Masuk拓海の顔から、さっきまでの笑みがすっかり消えた。声を落とし、玲奈に問いかけた。「つまり、玲奈が俺に送ったあの女が……俺を助けた本人だって言いたいのか?」玲奈は頷いた。「そうよ」拓海は玲奈の腕をつかんだ。無意識に力が入る。そして、歯の隙間から絞り出すように声を出した。「俺を拒むために、そんな嘘までつくのか?」玲奈は真っ直ぐ彼を見つめた。その目には、ただ真剣さだけがあった。「嘘じゃない。本当のことよ」その言葉に、拓海はふいに顔を背け、大きな声で拒絶した。「信じない」玲奈はなお何か言おうとした。だが拓海は、もうそれ以上聞こうとしなかった。次の瞬間、彼は振り向きざまに玲奈の唇を塞いだ。それは初めてと言っていいほど乱暴な口づけだった。噛みつくように、奪い尽くすように、まるで彼女そのものを呑み込んでしまいたいかのように。玲奈は反射的に彼を押し返した。もう彼に怪我があることなど、気にしていられなかった。それでも、どれだけ力を込めても、拓海は離れようとしない。やがて口の中に濃い血の味が広がったとき、ようやく彼は少しだけ唇を離した。その血が自分のものなのか、拓海のものなのか、玲奈にはわからなかった。拓海の顔は薄暗がりの中に沈み、玲奈が見上げても、おおまかな輪郭しか見えない。長い睫毛に隠れて、その目の奥の感情も読み取れなかった。玲奈は口元の血を手でぬぐい、それでもなお言った。「私が言ったことは、本当よ」その言葉に、拓海は冷たく笑った。「本当だったとして、それが何だっていうんだ」表情は見えない。何を考えているのかも、はっきりとはわからない。ただ、その声の端々から、彼がひどく機嫌を損ねていることだけは伝わってきた。そして拓海は、さらに低く問い詰めた。「もしあのとき、先に俺を見つけたのが玲奈だったら、見捨ててたか?玲奈の性格なら、絶対に助けてたはずだ。だから俺を救ったのは玲奈でしかないし、そうあるべきなんだよ……」そのとき、玲奈が静かに言った。「須賀君、それはわからない。本当に……私にも、自分が助けたかどうかなんてわからない」起きてもいないことに、確かな答えは出せない。玲奈自身にも、自分なら必ず助けたとまでは言い切れなかった。拓海
玲奈自身がそう決めた以上、心晴もそれ以上は何も言えなかった。結局、その夜のテントの割り振りは、明と颯真が一張り、心晴が一人で一張り、そして玲奈と拓海が一張りということになった。決まると、皆それぞれ自分のテントへ戻っていった。玲奈がテントの中に入って腰を下ろすと、すぐに拓海も身をかがめて入ってきた。二人は向かい合って座ったまま、互いを見つめながらも、不思議なほど息を合わせたように黙り込んでいた。しばらくして、玲奈が口を開こうとしたそのとき、先に拓海が言った。「わかってる。玲奈、何か抱えてるんだろ。一日中、ずっと元気がなかった。今日だって、本当はそんなに楽しめてなかったはずだ。みんなの気分を壊したくなくて、泊まるって言っただけなんだろ」そうと知りながら、それでも拓海は彼女の気持ちを優先しなかった。このまま山を下りてしまえば、それぞれまた別々の場所へ帰ってしまう。だからこそ、少しでも長く一緒にいたかったのだ。拓海の言葉に、玲奈は取り繕わなかった。「そうよ」あまりにきっぱりと認められて、拓海は逆に面食らったようだった。それでもすぐに、探るように問いかけた。「そこまでして俺と二人きりになりたかったって、一体何を話すつもりなんだ?」玲奈は顔を上げて彼を見た。けれど、いざとなるとどう切り出せばいいのかわからない。黙り込んだ彼女を見て、拓海はさらに尋ねた。「今日ずっと、知らないやつからラインの友達追加が来てた。あれ、玲奈が送ったのか?」玲奈は頷いた。「そう。私が送ったの」拓海は気にも留めていないように肩をすくめた。「女か?」「ええ」すると拓海はあっさりと言った。「なら、もうブロックした」それを聞いた瞬間、玲奈は思わず身を乗り出した。「須賀君、あなた……」だが次の瞬間、拓海は彼女の手をつかみ、軽く引いて自分のほうへ寄せた。その黒い瞳をまっすぐ見つめながら、低く押さえた声で言った。「相手が女なら、追加したって意味がない。だったら最初からいらない」その視線を受け止めながら、玲奈ははっきりと彼を呼んだ。「須賀君。あの橋の上で――」だが最後まで言い切る前に、拓海は身を翻して彼女に覆いかぶさった。大きな影が、玲奈の上に落ちる。拓海はそのまま顔を
