Share

第2話

Author: 臣ましろ
last update publish date: 2026-11-04 21:57:58

涼は乾いたタオルで私の髪をそっと包み込むと、ドライヤーの温風を耳の後ろから当て始めた。

濡れた髪を指で梳きながら乾かしていく、その手つきはすっかり慣れたもので、十年間、眠れない夜に何度もこうしてもらったときと少しも変わらない。

そこへ、陽翔がホットミルクを持って入ってきた。

カップには愛らしいクマの絵が描かれている。

去年、鎌倉へ出かけたときに買ったもので、縁をぐるりと囲む小さな花模様が私の好みだと、涼は今でもちゃんと覚えていた。

リビングのテレビからは、小さな音でドキュメンタリー番組が流れている。

整えられた家具に、きれいに畳まれたブランケット、テーブルの上に置かれた読みかけの本まで、まるでモデルルームの一室のように、何一つ乱れのない空間だった。

「ママ、この缶はどこに置くの?」

陽翔は金属製の缶を両手で持ち上げ、興味津々といった様子で何度か振ってみせる。

「わあ、けっこう重いよ。ねえ、中には宝物が入ってるの?」

私は笑いながら、その缶を彼の小さな腕にそっと押し込んだ。

「これは記念日の日に開けるのよ。それまでは誰も中を覗いちゃだめ。ここに入っているのは、ママからあなたたち二人への贈り物だから」

涼は私の手から缶を受け取ると、まるで大切な宝物でも扱うように、書斎の金庫へと丁寧にしまい込んだ。

そして振り返った彼の目には、いつもと変わらない優しさが宿っていた。

「十周年になったら、家族三人で一緒に開けような。俺がちゃんと秘密にしておくから、君もそれまでは秘密にしておいてくれよ」

ドライヤーはまだ低い音を立てていた。

そのとき、彼のズボンのポケットでスマホが震えた。

涼が何気なく手を伸ばそうとした瞬間、陽翔が彼を見上げた。その小さな顔を目にした途端、またしても耳ではない場所から、あの声が聞こえてきた。

(早くママを寝かせちゃおう。彩子ママが待ってるもん。パパは今夜、あっちに泊まってもいいって言ってたよね。陽翔は恐竜のスリッパを持っていくんだ。パパが言ってたんだよ。記念日には大きなサプライズがあって、ママには青い石をあげるんだって。でも、本物は彩子ママのために取っておくんだって。陽翔がちゃんと秘密にしてたら、ご褒美もくれるんだよ)

口に含んだミルクは、いつもより甘く感じられた。

その甘さがかえって気持ち悪く、胃の奥から込み上げてくる吐き気を、私はどうにか飲み込んだ。

けれど、今回はただ傷ついただけではなかった。

私は息子の頭の中に浮かんだ言葉を、一つずつ心の中で整理していく。

今夜、涼は海の見えるマンションへ行く。

結婚記念日には、私に偽物の宝石を贈るつもり。

本物は、彩子のために残してある。

そして、陽翔にまで秘密を守らせている。

まだ六歳の子どもに、こんなにも多くのことを背負わせておきながら、大人たちはそれを上手に隠し通せると思っているのだろうか。

私は陽翔の髪を撫で、その小さなつむじに指先を添えたまま、一秒ほど動けずにいた。

「陽翔、今日はママにお話を聞かせてほしい?」

「うん!」

彼は嬉しそうに頷くと、布団の中へ潜り込み、小さな足を私のすねにくっつけてきた。

子どもの体温は驚くほど高く、そのぬくもりがじんわりと伝わってくる。

私は、雪だるまとキツネのお話をしてあげることにした。

雪だるまはキツネの言葉を信じてしまい、暖かい日差しの下へ出ていく。

すると、体は少しずつ溶けて水になり、最後には大切にしていた帽子まで流されてしまうというお話だった。

最後まで話し終えた私は、陽翔の顔を覗き込み、いつもより少しだけ真剣な声で尋ねた。

「もしママも誰かに騙されていたら、雪だるまみたいに水になってしまうかもしれないわね。水になってしまったら、もう元の姿には戻れないの。陽翔、分かる?」

その瞬間、彼の心が大きく揺れた。

逃げ場を失った小さな動揺が、私の頭の中で一気に弾ける。陽翔のまつ毛がかすかに震えたものの、唇は何かをこらえるように固く結ばれたままだった。

(ママ、どうしてそんなこと言うの?そんなわけないよ)

