Chapter: 第七十六話 『彼の正体』 ◆ルリカ 一月も下旬に入った朝、ルリカは出産のために入院した。 付き添ってきた直恵は、足りない荷物を取りに乾家へ戻っていた。出産まではまだ時間がかかると聞いて、着替えなども持ってくるつもりらしい。 個室のベッドで、枕元に置いたスマートフォンへ手を伸ばす。直人からは、商談を終えたらすぐに向かうと連絡が来ていた。何かあったら電話しろ、とも書かれている。 返事を打ちかけたとき、下腹部がぎゅっと締まった。 「……っ」 ルリカは端末を置き、シーツを掴んだ。看護師に教わったように、ゆっくり息を吐く。先ほどまでは話せる程度の痛みだったのに、次の痛みが来ると、声を出すのも難しかった。 痛みが引いてから、もう一度、画面を確かめた。 実家の両親、そして直人と直恵とは別に、入院したことをもう一人にだけ知らせてあった。そちらからは、まだ返事が来ていない。 ――忙しいのかな。 いつものように、既読の印だけがついている。それでも、何度もスマートフォンの画面を開いてしまう。 控えめに扉が叩かれたのは、そのときだった。 「入るよ」 ルリカは、ぱっと顔を上げた。 「悠乃介……!」 「やっほ」 扉の向こうから、人懐っこい笑顔が覗いた。コートを着た悠乃介が、後ろ手に扉を閉める。 「来てくれたの?」 「来て、ってそっちが言ったんでしょ? で、どう? やっぱり痛いの? それって」 もの珍しそうに腹部を指さしてきた悠乃介に、ルリカは得意げに笑った。 「うん、これが俗にいう陣痛かぁって感じ。けど、大丈夫。まだ、産まれるまで時間かかるみたいだよ」 ルリカは乱れた髪を耳にかけた。化粧もしていない。せめて、顔だけでも洗っておけばよかった。 悠乃介はベッド脇の椅子へ腰を下ろし、鞄を膝に置いた。 「乾直人は?」 「まだ仕事。連絡はしたけど。あとで来るって」 「なるほど。じゃあ、少し話せるのかぁ」 少しだけでもいい。わざわざ自分のために、悠乃介がここまで来てくれたのだ。 ルリカは掛け布団の下で膝を揃え、彼のほうへ体を向けた。 「
Last Updated: 2026-11-03
Chapter: 第七十五話 『きみの傘に入りたい』 ◆雪臣 一月も三週目に入った。 雪臣の風邪は治ったが、珠希との間に流れる空気は元に戻っていなかった。 午前中、デザイン部に顔を出した際に見せてもらった新ブランドの図案には、石や形の選択肢が増えていた。珠希は、受け持っている業務の合間にデザインを考えているという。 仕事の話なら、これまで通り目を合わせてくれる。雪臣も、以前と変わらず相談を重ねることができていた。 けれど、ジュエリーの話が済めば、珠希はすぐに席を立ってしまう。その背中を、今日も呼び止められなかった。 五階の窓から、どんよりと曇った空を眺める。何でもない顔をして社長室へ戻った。 + + + 十七時すぎ。帰宅しようと瀬原と一階へ下りたところで、雪臣は足を止めた。 「あ……」 ロビーに珠希がいた。これから帰るのか、自動ドアに向かって一人で歩いているところだった。 少し遅れて、雪臣の隣で瀬原も「あ」と声を漏らした。雪臣と珠希の姿を交互に見たあと、彼女が腕時計へ目を落とす。 「あー。雪臣さん。申し訳ありません。やり残した仕事がありました。本日は、お帰りください。ご自分で」 ひどく平坦な声だった。 ついさっき、今日の業務の確認は済んだと言っていたはずなのに。 「おい……」 雪臣が問う前に、瀬原は踵を返していた。 ここ数日、仕事の話を終えた珠希が席を立つたびに、瀬原と目が合っていた。長く共に仕事をしてきた、勘の鋭い秘書だ。何も言わないだけで、二人の様子が変わったことには気づいていたらしい。 ……タクシーなら呼べる。ポケットのスマートフォンへ手を伸ばしかけ、やめた。 珠希が自動ドアを出る。雪臣も少し遅れて外へ出た。まるで、こそこそと後をつけているようだった。 小雨が降り始めていた。 社長室に傘を忘れたことに、今さら気づく。取りに戻れば、珠希は先に行ってしまう。ただでさえ、この足では追いつけないのに。遠ざかっていく彼女の背中を見ながら、ぱらぱらと降る雨の中を進んだ。 横断歩道の手前で、珠希の水色の水玉模様の傘が止まった。信号が赤になっている。このままでは、追いついてしまう。
