Chapter: 十一話思い出す――過去。 思い出したくなかった――過去。 胸の底で黒い泥のように沸き立つ――殺意。 どうしようもない――復讐心。 「なんで、この街に来て――」 「あの!何用でこちらに?」 メリダはミヤの体を押さえ、その言葉を慌ててかき消した。 ユグナは一切の感情を感じさせない無の表情で、こちらを見た。 顎髭は荒く伸び、目の下には深いクマ。 だが何より恐ろしいのは、傷跡が……口元を切り裂かれたのか、まるで笑っているように歪んで見えることだった。 「随分と嫌われたものだ……理由を聞いても?」 「いえいえー、黎冥府さんの方とお会いするのは久しいもので、緊張しているだけですよ」 ユグナは反応しない。 ただ、その視線だけが動く。 刃物を当てられたかのような鋭さで、メリダの喉元、手の震え、ミヤの呼吸の浅さを、ひとつひとつ見ていく。 肌が粟立つ。 ユグナは、明らかに戦場の空気をまとっていた。 「この人、大怪我を負っていて」 メリダは今にも震えだしそうな指でミヤを指す。 「まだ治療中なので、今日のところは……お引き取りを」 ユグナは音もなく一瞬で、一歩近づいた。 床板は軋まない。 呼吸の気配すらしない。 生きているのに、まるで死んでいるかのようだった。 目だけを大きく見開き、三人を舐めるように見渡す。 視線が通った部分に冷気が残るような錯覚すらある。 しばらくして、ゆっくりと、不自然にゆっくりと、口角だけを持ち上げた。 目頭と目尻を落とし、三日月のような目で笑う。 口元の傷が、不気味さをより一層膨張させる。 「本日は……誠に。誠に、失礼いたしました」 深く腰を折るが、顔はメリダたちから一度も逸らさない。 「ではまた適切な時期に、必ず……伺います」 踵を返すと、 コツ……コツ……コツ…… 規則正しい足音は、病室に何かを宣告するように響き渡った。 その後、しばらく男の足音が耳から離れなかった。 ユグナが去ったあと、部屋に荒れ残ったのは、気味の悪い沈黙だった。 メリダはまだ緊張の名残で指先が冷え、両手で指先を包み隠すように握っている。 マリアは小さく肩を震わせ、ミヤだけが深く息を吸い、乱れた呼吸を整えようとしていた。 ――その時。 廊下
Last Updated: 2025-11-27
Chapter: 十話 ーー街病院・特別療養室。「お人形ちゃん、少しミヤちゃんと話したいから、隣の部屋で待っててくれる?」「はい……わかりました」 マリアはすっと立ち上がる。 名残惜しそうに一度だけ振り返り、部屋を出ていった。 ゆっくりと扉が閉まると、足音が遠ざかり、やがて音はなくなる。 医師はベッド脇の椅子に腰を下ろし、幼い子の頭を撫でるかのように、ミヤの髪に手を添えた。「まったく……無理しすぎよ。チサばあちゃんもよく言ってたわ、『あの子はね、気づかないうちに心と体を削ってしまう子だ』って。」 メリダは、チサばあちゃんの喋りを真似するように口を動かすと、ミヤはゆっくりと目を開けた。 一粒の涙が頬を伝い、シーツの上へ静かに落ちた。「チサ……懐かしい名前。本当に、よくしてもらったなぁ……」「チサばあちゃんも、あなたのことをよく話してたわ」「そっか……」 ミヤは小さく微笑み、遠い日の記憶に浸る。「……早速今後の話なんだけど、いいかしら?」 医師は唇を引き結び、深く息を吸った。 まるで誰かの最期を告げる前のように、言葉を探しながら悲痛な表情を浮かべる。 そしてミヤは静かに頷いた。 「ミヤ、このままじゃ持たないわよ。あなたの病名は……空殻病《くうかくびょう》随分と昔だけど、ミヤのお人形ちゃんがかかった病と同じものよ、覚えてる?」 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 空殻病――それは、精神・魂・記憶のどこかが器から抜け落ちるように失われていく特殊な病。 重症化すると魂だけが離れるような症状が起きる。 そしてふとした事で記憶が蘇ることもある。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 医師は皮膚に爪が食い込むほど、力強く拳を握った。「……うん。でも、あの子らを守らなきゃいけないんだよ、僕は」 優しく儚い瞳。 ミヤの思いは、意識せずとも表情や瞳に現れる。「あ、ミヤ、そういえば昨日患者さんが気になる事言ってて――」 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 陽の光が差し込む角部屋の病室で、ベッドの端で杖をつき座るお爺さんの姿があった。 外に植った木の枝に、小鳥の夫婦が身を寄せ合っている。お爺さんは、仲睦まじい小鳥の夫婦をボーッと眺めていると、部屋の扉がガッと開き医師が入ってくる。「トウゲンさんおはよう」「ねーーちゃん、ねーちゃんや」 それは、特別室医療室……ではなく一般の患者が入院する病室
