【二〇二五年 杏】
「ただいまあ~」
千鳥足で玄関を開けると、ちょっと不機嫌そうな顔をした新が待っていた。
「姉さん、いったい今何時だと思ってるの?」
玄関にしゃがみ込み、靴を脱ごうとする私。
けれど、酔いで手元がおぼつかず、もたもたしてしまう。見かねた新が私の靴を脱がせ、そのまま肩を貸して立たせてくれる。
――ああ、飲みすぎたかも。
あいつ、意外と酒が強くて……調子に乗って一緒に飲んでたら、すっかり酔いが回ってしまった。
もしかして酔わせてお持ち帰りでも企んでた? あいつならありえるかも。途中で伊藤くんが止めてくれなかったら、ほんとに危なかったかもしれない。
次に行ったとき、ちゃんとお礼言わなきゃ。それにしても……ちょっと反省。
これでは、なんのために月ヶ瀬雅也に近づいたのかわからない。
「今日は松下さんのところに行くだけじゃなかったの?
それなのに、遅いから心配したよ。電話だって何回もかけたのに、全然繋がらないし……」気づけば私は、自分の部屋のベッドにいて、
新はぶつぶつ文句を言いながら、水を手渡してくれた。 私は精いっぱいの笑顔を浮かべ、ご機嫌取りにかかる。「ありがとう……ごめんね、心配かけて。でも、いい知らせがあるよ」
にやりと笑うと、新は眉をひそめ、疑わしげな目で私を見つめた。
「何? 嫌な予感しかしないんだけど」
腰に手を当てたその表情は、完全に呆れ顔だ。
酔っ払いの戯言だとでも思っているのだろう。「……月ヶ瀬雅也に会ったの」
「え! あいつに?」
新が身を乗り出す。
その剣幕に、私は一瞬たじろいだ。驚かせるとは思っていたけれど、想像以上の反応だった。
「う、うん。私もびっくりしたよ。
いつも行くバーで、偶然声をかけてきてさ。 あいつ、私のこと全然気づいてないの。それに……どうやら私に好【二〇二五年 杏】 映画が終わり、お昼休憩をとるため、私たちはレストランへとやってきた。 雅也が予約をしていてくれたようで、混んでいたにもかかわらず、すんなり席へと案内された。 とても高級そうなところだ。 フレンチかイタリアンか、そういう料理が出てきそうな店の雰囲気。 静かにクラシック音楽が流れている。 ……女性を口説く時に、いつもここへ連れてきているのだろうか。 私は呆れたように雅也を眺めた。 いかにも、こいつが好みそうなところだ。 席に着き、注文を終えた私が一息ついたとき、雅也が声をかけてきた。「よかったですね、映画。杏さんは楽しめました?」 突然の問いかけに、少し焦りながらも正直な感想を伝える。「ええ、よかったです。二人の恋愛模様がとても切なくて、涙が出そうになりました」 これは本音だった。 どこか物悲しい恋愛映画で、私は勝手に修司のことを思い出してしまい、危うく泣きそうになってしまった。 雅也とのデート中に、修司を思い出すなんて。 ……ほんと、自分でも笑えてくる。何やってるんだろ。「そうですよね……素敵でした。 あの二人のように、私も好きな人に想われたいものです」 雅也の瞳がゆらゆらと揺らめき、熱い視線が私に注がれる。 けれど、そんなふうに見つめられても、私の心は冷めきっていた。 ただ、仕方ないので少しだけ微笑んでおく。 食事も終盤に差しかかったころ、雅也が何やらウエイターにこそこそと話しかけていた。 いったい、何を話しているんだろう? 気になった私は、声をかけてみた。「あの……何か?」「いや、何も」 そっけない返事に、少し焦る。 まさか、私が何かしでかした? それで機嫌を損ねた? 惚れやすい人って、冷めるのも早いっていうし……。 まあ、嫌われたなら、それはそれで。 この人とは
