Masuk宮下がキッチンへ入っていくと、玲奈はどこか上の空のままソファに腰を下ろした。かつて――紙おむつや粉ミルク、哺乳瓶でいっぱいだったローテーブル。いま置かれているのは、花、茶葉、それに洒落たファッション誌だ。考えるまでもない。沙羅がここでお茶を淹れて、雑誌をめくっていたのだろう。智也の視線が、玲奈を追っている。彼女がテーブルを見つめたまま動かないのを見て、近づき、つい口を挟んだ。「どうした。テーブル、気に入らないか?」玲奈は我に返り、目にゆっくり光を戻して顔を上げる。「ううん。いいと思う」悪いわけがない。このテーブルは、もともと玲奈が自分で選んだものだ。ただ――その上にあるものが、もう自分のものではないだけ。智也はそれ以上追及せず、淡々と言った。「じゃあ、上でお前の寝床を整えてくる」玲奈はすぐに返す。「私、ゲストルームで寝るから」智也の足が止まる。彼は玲奈の瞳を見下ろし、逆に問い返した。「夫婦なのに、なんで部屋を分ける?」玲奈は動じない。水面みたいに静かな声で、同じように問いを返した。「私たちって、本当に夫婦?」「違うのか?」玲奈は争う気はなかった。けれど譲るつもりもない。「......智也。私はゲストルームで寝る」智也はまだ何か言いかけたが、その瞬間、宮下がキッチンから出てきた。エプロン姿で、玲奈に尋ねる。「奥さま、海鮮がいいですか?それとも煮込みでしょうか?」玲奈は宮下に向き直り、淡く笑って答えた。「どっちでも大丈夫よ」宮下はしばらく考えてから、決めたように言う。「では、奥さまの大好物。鶏の照り焼きにしますね」胸の奥がきゅっと縮む。鼻の奥がつんとして、涙がこみ上げそうになるのを玲奈は必死に抑えた。「......ありがとう、宮下さん」宮下は返事の代わりに、嬉しそうに笑ってまたキッチンへ戻っていった。玲奈が戻ってきたことが、よほど嬉しいのだ。宮下がいなくなると、智也はまた玲奈を見た。「じゃあ、上で休め」寝室なのかゲストルームなのか、そこまでは言わない。けれど玲奈は決めていた。智也の寝室には、絶対に入らない。「......うん」玲奈はそうだけ言って、二階へ向かった。背中に、智也の視線
病院を出たあと、玲奈は智也の車の助手席に座っていた。落ち着かない。まるで針のむしろに座らされているみたいだった。この席には、自分だけじゃなく沙羅も座っていた。そう思うだけで、胸の奥がむかむかする。しかも隣にいる男は――沙羅とも、身体を重ねている。玲奈は冷えた顔で黙っていた。智也がエンジンをかけないのを見て、愛莉が泣いた、と沙羅から電話が来るのを待っているんだろうと察する。「迎えに来て」と言われるのを。けれど十分ほど待っても、智也のスマホは沈黙したままだった。とうとう智也がしびれを切らし、エンジンをかけてアクセルを踏む。その様子に、玲奈の胸がざわつく。思わず横を向き、不安げに問いかけた。「......本当に、愛莉のこと待たないの?」車はちょうど信号で止まった。智也はブレーキを踏んでから、玲奈と目を合わせる。険しかった表情は、彼女を見るとすっと緩み、深い笑みが浮かんだ。「本人が残りたいって言ったんだ。好きにさせればいい」玲奈はまだ納得できず、焦ったように言いかける。「でも、あの子まだ熱――」そこまでで、言葉を飲み込んだ。けれど智也は、その様子がよほど嬉しいのか、笑みをさらに濃くする。「ほら。まだ俺たちのこと気にしてるじゃないか」玲奈は目を閉じ、わざと返事をしなかった。愛莉は自分の身から生まれた子だ。気にならないはずがない。それに沙羅は脚を痛めている。愛莉自身も熱がある。そんな小さな子を置いて帰るなんて、誰だって不安になる。信号が青になり、車は走り出す。玲奈が黙ったままなので、智也もそれ以上は何も言わなかった。車はそのまま小燕邸へ向かい、三十分ほどで門の前に停まった。智也は降りて、玲奈のドアを開けようとする。けれど彼が回り込む前に、玲奈は先に降りていた。昔なら欲しかった小さな気遣いも、今はもう心を動かさない。智也は行き場のないまま、苦く笑う。玲奈は小燕邸へ歩き、智也を待たなかった。智也は数歩で追いつき、彼女の横に並ぶ。玄関に着くと、掃除をしていた宮下が足音に気づき、振り返った。逆光の中で、玲奈の姿を見た宮下は目を丸くする。「奥さま......?」玲奈は頷き、宮下に小さく笑って見せた。すると智也が宮下
