「実はもう一つお伝えしなければならないことがあります」ベッドの上で紗雪を抱きしめていた京弥は、その声を聞き、気分が少し良かったせいか、まぶたをゆっくりと上げた。そして気だるげに一言だけ吐き出す。「なんだ」「例の薬剤の鑑定結果が出ました」その言葉に、紗雪も思わず視線を向けた。彼女は知りたかった。あの薬には一体何が入っていたのか。なぜ辰琉は、あれほどまでして自分の体に注射しようとしたのか。まさか、あれが自分を昏睡させる薬だったのでは......?そう考えると、背筋が冷たくなる。何もしていない自分が、なぜこんな目に遭わなければならないのか。辰琉の目的は何なのか。全く分からない。彼らは自分にそこまで深い恨みを抱いているのか。一体どこからそんな感情が湧いてくるのだろう。ジェイソンは二人の顔を見て、頭の中で言葉を整理し、それから口を開いた。「検査の結果、この薬剤は禁制薬でした」京弥の視線が鋭く向けられる。「何に使うもの?」その声には抑えきれない怒りがにじんでいた。あと少しで、その禁制薬が紗雪の体に打ち込まれるところだったのだ。考えるだけで、胸が締め付けられる。最初に奴を蹴った時、もっと強くしておくべきだった。ここまで図に乗らせてしまったのは、自分が甘すぎたせいだ。普段から余計な情けを見せすぎていた。大切な存在を守りきれず、こんな連中に手を出させた......すべては自分の責任だ。ジェイソンは京弥の胸中を察し、静かに思った。まあ、これは禁制薬だし、先にやりすぎたのはあの男の方だ。京弥が怒りを露わにしても当然だ。むしろ、彼はまだ優しすぎるくらいだ。そう考え、ジェイソンは包み隠さず事実を告げた。「この薬剤は無色無味で、投与しても機械では検出できません。体験するのは投与された本人だけです。だから、最初の検査で見つけられなかったのです」「それで......?」紗雪は思わず問いかける。まさか自分の身に、こんなことが仕組まれていたとは。辰琉は本気で自分を眠らせ続けようとしたのだ。自分は普段から、あの人たちに甘すぎたのだろうか。だからこそ、彼らはここまで大胆に自分に手を出したのか。思えば思うほど、可笑しくすらなってくる。ジェイソンは
仕方がない。ここは相手の縄張りなのだから。病院へ向かう前に、緒莉はスマホからある人物にメッセージを送った。そうしてようやく、ほんの少しだけ胸のつかえが下りる。あの人が見れば、きっと子供の頃と同じように、すぐ助けを寄こしてくれるはず。その頃、ジェイソンは紗雪の病室へと足を運んでいた。京弥が彼を見るなり声をかける。「ちょうど良かった。紗雪の体を診てくれ」本来なら、ジェイソンはあの薬剤のことを真っ先に報告するつもりだった。だが京弥の言葉を聞いた瞬間、元々の目的を思い出し、思わず額を叩いた。「そうでした......椎名さんのおっしゃる通りです。私の落ち度でした」紗雪が目を覚ましてからというもの、あまりにも色々なことが立て続けに起こったせいで、本来すぐに行うべき診察を、すっかり後回しにしてしまっていた。そのうえ辰琉という男が暴れていたこともあり、ここまで遅れてしまったのだ。ジェイソンは手にしていた書類を机に置き、すぐさま診察に取りかかった。ペンライトで瞼を開いて瞳孔の反応を確認し、聴診器で胸の音を聞き、さらに脈を取る。どれも問題なく、脈も非常に安定している。紗雪は少し驚いた。まさか外国人の医師が、中国医学と西洋医学の両方を扱えるなんて。人を唸らせるほどの腕前らしい。彼女は隣にいる京弥を見上げ、少し緊張している様子に心が温かくなった。柔らかく微笑み、そっと首を横に振る。「大丈夫よ」と伝えるように。彼を安心させたくて、心配を和らげたくて。