【二〇二五年 杏】「ふーん、そう……」 新はじとっとした視線を送ってきたものの、あっさりと引き下がった。 鏡越しに見える新の背中を見つめながら、内心ほっとする。 ……なんとか誤魔化せたみたい。 この前のこともあるし、正直に話したらきっと新は猛反対するだろう。 なら、黙ってるしかないじゃない。 復讐は、私一人でやる。 もう大人なんだし、きっとうまくやれる。 なぜか私は、自信満々だった。 準備を終え、玄関へと向かう。「姉さん、行ってらっしゃい」 いつもと変わらず、にこやかに送り出してくれる新。 その笑顔を見て、胸がちくりと痛んだ。 私、嘘ついてる。 新に嘘なんて、あまりついたことなかったのに。 いや、あったかな? でも、悪意のある嘘はなかった。 これだって、別に悪意があるわけじゃない――そう言い聞かせ、自分を納得させる。「いってきます」 精いっぱい、いつも通りの笑顔でそう返したつもりだった。 だけど、新は鋭いからなあ。 バレてないといいけど……。 人混みの中を小走りで駆け抜けていく。 しまった……待ち合わせ、五分過ぎてる。 たった五分だけど、やっぱり印象悪いかな。 いや、落ち着け。 向こうが私に惚れてるんだから、多少の遅れくらい、気にしないはず。 そう思って、走っていた足を緩めた。 息を整えながら顔を上げると、視線の先に――すぐに見つけてしまった。 駅前で立っている、月ヶ瀬雅也の姿を。 どんなに人混みに紛れていても、なぜか目に入ってしまう。 ……この忌々しい感覚。嫌だけど、こういうときだけはありがたい。 私は雅也の背後からそっと近づき、声をかけた。「お待たせしました」「あ、杏さん!」 嬉しそうに笑顔を浮かべる雅
【二〇二五年 杏】 次の日、すぐに雅也から連絡がきた。『迷惑かなと思ったんだけど、君のことが忘れられなくて。 一度だけでいい、どうかデートをしてほしい』 デートのお誘いだった。 雅也は、どうやら完全に私に入れ込んでいるようだ。 やっぱり、このチャンスを逃す手はない。 新に言われたことも理解できるし、その気持ちも痛いほどわかってる。 でも、ずっと我慢していた私の中の復讐心が、膨れ上がるのをもう抑えられなかった。 その気持ちに、抗えそうにない。 ……ごめんね、新。 心の中で弟に懺悔しながら、私は復讐への一歩を踏み出してしまった。 そして、雅也とのデート当日がやってきた。 今日は日曜日。 いつもなら昼近くまで寝ている私だけど、この日は違った。 朝早くに目を覚まし、てきぱきと支度を始める。 鏡の前に座って、いつもよりずっと丁寧に化粧を施す。 普段なら十五分もかからないところを、一時間以上かけた。 よし、ばっちり。 これで雅也は、もっと私に夢中になるはず。 鏡に向かってニコッと微笑んだ。「けばい……」 鏡越しに覗き込んできた新が、渋い顔でつぶやいた。 かなり嫌そうに眉をひそめている。「姉さん、なんなのその化粧……。僕、好みじゃないよ」「べ、別に、あんたの好みなんてどうでもいいの!」 せっかく時間をかけたのに。 否定され、ムッとした私は頬を膨らませた。 新を無視して髪を整える。「ねえ、姉さん……今日どこへ行くの? そんなにお洒落して」 怪しむような目つきで、鏡越しに私を見つめてくる新。 ぎくりとしながら、私は手をひらひらと振って、新を遠ざける。「うるさいな。いいでしょ、どこだって」 ……雅也って、たぶん色っぽい雰囲気が好きそうだし、軽く巻いて
【二〇二五年 新】 姉さんと言い争いをしてしまった。 頭を冷やそうとキッチンへ向かい、コップに水を汲んで一気に飲み干す。「はあ~っ……」 大きなため息が漏れた。 閉じられた姉さんの部屋のドアを見つめながら、怒鳴ってしまったことを少し後悔する。 まさか、あの月ヶ瀬雅也という名前が姉さんの口から出てくるなんて……。 僕としたことが、取り乱してしまった。 月ヶ瀬雅也――父や僕たち、家族を地獄に突き落とした男。 また、僕たちの前に現れるなんて。 修司さんが姉さんの前に現れて、うろついてるだけでも気に食わないのに。 それなのに、あいつまで! よりによって、雅也に会ってしまうとは。 正直、あの家族にはもう二度と関わりたくなかった。 あいつらは、僕や姉さんの心をかき乱し傷つける。 ……絶対に、許せない。 痛いほど、拳をぎゅっと握りしめる。 喉の奥から怒りがこみ上げてきて、叫びたくなるのを必死で堪えた。 僕たち家族を壊した奴らじゃないか。 でも――姉さんは、いまだに修司さんのことを忘れられないようだ。 それはそうだろう。 だって、嫌いになって別れたわけじゃない。 でも、だからこそ……二人は一緒にいないほうがいい。 一緒にいると、どうしてもあの事件のことが思い出されて。 姉さんはその度に、傷つく。 あの事件の記憶を呼び起こす存在に、姉さんを近づけたくない。 修司さんもやっかいだが、今は雅也の方が問題だ。 どうしよう……。 僕は部屋の端から端を何度も往復しながら考えた。 姉さんを守らないと。 せっかく築き上げてきた二人の幸せな暮らしを、壊させはしない。 いったい、どうすれば。 ……ふと、姉さんの顔が浮かぶ。 視線が姉さんの部屋へと向き、気づけば、部屋の前に立っていた。