そう考えると、ようやく胸のざわつきが収まった。それでも山田は来ない。沙羅は愛莉に言った。「愛莉ちゃん、スマホ取ってくれる?雅子おばあちゃんに来てもらって、付き添ってもらうの」愛莉は露骨に嫌がった。「やだ」愛莉の反応を見て、沙羅の胸の奥に、ちいさな快感が走る。――雅子は、この子をちゃんと従わせてる。名前を出しただけで怖がるなんて。けれど沙羅は愛莉の気持ちなど気にせず、にこりと笑って言う。「山田さんだと、私は落ち着かないの。雅子おばあちゃんは、私のママだもの。ママがそばにいてくれたら安心でしょ?ね?」その言葉を聞いた瞬間、愛莉の胸がどくんと鳴った。――どうしてみんな、そんなにママが好きなの?幼稚園の子だって、迎えに来るのはいつもママ。あの嫌な陽葵だって、毎日ママの後ろにくっついている。みんなそうだ。それだけでも嫌なのに、沙羅までママが一番みたいに言う。胸の奥が、じわっと苦くなった。玲奈の顔が浮かぶと、好きという気持ちはもう湧いてこない。出てくるのは、むしろ恨みだった。複雑な感情に押しつぶされそうになり、愛莉は勢いよく沙羅に抱きつく。腰にしがみついて、泣きながら叫んだ。「ララちゃんが、私のママになって。私はララちゃんだけがママならいいの!」沙羅は抱き返した。けれど胸の内に、本当の思いやりは一片もない。表情だけはやさしく作って、「うん」と頷く。愛莉は泣き続け、沙羅の服は涙で湿っていく。沙羅は苛立ちを覚え、思わず愛莉を押しやった。そして俯き、問いかける。「どうしてパパと一緒に帰らなかったの?」愛莉は眉を寄せた。「ララちゃん、私がいて嫌なの?」沙羅はすぐに笑顔を貼りつける。「違うよ。私は心配してるだけ」愛莉は必死に言う。「心配しなくていいよ。私、自分のこともできるし、ララちゃんのことも守れる」沙羅は小さく笑って頷いただけだった。「うん」さらに三十分ほどして、雅子が病室に現れた。姿を見た瞬間、沙羅はたまらなくなって目を赤くする。「ママ......」雅子はベッド脇にどんと腰を下ろす。その勢いで愛莉はベッドの足元へ追いやられた。愛莉は雅子が怖くて、一言も言えない。雅子は沙羅の手を握り
玲奈が先に階段室を出ると、智也はすぐ後ろから追いかけた。二人は並んで、沙羅の病室へ向かう。智也はわざと玲奈の横に歩調を合わせ、肩を並べた。病室の前に着いても、玲奈は中へ入らず、入口に立ったままだった。玲奈が入る気がないのを見て、智也も無理に引っぱり込もうとはしない。智也が病室へ入ると、まず沙羅の様子を確認した。眠っているのを確かめてから、今度は愛莉に声をかける。「愛莉、帰るぞ」その言葉に、愛莉は一気に慌てた。大声で首を振る。「やだ!帰らない!ララちゃんと一緒にいる!」智也は宥めるように言う。「言うことを聞きなさい。山田を呼んで、彼女の付き添いを頼むから」だが愛莉は頑として譲らない。顔を背けて言い張る。「いや!帰らない!私がララちゃんの面倒を見る!」智也の表情が、すっと冷えた。声を低くして問いただす。「もう一回聞く。帰るのか、帰らないのか」愛莉はきっぱり答えた。「帰らない」智也は短く言った。「......分かった」そして淡々と続ける。「じゃあ、パパとママは先に帰る。あとで山田を寄こして、お前とララちゃんを見てもらう」そう言い捨てると、智也は踵を返して病室を出ていった。愛莉は背中を目で追った。――どうせ、私を一人で置いていくはずがない。パパなら、戻ってくる。ところが、智也は本当に出ていったきりだった。涙が一気にこぼれ落ちる。