、深く愛し合っていらっしゃるのでしょうね……」
しかし、スタッフの顔色は一変し、言葉を止めた。
もし本当に深く愛し合っているのなら、偽装死サービスを利用し、わざわざ夫を加害者に指定するはずがない――
繁華街を目的もなく歩く雪乃の視線の先に、街頭の大型モニターが映った。そこでは調香師コンテストの最終結果が中継されていた。
「第20回世界調香師コンテスト金賞は――雪乃さん!受賞作品は、三年の歳月をかけ、何万回もの試行錯誤を経て完成した『愛の讃歌』です」
雪乃の胸は締めつけられるようだった。無数の深夜、彼女は地下室に籠もり調香に没頭し、一時は嗅覚さえ失いかけた。
あの頃、正樹は何をしていたのだろうか。