【二〇二五年 杏】 「ただいまあ~」 千鳥足で玄関を開けると、ちょっと不機嫌そうな顔をした新が待っていた。「姉さん、いったい今何時だと思ってるの?」 玄関にしゃがみ込み、靴を脱ごうとする私。 けれど、酔いで手元がおぼつかず、もたもたしてしまう。 見かねた新が私の靴を脱がせ、そのまま肩を貸して立たせてくれる。 ――ああ、飲みすぎたかも。 あいつ、意外と酒が強くて……調子に乗って一緒に飲んでたら、すっかり酔いが回ってしまった。 もしかして酔わせてお持ち帰りでも企んでた? あいつならありえるかも。 途中で伊藤くんが止めてくれなかったら、ほんとに危なかったかもしれない。 次に行ったとき、ちゃんとお礼言わなきゃ。 それにしても……ちょっと反省。 これでは、なんのために月ヶ瀬雅也に近づいたのかわからない。「今日は松下さんのところに行くだけじゃなかったの? それなのに、遅いから心配したよ。電話だって何回もかけたのに、全然繋がらないし……」 気づけば私は、自分の部屋のベッドにいて、 新はぶつぶつ文句を言いながら、水を手渡してくれた。 私は精いっぱいの笑顔を浮かべ、ご機嫌取りにかかる。「ありがとう……ごめんね、心配かけて。でも、いい知らせがあるよ」 にやりと笑うと、新は眉をひそめ、疑わしげな目で私を見つめた。「何? 嫌な予感しかしないんだけど」 腰に手を当てたその表情は、完全に呆れ顔だ。 酔っ払いの戯言だとでも思っているのだろう。「……月ヶ瀬雅也に会ったの」「え! あいつに?」 新が身を乗り出す。 その剣幕に、私は一瞬たじろいだ。 驚かせるとは思っていたけれど、想像以上の反応だった。「う、うん。私もびっくりしたよ。 いつも行くバーで、偶然声をかけてきてさ。 あいつ、私のこと全然気づいてないの。それに……どうやら私に好
【二〇二五年 杏】 雅也が私にカクテルを注文した。「僕のおごりです」 にこやかな笑顔を私に向けてくる雅也。 私は睨みつけたい感情を必死に押さえながら、にこりと微笑み返す。 雅也の頬が赤くなった。 まさか、私に惚れるなんて……。 これは、運命なのかな―― それともやっぱり、兄弟ってこと? 私が好きなタイプ? ふと修司の顔が頭をよぎった。が、すぐに打ち消した。 今はそんなことを考えていちゃダメだ。 そっちに意識を取られ、機を逃しては元も子もない。 雅也が頼んでくれたカクテルが私の前へと差し出された。 『ハート・オブ・ローズ』 ……名前の通り、ロマンチックで華やかなカクテル。 バラの香りや色を感じさせ、愛を伝える時にも使われることがあるカクテルだった。 これが私へのメッセージってこと? 私に一目惚れしたって? 冗談じゃない! あんたが私の父親に何をしたと思っているの! 私は歯を食いしばって、震える体をなんとか抑え、怒りに耐えた。 腹わたが煮えくり返りそう。 気が狂いそうなほど、こいつが憎い。 でも、ダメ……杏、我慢よ、我慢。 私は下の方で隠している手をぎゅっと握りしめた。「美味しそうなカクテル……いただきます」 カクテルに口をつける。 美味しい……甘さと酸味、そして香りが絶妙に調和している。 さすがね。と私はマスターの伊藤くんを見つめた。 先ほどから彼は、私と雅也をちらちらと窺うように見つめてくる。 誰ですか? どうしたの? という声がその視線から聞こえてきそうだ。 いつもと違う私に、少し動揺しているのかもしれない。 伊藤くんは何も知らない。 ここは平然としなければ。 大丈夫、というメッセージを視線に込め、伊藤くんを見つめ返した。「君に相応しいカクテルでし