Masuk「美しい男ほど、毒がある」 商人の子として平穏に暮らしていた周歓は、突如宮殿に攫われ、皇帝と一夜を共にする。だが命を狙われる身となり、弱肉強食の宮中で己の無力さを思い知らされる。やがて偶然、傀儡皇帝の秘めたる孤独と苦悩を垣間見た周歓は、運命に抗うことを決意する。 明晰な頭脳を武器に宮中の勢力を巧みに操り、個性豊かな男たちと出会う――孤独な皇帝、不器用な将軍、仁義を重んじる侠客。美貌の男たちに翻弄され、数々の苦難に見舞われながらも、周歓は知恵と勇気で逆境を乗り越え、波乱万丈の恋絵巻を紡いでいく。
Lihat lebih banyak月は闇に沈み、風の嘯く夜。古びたる森の奥深く、夜鳥の寒々しい声が木霊する。
目の前には、ぽっかりと口を開けた土の穴。その底には、頭をかち割られ、血に塗れたまま蒼白な顔で横たわる男の骸があった。
穴の底の男が、不意にその瞼をこじ開けるのではないか――おぞましい想像に駆られながらも、周歓は敢えてその闇を覗き込もうとはしなかった。
「俺がおまえを殺そうとしたんじゃねえ!先に手を出したのはそっちだろうが!」
額の汗を拭い、荒い息を吐き出す。人を殺めるつもりなど毛頭なかった。無学で怠け者ではあったが、それでも十八年の人生、お上の法と世間の習わしを守って生きてきた、しがない庶民だったのだ。
つい六時辰(※一日を十二に分けた古代中国の時刻単位)前までは、洛陽の街をぶらついていただけだったというのに。まさか夜更けに、このような森の奥で人殺しの罪を犯し、死体を埋める羽目になろうとは、夢にも思わなかった。
すべての事の起こりは、六時辰前に遡る。
周歓は洛陽で生まれ育った、生粋の洛陽人である。化粧品や香辛料の行商で、その僅かな稼ぎでどうにか家族を養っていた。
その日もまた、これといって当てもなく街をぶらついていると、一人の老人に呼び止められた。
深い皺を刻んだ老人は、周歓をじろじろと品定めするように見つめ、「ほう、これはなかなかの伊達男ではないか」と感嘆の声を漏らした。
老人は周歓を引き留めて矢継ぎ早に質問し、彼が洛陽の出身で、家柄も清く、定まった仕事もなく普段はぶらぶらしていることを知ると、不気味ににやりと笑い、こう言った。
「わしは、とある名家を知っておってな。近ごろ不運が続いているらしい。巫女に占わせたところ、若く健やかな男子を家に招き、厄払いの儀式を執り行う必要があるそうじゃ。礼はたんまりと弾むそうじゃが、もしよければ、わしと共に来てはくれまいか?」
「礼はたんまりと弾む」――その言葉に、元来、金に目のない周歓の心は踊った。後先も考えず、その場で承諾してしまったのである。
しかし、金に目が眩んだ代償がどれほど恐ろしいものか、この時の彼には知る由もなかった。
老人に連れられて路地に入ると、そこには一台の輿が待っていた。
その輿には窓もなく、四方は隙間なく塞がれ、さながら密閉された大きな箱であった。ただ天辺に親指ほどの穴が一つ開いており、そこから一筋の光が差し込むばかり。
「人をまるで荷物扱いじゃないか……近頃の名家というのは、何を考えているんだ?」
いささか不快感を覚えながらも、疑問を胸にしまい込み、周歓は輿へと乗り込んだ。どれほど揺られただろうか。しばらく運ばれた頃、輿は不意に静止した。
目的地に着いたかと安堵して輿から降りると、目に飛び込んできたのは、見慣れぬ路地と、衣類の詰め込まれた大きな葛籠――その脇には、屈強な衛兵が二人、石像のように佇んでいた。
「ここは……どこだ?」
問いかける周歓に、老人は含みのある口調で答えた。
「もう少しの辛抱でございますよ、周さん」
