「それで? これからはどうするの?」母の問いに、私はちらりと隣の日向を見つめた。気持ちは、もうお互いに伝え合った。けれど、これからのことまでは、まだ話していなかった。しかし、このタイミングでこの問いは、親として当然だろう。私は少しだけ視線を落としながら、「それは、おいおい……」と曖昧に口にした。けれど、その隣で日向が私を見る。そして、はっきりとした声で言った。「一緒に住みたいと思っています」言い切った日向の表情は、迷いのないものだった。父と母は顔を見合わせて、それぞれ小さく笑った。微笑んではいたけれど、その奥に、ほんの少しだけ寂しさがにじんでいる気がした。それも、当然だ。生まれてからこれまで、瑠香の面倒を見てくれたのはこの二人だった。娘と孫が、急に出ていくとなれば――気持ちが揺れるのは、私だって同じだった。そんな空気を察したのか、日向はふっとやわらかい笑みを浮かべ、穏やかな声で言った。「隣の家に越そうと思ってます。……彩華の仕事もあるし、瑠香のことも、今までどおり頼らせてもらえると助かります」その言葉に、私は思わず目を見開いた。父と母もまた、驚いたように日向を見て、そしてすぐにうれしそうに頷いた。「そうなの、それはいいわね。もちろん瑠香のことは任せて。ねえ、お父さん」「うん、ああ。そりゃあもう、大歓迎だよ。……さ、昼にしようか」どこか気恥ずかしそうに言いながら、父は立ち上がって、母を連れだって台所へと歩いていく。そんな二人を見ながら、私は隣に座る日向の袖をそっと引いて、声を潜めて聞く。「……いいの? 隣で」日向は「なにが?」とでも言うように首をかしげた。「いや、だって。職場にも近いとか、いろいろあるかなって……」そう言うと、日向はちょっとだけ笑った。「俺にとっては、これがいちばん現実的だし、いちばん幸せだと思っただけ。……ダメ?」「ダメなんて、言ってない」素直にそう返すと、日向は私の髪にそっと手を伸ばし軽く撫でた。瑠香の笑い声が、廊下の奥から聞こえてくる。母と父の笑い声も混ざってあたたかい音になっていた。「母たちのこと、考えてくれてありがとう」素直な気持ちを伝えると、「俺とっても大切な家族だからな」そう口にした。複雑な過程で育った日向だからこそ、これからは穏やかに過ごしてくれたらいい……そう思った。
「マーマー」「瑠香? もう起きたの……早いね……」柔らかな光に目を細めながら、いつも隣にいるはずの瑠香に手を伸ばそうとする。……が、触れたのは、思いがけない“硬い感触”。「え? あれ?」急に覚醒した頭で、私は勢いよく身体を起こした。昨日はたしか、日向と身体を重ねて、そのまま眠って――。一気に顔が青ざめそうになったが、下に視線を移すと、ちゃんとホテルのパジャマを着ていた。……ほっと胸をなでおろす。「彩華、おはよう」そして手が触れたのは、ベッドの上で胡坐をかいて座っていた日向の足だった。彼の膝の上には、ちょこんと笑顔で座っている瑠香の姿。その光景に、なぜか泣きそうになってしまう。こんな朝を迎えられる日が来るなんて――ほんの少し前まで、思いもしなかった。そんな私の表情に気づいたのか、日向がそっと私の頭をなでてくれた。その日向を見つめていると、瑠香が不意に口を開く。「おなかちゅいた」「瑠香ちゃんは、何が好き? ここはね、クマさんの絵のパンケーキがあるぞ」そう言って、日向はベッドから降りると、瑠香を軽々と抱き上げた。「彩華、ルームサービス頼んでおくよ。ゆっくり起きておいで」昔から面倒見がよくて、優しい日向。どんなにいなくなっても、彼の根底にあるその優しさだけは、私には疑うことができなかった。だから――私はきっと、ずっと日向を待っていたのだと思う。そして、日向もずっと、私を待っていてくれた。「日向。ありがとう」今までのすべての思いを込めて、私はそう答えた。それからの日向の行動は、こちらが思っていた以上に早かった。ホテルを出たあと、日向が「少し寄らせてほしい」と言った。その言い方があまりに自然で、私は反射的に頷いていたけれど、玄関の前まで来てみれば、胸の奥がざわついているのを隠せなかった。昨日、日向が母に連絡を入れてくれていたはず。私が彼と一緒にいることも、少しは伝わっているだろう。それでも、こうして三人で並んで立つ玄関の前は、思っていた以上に緊張する場所だった。「たらいまー!」私の躊躇などまるでおかまいなしに、瑠香が元気よくドアを開ける。その声に反応するように、中から軽い足音が響き、扉の向こうに、両親の姿が現れた。母と、父。並んで立つその姿に、一瞬、時間が戻ったような錯覚を覚えた。母は私たちの姿を見て、ど