そのころ、山頂では――五人はレジャーシートの上に並んで寝転んでいた。玲奈と心晴が真ん中にいて、その両脇をそれぞれ拓海と明が挟んでいる。空いっぱいに散らばる無数の星を見上げながら、玲奈の目はどこか焦点を結ばず、耳の奥にはただ静けさだけが満ちていた。そんな中、場を和ませるように明が口を開いた。「みんな黙っちゃってるけど、何考えてるんだ?」けれど、誰も答えなかった。全員が口をつぐんだままなのを見て、明は名指しで尋ねた。「颯真、おまえは?」颯真の声はいつもどおり淡々としていた。「あとでテントをどう分けるか考えてた」明は思わず鼻で笑った。「風情なさすぎだろ。こんないい景色を前にして、考えることがそれかよ」すると颯真は、さらりと返した。「あとで一緒に寝ようなんて言うなよ」明は「は?」とでも言いたげに顔をしかめ、それから今度は拓海へ向き直った。「須賀は?何考えてるんだ?」拓海は両手を頭の後ろに回し、星空を見たまま、しゃがれた声で答えた。「俺は俗っぽい人間だからな。頭の中、そういうのでいっぱいだ。俺も同じで、あとでテントをどう分けるか考えてた」明は額に手をやりたくなった。「……ほんと、お前たち二人がいると、こっちの立つ瀬がないよ」拓海はすかさず突っ込んだ。「何が立たないって?」明は慌てて低く怒鳴った。「心晴がいるんだから、そういうこと言うなって!」拓海はそれ以上何も言わなかった。妙な空気がひとまず引いたところで、明はまた玲奈に声をかけた。「玲奈さんは?何考えてるんだい」玲奈はひとつ深く息を吸い、笑みを作って答えた。「私は……別に何も」本当は、頭の中は一華と拓海のことでいっぱいだった。けれど今はまだ口にできない。胸の中に押し込めたままで、息が詰まりそうだった。明も、それ以上しつこく追及はしなかった。心晴にも聞いてみたかったが、気分を害したらと思うと踏み込めない。すると、本人のほうから先に口を開いた。「私はね、この先のことを考えてたの。きっと私たち、これから先、みんな幸せに、楽しく暮らしていけるんじゃないかなって」その言葉に、明もすぐに頷いた。「うん。きっとそうだ。楽しくて、幸せな日々になる」そこからは、自然と会話が続いた。
智也は愛莉の顔をじっと見つめていた。小さな顔の上を、次から次へと感情が移り変わっていく。返事がないままなので、智也は様子をうかがうように声をかけた。「愛莉?」はっと我に返った愛莉は、くりくりとした大きな目で智也を見上げ、素直に答えた。「パパ、どうしたの?」智也は辛抱強く、もう一度尋ねた。「ララちゃんに会いに行きたいか?」愛莉は首を横に振り、唇を尖らせた。「行かない」その返事に、智也は不思議そうに眉を寄せた。「ララちゃんのこと、一番好きだっただろ。どうして行きたくないんだ?」愛莉は目を伏せ、複雑な表情を浮かべた。「好きだよ。でも、雅子おばさん……」思わず、雅子にいじめられていることを話しかけた。けれど言葉はそこで途切れ、その先は飲み込んだ。もし言いつければ、雅子は沙羅に、自分を相手にしないよう仕向けるかもしれない。そう思うと怖くて、それ以上は口にできなかった。智也はその様子を見て、わずかに眉をひそめる。「どうした?」愛莉はにこっと笑って、智也の腕に抱きついた。「ううん、何でもない」智也はそれ以上追及しなかった。ただ頭をそっと撫でて言った。「まだ時間はある。おばあちゃんを呼んで、少し外で遊んでもらおう」愛莉は素直に頷いた。「うん」智也が美由紀に電話をすると、ほどなくして彼女はやって来た。美由紀は、孫娘の愛莉をことさら可愛がっているわけではなかった。