(パパはママは何も知らないって言ってたもん)

(陽翔が秘密にしていれば、ママはずっと楽しいままでいられるんだよ。秘密にできる子がいい子なんだって)

(でも……ママが水になっちゃったらどうしよう。陽翔、ママに水になってほしくないよ)

「ママに水になってほしくない」

とうとう、その言葉だけが小さな口からこぼれ落ちた。

私を裏切る側にいるはずの息子が、それでも私がいなくなることを怖がっている。その言葉には、悪いことをしている自覚も、母親を失いたくないという幼い願いも、どちらも隠しきれずににじんでいた。

私はあくびをするふりをして、その柔らかい気持ちを胸の奥へしまい込んだ。

今はまだ、受け止めてしまうわけにはいかない。

涼は部屋の明かりを少し落とすと、私の眉間にそっとキスをした。

「俺は陽翔と隣の部屋で、会社のことを少し片付けてくるよ。すぐ戻るから、先に休んでて」

「うん。あまり遅くならないでね」

私は何事もなかったかのように微笑み、二人を見送った。

やがて、ドアが静かに閉まる。

暗くなった部屋の中で、私は目を開けたまま、天井に残る暖かな光の模様をぼんやりと眺めていた。耳を澄ませていると、やがてガレージからエンジンのかかる音が聞こえ、それも少しずつ遠ざかっていく。

彼らが出ていったことを確かめてから、私は上着を羽織り、音を立てないように階段を下りた。

玄関のトレイには、車の鍵が置かれたままだった。

私はそれを手に取り、彼らの車が向かった湾岸線へと車を走らせる。

赤信号で停車したとき、手元のスマホが再び震えた。

送り主は、水野彩子。

添付されていた写真には、部屋着姿の彼女が写っていた。そのすぐそばには涼のスリッパと、陽翔が履いているものと同じ恐竜柄の子ども用スリッパが、きれいに並べられている。

写真の下には、こんなメッセージが添えられていた。

「ご主人もお子さんも、こちらにいます。奥様、どうぞゆっくり運転して、見失わないようにしてくださいね」

その文面を読んだ瞬間、私はハンドルを握る指に力を込めた。

海の見えるマンションには、すでに明かりが灯っていた。

あの建物は、以前、私が何度も涼にねだった場所だった。

海を眺めながら朝食を食べてみたいと言ったとき、彼は風が強いうえに湿気も多く、子どもを育てるには向いていないから、陽翔がもう少し大きくなってから考えようと答えたものだった。

それなのに今、窓いっぱいに暖かな明かりが広がり、カーテンは中の様子が見える程度に半分だけ引かれている。

車から降りた陽翔は、マンションの入口に立つ女性を見つけるなり、嬉しそうに駆け出した。

「彩子ママ!」

小さな体が、彼女の腕の中へ飛び込んでいく。

水野彩子は膝を折って陽翔を抱きしめると、甘ったるい声でわざと尋ねた。

「ねえ、陽翔くんはどっちのママが好き?おうちのママと、彩子ママ。どっちかな?」

その声には、わざとらしいほどの甘さがあった。彼女は答えを待ちながら、ふと上の階の方へ顔を傾けた。まるで、誰かがこちらを見ていることを知っているかのような仕草だった。

陽翔は少しだけ考え込んだ後、迷いのない声で答えた。

「おうちのママは、いつもダメって言うんだもん。でも、彩子ママは何でもやらせてくれるよ!パパもね、彩子ママの方が陽翔のことを分かってるって言ってた!」

その言葉を聞いた彩子は、満足そうに目を細めた。

そして、涼もまた当然のように二人を迎え入れ、まるで本当の家族であるかのように、三人そろって玄関の中へと消えていった。

私は廊下の陰に身を隠し、ガラス越しにその様子を見つめていた。

部屋の中では、彩子がごく自然な仕草で涼の膝に腰を下ろし、彼の手が彼女の腰を抱いている。二人の間にためらいなど少しもなく、その光景は、長い時間を一緒に過ごしてきた恋人同士そのものだった。

涼の手首には、あの腕時計がまだあった。

私が選んだ文字盤が、室内の照明を受けてきらりと光る。

そのすぐそばでは、陽翔がカーペットの上に座り、ブロックを積み重ねて遊んでいた。ときどき顔を上げては「パパ」と呼び、次には「彩子ママ」と呼んで、二人の気を引こうとしている。