「えっ、なに……おい!?」
周歓が何か言う間もなく、左右の衛兵に両脇を固められ、為す術もなく葛籠の中へと押し込まれた。
ただならぬ事態にようやく気づき、籠から顔を出して抗議の声を上げようとした、その刹那。上からぐいと頭を押さえつけられ、頭上から、老人の静かな声が降ってきた。
「お静かに。もう間もなくにございます」
周歓は心の中で毒づいた。これほど奇怪なもてなしがあったものか。客人を迎える作法とは到底思えない。
だが、もはや賊の船に乗ってしまったも同然、運を天に任せるほかない。今の周歓はまな板の上の鯉であり、なされるがまま、衣類の山に身を潜めるしかなかった。
やがて、茶を一杯飲むほどの時間が過ぎ、うつらうつらとし始めた頃、籠の揺れが、ふと止まった。
「もうよろしいですよ、周さん」
ようやく許しを得て、周歓は大きな安堵の息を吐きながら、衣類の山から這い出した。
葛籠から出た瞬間、目の前の光景に思わず息を呑んだ。そこは、広々として壮麗な屋敷の一室であった。青磁や玉器をはじめ、周歓が目にしたことも聞いたこともないような骨董の品々が、所狭しと並べられている。
しばらくして、老人が数名の下男を伴って現れた。
「周さん、まずは湯浴みをして、お着替えを」
周歓は呆気に取られて口を開けた。
「湯浴み?着替えまで?そんな必要が……」
しかし老人は周歓の言葉を遮るように、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で促した。
「間もなく儀式が始まりますので。さあ、どうぞ」
下男たちは黙したまま、周歓を奥の部屋へと誘った。屏風の陰には湯気の立ち上る湯船があり、その表面には色とりどりの花びらが浮かんでいる。部屋の片隅の香炉からは一筋の青い煙が立ち上り、えもいわれぬ芳香が室内に満ちていた。
周歓が指一本動かすまでもなく、下男たちは手際よく彼の衣を剥ぎ、湯船へと導くと、丁寧にその体を洗い、髪を梳いてくれた。
これほどまで丁重なもてなしを受けるのは、周歓の生涯で初めてのことであった。道中の不快感や疑念は、たちまち霧散してしまう。
天国とは、かくも心地よいものか――周歓はうっとりと、甘美な夢のただ中にいるかのような心地であった。
しかし、その甘美な夢があまりにも早く終焉を迎えることを、周歓はまだ知らなかった。
「拙宅へようこそ」沈驚月はゆっくりと歩み寄り、卓の傍らに腰を下ろすと、手ずから席を勧めた。「周歓殿、どうぞ」周歓は事態を飲み込めぬまま、促されるがままに沈驚月の向かいへと腰を下ろした。見ると、沈驚月は酒壺を手に取り、静かに二つの杯を満たし、その一つを周歓の前にそっと差し出した。「先ほどは、当家の者が周歓殿にご無礼を。家人に代わり、私からお詫びいたします。まずは罰として、この一杯を」言うなり、沈驚月は杯をすっと掲げ、一息に飲み干した。飲み干すと、沈驚月は杯の底を相手に向けてみせる。周歓が自分を呆然と見つめていることに気づくと、杯を置き、扇子で口元を隠した。わずかに小首を傾げ、伏し目がちに囁く。「私の顔に、何か付いておりますか」「い、いや、何でもない!」周歓はようやく我に返り、慌てて手元の酒を呷ると、ばつが悪そうに笑った。「お恥ずかしい話ですが、先ほどの……」先ほど過って沈驚月に口づけてしまった一幕――その柔らかな感触が生々しく唇に残っており、周歓は珍しくも耳まで真っ赤に染め上げた。「俺は決して、わざと無礼を働いたわけではないのです!あれはただの事故でして!そう、不慮の事故です!」沈驚月は黙って周歓の様子を窺っていたが、そのあまりにしどろもどろな様に、とうとう堪えきれなくなったらしい。