「華ちゃん、気分はどうですか?」
優しい声が耳に届き、そちらに目を向けると神宮寺家の専属医を務める三上先生がいた。
この日、私は緊張した面持ちで白い天井を見上げていた。ここは病院の特別室。部屋だけ見ればホテルと変わりないが、たまに様子を見に来る看護師と冷たい消毒液の匂いが鼻腔をくすぐり、数時間後に控える帝王切開に不安と期待がない交ぜになった感情が渦巻く。
彼は検診の日以外にも、こうして足繁く病院や別荘を訪れては私を気遣ってくれる。玲と母に神宮寺家から追い出されて以来、私にとって三上先生は心を開ける唯一の存在になっている。
「少し緊張していますが早くこの子たちに会いたいです」
三上先生は、私を気遣いながらも踏み込みすぎることなく優しく見守ってくれていた。先生の存在は、私の孤独な日々において温かな光そのものだった。
「双子ちゃんたちもきっと華ちゃんに会いたがっているよ。もうすぐだからね」
その言葉に私はそっとお腹を撫でた。このお腹の中で小さな命が確かに宿っている。彼らに会えばこの数ヶ月の苦しみもきっと報われるはずだ。
瑛斗に離婚を突きつけられ、玲と母に家を追われたあの日の絶望を私は決して忘れられないだろう。けれど、これからはこの子たちのためにどんな困難も乗り越えていこうと強く決めていた。
検査から二週間後。社長室で空と共にDNA鑑定の結果を待っていた。報告書が届けられるという時刻が近づくにつれ、言葉には出来ないほどの緊張が募る。真実が明らかになることに、期待と同時に深い恐怖を感じていた。空もまた黙って瑛斗の隣に座り、その重苦しい空気に耐えていた。約束の時間通り、鑑定機関の担当者が厳重に封をされた報告書を手に現れた。瑛斗は震える手でそれを受け取るとゆっくりと封を破った。中から取り出した一枚の紙に彼の視線は釘付けになった。「これは……」瑛斗の顔からみるみるうちに血の気が引いていく。その表情を見た空はただならぬ事態を察し報告書を覗き込んだ。報告書には、冷徹な文字でこう記されていた。「被検体A(一条瑛斗)と被検体B(慶)、被検体C(碧)の間に、生物学的な親子関係は認められない。」瑛斗の手から報告書が音もなく滑り落ちた。彼の瞳は焦点が合わず、まるで魂が抜けたかのようだった。「そんな……」虫の泣くような小さくてか細く声で呟き、一気に絶望の底へと落とされた気分だった。心のどこかで、子どもたちが自分の子どもであると証明されることを期待していた。血縁関係が証明されて、今までの言動を反省して華を迎えに行こうと思っていた。今度こそ夫婦として、そして子どもを含めた家族として新
「DNA鑑定はいつやるの?瑛斗の側で見守りたい」そう言ったが瑛斗にも空にも相手にされなかった。ところが突然「明日、検査をやろうと思っている」と瑛斗から連絡が入った。朝一番で瑛斗のところを訪ねると空の姿もあった。「あれ、いつもは夕方に来るのに今日は随分と早いね?」皮肉交じりにいう空。「瑛斗のことが心配で」「そうなんだ、僕もだよ。瑛斗はもう行ったからここで一緒に待っていようか」この時、瑛斗が私に連絡をしてきたのは、反応をさぐるための罠だったのだと悟った。まだ私のことを完璧に信用はしていないようで妨害や邪魔が出来ないよう空を使って制したのだ。(まんまとやられた……。)「玲さんは華さんのことどう思う?」ハーフモデルのように澄んだ瞳に綺麗な顔立ちの空が微笑んで問いかけてきた
「そもそも瑛斗と玲さんって本当に付き合っていたの?」空の突然の問いに俺は少し戸惑った。こんな時に玲との関係を聞かれるとは思わなかった。「ああ」俺は静かに答えた。高校時代の記憶が鮮やかに蘇る。高校時代の玲は、今とは少し違った。華やかな見た目は変わらないが、どこか控えめで、誰にでも優しい笑顔を向ける少女だった。俺は当時から、一条グループの次期社長として、周りから一目置かれる存在だった。多くの女子生徒が俺に近づいてきたが、そのほとんどは俺の肩書目当てだと感じていた。そんな中、俺のロッカーには時々、手作りのクッキーや俺の好きなスポーツ雑誌の切り抜きなど小さなプレゼントが置かれていた。いつも名前はなく誰がくれたのか分からなかった。だが、そのさりげない気遣いや俺の好みを正確に捉えているセンスに俺は次第に惹かれていった。高校卒業を控えたある日、俺は偶然、ロッカーにプレゼントを忍ばせようとする玲の姿を目撃した。彼女は驚いた顔をして、少しばつが悪そうに俯いた。その瞬間、俺は確信した。いつもこっそりプレゼントをくれていたのは玲だったのだと。俺は玲を呼び止めた。「いつもロッカーにプレゼントいれてくれていたのって玲だったんだな。ありがとう。」 玲は小さく頷いた。その姿がとてつもなく可愛くて俺はその場で玲に告白した。