Last Updated: 2025-11-27
Chapter: 九話 扉の先には――。 もう一つの部屋が、ひっそりと息を潜めていた。 広さ的には寝室とほぼ同じのようだ。 薄暗い空間に、微かな木の匂いと、長い時間封じられていたような冷たい空気が漂う。 部屋の端にはベッドと机。配置は、彼らが普段使っている寝室とほとんど同じ。 だが、違和感はひと目で理解できた。 お揃いのものが、二つずつ置かれている。 一つは、大人用のもの。 そして、もう一つはまるで子ども用のように小さく作られた、同じデザインのもの。 靴も。 手袋も。 マフラーも。 服も。 すべて大人用と子供用が対になって並べられている。 机の上の古いランプの横には、同じデザインの小さなランプ。 ベッドの上には、大きな枕と、小さな枕。これも全く同じ。「なんだよ、これ……」 つい、声が漏れる。 部屋の隅には蜘蛛の巣が張りつき、誰にも触れられずに長い時間放置されていたことを物語っていた。 床には薄く積もった埃が、足跡をつけるたびにふわりと舞い上がる。 ベッドのシーツもくすんでいる。きっと何年も人が横になっていないのだろう。 まるでこの空間だけ、時間が止まったまま取り残されているかのようだ。 誰かが帰ってくるのを待っているように――。 そんな不思議な気配が、壁にも家具にも薄く染み付いている。 壁にかかった小さな額縁には、ミニチュアの服を着た小さな人形が飾られていた。 それは、ミヤが作る人形たちよりもずっと古い造りで、どこか寂しげにこちらを見つめているように見えた。 ふと視線を上げると、その人形の背後の壁に、薄い傷のような線がいくつも刻まれていることに気づいた。 爪で引っかいたような、あるいは小さな手で何度も触れられたような跡。 理由のわからない生々しさが、背筋を冷たく撫でていく。 彼の胸の奥がぞわっとする。 ミヤは、ここで何をしていたのか。 そして、誰のための部屋なのか。 疑問が静かに、彼の心を追い詰めていく。 何度も、何度も胸の奥から「やめろ」と声が響く。 こんな事をしてはいけないと分かっている。 踏み込んではいけない領域……触れてはならないミヤという女性の内側に手を伸ばしていると、誰より自分が理解している。 それでも、彼は足を止められなかった――。 ゆっくりと部屋の中を歩き回り、罪を重ねるように視線を這
Last Updated: 2025-11-24
Chapter: 八話 医師が、部屋から出てくる。「命に別状はないよ。だが、あまり無理をさせないほうがいい。……|ミヤ《彼女》は、ちと命を削りすぎだ」 その声音は落ち着いているのに、表情はどこか深刻だった。 二人は馬鹿ではない。そのわずかな陰りを察し、不穏な空気に胸が締め付けられる。「……っ、ミヤを助けていただいて……ありがとうございます……」「ありがとうございます……」 不安や恐怖、緊張で張りつめていた糸がぷつりと切れたように、堪えていた涙が一気にあふれた。 涙が枯れてしまうのではないかと思うほど、彼は声を忘れて泣き続けた。「彼女はしばらくここで入院させるから、着替えとか、必要なものを用意してきてほしいの」 命を取り留めるという大きな仕事を成し遂げたというのに、医師は淡々としていた。 たが、その冷静さが逆に彼らを安心させた。「は、はい……、わか……ヒッ……りました」 泣き止んだはずなのに、胸の奥に残ったしゃっくりだけが小刻みに彼を揺らし続けていた。 彼はすぐに立ち上がり、薄暗い病院の廊下を出口へ向かって歩き出す。 数歩進んだところで、思わず振り返った。「ありがとうございます!」 その声には、強い決意が感じられた。 マリアはミヤの付き添いで、病室に残ることとなった。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 彼は家にたどり着くと、真っ先にミヤの部屋へ向かい、服や日用品を大きめの旅行鞄に丁寧に詰めていった。「着替え用の服に、パジャマ……し、下着もちゃんと入れないとな……」 誰もいない部屋で、彼は一人頬を赤くし、羞恥をごまかすように顔を腕に埋めた。《あとは、歯磨きセットと……あれ、いつも手に持ってた手帳が無い》 彼は部屋中を探し回った。 あの手帳は、きっとミヤの大切なものだ。 何よりも、いつも肌身離さず持っていたのだから。 何度も何度も心の中で繰り返しながら。 キッチン、寝室、作業部屋、探しに探し続け――。「……あとはここか」 扉を開けた先には、木材や糸など、ミヤが仕事で使う材料を詰め込んだ保管棚がいくつも並んでいた。 薄く木の匂いが漂い、彼女が手先で作り出してきた温もりがそこに残っている。 この材料庫の広さは、リビングをもう半分程広くしたくらいだ。棚の段数も多く、いくつかは天井近くまで積み上がっている。 ここを全部探すとなると、相当な時間