そこには、私が十年間かけて築いてきたはずの家族の姿があった。

ただし、私のいる場所だけが、最初から用意されていなかった。

一瞬、目の前のガラス扉を叩き壊し、部屋の中にいる三人を問い詰めてやりたいと思った。

けれど、その衝動はすぐに消え、代わりに、この光景を一つ残らず目に焼きつけておかなければという思いが胸の中に広がっていく。

いつか気持ちが揺らいだとき、彼の優しい言葉を思い出してしまったとき、もう一度信じてみたいと思ってしまったときのために。

私は、忘れてはいけない。

膝から力が抜け、壁に手をつきながら、ゆっくりとその場に座り込んだ。

タイルの床はひどく冷たかったのに、背中には嫌な汗がにじんでいた。

家族ぐるみで裏切られるというのは、必ずしも声を上げて泣き叫んだり、その場で崩れ落ちたりすることではないらしい。

私はただ、他人の家の玄関先に座り込み、誰かに見つからないよう、泣き声さえ必死に押し殺していた。エレベーターから人が降りてきたら、不審者だと思われてしまうかもしれない。そんなことを気にしている自分が、ひどく滑稽に思えた。

頬を伝った涙が一滴、膝の上に落ちる。

音はしなかった。

ただ、口元に触れた雫から、かすかな塩の味がした。

手元のスマホは、画面が暗くなってはまた明るくなることを繰り返している。

金属製のタイムカプセルは、まだ書斎の金庫の中にしまわれたままだった。

十周年の記念日まで、あと九日。

私は額を膝に押し当て、髪に残っていたドライヤーの温もりを思い出していた。

ついさっきまで、あの手で優しく髪を乾かしてもらっていたのに。

その温もりがまだ残っているというのに、私の計画は、もう最初に考えていたものとは違う形へと変わり始めていた。

ただ、すべてを見届けて消えるだけではない。

彼が息子に教え込んだ秘密を使って、今度はこちらから仕掛けを返してやる。

私を騙し続けてきた十年間の代償を、彼らにもきちんと味わってもらうために。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 息子の心の声で夫の浮気を知った妻は、死んだことにしました~私が消えた翌日、完璧な家庭は大崩壊~   第7話

    次の日、涼は食卓に朝食を並べていた。陽翔はまたクマのぬいぐるみを私の手に押し込んでくる。二人の表情には、私の機嫌をうかがうような色が浮かんでいた。涼は、会社の仕事は後回しにした、今日は私に付き合うつもりだと言った。本番の飾り付けも自分で確認するし、彩子のこともきちんと処理するから、もう気にしなくていい、と。私は偽物のブローチをガウンの襟元に留めた。金属の冷たさが鎖骨に触れる。彼を見上げ、静かに言った。「それなら、行って。きちんと話すべきことは、きちんと話してきて。私はこの二日、静かにしていたいの」彼の目が明るくなった。私がようやく折れたのだと思ったのだろう。陽翔の心も歓声を上げていた。ママはなだめられた。パパは今夜、彩子ママの家に行ける。陽翔はまたブロックで遊べる。私はその歓声を聞きながら、ただうなずいた。「なだめられた」と思わせておく方が、面と向かって彼の計画を壊すより、ずっと手間がかからない。出かけるとき、涼は振り返って笑った。記念日の朝には金庫が予定通り自動で開くから、家族三人で一緒にタイムカプセルを見よう。きっと気に入るはずだ、と言い残していった。ドアが閉まる。私はすぐに書斎へ向かった。金庫の合鍵は、涼が自分だけのものだと思い込んでいた。けれど、難産だった年に彼が入院したとき、私は一本だけ予備を残しておいたのだ。タイムカプセルの上層を開け、「大好き」の絵、偽物のクローズアップ写真、階段室の動画から切り取った一枚、真珠のピアスのカウンターのレシートのコピー、そして自分で書いた照合メモを一緒にしまう。メモの内容は短くまとめた。子どもに渡したのは偽物であること。本物は水野彩子の胸元にあること。玄関をふさぐ役目と、階段室のタイムスタンプが一致すること。その下には、もう一行だけ書き添えた。これらは推測ではない。陽翔の心が抱えきれなかった言葉を、一つずつ組み立てたものだ。カプセルを再び施錠する。予備の鍵は元の場所に戻し、開けた形跡が残らないようにした。日中、私は手続きのために出かけ、残金を支払って署名した。担当者は協力に感謝すると言い、記念日の未明に手続きが始まること、その前であれば電話で取り消すこともできると説明した。取り消しコードは領収書の裏に記載されているという。私は領収書を折りたたみ、スーツの内ポケットに