その笑顔に、京弥はどうにか深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。ともかく、紗雪が目を覚ましてくれた。それだけでも奇跡のようなことだ。再びあの絶望に逆戻りなど、耐えられるはずがない。人は、大切な人を何度も失うことなどできないのだから。ジェイソンは丁寧に診察を続け、十分以上の時間をかけてようやく身を起こした。その間、京弥の額には小さな汗がびっしりと浮かんでいた。自分があまりに緊張しすぎているのは分かっている。だが紗雪のこととなれば、平静ではいられない。口では強がっても、心は嘘をつけないのだ。だからこそ、彼は瞬きすら惜しみ、紗雪の表情を注視し続けていた。異変がないか、それだけを気にして。「どうだった?」京弥が問いか
「彼を怒らせた相手は、大物中の大物ですので。必ず君たちの味方をしてくれます」その一言で、警官たちはすっかり安心した。さっきまでは「少し厄介かもしれない」と心配していたが、どうやら杞憂だったらしい。問題など大してない。しかも背後には大物の後ろ盾がいる。ならば、なおさら遠慮する必要はない。そう思った警官たちは、ためらうことなく手錠を持って、椅子に座り込んでいる辰琉の方へ歩み寄った。「我々の職務にご協力願います」その光景を目にして、辰琉は目を見開いた。まさか本当に手を出してくるとは......「お前たち、俺が誰だか分かっているのか!」信じられないといった表情で怒鳴りつける。緒莉でさえ少し驚いた。まだ京弥も来ていないのに、これほど強気に出るとは。それとも、あの医師――ジェイソンの力がそれほど大きいということなのか?緒莉は赤い唇をきゅっと結び、不安げに考え込んだ。辰琉がどれほど声を荒げても、警官たちの態度は微動だにしない。「ご身分がどうであれ、先ほどの薬剤は、証人の証言によってあなたが持ち込んだことが明らかになっています。したがって規定に従い、我々と共に署まで来ていただき、調査に協力してもらいます」頑なな警官たちを前に、辰琉の胸に焦りが募る。「緒莉、この薄情な女!本気で俺を見捨てるのか?本当にいいのか?俺たちの関係を全部ぶちまけても!」その剣呑な視線に、緒莉は思わず胸をざわつかせた。そうだ。この男は確かに自分の秘密を多く握っている。裏切られれば、自分もただでは済まない。不利になることは明白だ。緒莉は引きつった笑みを浮かべ、警官たちに歩み寄った。「警官さん、これは何かの誤解じゃありませんか?私たちはここに来たばかりで、そんなことをするはずがありません」必死の愛想笑いも、どこかぎこちない。だが警官たちは一切動じない。淡々と告げた。「この病院側も証人も物証もすでに提示しています。それに、あくまで調査です。そうおっしゃるなら、あなたにもご同行願いましょう。一緒に調べさせてもらいます」「......私も、ですか?」緒莉は思わず自分を指差し、信じられない顔をする。「そうです、あなたも」警官たちの忍耐も限界に近づいていた。なんて扱いにく
だが、医師としての職業的良心があるせいか、ジェイソンは緒莉を見ているとどうしても不快感を覚えた。そう感じたのは彼だけではない。同行していた警官もまた、緒莉の笑みを目にして、心の奥にざらついた違和感を抱いた。まるで彼女は仮面を被っているかのように......「もっとも......」ジェイソンは言葉を継いだ。「覚悟しておいたほうがいい。そちらの紳士は、間違いなく牢獄に入ることになるでしょうから」そう告げると、ジェイソンは立ち去ろうとした。その言葉を聞いた緒莉は、思わず二歩ほど後ずさりし、信じられないといった顔を浮かべる。「な、なに?そんなはずは......!」辰琉はそんな彼女の様子を見て、心底うんざりした。全部知っているくせに、まだ芝居を続けるのか。