Masuk九月五日。その日は雲一つない快晴で、空はどこまでも澄み渡り、日差しもそれほど毒々しくはなかった。
空港へと続く高速道路。
助手席に座る練は窓を全開にし、秋の気配を含んだ涼やかな風に短い髪をなびかせていた。
「おい。高速に入ったんだ、もう少しスピードを上げたらどうだ?」
練は窓枠に肘をつき、隣の男にけだるげに問いかける。
「話しかけないで!俺がよそ見して事故起こしたらどうするんだ?」
颯斗はハンドルを握りしめ、まるで不倶戴天の敵を前にしているかのように前方を凝視していた。
上司である練のムチに打たれ、この一か月で颯斗は必死に免許を書き換えた。だが新米ドライバーの彼は、ろくな路上経験もないまま、練に半ば強引に高架道路へと引きずり出されたのだ。
今の彼は緊
夜は更け、露は冷たく降りていた。明月は千切れ雲の背後に半ば身を隠し、揺れる木々の影を石段の上へ淡く落としている。練は赤衣の弟子の後に従い、幾度も折れ曲がる山道を登り続け、ようやく山頂の開けた場所へ辿り着いた。その地へ足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような圧迫感が全身を包む。練は直感に従って顔を上げた。朧な月光の中、巨大な石門が威圧的にそびえ立っている。門の左右には二本の石柱が据えられ、そこには移星の里が神獣として崇める白虎の紋様が刻まれていた。赤衣の弟子は一歩前へ進み出ると、石門へ向かって朗々と声を張り上げた。「当主、九尾銀狐をお連れしました」「……通せ」低く威厳に満ちた声が響いた直後、石門が轟音を立てて震え、ゆっくりと左右へ開いていく。その奥には、底知れぬ闇が広がっていた。練は内心、密かに舌を巻いた。刑天岳が何を企んでいるのかは分からない。だが、衆人環視の場では銀狐を受け取らず、わざわざ人目のないこの洞窟へ運ばせたということは、何か表に出せない思惑があるのだろう。しかし、今は考え込んでいる余裕はない。練は「失礼いたします」と恭しく一礼すると、竹籠を手に闇の中へ足を踏み入れた。数歩進むと視界は完全に閉ざされたが、その代わり、二人の足音だけが虚ろに反響しているのが聞こえる。どうやら内部は、想像以上に広大な空間らしい。「止まれ」不意に、冷徹な声が闇の奥から響いた。
月は冴え、星は疎らな夜――移星の里には煌々と灯がともり、歓待の杯が絶え間なく交わされていた。今宵は、討魔師一族の当主・刑天岳、四十五歳の生誕の日である。本堂は色鮮やかな提灯で飾り立てられ、高名な賓客たちで埋め尽くされていた。里全体が、秩序ある喧騒に包まれている。主座では、刑天岳が珠簾越しに酒案へ身を預け、賓客たちからの祝辞を受けながら、次々と献上される色とりどりの進物へ静かに目を通していた。十年前、刑天岳が突如として失踪し、里が内紛に陥り、一度は崩壊寸前まで追い込まれた――そんな過去など、今の繁栄ぶりからは誰ひとり想像もできないだろう。幸いにも、天は里を見捨てなかった。半年後、長く行方不明となっていた当主が突如帰還したのである。彼は苛烈な手腕で内乱を鎮め、たった一人で傾きかけた門派を立て直した。如今の移星の里の繁栄は、まさにその男あってこそ築かれたものだった。ゆえに、この十年という節目に盛大な寿宴を開き、当主の生誕を祝うことは、至極当然の成り行きであった。夜が更け、すべての賓客との面会を終えると、簾の向こうの男はわずかに疲れを見せ、左右へ軽く手を振って休息を命じた。彼が席を立とうとした、その時――。「当主、お待ちください!」澄み切った声が、本堂いっぱいに響き渡った。人々の視線が一斉にそちらへ向く。刑天岳もまた足を止め、ゆっくりと振り返った。衆目の中、本堂中央に立っていたのは、青い制服をまとった練だった。衣の裾を静かになびかせ、腰には玄鉄剣を佩いている。そしてその足元には、一つの竹籠。