本当は欲しかったのは男の子の孫だったからだ。それでも智也の娘である以上、露骨に冷たく当たることはない。だが、特別に愛情を注いでいるわけでもなかった。愛莉のほうも、この祖母にはどこかよそよそしさを感じていた。むしろ宮下のほうが、よほど親しみやすいとさえ思っていた。二人が小燕邸を出るとすぐ、美由紀は不満げに口を開いた。「愛莉、あなたのお母さんは本当に自分勝手ね。今じゃ、娘のあなたのことまで放っておくなんて」なぜだかわからない。その言葉を聞いた瞬間、愛莉は胸の奥が少しざわついた。愛莉は思わず言い返した。「おばあちゃん、ママはちゃんと面倒見てくれてたよ。前は、いつも朝ごはん作ってくれたもん」それを聞いた美由紀は、さらに顔を曇らせた。「じゃあ今は?今でもちゃんとしてく
皆の視線を一身に受けながら、拓海は玲奈のほうを振り向いた。けれど答えそのものは、背後の皆に向けて言った。「玲奈に任せるよ」この件ばかりは、自分だけで決めにくかった。山へ来る途中で、夜はカフェで話そうと約束していたからだ。最終的な判断を自分に委ねられ、玲奈は少しだけ面食らった。顔を上げると、何組もの期待に満ちた目が、自分へ向けられている。今日は皆、本当に楽しそうだった。それに天気も申し分ない。空を見上げると、もう星がぽつぽつと浮かび始めていた。みんなの気分に水を差したくなくて、玲奈は結局折れた。「……うん。今夜はここで泊まりましょう」そのひと言に、明が喜んだのはもちろん、隣の拓海まで、あからさまに顔をほころばせた。ちょうどそのとき、玲奈のスマホが鳴った。画面を見下ろすと、智也からだった。彼女はスマホを手に取り、少し離れた静かな場所へ移って電話に出た。拓海は彼女が電話に出るのを見ても、追いかけようとはしなかった。相手が智也だとわかっていたからだ。通話がつながると、智也が開口一番に訊いた。「戻ってくるのか?」玲奈は淡々と答えた。「今夜は小燕邸には戻らないわ」その返事に、智也は声を低くした。「戻らない?」よく耳を澄ませば、その声には不機嫌さが滲んでいた。だが玲奈は、彼の感情など意に介さなかった。ただ、もう一度はっきりと言う。「ええ、戻らないわ」それでも智也は食い下がった。「今どこにいる?」玲奈は逆に問い返した。「何か用なの?」智也は少し間を置いてから言った。「愛莉が、おまえの作る味噌汁を食べたいと言っている。明日の朝、作ってやってくれないか」それを聞いた瞬間、玲奈はおかしさすら覚えた。声はさらに冷えていく。「その話をするためだけに電話してきたのなら、わざわざかけてくる必要はなかったでしょ」そう言い切ると、智也が何か言うのを待たず、そのまま通話を切った。一方そのころ、智也は耳元で鳴り続ける話中音を聞きながら、そばにいた愛莉へ視線を落としていた。それからようやく、小さな声で言った。「……今の、聞いただろう。ママは今夜は帰らないそうだ」愛莉は眉を寄せた。「じゃあ、いつ帰ってくるの?」久我山へ戻ってきてもう一
手を押さえて顔をしかめる玲奈を見た瞬間、拓海は、彼女が火傷したのだと察した。すぐさまその手をつかみ、「こっちだ。冷やすぞ」と、ためらいなく言った。玲奈も逆らわず、そのまま彼に手を引かれていった。ほかの面々も心配そうに見守っていたが、拓海が連れていくのを見て、ようやく少し安堵したようだった。二人は小さな別荘の洗面所へ向かった。拓海は蛇口をひねり、玲奈の手を取ったまま、自分の手ごと一緒に水に当てる。ざあざあと水の流れる音だけが静かに響く。その音を聞いているうちに、玲奈の心は不思議なくらい落ち着いていった。一分ほど冷やしたところで、彼女はそっと腕を動かしながら言った。「もう大丈夫」だが拓海は顔を曇らせたまま、低い声で言った。「無理するなよ」玲奈は思わず言い返した。「無理してるのはあなたのほうでしょ。傷から血がにじんでるのに、それでも無理して来るなんて」さっき焼けた串を運んでいたとき、ふと彼の胸元が目に入ったのだ。