  • 息子の心の声で夫の浮気を知った妻は、死んだことにしました~私が消えた翌日、完璧な家庭は大崩壊~   第6話

    私は途中で、水族館へ引き返した。迷ったからではない。息子の心に浮かんだ「階段室の方はもう少しふさいでおくかもしれない」という一言に合わせ、時間通りに戻るためだった。階段室のドアは半開きになっていた。冷気と埃の匂いが混ざり合っている。スマホが震えた。知らないメールアドレスから動画が送られてきていた。署名はなく、ただ一行だけ添えられている。「奥様が見るべきものは、すべてここにある」まるで柄をこちらに向けて差し出された刀のようだった。私はそれを手に取る。その前に、録音ペンを襟の内側に留め、スマホのカメラを通路の奥へ向けた。心の声と映像は、互いに裏付け合って初めて意味を持つ。どちらか一つだけでは足りない。動画に映っていたのは、バックステージの階段室だった。照明は白く冷たく、壁まで冷え切っている。涼は彩子を壁に押しつけていた。片手で彼女の口を覆い、笑い声が漏れないようにしながら、もう片方の手で青いダイヤのブローチを彼女の胸元に留めている。そして額を彼女の額に寄せ、家の妻とはもう手続きを進めているだけだ、十年も経って、今求めているのは目の前にいる彼女だけだと、聞き慣れた甘い口調で囁いた。「偽物を渡しておけばいい。本物は君にだけつけるんだ。海の雫は、もともと君のものなんだから」動画は、ブローチの反射が光った瞬間に止まった。私は廊下に立ち尽くした。耳に残っているのは、自分の鼓動だけだった。手のひらに残る、偽物に刺された傷がまだ脈打っている。十年という時間が、たった数言で片付けられてしまった。吐き気が込み上げ、脚から力が抜けそうになる。それでも、私は立ち続けた。階段室の外では、陽翔が見張りをしていた。小さな手を背中で握りしめ、私を見ると一瞬だけ動きを止める。すぐに視線をそらし、抜けかけた乳歯を見せながら笑った。「ママ、陽翔はトイレに来たの。すぐに戻るからね」心の声は、それでもはっきりと聞こえていた。その声には、抑えきれないためらいがにじんでいる。(パパはママを通せんぼしておくように言った。入らせちゃだめなんだ。十分間ふさいでおけばいいんだって。パパはお菓子をくれるって言った。陽翔はいい子だよ)玄関をふさぐ役目。その内容は、メモに書き留めた一行と一致していた。私はしゃがみ、彼と目線を合わせる。寝物語でも聞かせるような軽い声で尋ねた

  • 息子の心の声で夫の浮気を知った妻は、死んだことにしました~私が消えた翌日、完璧な家庭は大崩壊~   第5話

    水野彩子の声が、入口から会場へと流れ込んできた。私は「海の雫」を握りしめた。ダイヤの角が手のひらに食い込み、痛みがはっきりと伝わってくる。痛みがあるからこそ、立っていられる。スクリーンにはまだ「十周年まであと少し」と表示され、涼の手は私の腰に添えられたままだった。拍手が鳴るたびに膝から力が抜けそうになる。そのたびに、手のひらに走る痛みで自分を奮い立たせた。生きていなければ、仕掛けを最後まで完成させられない。(彩子さんだ。パパは外では水野さんって呼ばなきゃだめって言ってた……陽翔、もう少しで間違えるところだった)間違えたらママが怒るし、パパも怒る。パパは今日はまずママを喜ばせて、彩子さんには冷たくしておくんだって。本番の前に、もう一度会いに行くんだって)陽翔の心の中で、口に出しかけた言葉が、彼自身によって飲み込まれる。私は彼を見下ろした。彼は笑っていた。欠けた乳歯が白く覗いている。私も同じように笑みを返した。人前に立つ黒川夫人は、取り乱したりしない。私がここにいるのは、彼女を光の中に招き入れ、客たちのスマホに証拠を残させるためだった。涼は横顔を入口に向け、軽くうなずいた。礼儀正しく、よそよそしい態度だった。腰に添えられた手に、わずかに力がこもる。その力が強ければ強いほど、彼がこの場の破綻を恐れているだけなのだと、私にはよく分かった。周囲では、黒川夫人にブローチをつけるよう促す人もいれば、黒川夫妻は港区の理想の夫婦だと褒める人もいた。その言葉が、耳の奥に重く沈んでいく。私に必要なのは拍手ではない。入口にいる人を、この光の中へ招き入れることだった。女性の声が、もう少し近づいてくる。白バラの香りが、人の姿より先に届いた。涼の呼吸が、私の耳元で一拍だけ乱れる。そのわずかな乱れが、どんな心の声よりも鋭く耳に刺さった。私は笑いたい衝動を抑え、大らかに聞こえる一言へと変えた。「せっかくお会いできたのですから、一緒にお祝いしましょう。十周年まであと少しなのですから、一人増えた方が賑やかになりますわ」声は軽かったが、涼にも、近くに並ぶ二列の客にも届くほどだった。涼の目が細くなる。陽翔は私のスカートの裾をつかみ、心の中ではひどく動揺していた。パパが怒るのではないか。彩子おばさんは来るべきではなかったのではないか。ママは気づいてしまうの

