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第5話

Author: 臣ましろ
last update publish date: 2026-11-04 21:58:57

水野彩子の声が、入口から会場へと流れ込んできた。

私は「海の雫」を握りしめた。ダイヤの角が手のひらに食い込み、痛みがはっきりと伝わってくる。

痛みがあるからこそ、立っていられる。

スクリーンにはまだ「十周年まであと少し」と表示され、涼の手は私の腰に添えられたままだった。拍手が鳴るたびに膝から力が抜けそうになる。そのたびに、手のひらに走る痛みで自分を奮い立たせた。

生きていなければ、仕掛けを最後まで完成させられない。

(彩子さんだ。パパは外では水野さんって呼ばなきゃだめって言ってた……陽翔、もう少しで間違えるところだった)

間違えたらママが怒るし、パパも怒る。パパは今日はまずママを喜ばせて、彩子さんには冷たくしておくんだって。本番の前に、もう一度会いに行くんだって)

陽翔の心の中で、口に出しかけた言葉が、彼自身によって飲み込まれる。

私は彼を見下ろした。

彼は笑っていた。欠けた乳歯が白く覗いている。

私も同じように笑みを返した。

人前に立つ黒川夫人は、取り乱したりしない。私がここにいるのは、彼女を光の中に招き入れ、客たちのスマホに証拠を残させるためだった。

涼は横顔を入口に向け、軽くうなずいた。礼儀正しく、よそよそしい態度だった。

腰に添えられた手に、わずかに力がこもる。

その力が強ければ強いほど、彼がこの場の破綻を恐れているだけなのだと、私にはよく分かった。

周囲では、黒川夫人にブローチをつけるよう促す人もいれば、黒川夫妻は港区の理想の夫婦だと褒める人もいた。

その言葉が、耳の奥に重く沈んでいく。

私に必要なのは拍手ではない。入口にいる人を、この光の中へ招き入れることだった。

女性の声が、もう少し近づいてくる。

白バラの香りが、人の姿より先に届いた。

涼の呼吸が、私の耳元で一拍だけ乱れる。そのわずかな乱れが、どんな心の声よりも鋭く耳に刺さった。

私は笑いたい衝動を抑え、大らかに聞こえる一言へと変えた。

「せっかくお会いできたのですから、一緒にお祝いしましょう。十周年まであと少しなのですから、一人増えた方が賑やかになりますわ」

声は軽かったが、涼にも、近くに並ぶ二列の客にも届くほどだった。

涼の目が細くなる。

陽翔は私のスカートの裾をつかみ、心の中ではひどく動揺していた。

パパが怒るのではないか。彩子おばさんは来るべきではなかったのではないか。ママは気づいてしまうのではないか。秘密はまだ守れるのだろうか。

遠くの水槽では白イルカが身を翻し、水しぶきの音が私の心音を覆っていた。

私はその声の断片を押し下げ、ただ一つの考えだけを残す。

招き入れ、証拠を取り、それから帰らせる。

入口にいた女性は、笑みを浮かべながら会場に入ってきた。

腕には白バラの花束を抱えている。その白さが目にまぶしいせいか、口紅の赤がいっそう際立って見えた。

彼女は私に向かって軽く頭を下げ、「美咲さん」と呼んだ。

語尾は上がり、問いかけのようでもあり、宣戦布告のようでもある。

周囲では道を譲る人もいれば、スマホを掲げる人もいた。彼女が何者なのか、推測し始める人までいる。

けれど、私に推測する必要はなかった。

私はブローチを襟元に留めた。針が布を貫き、皮膚にまで刺さる。血の一滴がシルクに吸い込まれていった。

それでも、場面は相変わらず完璧だった。

前祝いの光は、まだ明るく灯っている。

私はその光の中に立ち、彼女が近づいてくるのを待った。手のひらに走る痛みが、一つ一つ時を刻んでいく。

水野彩子が入ってきたとき、陽翔の唇が動き、あの二文字を呼びそうになった。

