拓海の胸元へ押し込められた玲奈の体は、無理な姿勢のままコンソールの上に横たわっていた。外の記者に撮られるのを避けるため、彼は自分のトレンチコートを広げて彼女の全身を覆う。顔は拓海の胸に埋まり、タバコとミントが混ざり合った匂いがかすかに鼻をくすぐった。決して嫌な匂いではない。その手はコートの下で彼女の腰をしっかり押さえている。わざとだと分かっていても、玲奈は身じろぎすらできなかった。一度でも撮られれば、取り返しのつかない騒動になる――ネットの恐ろしさを、彼女は知っていた。記者は去る気配を見せず、なおもカメラを構えたまま拓海に向けてシャッターを切っている。拓海は顔を横に向け、レンズをまっすぐに見据えた。怒るどころか、口元に笑みを浮かべて。「随分と見出しを拾うのが上手いじゃないか」「須賀さん、その隣の美女も撮らせてもらえませんか?」記者がにやつく。拓海は笑ったまま返す。「じゃあ......君、辞表を出す覚悟はあるか?」「え?」記者が固まる。瞬間、拓海の顔から笑みが消え、声は冷たく落ちた。「できないなら......俺が手伝ってやろうか」意味を悟った記者は蒼白になり、カメラを抱えて逃げ出した。――見出しは欲しい。だが、拓海を敵に回すのは命取りだ。拓海はようやく玲奈の腰を軽く叩いた。「どうした?まだここに凭れていたいのか?」玲奈は慌ててコートを押しのけ、大きく息を吸った。だが二口三口吸っただけで、拓海が低く言う。「行け。ここは危ない」ネットに晒される恐怖を、玲奈は誰よりも理解していた。反論せず、すぐに車を発進させた。人気のない場所に着いてから、ようやくブレーキを踏む。助手席の拓海は降りる気配を見せない。玲奈が顔を向けかけると、遮るように言った。「手を出せ」「何をするつもり?」警戒の色を隠さない。拓海は何も言わず玲奈の手をつかみ、コートの内から何かを取り出すと、強引に彼女の手首へはめ込んだ。翡翠の光が目に飛び込む。――あの日、彼が花火を打ち上げて競り落とした高価な翡翠のブレスレット。玲奈の心臓が跳ね、咄嗟に外そうとする。「......外さない方が身のためだ」拓海の声は静かな警告だった。何度も試したが、びくともし
拓海は抑え、必死に自制していた。だが、玲奈の言葉はその火に油を注ぐだけだった。胸の奥の炎はますます勢いを増し、彼はもう抑えることをやめた。顔を傾け、強引にその唇を塞ぐ。口の中に流れ込んでくるのは、タバコの苦味とミントの清涼感が入り混じった強い味。圧倒的で荒々しいそのキスは、突風のように彼女の喉奥まで吹き込んでくる。逃れる暇も、声を上げる隙すらなかった。玲奈は顔を仰け反らせ、ただその暴力的な口づけを受けるしかない。必死に腰をつねり、爪が食い込むほどに力を込める。だが彼は眉ひとつ動かさない。むしろ、耐えきれぬ痛みに低い声を洩らした。その声に、玲奈の全身が痺れ、思わず手を離してしまう。代わりに彼の胸を拳で叩いた。拓海の手は容赦なく、片腕で彼女の両手を縛り上げる。そしてその手を自らの胸に押し当て、鍛え上げられた筋肉の起伏を触れさせた。酸素が薄れていく。玲奈が窒息しそうになり、ようやく拓海は唇を離す。見下ろす視線はどこか愉しげだった。「どうだ、気持ちよかったか?」玲奈の顔は一瞬で真っ赤になる。「......須賀君、恥を知りなさい」握られた手を引き戻そうとしたが、彼は逃がさない。赤く濡れた唇を見下ろし、唇の端を吊り上げた。「俺のキス、満足できたか?」玲奈は憤りに震え、睨み返す。「放して」涙が滲んでいるのを見て、拓海は自分がやりすぎたと気づく。手を離した瞬間、玲奈の平手打ちが頬を打った。「須賀君!私は金で弄ばれる女じゃないの!夫も、娘もいるの!」拓海の顔は横を向いたが、怒りの色はなかった。舌先で打たれた頬を押し、薄く笑む。「ここまで空気の読めない女、初めてだ」玲奈は皮肉に口角を上げる。「それで?失望したの?」泪を堪えながらも、目だけは強く彼を射抜いた。拓海はポケットから紙を取り出し、玲奈の目尻の雫を拭った。「いや、失望したのは俺じゃない。お前自身にだ」玲奈は顔を背けた。「助けてもらったことには感謝してる。けど、私はあなたに借りも貸しもない」その言葉を無視するように、拓海は彼女を抱き寄せた。顎を頭に乗せ、がっちりと閉じ込める。耳元で低く囁く。「違う。お前は俺に借りがある」玲奈にはその意味が