「空、今の玲の反応はどう思った?」玲が社長室を後にしたのを見計らい、俺は親友でビジネスパートナーでもある空に尋ねた。DNA鑑定の話を切り出した時の玲の反応を第三者の視点から分析してもらいたかった。空は腕を組み考え込むように天井を見上げた。「うーん、動揺している感じだったね。明らかに冷静じゃなかった。何か隠しているようにも見えるし、華さんの名前を聞くのも嫌で怒りが混じっているようにも見えた」空の言葉に俺は眉をひそめた。やはり、俺の感じた動揺は間違いじゃなかったのか。玲はいつもポーカーフェイスを保つ女だ。感情を露わにすることなど滅多にない。「でもね、瑛斗…玲さんが言っていることが本当なら、海外に行くように仕向けて嫌がらせをしてきた姉が、自分の好きな人と結婚して妻になったら恨みたくなる気持ちは分かるよ。それに、離婚してもまだ君と華さんが連絡を取っていたら面白くはないよね。だから、今の状況だけではなんとも言えない」空の冷静な分析は俺の頭を冷やした。確かに、玲が主張する華の悪行が事実だとすれば、彼女の動揺や怒りも理解できる。嫉妬や憎悪は人を感情的にさせるものだ。「そうだよな……」俺は唸った。玲の言うことと華の主張のどちらが真実なのか、まだ判断がつかない。ただ、あの時の華の声、そして玲の動揺は、どちらも俺の心を深く揺さぶるものだっ
瑛斗の会社を訪れると、珍しく瑛斗の方から社長室に来て欲しいと言われた。部屋にいると瑛斗と空が、重々しい雰囲気でソファに鎮座していた。「華と連絡を取った。子どもが産まれたそうで華は俺の子だと言い張っている。」「そんなの嘘に決まっているじゃない!瑛斗ったらまだお姉ちゃんのことを信じるの?」「そういうわけではない。ただ真実を知りたいからDNA鑑定を受けようと思う」その言葉を聞いた瞬間、私は凍り付いた。(DNA鑑定ですって……!?)「華は、DNA鑑定の話をした時に玲の名前を出していたが何か聞いていないか?」「知らないわ。なんで私の名前を……。」私と瑛斗の会話を空は黙って聞いていた。一言も発さないその姿は、真意を見極めているようで恐ろしかった。瑛斗の話が終わるとすぐさま社長室を後にした。平然を装ったつもりだが、内心は激しい焦燥感に苛まれている。(まさか瑛斗がDNA鑑定を提案するとは。今まで一度も連絡を取っていなかったのに?まさかお姉ちゃんが瑛斗に連絡してきたの?)
その日の午後、華のスマホが再び鳴った。画面に表示された「一条瑛斗」の名前に心臓がバクバクと音を立てている。先ほどの電話での彼の冷たい対応を思い出し指が震えてえいるが、慶と碧のためと意を決して電話に出た。「……もしもし」「華か」瑛斗の声は、事務的な響きを帯びていた。その声に私は身構える。「先程の言葉だが、別にお前を苦しめたいわけではない。」彼からの予想外の言葉に耳を疑った。「ただし条件がある。本当に俺の子どもだと言うならDNA鑑定を受けてくれ。そもそも最初からDNA鑑定をすればいい話だったんじゃないのか」威圧的な口調だった。瑛斗の言葉は私を追い詰めるかのようだった。私の脳裏に浮かんだのは神宮寺家でのあの日のこと。母や玲が、私のDNA鑑定の訴えに耳を傾けようともしなかった日々だ。あの時、私がどれだけ懇願しても聞く耳を持たなかった。信じられないなら鑑定をと訴えても、双方の関係悪化を避けることと瑛斗の心理的ショックを理由に受け入れてもらえなかった。それが今になって瑛斗の方からDNA鑑定を提案してきた。驚きと戸惑いと、そして微かな希望が私の胸の中で入り混じる。