Last Updated: 2026-11-02
Chapter: 第七十四話 『好きな人の隣で少しでも、』 ◆雪臣 鉛筆を置き、絵にカバーを掛けた。ベッドに横になっても、とても眠れそうにはなかった。けれど、風邪で体力が落ちていたせいか、次に目を開けたときには窓の外が薄暗くなっていた。時計を見ると、半日近く眠っていたらしい。朝に比べて、体の重さはだいぶ引いていた。 ――タマは、どうしているだろう……。 目が覚めたのだから、話しに行かなければ。そう思いながらも、ベッドの縁に座ったまま動けずにいた。何を謝るべきかは分かっている。ただ、彼女がどんな顔で自分の話を聞くのかと考えると、二の足を踏んでしまう。 そうこうしているうちに、気の抜けるような腹の音がした。……昼も食べていない。何か少し、口にできるものはないだろうか。珠希と顔を合わせる前に、三板から何かもらえないか。そんな情けないことまで考えていた。 自室のドアを少し開ける。隙間から覗いても、二階に三板の姿はなかった。階下からは、煮物の匂いが漂ってくる。三板が何か作っているのだろうか。 匂いに誘われるように、杖を手に階下へ下りた。台所には明かりがついていた。そちらへ顔を向けると、鍋の蓋を持った珠希と目が合った。 「あ……」 雪臣は足を止めた。珠希も、そのままこちらを見ていた。 「……具合は、平気?」 「……ああ。その、なにか、食べたい」 「じゃ、用意する。これ、肉じゃがだけど、大丈夫?」 雪臣が頷くと、珠希が鍋に蓋を戻した。台所に三板の姿はなかった。雪臣が周囲へ目を向けると、彼女が続けた。 「三板さんは、さっき本邸へ行ったの」 掃除と下準備を済ませた三板に代わり、あとは珠希が引き受けたという。雪臣が起きたら、食事がとれそうか聞こうと思っていたらしい。 ダイニングの椅子に腰を下ろすと、コンロの前で鍋の火加減を調整する珠希の姿が見えた。 ……何も言わずに食べて戻るわけにはいかない。膝の上で、右手を握った。 「タマ……今朝は、申し訳なかった」 珠希が振り返る。 謝ればすぐに理解してもらえるなどとは思っていない。珠希は何も返さず、こちらを見ていた。雪臣は握った手を緩め、頭を下げた。 「きみを傷つけた」 顔を上げると
Last Updated: 2026-11-01
Chapter: 第七十三話 『未完成の絵描き』 ◆雪臣 珠希がリビングへ戻ったあと、雪臣は昇降機に腰を下ろした。 左手の杖を持ち直し、右足の位置を整える。椅子がゆっくりと動き始めても、階段の前に立っていた珠希の顔は、頭から少しも離れなかった。 座ってしまえば、いつもと同じだった。これまでも、この椅子には何度も助けられている。風邪をひいているならなおさら、自力で階段を上るより楽なのは分かっていた。 ただ、好きな女性の前でどうしても座りたくなかった。 ――いい加減にしてくれ……! 自分の声を思い出す。あんな声を出すつもりではなかった。珠希を責めようなど、これっぽっちも思っていなかった。ただ、もうそこには触れないでほしくて、胸の痛みに耐えきれなかった。こちらを見たまま動かなくなった彼女に、『できることまで奪わないでほしい』とまで言った。 彼女は、雪臣から何かを奪おうとしたわけではない。