皆川は伏し目がちにわずかに躊躇を見せた。その瞳の奥には、拭いきれない迷いの色が滲んでいる。「正直、最初は馬鹿げた話だと思っていました。でも、それ以外に納得できる理由が見当たらないんです」「それで、俺のところへ抗議に来た……というわけですか」「霧生先生」皆川は顔を上げ、真剣な眼差しで言った。「僕は、先生が以前してくださったことには感謝しています。先生がいなければ、僕は今も家に軟禁されたままだったでしょう。今日ここへ来たのも、責めるためじゃありません。ただ、青峰の身に何が起きたのかを知りたいんです」「どうしてですか」「どうして、とは?」皆川は虚を突かれたように言葉を失った。練はじっと彼を見つめる。わずかに吊り上がった口元から、白い煙が静かに漏れた。「どうして知りたいんです。知って、あなたはどうするつもりなんですか?」「それは……」皆川は二の句を継げなかった。練は落ち着き払った様子で口を開く。「今の青峰さんの生活は、ようやく軌道に乗り始めています。仕事に打ち込み、あなたも自由を手に入れた。青峰さんの突然の襲撃に怯える必要もなくなった。互いに干渉せず、それぞれの人生を歩む――それは、とても良いことじゃありませんか」皆川はしばらく呆然としたまま、虚ろな瞳で練を見つめていた。「霧生先生……僕に彼を忘れろ、赤の他人になれとおっしゃるんですか」練は肩をすくめた。「すみません。困らせるつもりはないんです。ただ、青峰さんは俺の患者だ。外部の人間に、むやみに患者のプライバシーを漏らすわけにはいきません」「僕が、外部の人間?」皆川の顔色が変わる。「青峰さんとは、もうお別れになったのでしょう?」「だからといって、彼との関係が完全に消えたわけじゃない」練は意味深に「ほう」と声を漏らした。「……つまり、皆川先生と青峰さんは、今でも恋人同士だということですか」皆川ははっと息を呑み、痛いところを突かれたように下唇を噛んだ。「霧生先生、長々と話をしておいて、結局それが狙いだったんですね」「誤解しないでください」練は至って真面目な顔で続けた。「青峰さんの身に何が起きたのかを知るには、催眠治療を受けるしかない――そう言いたいだけです」「催眠……治療?」「ええ。そうすれば、潜在意識を共有し、あなたを青峰さんの精神領域へ連れていくことができます
春のように暖かな深須から東雲へ戻った翌日、東雲には今冬初めての雪が降った。颯斗は、まるでジェットコースターのような急激な気温差を身をもって味わうことになった。正月が近づくにつれ、冷え込んでいくのは気温だけではない。街を行き交う人影も車の数もめっきり減り、慌ただしかった日常には、突然スロー再生のボタンが押されたかのような静けさが漂っていた。ようやく一息つけるかと思った矢先、練の診療所に一人の馴染み客が現れる。雪上がりの澄んだ陽光が差し込む午前。青峰は、風塵を巻き上げるような勢いで颯斗の前に現れた。「良いニュースと悪いニュースがあるんだ。どっちから聞きたい?」「もったいぶるなよ。……じゃあ、悪い方から」リビングのソファに腰を下ろした颯斗は、落ち着かない面持ちで答えた。「実はさ……」青峰は少し肩を落としたように言う。「例のドラマ、落ちちまったよ」最悪の事態まで覚悟していた颯斗は、その拍子抜けする内容に大きく安堵した。「なんだよ、それくらい。不治の病にでもなったのかと思ったぜ。オーディションなんて一度や二度落ちたくらいで終わりじゃない。まだチャンスはいくらでもあるさ。いっそ……」「いっそ、お前の診療所で食い扶持でも稼ぐか?」「ああ、歓迎するぜ。……で、良いニュースってのは?」青峰は身を乗り出し、声を潜めて告げた。