それでも愛莉は、まだ信じた。パパが、私を病院に置き去りにするわけがない、と。けれど待っても待っても、智也は戻らない。三十分以上が過ぎた頃、ようやく愛莉は気づいた。――パパは、もう来ないのかもしれない。その瞬間、怒りが込み上げた。愛莉は手を振り上げ、机の上のコップを叩き落とした。「ふんっ!ぜんぶあの悪いママのせい!パパを奪ったんだ!悪いママ!悪いママ......!」音が大きすぎて、沙羅ははっと目を覚ました。愛莉は慌てて駆け寄る。「ララちゃん、起きたの?私がうるさかった?」沙羅は愛莉の泣き顔を見ても、胸は動かなかった。むしろ、平手打ちしてやりたい衝動がこみ上げる。せっかく眠れたのに、叩き起こされたのだ。怒りを呑み込んではみたが、笑
そう言いながら、愛莉は沙羅の胸に飛び込み、ぎゅっと抱きついた。沙羅はこの泣き虫を突き放したくてたまらなかったが、堪えた。智也は外にいる。それに愛莉まで目の前で騒がしくて、ますます苛立つ。――いっそ、このまま倒れてしまったほうが早い。そう計算した次の瞬間、沙羅は本当にそうした。そのままベッドへ、力なく崩れ落ちたのだ。愛莉は目を見開いて固まり、遅れて絶叫した。「パパ!パパ!ララちゃんが倒れた!」入口で玲奈と張り合っていた智也は、その声を聞くなり迷わず部屋へ駆け込んだ。玲奈は病室のほうを見なかった。ただ、智也の切迫した声が聞こえる。「沙羅......!」それに重なるように、愛莉の胸を裂く泣き声。「ララちゃん......!」――結局。夫も娘も、別の女を心配する。さっき智也が何を言っていようと関係ない。玲奈は、智也があの人を気にかけているのを、もう嫌というほど思い知らされた。しかも、愛莉は「腕なんていらない」とまで言った。あの腕は――私が命を削って産んだ体じゃないの?そう思った途端、胸の奥がざわついて、頭が熱くなった。部屋の中の騒がしい声も、もう一秒たりとも聞いていられない。玲奈は立ち上がり、ゆっくりその場を離れた。向かったのは階段室。小さな窓を開け、玲奈は眼下の久我山の街を見下ろす。眩い都会。車の流れ、ネオン、高層ビル――全部がきらきらしているのに、彼女の心だけが石みたいに重い。窓枠にもたれ、吹き込む冷気に髪を乱されながら、玲奈はスマホの動画をぼんやり流した。けれど出てくるのは、別れだの離婚だの、そんな文句ばかり。しまいには「離婚したら子どもは誰にも要らない存在になる」だなんて。うんざりして、玲奈は乱暴に画面を消した。――そして顔を上げた瞬間。目の前に、智也の深い黒い瞳があった。玲奈は湧き上がる怒りを必死に押し込み、少し間を置いてから尋ねた。「......どうして来たの?」智也は階段室の入口に立ったまま言う。「お前がいなかったから。心配になって、見に来た」玲奈が、彼の口から「心配」という言葉を聞いたのは初めてだった。けれど、胸が温まるどころか、疑いが先に立つ。何年も望んだ言葉が今さら叶っても、信じる理由が
【出会った日......?】玲奈は思い出せなかった。けれど不安のほうが先に立ち、すぐ直子に打った。【受け取ったの?】直子から返ってくる。【さすがに受け取れなかったわ。でも須賀君が置き捨てて、そのまま行っちゃったの】玲奈は落ち着かず、指を早めた。【お母さん、そのカードは大事に保管して。数日中に時間を作って、私が返しに行くから】【わかったわ。ちゃんとしまっておくわね】スマホを握りしめたまま、玲奈はもう一度だけ確認する。【ほかに、須賀君は何か言ってた?】直子は隠さず、そのまま返した。【うちへの結納金だと思ってって】その文字を見た瞬間、玲奈は自分が言葉を読めなくなったみたいに感じた。しばらく固まってから、やっと短く返す。【......わかった】画面を消そうとした、そのとき。頭上から低く、掠れた声が落ちてきた。「誰にメッセージしてた?」智也だった。玲奈が顔を上げると、智也は見下ろしている。