息がかかる程の距離、もうすぐ触れてしまいそうな近さに龍の顔があった。
トクン、と胸が高鳴る。
龍はピタリと動かなくなってしまう。
こんな至近距離で見つめ合うなんて普段ないから、ドキドキするじゃない!
私としたことが、龍に“ときめく”なんてあり得ない……と思いつつ、なんだろう……胸の高鳴りがなかなか消えてくれない。ドキドキドキ、脈打つ鼓動。
いや、これはきっと、あまりにも顔が近いから、体が密着しているから!
そうだ、きっとそうだ! こんなこと普段ないから、免疫がないからだ。自分に言い訳し、私は一人で頷いた。
「お嬢……」
龍が熱い視線を私に送ってくる。
え? 何? この展開。
いや、龍に限ってない、何もないから。「龍、早くどいてっ」
私は冷静を装い、龍を押し返そうとする。
突然、龍が私の腕を掴み、床に押し戻した。「ちょ、何すっ」
龍の瞳は、私の知っているいつもの優しいものではなくなっていた。
それは、知らない男の目……。
じっと見つめられ、私は動けず固まってしまう。
龍の顔がゆっくりと近づいてくる。ど、どうしよう、龍の力が強くて突き放せない。
こいつ、めちゃくちゃ力強い!
「何してるの!」
大きな声が、突然辺りに響き渡った。
声に反応した龍の体は一時停止し、その目が大きく見開かれる。
私のことをじっと見つめ数秒、あっという間に龍は私から体を離し、立ち上がった。「も、申し訳ありません! わ、私はいったい……」
龍は激しく動揺しているようだった。
顔を赤らめ、何度も私に頭を下げ、オロオロと取り乱している。いつも冷静な龍のこんな姿は、滅多にお目にかかれない。
それにしても……と慌てふためく龍を見つめる。
先ほどの龍は、いつもと違った。転んだ瞬間に、どこか頭でも打ったのかな? と私いつもの登校の道。いつもの風景、いつもの朝……じゃない! なんで、五人!? いつも龍と二人で歩いていたこの道。 斜め後ろには、いつも通り私に付き従う龍が控える。 私の隣にはヘンリーが陣取り、ニコニコと嬉しそうな笑顔を向けながら、楽しそうに私に話かけてくる。 そして、そのヘンリーの隣、逆サイド。そこにはシャーロットがヘンリーに寄り添い、腕をからめ、幸せそうな顔を向けていた。 そしてもちろん、その二人の後ろにはアルバートが付き従う。 このような布陣が、いつの間にかできあがっていた。 祖父の計らいにより、ヘンリーに続きシャーロットまで学校へ行けるよう、いつの間にか手続きされていた。 っていうか、変なことに自分の権力を使っちゃ駄目でしょ。 本当に面倒見がいいんだから……。 私は祖父の顔を思い出し、あきれたように薄ら笑いを浮かべる。「ヘンリー様とお散歩できて、幸せです」 シャーロットはヘンリーの腕に自分の腕をぎゅっと絡め、体を密着させている。「あんまりくっつかないで。一人で歩きなよ」 腕を解こうと試みたヘンリーだったが、外れないようだった。「嫌です、離れません。絶対に流華さんより私を好きになってもらいます」 シャーロットが私へ視線を向ける。 その瞳からは敵意がひしひしと感じられた。 私はその視線をするりとかわし、気づかぬ振りでやり過ごす。「僕の心は流華のものだよ」 ヘンリーは何の迷いもなく、まっすぐな気持ちをシャーロットに告げる。「ひ、ひどい……。でも挫けません」 「頑張ってください、シャーロット様」 落ち込むシャーロットを一生懸命応援するアルバート。 彼はどうやら二人を結び付けたいようだ。 まあ、普通そうだよね。 あっちの世界の人同士、それが自然なんだから。「流華……」 ヘンリーが私の様子を窺ってくる。 昨日のことが気まずくて、私達はま