「主役が決まったんだ」元々受けていた現代アイドルドラマには落ちたものの、その監督が青峰を気に入り、知り合いのプロデューサーへ紹介してくれたのだという。そのプロデューサーが手掛けるのは、ミステリー色の強い時代劇。撮影中、主演俳優が交通事故に遭い、急遽代役を探していた。青峰の持つ鋭さと陰鬱さが入り混じった独特の気質が役柄にぴたりと嵌まり、代役としての出演が即決したのだ。低予算ドラマとはいえ、配信先は世界最大級の動画配信サービス。しかも演じるのは珍しいダークヒーロー役――これを機に、“どん底からの大逆転”も決して夢ではない。「まさに『絶体絶命の淵で、新しい道が開ける』ってやつだな」感嘆した颯斗は、ぽんと彼の肩を叩いた。「ああ。合格の連絡をもらった夜なんて、嬉しくて一睡もできなかったよ」親友の幸運に、颯斗も心から嬉しくなる。反射的に、その言葉が口を突いた。「皆川先生が知ったら、きっと喜んでくれるぜ」その瞬間、空気が凍りついた
颯斗が火急の勢いで客室へと雪崩れ込んだ時、浴室からは飛沫をあげるような激しい水音が響いていた。練がシャワーを浴びている最中なのだろう。室内を見渡せば、ベッド脇の丸テーブルには案の定、食べかけの朝食が放置されていた。数口かじられたサンドイッチに、二つのコーヒーカップ。並べられたカトラリーも二人分。それは、誰かとここで朝のひとときを共にした、明らかな痕跡だった。綯い交ぜになった感情を抱えたまま、颯斗は重い腰つきでベッドの端に腰を下ろした。やがて水音が止み、下着の上にバスローブを無造作に羽織っただけの練が浴室から姿を現す。颯斗はゆっくりと顔を上げ、射抜くような視線で彼を凝視した。「……戻っていたのかい?」練は一瞬、面食らったような表情を浮かべた。「朝飯は、さぞかし美味かったんだろうな?」その言葉に、練の表情が硬く強張る。彼は肯定も否定もせず、ただ「ふむ」と短く鼻を鳴らした。そして何事もなかったかのように洗面台へと向かい、ドライヤーを使い始める。ごく自然な仕草を装ってはいるが、颯斗の目には、その一挙手一投足が何かを隠し、懸命に逃避しているようにしか映らなかった。颯斗は立ち上がり、音もなく背後から練に近づくと、その細い腰を力任せに抱きしめた。練は驚き、ドライヤーの手を止める。颯斗は大型犬さながらに、練の肩甲骨へと鼻先を押し付け、深く息を吸い込んだ。ボディーソープの清々しい香りと、嗅ぎ慣れた練自身の柔らかな体温の匂い。――よかった、他の男の臭いはしない。「……さっき、哲を見たぞ」嫉妬の混じった、低く苦々しい声が漏れる。「フロントの奴も言ってた。あいつがお前のためにルームサービスを頼んだってな」「相変わらず、無闇に焼きもちを焼くのが好きなんだね」練はため息をつき、自嘲気味に微笑んだ。そして颯斗の腕の中でくるりと向き直ると、至近距離でその瞳を覗き込む。「ああ、確かに哲と会っていたよ。だが、話していたのは仕事のことだ。D.I.A.について、彼に教えを乞うていたのさ」「D.I.A.?……あのシステムに、何か問題でもあるのか?」「前回の治療で、剣修と銀狐の間で交わされた『賭け』を覚えているかい?」「ああ、もちろんだ」あの時、銀狐は剣修への恋の呪いを解き、二人の記憶は一時的に練へと預けられた。もし十年後、それでもなお剣修が再び銀狐を愛したなら
