Chapter: 第7話次の日、涼は食卓に朝食を並べていた。陽翔はまたクマのぬいぐるみを私の手に押し込んでくる。二人の表情には、私の機嫌をうかがうような色が浮かんでいた。涼は、会社の仕事は後回しにした、今日は私に付き合うつもりだと言った。本番の飾り付けも自分で確認するし、彩子のこともきちんと処理するから、もう気にしなくていい、と。私は偽物のブローチをガウンの襟元に留めた。金属の冷たさが鎖骨に触れる。彼を見上げ、静かに言った。「それなら、行って。きちんと話すべきことは、きちんと話してきて。私はこの二日、静かにしていたいの」彼の目が明るくなった。私がようやく折れたのだと思ったのだろう。陽翔の心も歓声を上げていた。ママはなだめられた。パパは今夜、彩子ママの家に行ける。陽翔はまたブロックで遊べる。私はその歓声を聞きながら、ただうなずいた。「なだめられた」と思わせておく方が、面と向かって彼の計画を壊すより、ずっと手間がかからない。出かけるとき、涼は振り返って笑った。記念日の朝には金庫が予定通り自動で開くから、家族三人で一緒にタイムカプセルを見よう。きっと気に入るはずだ、と言い残していった。ドアが閉まる。私はすぐに書斎へ向かった。金庫の合鍵は、涼が自分だけのものだと思い込んでいた。けれど、難産だった年に彼が入院したとき、私は一本だけ予備を残しておいたのだ。タイムカプセルの上層を開け、「大好き」の絵、偽物のクローズアップ写真、階段室の動画から切り取った一枚、真珠のピアスのカウンターのレシートのコピー、そして自分で書いた照合メモを一緒にしまう。メモの内容は短くまとめた。子どもに渡したのは偽物であること。本物は水野彩子の胸元にあること。玄関をふさぐ役目と、階段室のタイムスタンプが一致すること。その下には、もう一行だけ書き添えた。これらは推測ではない。陽翔の心が抱えきれなかった言葉を、一つずつ組み立てたものだ。カプセルを再び施錠する。予備の鍵は元の場所に戻し、開けた形跡が残らないようにした。日中、私は手続きのために出かけ、残金を支払って署名した。担当者は協力に感謝すると言い、記念日の未明に手続きが始まること、その前であれば電話で取り消すこともできると説明した。取り消しコードは領収書の裏に記載されているという。私は領収書を折りたたみ、スーツの内ポケットに
Last Updated: 2026-11-04
Chapter: 第6話私は途中で、水族館へ引き返した。迷ったからではない。息子の心に浮かんだ「階段室の方はもう少しふさいでおくかもしれない」という一言に合わせ、時間通りに戻るためだった。階段室のドアは半開きになっていた。冷気と埃の匂いが混ざり合っている。スマホが震えた。知らないメールアドレスから動画が送られてきていた。署名はなく、ただ一行だけ添えられている。「奥様が見るべきものは、すべてここにある」まるで柄をこちらに向けて差し出された刀のようだった。私はそれを手に取る。その前に、録音ペンを襟の内側に留め、スマホのカメラを通路の奥へ向けた。心の声と映像は、互いに裏付け合って初めて意味を持つ。どちらか一つだけでは足りない。動画に映っていたのは、バックステージの階段室だった。照明は白く冷たく、壁まで冷え切っている。涼は彩子を壁に押しつけていた。片手で彼女の口を覆い、笑い声が漏れないようにしながら、もう片方の手で青いダイヤのブローチを彼女の胸元に留めている。そして額を彼女の額に寄せ、家の妻とはもう手続きを進めているだけだ、十年も経って、今求めているのは目の前にいる彼女だけだと、聞き慣れた甘い口調で囁いた。「偽物を渡しておけばいい。本物は君にだけつけるんだ。海の雫は、もともと君のものなんだから」動画は、ブローチの反射が光った瞬間に止まった。私は廊下に立ち尽くした。耳に残っているのは、自分の鼓動だけだった。手のひらに残る、偽物に刺された傷がまだ脈打っている。十年という時間が、たった数言で片付けられてしまった。吐き気が込み上げ、脚から力が抜けそうになる。それでも、私は立ち続けた。階段室の外では、陽翔が見張りをしていた。小さな手を背中で握りしめ、私を見ると一瞬だけ動きを止める。すぐに視線をそらし、抜けかけた乳歯を見せながら笑った。「ママ、陽翔はトイレに来たの。すぐに戻るからね」心の声は、それでもはっきりと聞こえていた。その声には、抑えきれないためらいがにじんでいる。(パパはママを通せんぼしておくように言った。入らせちゃだめなんだ。十分間ふさいでおけばいいんだって。パパはお菓子をくれるって言った。陽翔はいい子だよ)玄関をふさぐ役目。その内容は、メモに書き留めた一行と一致していた。私はしゃがみ、彼と目線を合わせる。寝物語でも聞かせるような軽い声で尋ねた