何から話そうか……。話を聞く、そう言ったけれど、何を聞いて、私は何を話すべきなのか。 いろいろまとめていたはずなのに、言葉が出てこない。 それでも、まずはこれだけは伝えないと。 そう思って、日向に視線を向けた。「瑠香は、俺の(=日向の)子――」まったく同時に、そう口にしていた。 もちろん、日向がそう思っていることは、なんとなくわかっていた気がする。 でも、改めてお互いの口から確認する必要があった。私の言葉を聞いて、日向は顔を手で覆ったあと、これでもかというくらい、私に深々と頭を下げた。「本当に、俺の無責任な行動のせいで……彩華にひとりで出産させて、辛い思いをさせて……。どうやって償えばいいかわからない」沈痛すぎるその言葉に、私は「日向だけが悪いわけじゃない」って、そう伝えようとした。 でも、すぐに日向は私の手を強く握りしめてきた。「その謝罪は、一生かけてさせてほしい」「え?」言われた意味がすぐには分からず、私はキョトンとしてしまったのだろう。 日向が責任を感じて、何かと戦ってくれていることは、私も分かっていた。 でも――「彩華が許してくれるまで、俺はどんなことをしてでも、彩華の信頼を取り戻して、ふたりを幸せにするって誓う。だから、ずっとそばにいてほしい」……でも、それはあくまで瑠香のため? そう思うのに、まるで愛の告白のようにすら聞こえる言葉と、日向の真剣な瞳に、頭が混乱する。私はもちろん、ずっとずっと日向が好きで、どんなことをされても、結局嫌いになんてなれなかった。 周りにいた素敵な人たちにも、心が動かされることはなかった。 でも、日向は?そんな思いが溢れて、言葉が口をつく。「でも、日向。瑠香は、私が勝手に産んだの。それに……“抱いて”って、あの日迫ったのも私。もし、罪悪感からなら、それでいいんだよ。瑠香の父親ってことだけは、ちゃんと認めてほしい――」そこまで言ったとき、不意に強い力で引き寄せられた。 気づけば、私は日向の胸の中にいた。「そんなこと言うな。俺は、彩華がいないと……俺でいられない」「日向……?」「小さいころから、彩華だけが俺の光で、彩華の前でだけ本当の自分でいられる――。ずっと好きなんだ」泣きそうにも聞こえるその声には、決して嘘や偽りなど感じられなかった。 その瞬間、私はギュッと心臓をつ
支度を整えたあと、私はキッチンで朝の片付けをしていた母に声をかけた。「お母さん……帰ってきたら、全部話すから。もう少しだけ、待ってくれる?」日向は今日、両親にきちんと会って話したいから、迎えに行くよと言ってくれた。でも私は、それより先に――すべて自分の中で整理をつけてからにしたくて、直接会うのではなく、待ち合わせがいいとわがままを言った。そして、日向はその気持ちを尊重して、うなずいてくれた。今日の話次第で、これからのことが決まるのだと思う。どうなるかわからない以上、今の段階では両親に何をどう話せばいいか、自分でもまだはっきりしなかった。母はふと手を止めて、私の顔を見つめた。ほんの少しだけ、不安そうな表情を浮かべたけれど――やがて、ゆっくりとうなずいた。「……わかった。楽しんできなさい」それだけを言って、母は笑って背を押してくれた。きっと、母なりに今の私を信じて、見守ってくれているのだと感じた。待ち合わせ場所に着くと、日向はすでに到着していて、車のそばに立っていた。いつもはスーツ姿の彼が、今日は珍しくカジュアルな服装をしている。柔らかなグレーのシャツに、淡いベージュのパンツ。気取らない雰囲気が、思いのほか彼によく似合っていて、胸がわずかに高鳴った。週末の朝、空はどこまでも澄み渡り、お出かけ日和だった。「瑠香、靴はいた? 今日はお出かけするって言ったでしょ?」「はいたー!」リュックを背負った瑠香は、玄関でぴょんぴょんと跳ねていた。朝からすっかり上機嫌で、その姿に思わず笑みがこぼれる。「お待たせ」そう声をかけると、日向は穏やかに笑い、まず瑠香に視線を向けた。「瑠香ちゃん、おはよう」「ひなたー! ひなた、おでかけ!」「うん。今日はたっぷり遊ぼうな」差し出された手を、瑠香は迷うことなく握った。たったそれだけのことなのに、胸の奥がじんわりと温かくなった。この光景を、ずっと見ていたい――心から、そう思った。昼食をとり、パレードを見て、キャラクターのぬいぐるみを買った帰り道。瑠香がそのぬいぐるみを大切そうに抱えたまま、「きょう、たのしかったね」とつぶやいたとき、私も日向もつい顔を見合わせて笑ってしまった。「じゃあ、帰る?」話をするとは聞いていたが、瑠香ももう眠そうで私がそう問いかけると、日向は思案するような表情を浮か