玲奈は一瞬だけ言葉を失い、それから淡々と告げた。「あなたが何をしたいかは、あなたの勝手よ。私に相談する必要なんてない」智也が言葉を継ぐ前に、玲奈は通話を切った。スマホを握りしめたまま、ソファに腰を落とし、しばらく呆然と座り込む。ほどなくして画面が光り、着信が入った。智也かと思えば、表示された名は――昂輝。「昂輝先輩」電話を取る声を、できる限り平静に装う。彼は玲奈の沈んだ気配に気づいたが、何も聞かずに提案した。「明日は土曜だろ。一緒に図書館へ行かないか?」玲奈は拒まなかった。「ええ、何時に?」「十時に」「分かったわ」彼女は大学院受験を控えていた。だがこのところ愛莉の病気で勉強が滞っていた。今なら娘はいない。久しぶりに腰を据えて勉強できる――そう思った。翌朝、早くから身支度を整え、図書館へ向かう。図書館には昂輝がすでに待っていた。一緒に勉強するとはいえ、彼は自分の時間を割いて、玲奈の質問に答え、要点を丁寧に解説してくれた。昼食は軽く外で取り、午後も再び勉強。だが夕方五時、病院から緊急手術の連絡が入り、昂輝は慌ただしく戻ることになった。彼が去ったあとも、玲奈は一人で勉強を続け、ようやく目が霞んできたころ、外はすっかり暗くなっていた。荷物をまとめ、駐車場で自分の車に乗り込む。エンジンをかけようとした、そのとき。助手席から低い声が響いた。「どうして、俺がやった贈り物を突き返した?」心臓が跳ね、玲奈は振り向いた。拓海の鋭い眼差しが闇の中に浮かんでいた。「......ど、どうやって車に?」震える声を押し出す。答える代わりに、拓海は身を寄せ、手を伸ばして彼女の手首を掴む。ぐいと引き寄せられ、簡単に間合いを奪われた。至近距離。互いの息遣いが混じり合い、甘く曖昧な気配に包まれる。玲奈の睫毛が小刻みに震える。拓海の目は深い闇を宿し、その震えを追いかけるように彼女を見つめた。声はかすれ、低く押し殺されている。「答えろ。どうして返した」恐ろしいほどの迫力を持つ男が、彼女の瞳を覗き込んだ瞬間、力を失ったように手の力を緩める。眉を寄せた玲奈の顔を見て、痛ませたと悟ったからだ。彼女は軽く身を捩ったが、逃れることはできない
一華の茶化すような言葉に、玲奈の耳が赤く染まった。「一華、冗談はやめて」肘で軽く小突き、真剣な顔をする。彼女が生真面目なのを分かっていても、一華はつい諭すように言った。「でもさ人間、一人に固執してちゃ、人生面白くないでしょ。智也がダメなら、別の誰かを試したっていい。人生は一度きりなんだし、しかも先に裏切ったのはあっちじゃない」玲奈は唇を結び、無理に笑みを作った。「......もう、その話はやめましょう」それ以上、一華は追及せず、話題を切り替えた。二人はまた少し街を歩き、久我山の名物を食べ歩いた。夜十時近くになると、一華が「疲れたからホテルに戻る」と言い出した。玲奈はホテルまで送った。降りる直前、一華がふと思い出したようにバッグを探り、小さな包みを取り出す。「はい、これプレゼント。もうすぐ誕生日でしょ?」受け取った瞬間、玲奈の目が潤む。「......ありがとう、一華」智也と結婚してから、玲奈は実家との縁を断たれていた。毎年、唯一誕生日を覚えてくれているのは綾乃だけ。密かにメッセージと振り込みをくれたが、それも家族のように祝うものではない。もう何年も誕生日らしい誕生日を迎えていない。今年も、一華に言われなければ忘れていただろう。あと数日で二十七歳になるのだ。一華は彼女の胸の内を察し、そっと抱きしめた。「もっと自分を大事にしなきゃ。気にする価値のない人間のために、心をすり減らす必要なんてないのよ」玲奈は肩に顔を埋め、小さく「......うん」と答える。しばし沈黙ののち、ふと思い出したように尋ねた。「そういえば......昂輝先輩も久我山にいるのよ。会いに行かないの?」一華の笑みが消え、首を横に振る。「いいの。だって、前に告白して振られたこと、まだ忘れてないから」大学五年の実習のとき、一華は昂輝に想いを告げた。そのことを知っている数少ない人物の一人が玲奈だった。昂輝は「恋愛するつもりはない」とはっきり断った。それ以来、一華は彼に連絡していない。「そう。じゃあ無理には勧めないわ」車を降りた一華は、立ち止まって玲奈に微笑んだ。「帰りは気をつけてね。着いたら連絡して」玲奈が小燕邸に戻ったのは、夜の十一時。愛