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Chapter: 第5話水野彩子の声が、入口から会場へと流れ込んできた。私は「海の雫」を握りしめた。ダイヤの角が手のひらに食い込み、痛みがはっきりと伝わってくる。痛みがあるからこそ、立っていられる。スクリーンにはまだ「十周年まであと少し」と表示され、涼の手は私の腰に添えられたままだった。拍手が鳴るたびに膝から力が抜けそうになる。そのたびに、手のひらに走る痛みで自分を奮い立たせた。生きていなければ、仕掛けを最後まで完成させられない。(彩子さんだ。パパは外では水野さんって呼ばなきゃだめって言ってた……陽翔、もう少しで間違えるところだった)間違えたらママが怒るし、パパも怒る。パパは今日はまずママを喜ばせて、彩子さんには冷たくしておくんだって。本番の前に、もう一度会いに行くんだって)陽翔の心の中で、口に出しかけた言葉が、彼自身によって飲み込まれる。私は彼を見下ろした。彼は笑っていた。欠けた乳歯が白く覗いている。私も同じように笑みを返した。人前に立つ黒川夫人は、取り乱したりしない。私がここにいるのは、彼女を光の中に招き入れ、客たちのスマホに証拠を残させるためだった。涼は横顔を入口に向け、軽くうなずいた。礼儀正しく、よそよそしい態度だった。腰に添えられた手に、わずかに力がこもる。その力が強ければ強いほど、彼がこの場の破綻を恐れているだけなのだと、私にはよく分かった。周囲では、黒川夫人にブローチをつけるよう促す人もいれば、黒川夫妻は港区の理想の夫婦だと褒める人もいた。その言葉が、耳の奥に重く沈んでいく。私に必要なのは拍手ではない。入口にいる人を、この光の中へ招き入れることだった。女性の声が、もう少し近づいてくる。白バラの香りが、人の姿より先に届いた。涼の呼吸が、私の耳元で一拍だけ乱れる。そのわずかな乱れが、どんな心の声よりも鋭く耳に刺さった。私は笑いたい衝動を抑え、大らかに聞こえる一言へと変えた。「せっかくお会いできたのですから、一緒にお祝いしましょう。十周年まであと少しなのですから、一人増えた方が賑やかになりますわ」声は軽かったが、涼にも、近くに並ぶ二列の客にも届くほどだった。涼の目が細くなる。陽翔は私のスカートの裾をつかみ、心の中ではひどく動揺していた。パパが怒るのではないか。彩子おばさんは来るべきではなかったのではないか。ママは気づいてしまうの
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Chapter: 第4話涼と陽翔は、その後も何日も続けて家に帰ってこなかった。食卓に座るのは私一人。食器が触れ合う音ばかりが、やけに大きく響く。冷蔵庫には、陽翔が描いた家族の絵が貼られていた。三人が手をつないでいて、小さな人のそばには、たどたどしい字で「大好き」と書かれている。私はその絵を裏返さなかった。あれは、彼の本心が漏れ出た一角だ。後で証明するためにも、残しておかなければならない。子どもは生まれつき薄情なのではない。そうなるように教えられるのだと。食事を一口飲み込むたびに、島の潮騒や、プロポーズの夜に街中の大型ビジョンが一斉に光った瞬間を思い出す。幸せだった記憶が完璧であればあるほど、その後に残る気持ち悪さからは逃げ場がなくなる。失踪演出サービスの担当者から電話がかかってきた。丁寧な女性の声で、正式な契約には本人の署名が必要であり、残金を支払って初めて手続きが確定すること、そして十周年の記念日当日に実行されることを説明された。予定通り進めてよいかと尋ねられ、私はまるで宴会のテーブル数でも確認するような平坦な声で、「はい」と答えた。電話を切った後、カレンダーに署名日を丸で囲む。「水族館の前祝い」と「本番=実行日」の二行を並べて書き、自分の頭が混乱しないようにした。担当者は、署名前であればまだ取り消せると付け加えた。私は相づちを打ち、そのまま電話を置いた。サービスへ出かける日、陽翔が突然、玄関をふさいだ。小さな顔を上げた彼は、私が買ってあげた小さなスーツを着ていた。「ママ、水族館に行こうよ。パパが今日は秘密があるって言ってたの。ママが来てくれなかったら、陽翔、泣いちゃうよ」彼は私の手を引いた。六歳とは思えないほどの力だった。断ることもできた。けれど、私は彼の目を見て、行き先を変えずに車へ向かった。出かけるのは、心が軟らかくなって許したからではない。陽翔の心の中にある日程表を使い、涼がどこまで演じているのか確かめるためだった。シートベルトを締めると、バックミラー越しに陽翔が笑っているのが見えた。車に乗る直前、彼はまたクマを私の腕に押し込み、ママが抱いていれば怖くないよ、と言った。私はそれを抱きしめた。暗闇が怖いわけではない。怖いのは、あまりにも偽物めいた明るさだけだった。横浜の水族館は貸し切りになっていた。職員たちが青いアジサイを抱え