Last Updated: 2025-11-22
Chapter: 七話「やばいやばい、こんな時間になっちゃった」 ――16:25。 夕暮れ時、腕時計を見た彼は、マリアと二人で走り|命の宿り木《家》へ帰った。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 一枚目の扉を開けた瞬間、やけに家の中が静かだった。「いつもなら『おかえりぃ』って来るのにね」「はい……なんだか寂しいです」 二人は顔を見合わせる。 奥へ進むにつれ、空気はひんやりと重くなっていく。 彼はその違和感に気づきながらも、マリアを不安にさせないよう、冗談っぽく呟く。「仕事に疲れて、奥にでも篭ったのかな?」 人形で埋まった一部屋目を通り抜け、二枚目……リビングにつながる扉に手をかける。 取っ手が、妙に冷たかった。「ミヤ……、てぇ……、」 扉を開くと、食卓の上にミヤが頭を伏せ、動かずにいた。その姿を見て、強張った肩がふと緩む。《……寝てたんだ》 寝室から薄いブランケットを持ってきて、そっと肩にかける。 ミヤの肩に触れた時、体温が少しだけ冷えているように感じたが、気のせいだと自分に言い聞かせた。 ただ冷えているだけだと。 そうして彼はエプロンをつけ、マリアと視線を合わせる。 「また寝ちゃったんだね。マリアちゃん、今日は何食べたいー?」「シチューというお料理を食べてみたいです。この前ミヤが言っていました。白くトロッとしたものに、ホクホクのお野菜が浸かっていると……」 グッと親指を立てると、手馴れた動作でシチューを作り始める。 具材が煮え始め、コトコトと鍋が心地よい音を立てる。 その音だけが、やけに大きく響いた。 まるで、他の何かが音を吸っているように。「そろそろかな〜」 ――カンカン、カン。 ルーを鍋へ入れようとした時、ふと視線がミヤに引かれた。「ミヤー、そろそろご飯できるよー!」 十分届くほど、大きくはっきり呼んだ。 呼んだのに――、 返事がない。 ミヤの肩は、呼吸に合わせた揺れすら見せなかった。 さっきまでは、寝ていると思えたのに、今見るとその静けさは、まるで|止まっている《・・・・・・》ように見えた。「ミヤ……? マリアちゃん、ミヤ起こしてきてくれる?」 彼は鍋の前に立ったまま、マリアをそっと促した。 自分の手が、ルー持つ指先が、震えていることに気づかれないように。 マリアがミヤに近づく。 リビングの床が、一歩ごとに小さく
Last Updated: 2025-11-19
Chapter: 六話 通貨名また通貨価値は以下の通り。 1メル 1ドルン=100メル 1グラド=30ドルン 1ザルク=30グラド 一般な成人労働者の給料月額1グラド(3000メルン)前後。 ◻︎◻︎◻︎◻︎「このペンダント、マリアちゃんにすごく似合ってると思う。目の色と似てる――」 マリアはほんのり頬を赤らめた。 店員のおばさんは、ペンダントを小さな紙袋に入れ、彼へ手渡しながら微笑む。「あらお兄さん、プレゼントかい?」 ペンダントを差し出すと同時に、店員のおばさんは気さくに話しかけてきた。「え……っと、はい。彼女に……」 普段ほとんど人と話さない彼は、視線を落としながら答える。目が不安げに左右へ揺れていた。「まぁ、彼女さんに。ふふふ……すごく似合ってるわよ!お買い上げありがとうね。1グラド8ドルンになるよ」《貰ったお給料は2グラドと5ドルンだから……1グラド8ドルンか、ちょっと高いけど、マリアちゃんの喜ぶ顔の方が見たいし即決かな》 覚悟を決めたように、彼は優しく、どこか照れたような笑みを浮かべる。 挙動不審ではあったが、無事にペンダントを受け取った。 店を後にし、二人は噴水広場へと向かう。「マリアちゃん、こっちに来て」 噴水の縁に腰を下ろした彼は、人ひとり分空けて座るマリアを手招きした。 マリアは素直に頷き、静かに彼の隣へと歩み寄る。「マリアちゃん、首、ちょっとだけ見せて」「……?」 マリアは言われるまま、胸の前で手を揃え、少し前に身を傾けて首を出した。 彼は袋から買ったばかりのペンダントを取り出し、チェーンをそっと広げる。そして、マリアの後ろへ手を回し、迷いのない動作で留め具を閉じた。「ありがとうございます……」 彼女の頬は薄赤い染が浮かんだまま、ますます色づいていく。 マリアは胸元に揺れるペンダントをそっと左手に持ち上げ、右手の人差し指で宝石の縁を撫でた。触れた瞬間、小さく息をのむ。「きれい……」 こぼれ落ちるようなマリアのつぶやく姿は、儚きほどにただただ綺麗だった。 だが彼の耳には、はっきりと届いていた。「……うん。綺麗だね」 慣れない感情に胸をくすぐられ、彼は言葉を拾い損ねるように間を空けてしまう。 マリアは陽の光にペンダントをかざしたり、噴水の水に映る青色と見比べたり、ただそれだけで嬉しさを全身で語っていた
Last Updated: 2025-11-17