パチリ、と手にした象牙の扇子を閉じ、朗らかに笑い声を上げた。「家人に連れられて戻られた姿を拝見していなければ、疑ってしまいましたよ。今そこにいらっしゃる貴方と、先ほど屋根の上で凛として衆を一喝なさった貴方とが、本当に同一人物かと」周歓はきまり悪そうに頭を掻いた。「あれは、まあ、その……人を助けたい一心で、後先考えずに口走ったまでです。今思えば我ながらぞっとしますよ。もしあの時、足を滑らせて屋根から落ちていなければ、今頃は全身に矢を浴びて仏になっていたでしょう。そう考えると、沈驚月殿には命を救われたも同然ですな」その物言いがまた彼のツボに入ったのか、沈驚月は一層楽しげに笑った。「貴方を救ったのは私ではありませぬ。貴方の足を滑らせた、あの腐った瓦ですよ」二人が言葉を交わし笑い合ううち、張り詰めていた空気はすっかり和らいでいった。沈驚月が身の上を尋ねると、周歓もまた、兗州への赴任を隠す必要はないと判断し、陳皇后の勅命で監軍として洛陽からやって来た旨を、包
けたたましい音を響かせ、軒先から転落した周歓は、とある人物の上に覆いかぶさる形となり、鈍い音を立てて地面へ叩きつけられた。地面に叩きつけられたその刹那、周歓の唇は、不意に柔らかな何かに押し当てられていた。舞い上がった土煙が収まる頃、ようやく我に返った周歓は、己が誰かを組み敷いていることに気づいた。そして、先ほどの柔らかな感触が、まさしくその人物の唇であったことにも。しばし呆然としていた周歓だったが、はっと事態を悟ると、慌ててその身を飛び退かせた。目を凝らせば、そこに衣を乱して横たわっていたのは、まさしくあの気品高く清麗な貴公子であった。彼は呆気に取られた面持ちで、ただ周歓と視線を合わせている。白磁のごとき肌には薄っすらと埃がつき、先ほど周歓の唇と触れ合ったその唇は、血が滲むほどに赤く染まっていた。「あ、いや、す……すま……」心臓が早鐘を打ち、周歓は言葉を詰まらせた。それが最後まで紡がれることはなく、鈍い衝撃と共に後頭部を凄まじい痛みが襲った。周歓は白目を剥くと、再び貴公子の上へと崩れ落ち、そのまま意識を手放した。「若様!ご無事でございますか、若様ッ!」家令らしき男が木の棒を手に、狼狽えながら周歓の背後に立っていた。周囲の護衛たちも慌てて駆け寄り、数人がかりで周歓を貴公子から引き剥がす。貴公子は秀麗な眉をひそめ、胸元を押さえながら身を起こした。幾度か咳き込んだ後、喉の奥から背筋も凍るような低い声を絞り出す。「この男の口をぐちゃぐちゃに叩き潰せ!」「はっ!」護衛たちが応じ、周歓を拘束して連れ去ろうとした、その時であった。「待て」貴公子が、不意に鋭い声を上げた。「若様……?」護衛と家令は顔を見合わせ、困惑の色を浮かべた。貴公子は立ち上がると、周歓の目前まで歩み寄り、意識を失ったその体を頭の先からつま先までしげしげと眺め、しばし沈黙した。「気が変わった。この男を、屋敷へ連れて行け」貴公子は周歓の顔を見つめ、微かに――まさしく微かに、口の端を吊り上げた。---紫煙がゆるりと立ち上り、沈香の薫りが満ちている。「すまなかった――ッ!」真紅の帳が下りた寝台の上で、周歓は弾かれたように目を見開き、叫びながら飛び起きた。その叫びは、静まり返った室内に虚しく木霊した。周歓はしばし呆然としていたが、ふと視線を落とすと、己の体には柔らかく