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Chapter: 第3話午前二時、水野彩子から動画が送られてきた。画面が一度揺れ、彼女と涼の横顔が映る。背後には、私がずっと欲しがっていた海の見える窓があった。彼女はカメラに向かって笑い、軽い口調で言った。「本当に誰にも必要とされていない人間が、退場すべきなのよ。見て見ぬふりをする方が、よほど体裁がいいでしょう。黒川家に、余分な人の席なんてないの。奥様、階段で転んだとき、涼はすっかり動揺して、一晩中眠れなかったのよ。もちろん、私のところでね」私は車の中で、その動画を三回繰り返し見た。四回目になって、ようやく涙がこぼれた。頬を伝った雫がハンドルに落ち、その冷たさが妙にはっきりと伝わってくる。泣いている間、私は声が漏れないよう、自分の手の甲を噛んでいた。泣き終えると、胸の中はかえって空っぽになっていた。けれど、その空白ができたからこそ、一つの決意を受け入れることができた。もう、彼らのためにこの家を取り繕うのはやめよう。私は車を黒川邸へと戻した。帰り道、彼が私のために取り替えた暖色の街灯の下を通る。灯りは相変わらず明るく、何も知らない通行人のために、静かに道を照らしていた。私は動画を暗号化したアルバムに保存し、クラウドにも複製した。さらに、息子の心の声から知った計画も、忘れないようメモに書き留めていく。偽物のブローチ、本物は彩子へ。記念日の前に彼女を冷遇すること。私をなだめてから、あちらへ向かうこと。こうした情報は、尾行しても撮影できない。写真や動画だけでは埋められない部分だ。けれど今の私には、その欠落に手を届かせる方法がある。夜が明けてから、私はこの十年間に彼から贈られたものを、すべて箱に詰めた。結婚記念の時計、限定品のバッグ、難産だった夜に彼が私の手に握らせたお守り、毎年の記念日に贈られたネックレス。そして、「美咲だけを愛する」と書かれたカードまで。オークション会社の担当者が査定に訪れたとき、私は売上をすべて横浜の小児病院に寄付したいと伝えた。担当者は一瞬驚いたものの、すぐにうなずいて記録を取り、寄付の証明書が必要かと尋ねてきた。私は必要ないと答えた。消える前に、涼が罪悪感を埋めるために積み上げてきたものを片付ける。お金は、本当に必要としている子どもたちのために使ってもらえばいい。それに、こうしておけば、彼には私がただ感情的になって騒いでいるだけだと
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Chapter: 第2話涼は乾いたタオルで私の髪をそっと包み込むと、ドライヤーの温風を耳の後ろから当て始めた。濡れた髪を指で梳きながら乾かしていく、その手つきはすっかり慣れたもので、十年間、眠れない夜に何度もこうしてもらったときと少しも変わらない。そこへ、陽翔がホットミルクを持って入ってきた。カップには愛らしいクマの絵が描かれている。去年、鎌倉へ出かけたときに買ったもので、縁をぐるりと囲む小さな花模様が私の好みだと、涼は今でもちゃんと覚えていた。リビングのテレビからは、小さな音でドキュメンタリー番組が流れている。整えられた家具に、きれいに畳まれたブランケット、テーブルの上に置かれた読みかけの本まで、まるでモデルルームの一室のように、何一つ乱れのない空間だった。「ママ、この缶はどこに置くの?」陽翔は金属製の缶を両手で持ち上げ、興味津々といった様子で何度か振ってみせる。「わあ、けっこう重いよ。ねえ、中には宝物が入ってるの?」私は笑いながら、その缶を彼の小さな腕にそっと押し込んだ。「これは記念日の日に開けるのよ。それまでは誰も中を覗いちゃだめ。ここに入っているのは、ママからあなたたち二人への贈り物だから」涼は私の手から缶を受け取ると、まるで大切な宝物でも扱うように、書斎の金庫へと丁寧にしまい込んだ。そして振り返った彼の目には、いつもと変わらない優しさが宿っていた。「十周年になったら、家族三人で一緒に開けような。俺がちゃんと秘密にしておくから、君もそれまでは秘密にしておいてくれよ」ドライヤーはまだ低い音を立てていた。そのとき、彼のズボンのポケットでスマホが震えた。涼が何気なく手を伸ばそうとした瞬間、陽翔が彼を見上げた。その小さな顔を目にした途端、またしても耳ではない場所から、あの声が聞こえてきた。(早くママを寝かせちゃおう。彩子ママが待ってるもん。パパは今夜、あっちに泊まってもいいって言ってたよね。陽翔は恐竜のスリッパを持っていくんだ。パパが言ってたんだよ。記念日には大きなサプライズがあって、ママには青い石をあげるんだって。でも、本物は彩子ママのために取っておくんだって。陽翔がちゃんと秘密にしてたら、ご褒美もくれるんだよ)口に含んだミルクは、いつもより甘く感じられた。その甘さがかえって気持ち悪く、胃の奥から込み上げてくる吐き気を、私はどうにか飲み込んだ。
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