涼の手が素早く伸び、彼の口を覆う。人混みに隠れて大半の人は気づかなかっただろうが、私にははっきりと見えた。

陽翔は目を丸くしたものの、すぐに素直にうなずく。そして呼び名を飲み込み、甘い声で言い直した。

「水野さん、こんにちは」

その「こんにちは」は、語尾まで丸く、まるで練習してきた台詞のようだった。

彩子は白バラを私の前に差し出した。笑みは礼儀正しく、声は周囲に聞こえる程度に整えられている。

「美咲さんはお幸せですね。涼さんがこんなに心を込めてくださるなんて、私だったら甘やかされてしまいそうです。でも美咲さん、あまり気にしすぎないでくださいね。男性には外での付き合いも避けられませんから、家庭が安定していればそれでいいんです。あなたのように大切にされている方は、もっと大らかでいらした方がいいですよ」

言葉には棘があった。

周囲では気まずそうに笑う人もいれば、魚を眺めるふりをして視線をそらす人もいる。

私は花を受け取った。棘が指の腹に刺さる。

人々の視線が私に集まった瞬間、彩子の手が背後で涼の手と一瞬だけ絡んだ。

体温を伝えるには十分な短さだった。

私はその一瞬を見つめ、爪を手のひらに食い込ませた。血がアジサイの花びらに落ち、青に吸い込まれていく。

涼は振り返り、私にブローチをつけようとした。

私は一歩退き、ブローチを箱に戻す。

その拒絶には痛みもあったが、計算もあった。ここで針を襟元に留めてしまえば、後から本物と偽物を照合するのが難しくなる。

すると、彩子が突然、私の前に跪いた。

スカートの裾は水に濡れている。顔を上げた彼女の目は赤く、声も震えていた。けれど、その震え方まで計算されたように、ちょうどよかった。

「美咲さん、このブローチを私に譲っていただけませんか。私には公にできない婚約者がいて、彼は青が好きなんです。世界に一つしかないものですから、これを贈って結婚したいと思っていて。夫人は何でもお持ちでしょう? この一つくらい、気になさらないですよね?」

ざわめきが一段と大きくなる。

息をのむ人、私の顔色をうかがう人、すでにスマホを掲げている人もいた。

(ママはどうして彩子さんにあげないの。彩子おばさんはもう跪いてるのに。パパは彩子さんを助けてくれるよね?)

陽翔の心の声が、正確に、そしてひどく汚らしく入り込んでくる。

嫌悪に歪んだ眉を見ても、もう気持ち悪がる気力すら残っていなかった。

六歳の子どもは、もう心の中で誰の味方をするか選ぶことを覚えている。

それでも私は、彼の心に浮かんだ「ママに水になってほしくない」という一言も覚えていた。

二つの声が同じ子どもの中に重なっている。それこそが、本当の引き裂かれ方なのだと思った。

涼の怒声が会場に響き渡った。

どのスマホにも録音されるほど、大きな声だった。

「君、妻と争う資格があると思っているのか。出ていけ。黒川家のものに手を出すな!」

彩子は泣きながら走り去った。

涼は改めて箱を私の手に押し込む。

「これは君のものだ。誰にも渡さない。美咲、気にするな」

私は彼の目に浮かぶ本物の怒りを見つめ、ただ一言返した。

「演技が上手ね。受け取ったわ」

彼は、私が嫉妬しているのだと思ったらしい。笑みを浮かべ、陽翔の髪を撫でた。

会が終わると、会社に急用ができたと言って、涼は先に帰っていった。

陽翔は連れて行かれる直前、心の中で「ママは変だな」と呟いた。さらに、パパから待つように言われたことや、階段室の方をもう少しふさいでおくかもしれないことまで、続けて考えていた。

もう少し、ふさいでおく。

その言葉は、何よりもはっきりと私の耳に届いた。

私はバックステージの通路へ二歩進み、わざと足を止めた。

途中で引き返すための時間を、自分に残しておきたかった。

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