智也の言葉に、玲奈は怒りを覚えた。だが、もはや言い合う気力も残っていなかった。「いらない」短く答え、ためらいもなく通話を切った。そばにいた一華は、一部始終を聞いて顔をしかめる。「何あのクズ男!ここまでされても、まだ離婚しないの?」玲奈は掠れた声で答えた。「......もうすぐよ」一華はますます腹を立てる。「愛人の誕生日に何千万も花火を上げて、贈り物だって桁違い。一方で、あなたが娘の服に数百万円使おうとしただけで口を出すなんて!どうしてあんな奴、罰も受けずに平然と外を歩けるのかしら!」玲奈は胸の奥に失望と痛みを抱えていた。けれども、それすらも習慣になってしまった。「一華......私が買わなければ済む話よ。あなたが怒ることじゃない」一華は納得できず、拳を握りしめる。「本当にあのクズ、ぶっ潰したい!」玲奈は彼女の手を取って、静かに宥めた。「もういいの。そんな価値もない」――こんなこと、これが初めてではない。いちいち怒っていたら、とっくに憎しみに呑まれていただろう。一華は悔しさを滲ませながら言った。「玲奈......あなたはあんな男のせいで学業を棒に振って、自分を犠牲にして。あの頃は学年一位の成績で卒業したのに、今じゃ最下層の医師扱い。私でさえ産婦人科の執刀医になったのに、あなたがこんな境遇だなんて」玲奈は俯き、静かに答えた。「......必ず学業を取り戻すわ」一華は信じていた。玲奈ならきっとやり直せる。けれど、結婚のために失った五年間――誰が償ってくれるのだろう。二人は再び子ども服売り場へ戻った。玲奈が選んだ商品は、まだレジ脇に置かれていた。店員が気づいて近寄る。玲奈は申し訳なさそうに口を開いた。「すみません、さっきの品は......」「不要です」と言い切る前に、背後から低く響く声がした。「全部包んでくれ」振り返った瞬間、玲奈の目に飛び込んできたのは、黒いトレンチコートに身を包んだ拓海だった。彼の最も好む色――黒。荒々しい雰囲気をまといながらも、その整った顔立ちが野性味を打ち消していた。拓海は口元に笑みを浮かべていた。挑発的で、傲慢なほどの笑み。玲奈は眉をひそめる。「必要ないわ。もうい
子ども服売り場に足を踏み入れると、玲奈は夢中で愛莉の洋服を次々と手に取った。一華はその様子を見て、思わず口を開く。「そこまで娘さんに尽くすより、自分にもう少し使ったら?」玲奈は淡く微笑み、静かに答える。「......今回が最後かもしれないもの。次に買えるのがいつになるかも分からないわ」それ以上、一華は強く言えず、ただ根気よく付き添った。いくつもの袋いっぱいに選んだあと、ようやくレジへ向かう。店員が品物をまとめ、金額を告げた。「百七十六万円です」玲奈は一瞬だけ驚いたが、特に疑問は抱かなかった。ここは高級ブランドの子ども服売り場。品質は良いが、その分値も張る。愛莉を育ててきた数年間、彼女は何度もここで買い物をしてきた。少なくて数十万円、多いときは一度に数百万円。慣れている金額だった。まして智也は専用のカードを渡しており、毎月のように振り込みもしていた。「娘のために使え」という意味だと分かっていた。最初のうちは残高を気にしたこともあった。だが、一度に千万円単位で入金されるので、使い切ることなどなかった。そのうち確認すらしなくなった。一華は値段に目を丸くしたが、すぐに思い直す。智也の妻と娘なら、使う物が高級でも当然。――そういう生活なのだ。玲奈はバッグからカードを取り出し、店員に差し出す。「暗証番号は****です」店員がカードを通す。だが、表示されたのは「決済不可」の文字。玲奈は耳に飛び込んだ機械音に、思わず固まった。店員も彼女の顔を知っており、その経済力を疑ったことはなかった。だが、事実として決済は通らない。店員も困惑の色を浮かべる。一華はさらに驚き、声を漏らす。「どういうこと?」店員がカードを確認し、やがてこう説明した。「春日部さま......このカードは凍結されています」「凍結?」玲奈の眉が寄る。店員は何度も確認し、確かめるように繰り返した。「はい、凍結されています」玲奈はしばし立ち尽くし、ようやく声を絞り出す。「すみません......品物は預かってください。電話を一本かけてきます」そう言い、一華の腕を引いて店を後にする。人目のない階段の踊り場で、玲奈は迷わず電話をかけた。――意外にもすぐ繋