また、夢を見た。 頭上には、黒く塗りつぶされたような漆黒の夜空がどこまでも広がっている。その空を、月と星々の光だけが薄く照らしていた。 眼下には黒い海が広がり、強い風の影響か、波が激しくぶつかり黒い水しぶきを上げていた。 私は断崖絶壁の上に佇んでいる。 一歩前へ出れば、崖下へ転落してしまうだろう。 冷たい夜風が私の体を撫でていくと、体が小さく震えた。 それは恐怖からくるものなのか、寒さからくるものなのか、わからなかった。 岩に打ちつける波の音だけが鮮明に聞こえ、静寂の時が流れていく。 私は包まれている温もりを感じながら、そっと顔を上げる。 目の前には、いつものあの男性。 私のことを抱きしめてくれていた。 そう……いつも夢に見るあの男性だ。 綺麗な金色の髪が月に照らされている。 その男性の瞳が私の方へ向けられ、愛しそうに目を細める。「愛してる。たとえ生まれ変わっても、僕は必ず君を見つける」 彼の真剣な眼差しが、私を射抜く。 愛している、とその瞳が訴えかけてくる。「私も必ず、あなたを見つける」 私は自然とそんな言葉を口走っていた。 体は冷えているのに、心はあたたかい……。 彼は嬉しそうに微笑むと、私の頬に愛おしそうに触れ、優しく撫でた。「僕の愛は永遠だよ。たとえ離れ離れになっても必ず君を見つけ、そしてまた好きになる」 「私も……愛してる。必ずあなたを見つけるから、待ってて」 見つめ合い、頷き合う。 そして、ギュッと強く抱き合った。 そのまま、ゆっくりと私たちは崖から落ちていった。「っ……!」 そこで目が覚め、私は飛び起きる。 急いで辺りを見回し、短く息を吐いた。 ここは、自分の部屋のベッドの上。「そっか……私、寝てたんだよね」 今いる自分の現状を把握した私は、ほっとする。 先ほど見
「まあまあ、これはちょっとした事故なんだから」 私がヘンリーを諭すように優しく話しかけると、珍しく彼は強気に反発してきた。「だって、龍……流華にキスしようとしてたよ」 「はあ!?」 ヘンリーのとんでも発言に、私は素っ頓狂な声を上げてしまった。 まさか、そんなこと……。とすぐに否定するが、ちょっと待てよ、と考える。 そう言われれば、そんな感じもしたかもしれない? 龍の方へ視線を向けると、彼はタコみたいに真っ赤な顔をして下を向き続けている。 え? 何その反応。 私は驚いて龍を凝視する。「龍……」 「お嬢! 申し訳ありません。今は何も聞かないでください! 猛烈に反省いたしますので……おやすみなさい!」 龍は私に深く頭を下げると、急いで立ち去っていく。 いや、今そんな反応されると、どう捉えていいのかすごく悩むんですけど! 遠ざかる龍の背中に向け、私は心の中で叫んだ。 残された私は、呆然とそこに立ち尽くす。 そして、ヘンリーの存在がまだそこにあったことに気づいた私は、そちらへ視線を向けた。 不機嫌そうな表情をしながら、私のすぐ傍らに彼は佇んでいた。 二人きりになってしまった。 先ほどのこともあり、ヘンリーと二人きりはちょっと気まずい。「ねえ、龍のこと……どう思ってるの?」 ちょっと沈んだ様子のヘンリーが、暗い声音で話しかけてくる。 どうって、どういうこと? と私は眉を寄せた。「もちろん……好きよ」 あっさりそう答えると、ヘンリーは驚愕し、目が飛び出すほどにその目を大きく開いた。「えっ! 好きなの!? 僕より?」 ヘンリーは慌てた様子で、私に詰め寄ってくる。 その反応に驚いた私は、誤解を与えたのかと思い、急いで弁解した。「ちょっと待って! 好きって言っても、家族としてだよっ」 私の言葉に、ヘンリーは少し落ち着きを取り戻し、どこかほっとした表