夜の街は、思っていた以上に静けさを湛えていた。窓を少しだけ開けると、初夏の涼しい風が部屋に入り込み、レースのカーテンがやわらかく揺れた。瑠香はすでに眠っていて、私はそっと寝室を抜け出し、リビングのソファに腰を下ろす。時計の針は、まもなく二十三時を指そうとしていた。この時間に誰かと連絡を取ることなど、普段はまずない。けれど今日は、スマートフォンを手放すことができず、画面を見ては閉じて、また見て――そんなことを繰り返している。信じているつもりだった。待つと決めたはずだった。それでも胸の奥に残るざわつきは、なかなか消えてくれない。テーブルの上で、スマートフォンが小さく震えた。表示された名前を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。《東雲 日向》深呼吸をしようとしたけれど、指はすでに画面をスライドしていた。「……もしもし」「彩華」その一言だけで、胸がいっぱいになる。かすかに掠れた声。でも、間違いなく――日向の声だった。「ごめん、遅くなって」「ううん……それで、どうだったの?」そう尋ねると、少しだけ沈黙が落ちた。やがて、言葉を選ぶように、彼は静かに告げた。「終わったよ。全部」その言葉が胸に届いた瞬間、不意に視界がにじんだ。ほっとしたような、うれしいような、それだけでは言い表せない感情が、波のように押し寄せてくる。気づけば、涙が一筋、頬を伝っていた。「……ありがとう、日向」震える声でそう伝えると、電話の向こうで彼が小さく息を吐いたのがわかった。「俺こそ、ありがとう。彩華がいてくれたから、ここまで来られた」「……私は何もしてないよ」「してくれた。何も言わずに待ってくれた。それが、俺には本当に――力になった」その静かな言葉に、また胸が熱くなる。私はただ、待っていただけ。でも、それでもよかったと思えた。「……彩華、今すぐ会いたい」その声は低く、けれど迷いのない響きをもっていた。「……私も、会いたい」「迎えに行く。少しだけでもいい。顔を見たい」「うん……待ってる。家のそばの公園にいるね」通話を終えたあと、私はティッシュで涙をぬぐい、立ち上がった。すっかり化粧は落ちてしまっているけれど、それでも鏡の前で髪を整え、少しでもまともな顔にしようとする。泣いていたことなど、隠しようもない。でも、それでも――今夜だけ
その日も、朝は変わらず始まった。洗濯機を回しながら、朝食をテーブルに並べる。「瑠香、ゆっくりたべてね」いつも通りの朝の風景の中で、心のどこかがざわついていた。何かが起こっている。言葉にはならないけれど、確かに胸の奥にひっかかっている、直感に近い予感。昨夜、日向は言った。「明日は大事な会議がある」と。それ以上は何も語らなかったし、私も「教えて」とは聞かなかった。聞いたところで、私にできることは何もない。でも――もし知ってしまえば、もっと不安になることも、私は分かっていた。「ママ、えほんー、よむー!」「はいはい、じゃあ片付けたらね」瑠香に笑いかけながらも、意識のどこかでは、ずっと日向の顔が浮かんでいた。彼が、自分の人生を懸けて何かと戦っている。そう思うようになったのは、あの夜、彼が「全部片付ける」と言ったあの言葉が、ずっと心に残っているからだ。日向が本気で誰かに立ち向かっているとき、私は何もできない。ただ家で、待っているしかない。けれど、その“待つ”という時間が、こんなにももどかしく、切ないものだなんて――知らなかった。彼が誰と向き合っていて、どんな壁にぶつかっているのか。何ひとつ知らされていないまま、私はただ、今日という一日を過ごしている。キッチンで洗い物をしながら、スマホに目を落とす。新着通知はない。もちろん、日向からの連絡も。「……バカだな、私」ふと漏れた呟きは、カチリと鳴った食器の音にかき消された。「何もないのが、きっとうまくいってる証拠。そう思わなきゃ」自分に言い聞かせるようにつぶやいても、心はざわざわと騒がしいまま。不安と信頼が交互に押し寄せて、感情が波のように揺れていく。何もしていないのに、胸がぎゅうっと締めつけられて、気がつけば洗い終えた皿を拭く手が止まっていた。「ママ、だいじょぶー?」小さな声に、はっと我に返る。「うん、大丈夫だよ。ちょっと考えごとしてただけ」そう言って笑ってみせたけれど、その笑顔がどこかぎこちないことに、自分でも気づいていた。会議室には、静寂が満ちていた。いつもなら、プロジェクターの光と資料をめくる音が行き交うはずのこの場所には、今日に限ってそのどれもなかった。ただ張り詰めた空気だけが、沈黙のなかでじっと息を潜めていた。――ついに、この時が来た。テーブルの向こう