暗がりに顔が半分沈み、輪郭はぼやけているのに、視線だけが鋭く刺さってくる。動揺を飲み込み、玲奈は平然と答えた。「母に」言い終わるなり、智也が手を差し出す。「じゃあ見せろ」玲奈は眉を寄せる。「見せてどうするの?」それでも智也は手を引かない。「俺に隠し事はするな」玲奈はおかしくなって、返事の代わりに沙羅がいる診察室のほうへ視線を投げた。中から沙羅のか細い嗚咽が聞こえてくる。玲奈は智也に言った。「まず彼女のほうを見てあげたら?」彼女に、玲奈はわざと強く言った。何を忘れてるのか――思い出させるみたいに。それでも智也の視線は玲奈から離れない。「こんなの、ちょっとした怪我だ。少し我慢すればいい」その言葉で、玲奈の体の芯が一気に冷えた。まさか智也が、怪我をした沙羅に対してそんな言い方をする日が来るなんて。この人は――本当に心があるの?玲奈は智也をじっと見た。探るように、見透かそうとして。けれど彼の顔は静まり返っていて、何ひとつ読み取れなかった。いったい、何を考えているのか。一方、診察室の中ではギプス固定が進んでいた。沙羅は汗と涙でぐしゃぐしゃになり、痛みに耐えている。愛莉はそばで見守り、目を真っ赤にしてい
会場を出た玲奈は、会場前で車を待っていた。先に出た人が多かったせいか、なかなか車がつかまらない。数分待っても一台も来ず、焦っていた。何度もスマホを開いてはみるが、誰に電話をすればいいのか分からない。そんなとき、背後から智也の声が聞こえてきた。「春日部玲奈」フルネームに呼び捨て、そして淡々とした口調だった。振り返ると、沙羅が智也の腕を組み二人並んで立っていた。まるで絵に描いたかのようにお似合いの姿。沙羅は玲奈を見て、何か探るような視線を向けているが、智也は言った。「ちょうど帰るところだ。一緒に行こう」玲奈はもう一度、がらんとした通りに目をやる。愛莉
玲奈が目線を下に落とすと、沙羅の手首にはキラキラと輝くダイヤのブレスレットが光っていた。一目で相当な金額のものだと分かる。智也は家に入ってくると、一目も玲奈のほうへ目を向けず、宮下に言った。「何か精のつくものを作ってくれ。昨晩沙羅はとても頑張ってくれたから、エネルギー補給しないとな」宮下はそれを聞いて顔を青くさせたが、智也の命令であるから、大人しくそれに従うしかなかった。「はい、智也様」玲奈もすでに経験者であるから、智也と沙羅の様子を見て、彼らが一体何をしたのかはだいたい予想がつく。そのような特別な日に、二人が一緒にいて甘い夜を過ごさないほうがおかしいだろう。愛莉は沙羅が帰
拓海が舞台へと歩み出すのを見て、玲奈の胸がざわついた。周囲を気にしている余裕はなく、思わず声を上げた。「須賀君、何してるの!降りてきて!」その声は智也と沙羅にも届いた。だが拓海は振り返ることなく、そのまま壇上へ上がり、競売人からマイクを受け取った。彼は右手を上げ、小指と薬指を折り、親指を立て、人差し指と中指をそろえた独特の仕草をしてみせ、客席に向かって眉を上げる。「22億。ほかに競る人は?」その手振りに、場内がざわつく。拓海はまるで挑発するように、どんな金額を智也が提示しても追随する意思を示した。玲奈の心はきゅっと締めつけられる。智也は穏やかな相手ではな
バーを出るまで拓海はずっと玲奈の腰に手を回して放さなかった。この時の玲奈は非常に気持ちが沈んでいて、拓海にそうされていることすら忘れていた。そして拓海が車のドアを開けたところで玲奈はやっと我に返り、一歩下がってこう言った。「須賀君、今夜はどうもありがとう」拓海は玲奈が何か深く考え込んでいるのに気付いたが、それを口に出すことはなく、彼女のほうへ近寄った。身を少し屈めて目線を彼女の位置と合わせ、微笑み見つめて言った。「いっつもそんな他人行儀みたいにお礼を言っちゃって」玲奈はまた少し後ろに下がったが、車にちょうどぶつかり退路を塞がれて警戒するような目つきで拓海に言った。「あの……」