きっと、今朝、温かい飲み物を差し出してくれたときと同じ気持ちだった。それなのに、あんな態度をとられて、彼女にはどう映っただろう。 嫌な思いをさせたに決まっている。 二階に着き、昇降機から立ち上がっても、すぐには足が進まなかった。 ――また我慢させてるのかなって、だから、怖かったの……。 珠希のあの言葉に、何も答えられなかった。 大きな声を出したことだけを謝り、それで終わりにしてしまった。彼女の頬に触れてしまったあの夜と同じだ。また、逃げたのだ。 自室に入り、扉を閉める。休むために上がってきたはずなのに、ベッドへ向かう気にはなれなかった。イーゼルの前で足を止め、掛けていたカバーを外した。 描きかけの珠希が、そこにいた。 椅子に腰を下ろし、杖を脇へ置く。イーゼルの隣の台から鉛筆を取り、まだ描き込んでいない服の袖に線を足した。手首の近くにできる布の皺を、一本ずつ重ねていく。 ……今朝も、珠希が隣にいてくれて嬉しかった。平日の夜は、帰宅しても長くは話せない。今日は何をしたのか。そんなことを聞いているうちに、もう休む時間になる。 でも今日は、一緒にいられると思っていた。 鉛筆が止まる。紙の中の珠希を見ていると、泣きそうな顔で膝掛けを胸元へ引き寄せた
Last Updated: 2026-10-31
Chapter: ◇11月連載のお知らせ― 11月の連載予定日 ―(曜日)月・火・木・金・土・日 ●21時37分(日本時間)頃 ●各1話ずつ更新されます。水曜日はお休みです。ぜひ、お楽しみくださると嬉しいです。 花絵 ユウキ
Last Updated: 2026-10-31
Chapter: 第七十二話 『喧嘩の理由』 ◆珠希 休日の朝。雪臣が少し咳をしていた。 「雪臣くん、風邪かな」 「……少し、だるい」 「熱、測ってみる?」 体温計の数字は、三十七度を少し超えていた。朝食の量もいつもより少なく、食べ終えたあとも、彼はソファに背を預けたままだった。 三板が食材の買い出しに出かけると、珠希は台所で湯を沸かした。 「温かいの、飲めそう?」 「ああ。申し訳ない」 差し出した青いマグカップを、雪臣が両手で受け取る。いつもよりゆっくりと飲む彼を見ながら、珠希も隣に腰を下ろした。今日もニットの袖口から、左手のマリッジリングが覗いている。 珠希も自分のマグカップに両手を添えた。こんなふうに、何もせず一緒に過ごせるだけで、心地よいと思ってしまう。 けれど九月になれば、そんな時間も終わってしまうのだ。 だからこそ、今、雪臣の隣にいられるこの瞬間を大切にしたい。 今日は二人とも家にいる。平日のように、夜遅く帰ってきた彼とほんの少し顔を合わせるだけの日とは違う。具合が悪いのは心配だが、そばにいて、必要なものを用意するくらいはできる。 「何かあったら言って。今日はゆっくりしてようね」 雪臣はカップから顔を上げ、こくりと頷いた。それを見て、珠希は微笑んだ。昨日の洋食屋からの帰り道以来、また少し話しかけにくくなっていた。けれど今朝は、雪臣とときどき目が合った。 膝掛けを渡すと、雪臣はまた「申し訳ない」と言いながら、それを広げた。 雪臣のマグカップが空になれば受け取り、窓から日が差せば、眩しくないかと尋ねる。雪臣が咳をするたびに、珠希は読んでいた本から顔を上げた。 「タオルも、ここに置いておくね」 「……ああ」 彼の顔を覗き込む。視線が交わると、雪臣は何か言いかけたようだったが、そのまま黙ってタオルへ目を移した。まだつらいのだろうか……。もう少し早く、体調の変化に気づいてあげられたらよかった。 やがて、雪臣が膝掛けを畳んだ。 「もう、部屋で休む」 「うん。横になったほうがいいよ」 珠希は立ち上がり、膝掛けを受け取った。雪臣も杖をついて腰を上げる。彼が右足を踏