翌日、再び目を覚ました時には、すでに外はすっかり明るくなっていた。颯斗が枕元のスマートフォンを探って確認すると、時刻は朝の八時を回っていた。隣では練が変わらず眠りについており、彼の手首を拘束していたベルトはすでに解かれていた。身支度を整えていると、颯斗のスマホに翼からメッセージが届いた。食事の誘いで、すでに彼と真梨が車でホテルの下まで来ているという。今日、颯斗と練は午後五時の飛行機で東雲市に帰る予定なので、時間はまだたっぷりある。練はまだ深い眠りの中にあり、当分は起きそうにない様子だったため、颯斗は着替えを済ませて部屋を出た。颯斗の姿を認めるや否や、目ざとい翼は彼のうなじにある薄い引っ掻き傷に気づいた。「おやおや、お前の彼氏さん、随分と激しいんだねえ」颯斗はうなじを片手で隠し、顔を真っ赤にして吐き捨てた。「黙れ!」翼は車を出し、地元で評判のレストランへと颯斗を案内した。本当は今日、颯斗と練の二人に食事を馳走するつもりだったのだ。昨日は結婚式の準備に追われ、個人的に語らう時間が持てなかったからだ。しかし、練が起きてこなかったため、予定していた四人での会食は、結局三人で行われることになった。食事の最中、颯斗は鞄から翼に返す約束だったホラーゲームを取り出した。その見慣れたパッケージを目にした瞬間、翼はどうりでずっと見つからないわけだと大声を上げた。颯斗が今もゲーム制作を続けているのかと尋ねると、翼は力強く頷いた。最近はアートデザインの下請けをこなしながら人脈を広げており、中には彼の作品に興味を示すパブリッシャーも現れ、現在は提携の交渉を進めている最中だという。うまくいけば、以前頓挫したプロジェクトが、本当に起死回生を果たす可能性もあるとのことだった。前途は依然として不透明だが、翼には彼を支える伴侶がいる。真梨は翼の起業を支持しているだけでなく、スタジオ設立の準備まで甲斐甲斐しく手伝っているのだという。親友が公私ともに充実している姿を見て、颯斗は喜ばしく思う反面、どこか羨ましさを感じずにはいられなかった。食事を摂る以上に、二人の甘い惚気話でお腹がいっぱいになってしまった。腹ごしらえを終えた後、夫婦は颯斗を乗せて市内をドライブしようと提案したが、颯斗は練のことが気掛かりだったため、十一時頃にはホテルに戻ることにした。ホテルの車寄せで別れ
「もしかして、親に捨てられたんじゃ……?あんな小さな子が一人で立ってるなんて、周りに大人もいないし危険だよ。ちょっと聞いてくる」颯斗がそう言った。「待て、颯斗……!」練が制止する間もなく、颯斗は有無を言わさず駆け出していた。「こんにちは。何か手伝おうか?」少女の前まで走り寄ると、颯斗は軽く手を振った。
少女の顔にはいかなる感情の色も浮かばず、ただ淡々と数歩後ずさった。「颯斗!颯斗!!」練は颯斗の体を強く抱き寄せ、まず鼻先に手を当てて呼吸を確かめ、続いて頸動脈に指を添えて脈拍を測った。「霧生さん!?颯斗はどうしたんですか?」奏も駆け寄り、練と並んで颯斗の肩を支える。「心拍が少し乱れている。仰向けに寝かせて、まぶたの上から眼球を指で静かに圧迫しろ」 
激しい雨が無情にも血痕を洗い流していく。フォグレインの広場は、度重なる激闘と衝撃によって大地が引き裂かれ、いたるところに無残な爪痕が残されていた。瓦礫の山と化した廃墟の中で、颯斗はいまだにアルベインと死闘を繰り広げ、一進一退の攻防を続けていた。練が去ってから、どれほどの時間が経っただろうか。練は立ち去り際、「俺が戻るまで、必ず持ちこたえてくれ」とだけ言い残した。颯斗はあの時、自信満々に「任せてください」と答えたもの
颯斗は何も答えなかった。ただ、絵の中で今にも弾けようとする繭を凝視し、一歩、また一歩と歩み寄ると、肺腑の底まで空気を吸い込むように深く息を継いだ。直後、彼は衆目を凍りつかせるごとき暴挙に出た。固く握りしめた拳を振り上げ、あろうことかその絵画へ、真っ向から叩きつけたのだ。拳撃はキャンバスを貫き、そこには無惨な風穴が開けられた。一瞬の静寂が満ち、次いで会場は蜂の巣をつついたような大騒乱に包まれた。時を同じくして、地下水道でアルベインと対峙していた練の肌にも、奇妙な波動が伝播した。次の刹那、アルベインは何かに触発されたかのように激しく身を捩り、地下道全体を震わせる鋭い咆哮を上げた。狂乱