  • 息子の心の声で夫の浮気を知った妻は、死んだことにしました~私が消えた翌日、完璧な家庭は大崩壊~   第4話

    涼と陽翔は、その後も何日も続けて家に帰ってこなかった。食卓に座るのは私一人。食器が触れ合う音ばかりが、やけに大きく響く。冷蔵庫には、陽翔が描いた家族の絵が貼られていた。三人が手をつないでいて、小さな人のそばには、たどたどしい字で「大好き」と書かれている。私はその絵を裏返さなかった。あれは、彼の本心が漏れ出た一角だ。後で証明するためにも、残しておかなければならない。子どもは生まれつき薄情なのではない。そうなるように教えられるのだと。食事を一口飲み込むたびに、島の潮騒や、プロポーズの夜に街中の大型ビジョンが一斉に光った瞬間を思い出す。幸せだった記憶が完璧であればあるほど、その後に残る気持ち悪さからは逃げ場がなくなる。失踪演出サービスの担当者から電話がかかってきた。丁寧な女性の声で、正式な契約には本人の署名が必要であり、残金を支払って初めて手続きが確定すること、そして十周年の記念日当日に実行されることを説明された。予定通り進めてよいかと尋ねられ、私はまるで宴会のテーブル数でも確認するような平坦な声で、「はい」と答えた。電話を切った後、カレンダーに署名日を丸で囲む。「水族館の前祝い」と「本番=実行日」の二行を並べて書き、自分の頭が混乱しないようにした。担当者は、署名前であればまだ取り消せると付け加えた。私は相づちを打ち、そのまま電話を置いた。サービスへ出かける日、陽翔が突然、玄関をふさいだ。小さな顔を上げた彼は、私が買ってあげた小さなスーツを着ていた。「ママ、水族館に行こうよ。パパが今日は秘密があるって言ってたの。ママが来てくれなかったら、陽翔、泣いちゃうよ」彼は私の手を引いた。六歳とは思えないほどの力だった。断ることもできた。けれど、私は彼の目を見て、行き先を変えずに車へ向かった。出かけるのは、心が軟らかくなって許したからではない。陽翔の心の中にある日程表を使い、涼がどこまで演じているのか確かめるためだった。シートベルトを締めると、バックミラー越しに陽翔が笑っているのが見えた。車に乗る直前、彼はまたクマを私の腕に押し込み、ママが抱いていれば怖くないよ、と言った。私はそれを抱きしめた。暗闇が怖いわけではない。怖いのは、あまりにも偽物めいた明るさだけだった。横浜の水族館は貸し切りになっていた。職員たちが青いアジサイを抱え