Last Updated: 2026-10-30
Chapter: 第十四話 『嫌いにならせて』 ◆若葉 ――僕が、なんとかするよ。 ルナの言葉を、若葉はうまく受け止められなかった。薬の袋を握ったまま、彼を見上げる。 「……でも、私」 「まず、横になれるところへ行こう。といっても、心当たりは一つしかないんだけど」 ルナは少しかがみ、若葉と目を合わせた。 「僕、店の奥に住んでるんだ。バアちゃんも住んでるけど、生活する場所は分かれててね。バアちゃんのほうに使ってない部屋があるから、そこで若葉さんが休めるように僕から話すよ。もちろん、若葉さんがよければだけど」 「幸子さんにまで……そんなん、迷惑を」 昨日、勝手に辞めると言ったばかりだ。しかも幸子は、海老原幸大の母親。その家にまで上がり込むなんて。 けれど、ほかに行ける場所は思い浮かばなかった。 そのとき足元がふらつき、ルナが若葉の腕を支え直した。 「危ない。大丈夫?」 ルナの腕に力がこもる。 ここで立ち往生するほど、かえって彼を困らせてしまう。 若葉は観念したように口を開いた。 「……少しだけ、お世話になってもええですか」 ようやくそう言うと、ルナはうなずき、スマートフォンを取り出した。 + + + タクシーの中で解熱剤を飲んだ。やがて時計修理マロンの前に着く。ルナに案内され、若葉は店の裏口から中へ入った。そこはルナの説明どおり居住スペースになっていて、表がマロンであることを忘れそうなほど、ごく普通の家の内装だった。 ルナに続いて廊下を進むと、床がフローリングからカーペットに変わった。ルナが振り返り、「フローリングが僕のスペース。こっちのカーペットが、バアちゃんの住んでるところ。分かりやすいでしょ」と笑った。 ちょうどそのとき、幸子が奥の部屋から出てきた。 「若葉ちゃん!」 心配そうに眉を下げる幸子から、若葉は目をそらした。 「心配したのよ。やっぱり顔色が良くないわね。こっちよ。ゆっくりでいいから」 「あの、すみません。昨日、急に辞めるなんて言うて……」 「その話は、元気になってから聞かせて。まずは休
Last Updated: 2026-11-03
Chapter: 第十三話 『僕が、』 ◆ルナ 返ってきたのは、若葉の浅い息遣いだけだった。明らかに様子がおかしい。 受話口の向こうから、電車の到着を知らせる放送がかすかに聞こえた。 「若葉さん、もしかして駅にいる? マロンの近くの駅?」 『……はい』 「商店街側の出口?」 『そこの……ベンチに……』 「分かった。動かないで。今行くから」 ルナは作業台の時計を保管用のケースへ戻し、マロンの扉に外出中の札を掛けた。店の脇から自転車を引っ張り出す。とにかく急がなければ。走りながら、頭の中はそれだけで埋め尽くされていた。 駅手前の駐輪場に自転車を停め、電話で聞いた出口へ急いだ。ベンチの端に身を縮める若葉がいた。上着も着ず、両手で二の腕を抱えている。 「若葉さん!」 駆け寄って顔を覗き込む。呼びかけても、彼女はすぐには顔を上げなかった。 「……ルナさん」 ようやくこちらを見た目は潤み、頬だけが赤い。ルナは上着を脱ぎ、若葉の肩へそっと掛けた。 「よかった。見つかった」 「すみません。私、幸吉……」 「うん、聞いた。でも、その話はあとで。それより、若葉さん、熱があるの?」 「はい……」 若葉は立とうとしたが、途中で膝が折れた。ルナはとっさに腕を支える。薄い袖越しにも、体の熱が伝わってきた。 「若葉さん、病院へ行こう。一緒に行くから」 「せやけど、お金……」 「僕が出す。今は気にしないで。まず診てもらわないと」 若葉はうつむいた。ルナは支える腕の力を緩めず、返事を待った。やがて、彼女が小さくうなずく。 スマートフォンで近くの内科を調べ、受診できることを確認してからタクシーを呼んだ。待つ間、ベンチに座った若葉は、借りた上着の襟元を握りしめていた。 「……すみません。急に辞めるって……言うたのに、また迷惑――」 「関係ないよ。電話で様子がおかしかったから、心配になっただけ。会えてよかった」 そう答えると、若葉は上着に顔を埋めた。肩が何度か震えたが、咳なのか泣いているのかは分からない。ルナは何も尋ねず、隣に座って