声に応じるかのように、輿は静かに止まった。家令らしき老人が一人、小走りに駆け寄ると、御簾の前で恭しく身を屈めた。「若様、いかがなさいましたか」「前はどうした」「はっ。少々お待ちを」家令は傍らを振り返り、護衛の一人に命じた。「前方の様子を見てまいれ」その矢先、前方の人の群れから、突如として怒号が轟いた。目をやれば、襤褸をまとった男が、赤子を抱いた女の手を引き、騒ぎの只中から駆け出してくるところであった。「止まれっ!」長槍を構えた衛兵が、すぐ後から追いすがる。夫婦とおぼしき男女は一目散に逃げ惑い、道端の露店をいくつも薙ぎ倒していく。辺りはたちまち騒然とし、収拾のつかぬ混乱に陥った。「若様!前方は大変な騒ぎにございます。すぐにもお引き返しを!」家令が血相を変えて言上した。「何を慌てている」輿の中の主は、落ち着き払っている。言うが早いか、輿の中からすっと細長い手が伸び、御簾を静かに押し上げた。やがて、その主がゆっくりと姿を現す。周歓は、その姿を一目見て、思わず息を呑んだ。輿より現れた男は、雲紋を刺繍した深紅の鶴氅を羽織り、下には黒絹の衣を重ねている。広袖の長衣に身を包み、滝のように流れる黒髪は腰まで届き、朱色の細長い錦帯で緩やかに束ねられていた。その高貴な装いに違わず、容貌もまた、凛々しくも秀麗であった。遠目には、さながら峻嶺にそびえる一本の松の如き孤高を漂わせている。その刹那、前方で悲鳴が上がった。女を連れて駆けてきた男が、背後から放たれた長槍に背を貫かれたのである。男は苦悶の声を漏らし、どうと地に倒れ伏した。女は恐怖に顔を蒼白にさせ、何度も夫らしき男の体を揺さぶるが、応えはない。背後から武官が迫るのを見て取ると、女は胸に赤子を抱き直し、なりふり構わず、その貴公子の輿の前へと駆け寄った。「若様!お助けください、若様!」女は必死に護衛の制止を振り払おうともがく。その腕の中では、赤子が張り裂けんばかりに泣き叫んでいた。だが、かの貴公子は表情一つ変えず、象牙の扇をゆるりと開き、口元を隠すのみ。切れ長の目をすっと細め、その瞳には氷のような冷たい光が宿る。助ける気など毛頭ない、というように。見るに見かねた周歓は、すっくと立ち上がると、眼下の一群に向かって怒鳴りつけた。「おい、てめえら!人が困っているのを見て見ぬふ
「あれ?俺の令牌は!?」周歓は血の気が引くのを感じ、慌てて懐や袖を探った。しかし、あるべきはずの小袋の感触はなく、心の内で「万事休す」と呻いた。あの小袋には、けして少なくない銀両ばかりか、朝廷より下賜された令牌、そして何より重要文書まで入っていたのだ。金はまた稼げばよい。だが、文書の紛失は、牢獄行きを免れぬ重罪であった。将校は、周歓の狼狽ぶりを目の当たりにし、侮蔑の色を隠しもせずに鼻を鳴らした。「芝居はよせ。貴様のような手合いは腐るほど見てきた。口から出まかせで官吏を騙り、関所を抜けられるとでも思ったか。無駄な足掻きはやめて、とっとと失せろ」言い放つや、無造作に腕を伸ばし、周歓を突き飛ばした。「待て!俺は本物の朝廷官吏だ!!」突き飛ばされた周歓は、しかし怯むことなく猛然と食い下がった。「令牌は盗まれただけだ!俺を斉王様のもとへ連れて行け!斉王様が俺の身分を御存じだ。嘘ではないと証言してくださる!」「その薄汚いなりで斉王様への御目通りを願うか?」将校はもはや聞く耳持たぬとばかりに刀を抜き放ち、その切っ先を周歓の喉元に突きつけた。「とっとと失せろ!さもなくば、貴様を閻魔の元へ送ってやる!」周歓は、この手の輩が強きに媚び、弱きを挫く類の人間であることを見抜いていた。ゆえに臆する色もなく、相手の鼻先を指差して罵声を浴びせた。「おい、この腐れ役人が!人のなりで判断しやがって。脅せば俺が怖気づくとでも思ったか?知ったことか、俺は斉王様にお会いするんだ!煮るなり焼くなり、斉王様にお会いしてからにしろ!俺の言葉に半