  • 息子の心の声で夫の浮気を知った妻は、死んだことにしました~私が消えた翌日、完璧な家庭は大崩壊~   第3話

    午前二時、水野彩子から動画が送られてきた。画面が一度揺れ、彼女と涼の横顔が映る。背後には、私がずっと欲しがっていた海の見える窓があった。彼女はカメラに向かって笑い、軽い口調で言った。「本当に誰にも必要とされていない人間が、退場すべきなのよ。見て見ぬふりをする方が、よほど体裁がいいでしょう。黒川家に、余分な人の席なんてないの。奥様、階段で転んだとき、涼はすっかり動揺して、一晩中眠れなかったのよ。もちろん、私のところでね」私は車の中で、その動画を三回繰り返し見た。四回目になって、ようやく涙がこぼれた。頬を伝った雫がハンドルに落ち、その冷たさが妙にはっきりと伝わってくる。泣いている間、私は声が漏れないよう、自分の手の甲を噛んでいた。泣き終えると、胸の中はかえって空っぽになっていた。けれど、その空白ができたからこそ、一つの決意を受け入れることができた。もう、彼らのためにこの家を取り繕うのはやめよう。私は車を黒川邸へと戻した。帰り道、彼が私のために取り替えた暖色の街灯の下を通る。灯りは相変わらず明るく、何も知らない通行人のために、静かに道を照らしていた。私は動画を暗号化したアルバムに保存し、クラウドにも複製した。さらに、息子の心の声から知った計画も、忘れないようメモに書き留めていく。偽物のブローチ、本物は彩子へ。記念日の前に彼女を冷遇すること。私をなだめてから、あちらへ向かうこと。こうした情報は、尾行しても撮影できない。写真や動画だけでは埋められない部分だ。けれど今の私には、その欠落に手を届かせる方法がある。夜が明けてから、私はこの十年間に彼から贈られたものを、すべて箱に詰めた。結婚記念の時計、限定品のバッグ、難産だった夜に彼が私の手に握らせたお守り、毎年の記念日に贈られたネックレス。そして、「美咲だけを愛する」と書かれたカードまで。オークション会社の担当者が査定に訪れたとき、私は売上をすべて横浜の小児病院に寄付したいと伝えた。担当者は一瞬驚いたものの、すぐにうなずいて記録を取り、寄付の証明書が必要かと尋ねてきた。私は必要ないと答えた。消える前に、涼が罪悪感を埋めるために積み上げてきたものを片付ける。お金は、本当に必要としている子どもたちのために使ってもらえばいい。それに、こうしておけば、彼には私がただ感情的になって騒いでいるだけだと

  • 息子の心の声で夫の浮気を知った妻は、死んだことにしました~私が消えた翌日、完璧な家庭は大崩壊~   第2話

    涼は乾いたタオルで私の髪をそっと包み込むと、ドライヤーの温風を耳の後ろから当て始めた。濡れた髪を指で梳きながら乾かしていく、その手つきはすっかり慣れたもので、十年間、眠れない夜に何度もこうしてもらったときと少しも変わらない。そこへ、陽翔がホットミルクを持って入ってきた。カップには愛らしいクマの絵が描かれている。去年、鎌倉へ出かけたときに買ったもので、縁をぐるりと囲む小さな花模様が私の好みだと、涼は今でもちゃんと覚えていた。リビングのテレビからは、小さな音でドキュメンタリー番組が流れている。整えられた家具に、きれいに畳まれたブランケット、テーブルの上に置かれた読みかけの本まで、まるでモデルルームの一室のように、何一つ乱れのない空間だった。「ママ、この缶はどこに置くの?」陽翔は金属製の缶を両手で持ち上げ、興味津々といった様子で何度か振ってみせる。「わあ、けっこう重いよ。ねえ、中には宝物が入ってるの?」私は笑いながら、その缶を彼の小さな腕にそっと押し込んだ。「これは記念日の日に開けるのよ。それまでは誰も中を覗いちゃだめ。ここに入っているのは、ママからあなたたち二人への贈り物だから」涼は私の手から缶を受け取ると、まるで大切な宝物でも扱うように、書斎の金庫へと丁寧にしまい込んだ。そして振り返った彼の目には、いつもと変わらない優しさが宿っていた。「十周年になったら、家族三人で一緒に開けような。俺がちゃんと秘密にしておくから、君もそれまでは秘密にしておいてくれよ」ドライヤーはまだ低い音を立てていた。そのとき、彼のズボンのポケットでスマホが震えた。涼が何気なく手を伸ばそうとした瞬間、陽翔が彼を見上げた。その小さな顔を目にした途端、またしても耳ではない場所から、あの声が聞こえてきた。(早くママを寝かせちゃおう。彩子ママが待ってるもん。パパは今夜、あっちに泊まってもいいって言ってたよね。陽翔は恐竜のスリッパを持っていくんだ。パパが言ってたんだよ。記念日には大きなサプライズがあって、ママには青い石をあげるんだって。でも、本物は彩子ママのために取っておくんだって。陽翔がちゃんと秘密にしてたら、ご褒美もくれるんだよ)口に含んだミルクは、いつもより甘く感じられた。その甘さがかえって気持ち悪く、胃の奥から込み上げてくる吐き気を、私はどうにか飲み込んだ。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status