Last Updated: 2026-11-01
Chapter: ◇11月連載のお知らせ― 11月の連載予定日 ―(曜日)日・火・水・土 ●午後21時07分(日本時間)頃 ●各1話ずつ更新されます。月・木・金曜はお休みです。ぜひ、お楽しみくださると嬉しいです。 花絵 ユウキ
Last Updated: 2026-10-31
Chapter: 第十二話 『世界からの孤立』 ◆若葉 前髪を掴まれたまま、若葉は母を見上げた。 「……何、その顔。まさか、また辞めるつもりなん?」 「ち、違……」 違う、と言い切れなかった。幸吉へ行けば、ルナに会う。母が憎み続けてきた海老原幸大の息子に。 「けど、明日はちょっと……行けるか分からへん」 「なんで。怪我でもしたん?」 「そうやなくて……」 母の手に力がこもる。痛みに目をつむった。ルナに父親の名前を聞いたと話せば、海老原家の店で働いていたことまで知られてしまう。彼を好きになりかけていることなど、絶対に言えない。 「それとも何。また何か失敗して、辞めさせられそうなん」 「お店の人は、親切で……」 「ほな、やっぱりあんたのせいやないの」 母が髪を放すと、若葉はそのままゴミ袋の山に崩れ落ちた。頭を押さえたまま、しばらく起き上がれなかった。 「あたしは今からまた働きに行くんやで。あんたが仕事辞めたら、今月の生活費、誰が出すん。ええ加減にして」 「朝の清掃は続けます」 「それだけやったら足らんから、焼き肉屋にも行っとったんやろ」 言い返せなかった。焼き肉屋ではなく、焼き鳥屋だ。そんな訂正をする権利すらない気がした。実際、母の言うとおり、清掃の収入だけでは暮らせるほどのお金を家に入れられない。 母は三面鏡のそばからスマートフォンを取り、求人画面を突きつけた。風俗店の体験入店について書かれている。 「あんた、前にキャバクラやらせても無理やったな。でも、これやったら稼げるやろ。明日、行ってき」 「……そんなん、私にできるか分からへん」 「やる前から何言うとるん。まず体験して、それから決めたらええ」 初対面の人とまともに話すことさえ難しい自分に、画面にある仕事が務まるとは思えなかった。だが断れば、今夜からどうやって暮らすつもりかと母に問われる。 若葉はゴミ袋の山から起き上がった。そのとき、母の足の爪を彩るペディキュアが目に入り、きれいな色だと思った。こんな古びた家の床を歩かされるのが、かわいそうになるほどに。 「……一回、行ってみる」 自分の声とは思えないほど小さかった。それ
Last Updated: 2026-10-30
Chapter: 第十一話 『知った先の、行き止まり』 ◆若葉 昨夜、若葉は、明日こそ幸吉へ行く前にルナに父親の名前を聞こうと決めた。それなのに、早朝の清掃の仕事を終えても、時計修理マロンへ向かうことができなかった。行こうとすると、膝が震えて改札をくぐれない。結局、幸吉へ行く時間になってしまった。 幸子の腰の具合も悪くなく、開店準備は順調に進んだ。その日の仕事も無事に終え、若葉はエプロンを返して、幸吉を後にした。 ――帰りこそ、ちゃんとルナさんに聞かなあかん。 隣の時計修理マロンまでは、たった数歩だ。尾木の家から腕時計を持ち出して走った距離のほうが、何倍も長い。それに比べれば、たやすいことのはずだ。 マロンの前に立つ。