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別々の道

Author: 雫石しま
last update Last Updated: 2025-09-01 03:47:41

木蓮のつわりもようやく落ち着き、心にわずかな余裕が生まれていた。吐き気や倦怠感に苛まれた日々を乗り越え、彼女は少しずつ自分を取り戻しつつあった。しかし、その平穏は脆く、胸の奥には依然として重い不安が巣食っていた。

そんな中、今日は睡蓮の妊婦健診に付き添う日だった。木蓮にとって、睡蓮の幸せな姿を間近で見ることは、喜びと同時に心を抉るような痛みを伴う試練だった。

閑静な住宅街に、黒い高級車が音もなく滑り込んだ。運転手の島田が、恭しく後部座席のドアを開けた。睡蓮は、幸せに満ちた笑みを浮かべ、ふくらんだ腹にそっと手を添えながら、革の匂いが漂う車内にゆっくりと乗り込んだ。その姿は、聖母のような穏やかさと、母となる喜びに輝いて見えた。

次いで、木蓮が静かにシートに身を預けた。彼女の動きは控えめで、睡蓮の輝きとは対照的に、どこか影を帯びていた。島田は木蓮を見つめ、気の毒そうな表情を浮かべた。その視線には、言葉にならない同情が込められていた。

木蓮は、毎月の妊婦健診の送迎を任せている島田にだけ、自分の妊娠を打ち明けていた。誰にも言えなかった秘密を、島田の静かな理解に委ねたのだ。彼はただ黙って耳を傾け、木蓮の重い心をそっと受け止めていた。しかし、その秘密は、睡蓮の幸福な姿を前にすると、なおさら木蓮の心を締め付けた。車が動き出すと、窓の外を流れる街並みが、木蓮の揺れる心を映し出すようだった。睡蓮の笑顔と、島田の同情の視線が、彼女の中で交錯し、複雑な感情の波を呼び起こした。


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