息がかかる程の距離、もうすぐ触れてしまいそうな近さに龍の顔があった。 トクン、と胸が高鳴る。 龍はピタリと動かなくなってしまう。 こんな至近距離で見つめ合うなんて普段ないから、ドキドキするじゃない! 私としたことが、龍に“ときめく”なんてあり得ない……と思いつつ、なんだろう……胸の高鳴りがなかなか消えてくれない。 ドキドキドキ、脈打つ鼓動。 いや、これはきっと、あまりにも顔が近いから、体が密着しているから! そうだ、きっとそうだ! こんなこと普段ないから、免疫がないからだ。 自分に言い訳し、私は一人で頷いた。「お嬢……」 龍が熱い視線を私に送ってくる。 え? 何? この展開。 いや、龍に限ってない、何もないから。「龍、早くどいてっ」 私は冷静を装い、龍を押し返そうとする。 突然、龍が私の腕を掴み、床に押し戻した。「ちょ、何すっ」 龍の瞳は、私の知っているいつもの優しいものではなくなっていた。 それは、知らない男の目……。 じっと見つめられ、私は動けず固まってしまう。 龍の顔がゆっくりと近づいてくる。 ど、どうしよう、龍の力が強くて突き放せない。 こいつ、めちゃくちゃ力強い!「何してるの!」 大きな声が、突然辺りに響き渡った。 声に反応した龍の体は一時停止し、その目が大きく見開かれる。 私のことをじっと見つめ数秒、あっという間に龍は私から体を離し、立ち上がった。「も、申し訳ありません! わ、私はいったい……」 龍は激しく動揺しているようだった。 顔を赤らめ、何度も私に頭を下げ、オロオロと取り乱している。 いつも冷静な龍のこんな姿は、滅多にお目にかかれない。 それにしても……と慌てふためく龍を見つめる。 先ほどの龍は、いつもと違った。転んだ瞬間に、どこか頭でも打ったのかな? と私
「お嬢……大丈夫ですか?」 私を部屋に送り届けた龍が、心配そうに見つめてくる。「何が?」 なんとなく気まずくて、私は目を逸らしぶっきらぼうな態度を取ってしまう。「いえ、少し……お辛そうだったもので」 「は? 別に私、何も辛くないけど」 そう言いつつ、さっきから妙にイライラしている自分に気がついていた。 別に辛いとは思わないけど、なんだか心がざわつく。「あ、あの、ヘンリーの奴、お嬢にメロメロなんで。何も心配しなくて大丈夫ですよ」 龍は私のことを励まそうとしているのか、ぎこちない笑顔を向けてくる。 メロメロって、龍が言うとは思わなかった。いったいどこでそんな言葉を覚えるのかな……いつも私の傍にいるか、組のことしかしてないくせに。 龍には似合わないよ。 それに……私が何を心配してるって? そんな訳ないじゃない。 私は湧いてきた気持ちに蓋をするように、龍に感情をぶつける。「何言ってんの? ヘンリーが誰を好きだろうが、誰と結婚しようが私には関係ないし。心配なんてしてないわよ」 私は怒ったように腕を組み、龍に背を向ける。 この気持ちがどこから湧いてくるのかわからなかったが、蓋をして、無かったことにしようとしている自分に薄々気づいていた。 龍にはすべて見透かされているようで、なんだか不愉快だ。 最近、私は自分の気持ちを掴めないでいた。 ヘンリーのこと、好きなんだろうか? もう既に好き? それとも……。 なんだかごちゃごちゃしていて、心の整理がつかない。 先ほどから、なぜかわからないが、龍は何も言わず、じっと固まり動かなくなってしまった。 ずっと床の一点を見つめている。 もしかして、私の態度に傷ついてしまったのだろうか……だとしたら悪いことをしたな。と少し反省する。 いつも龍は、私に振り回さればかりだ。 ずっと動かない龍のことを不振に思った私は、どうしたのだろうかと彼の様子を窺った。
「シャーロット様は、隣国の姫君なのです。 既にヘンリー様と結婚することは決まっております。とても女性らしく、可愛らしいお方です」 アルバートは誇らしげに胸を張り、シャーロットを紹介する。 私に言い聞かせているつもりなのだろう、横目でチラチラと私を見てくる。「そう、よかったわね。そんな可愛らしい婚約者がいて」 私はヘンリーから顔を背けながら言う。 すると、ヘンリーは慌てた様子で私の側へやってきた。「流華、違うよ! これは親が勝手に決めたことだ。 ……僕が好きなのは、君だよっ」 ヘンリーが発したその言葉に、シャーロットの顔から血の気が一気に引いていく。 青白い顔でふらつくシャーロットを、アルバートが素早く支えた。