ガラス戸に映った自分の顔があまりにもこわばっていて、若葉は一度だけ深く息を吐いた。 ――ぜんぶ、海老原のせいで……! 母の声が頭にこだまする。それをかき消すように、ぎゅっと目をつむってドアを開けた。 目を開けると、ルナが作業台から顔を上げていた。「若葉さん。お疲れさま」 ルナのやさしい声が耳に入るなり、心臓がうるさいほど高鳴った。これから聞こうとしていることが怖いのか、彼を慕っているからなのか。それとも、そのどちらもなのか。もう分からなくなっていた。「はい。あの、お仕事中にすみません」 汗ばんだ手を握り直し、若葉は言った。「うん、大丈夫。ちょうど、いったん手を止めようと思ってたから」 ルナは片目にはめていたキズ見を外した。作業台には、小さな腕時計と、取り外した部品が皿の上に並んでいる。若葉の知らない誰かが、この人の腕を頼って預けた時計だ。 ルナは部品の入った皿を作業台の奥へ寄せ、若葉のほうを向いた。「昨日は、遅くまでありがとう。バアちゃんも、若葉さんがいて助かったって言ってたよ」「私のほうこそ……。急に残りたいなんて言うてしもうて」「嬉しかったよ。僕一人だったら、きっと手が回らなかった」 若葉は彼の手を見た。昨夜、焼き台へ皿を渡したとき、指先が触れた。たったそれだけのことを、朝の清掃のあいだも何度も思い出していた。 &helli
Last Updated: 2026-10-27
Chapter: 第十話 『たぶん、好き』 ◆若葉 言ってしまった。 手伝いは開店までという約束だったのに、若葉はエプロンを外さず、ルナを見つめていた。客がいる。これまでのように、失敗しても店の内側だけで済むわけではない。 「若葉さん……嬉しいけど、大丈夫? 営業中の店は、あまり得意じゃないって言ってたから――」 「そ、そうやけど……でも、もっと幸吉のこと、知ってみたいと思ったんです」 幸吉のことを知りたい。もっと、できることを増やしたい。けれど、自分が知りたいのは、本当に幸吉のことだけなのか。声に出してみても、若葉は自分の気持ちを整理できなかった。 「そっか。……うん。じゃあ、洗い物と、使う皿の補充をお願いできる? 注文は僕が聞くから、無理にお客さんと話さなくても大丈夫だからね」 「は、はい。頑張ります」 ルナが客の方へ向き直った。若葉は裏へ回り、乾いた小皿をルナが取りやすい場所に並べる。 客の話し声が耳に届くだけでも落ち着かないが、今することは分かっていた。 ルナが焼き台に串を並べる。炭を動かしたときの熱を、若葉はまだ手の甲に覚えていた。あの火で焼き鳥を焼いているのだと思うと、つい彼の手元を見てしまう。 「さっちゃん、帰ってきても店に立つつもりじゃないだろうな」 「診察が終わって帰ってきても、休んでもらうつもりですよ」 ルナの答えに、男性客がうなずいた。 若葉が洗った小皿を拭き、再びルナの近くへ置いた瞬間、その客と目が合った。 「そっちのお姉さんは? 初めて見るな。ついにルナ坊にも彼女ができたか?」 「えっ……」 若葉は皿を持ったまま動けなくなった。違います、と言えばいい。それだけなのに、声が出ない。 「はは、違う違う。そういうんじゃないよ。最近、幸吉を手伝ってくれてる若葉さん」 ルナがいつもの調子で答えると、客は「真面目に答えることねぇだろう」と笑い、砂肝を注文した。ルナもすぐに焼き台へ戻る。 「びっくりした……」 誰にも聞こえないほど小さな独り言がこぼれる。 ルナにとって、若葉が彼女などではないのは本当だ。なのに、拭き終えた皿を置くまで、胸の奥が妙に苦しかった。 引き戸が開き、二人目の客が入ってきた。若葉は反射的に肩をすくめる。ルナがカウンターへ案内し、注文を聞いてくれている間に、洗い物を終わら
Last Updated: 2026-10-25