服で隠してはいたものの、滲んだ血はごまかしきれていなかった。拓海は玲奈の手をつかんだまま、まだ流水から外そうとしない。そのまま彼女の横顔を睨むように見つめて言った。「こうでもしなきゃ、おまえは俺を心配してくれないだろ」玲奈は振り向き、腹立たしげに言った。「あなた……」拓海はそのまま甘い笑みを浮かべた。「認めろよ。おまえ、俺のこと気にしてる」玲奈は顔をそむけた。「気にしてない」その返事を聞くと、拓海は突然、「痛っ」と大げさに声を上げた。胸元を押さえ、いかにも苦しそうな顔をする。玲奈は反射的に彼を見て、思わず支えるように手を伸ばした。「どうしたの?」その心配そうな顔を見て、拓海は堪えきれずに笑った。その勢いで、また彼女の手を握った。「ほらな。やっぱり気にしてるじゃないか」眉を少し上げたその顔には、いつもの不敵な調子が戻っていた。玲奈は視線を逸らし、黙って手を引き抜いた。そのとき、外から明の大きな声が聞こえてきた。「拓海、玲奈さん、焼けたぞー!」玲奈は「今行く」と返し、そのままみんなのところへ戻っていった。一瞬きょとんとした拓海だったが、すぐにそのあとを追った。バーベキューを食べ終えると、今度は皆でトランプを始めた。
翌日、玲奈は昼休みに、近くのレストランに行った。彼女は一人で行動するのに慣れていて、いつも一人で動き回っていた。店に入ると、店員が出迎えた。「お客様、おひとり様でしょうか」玲奈は「ええ」と答え、それから「窓際の席をお願いします」と言った。言い終わり、ふと窓側の席を見やると、ちょうど院長が席から立ち上がるのを目撃した。院長の座った席にもう一人が座っていた。後ろ姿だけでも、玲奈はその人が昂輝だと気付いた。二人は何を話したか知らないが、院長が離れた時、顔に暗い表情を浮かべていた。玲奈は院長に挨拶せず、こっそり隠れて、院長が店を出てから、昂輝のいる席を指しながら店員に言った
しかし、彼女はそれ以上説明せず、ただ微笑んで昂輝に感謝を述べた。「褒めてくれてありがとうございます。でも、自分がどのくらいの者か、ちゃんと分かっています」昂輝は呆気に取られ、玲奈が本当に大きく変わったことに気付いた。かつて明るくて太陽のようだった女の子の目に、劣等感がはっきりと見て取れる。しかし、彼女は成績がよくて、優秀だった。大学院への推薦も受けて、多疾患研究センターの一員に加わる機会もあった。しかし、彼女は結婚を選んでしまった。昂輝は再びステージ上を見やった。沙羅は確かに輝いて眩しく見える。純白のドレスに包まれたしなやかな姿は、観客の注目の的となっていた。しかし、昂
娘に無視されて、玲奈の顔の笑みが消えてしまった。ここ数日、彼女はずっと愛莉と仲直りしようとしなかった。愛莉には自分の考えがあり、沙羅と仲良くしたいなら、彼女は干渉しないつもりだった。もし愛莉が悲しんでいるのを見抜けなければ、玲奈はわざわざ彼女に声をかけようとはしなかった。しかし、彼女が自ら一歩進んだ結果、娘に無視されてしまった。玲奈の心が痛まないはずがなかった。愛莉を産んでから、玲奈は娘の人生のあらゆる場面には自分が全部関わっていけると思っていた。しかし今、娘が幼稚園に通っているというのに、彼女が幼稚園に来られたのはこれが初めてだった。幼稚園の先生が沙羅を見つけると
沙羅は彼女に言った。「愛莉ちゃんがいいって言ってくれましたよ」玲奈は唇を震わせ、危うく「ありがとう」と口にしようとしたが、それは何に対する感謝なのだろう。沙羅は彼女の夫の愛人で、娘の心も奪ってしまった女だ。彼女が最も大事にしてきた二人が、すでに沙羅に奪われてしまったのに、何を感謝すると言うのか。結局、彼女は何も言わず、ただ黙って愛莉に手を差し出した。「愛莉、行こう」その声は冷たく、以前のような優しさはなかった。差し出された手を愛莉は呆然と暫く見つめ、沙羅に促されて、ようやくおずおずと握りしめた。愛莉を連れて車に乗り、バッグを置き、シートベルトを締めてあげてから、玲奈