虚飾にまみれた女だ。自分がこんな目に遭ったのも、結局はこの女のせい。それなのに、ここで悲劇のヒロインを演じるとは......誰が信じるものか。「見事な演技だな。後ろめたさはないのかよ」辰琉は冷笑混じりに吐き捨てた。緒莉はその言葉に鼻で笑ったが、表面上は取り合わない。今はとにかく、自分だけはきれいに切り抜けなければならない。彼女は首を傾げ、困惑したように微笑む。「辰琉、何を言っているの?本気で心配しているのに。さっき先生の言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になったのよ」そう言いながら、目にはうっすら涙さえ浮かべる。「まさかあなたがそんなことをするなんて......信じてたのに......」その芝居がかった態度に、辰琉はもう言葉を失った。まあいい。牢に入るのは仕方ない。だが緒莉だけは絶対に楽はさせない。最悪、一緒に道連れになればいい。どうせ自分は安東家の一人息子。父が必ず動いて救い出してくれるはずだ。獄中で一人見捨てられるなんて、あり得ない。緒莉は彼が黙り込むのを見て、口を閉じた。辰琉が何を考えているか、彼女にはよく分かっている。だが、それでもこの態度を貫くしかない。駒はいくらでもある。ひとつ失っても構わない。それに、まだ隠している切り札もある。だから自分が敗れることはない。必ず紗雪を踏みつけにしてやる。負けるつもりなんてさらさらない。紗雪が好き勝手に振る舞うのを許す気もな
彼は願っていた――この場面で緒莉が少しでも頭を使い、子供じみたわがままをやめてくれることを。こんな状況でストレートに口にしたら、まさに考えなしと言うしかない。だが、緒莉はただ冷ややかに辰琉を一瞥し、軽蔑を隠そうともせず言い放った。「私は事実に基づいて話をしているだけ。私の実の妹だからって、私に縋ろうとしないで。私は身内をかばうつもりなんてないから」まるで正義の味方を気取るようなその口ぶりに、外国人医師ジェイソンは一瞬ぽかんとしてしまった。一体どういう状況なんだ?緒莉は動かないジェイソンに視線を向け、さらに畳みかける。「先生?早く結果を確認してください。妹はやっと目を覚ましたばかりなんです。おとなしいからって、いいように扱わないでください」妹を思いやる姉の顔を見せるその態度に、辰琉は逆に違和感を覚え、胸騒ぎが一層強まった。「緒莉......お前、一体どういうつもりだ!」辰琉は思わず声を荒げる。「はっきり言え!何を企んでいるか!」緒莉は押さえられていた腕を振り払うと、自分の腕を抱きしめ、ついに仮面を脱ぎ捨てた。「別に、私はただ真実の側に立っているだけよ」無垢を装った声色で続ける。「それに、私はただ結果が知りたいだけ。何もしてないわ」肩をすくめて見せる仕草は、むしろ被害者ぶっているようにすら見える。その様子を目にし、辰琉の心は一気に冷え込んだ。そうか、負けたのだ。完全にこの女の手のひらの上だった。本来ならもっと早く見抜くべきだったのに。辰琉は重い何かに押し潰されたように、椅子へと崩れ落ちた。しかしジェイソンは彼に構っている暇などなかった。医師から鑑定結果を受け取ると、目を通し――思わず口をあんぐり開けた。「世の中に、こんなものが存在するとは......!」今日という日は、彼にとってまさに衝撃の一日だった。その時、緒莉がわずかに目を光らせ、心の底では動揺しながらも平静を装って尋ねた。「先生......その薬剤の成分って、結局なんだったんですか?まさか問題のあるものじゃ......私には妹が一人しかいないんです、どうかしっかり確認してください」ジェイソンは報告書を閉じ、緒莉と、椅子に崩れ落ちた辰琉へと意味深な視線を投げた。この二人、やはり腹に一物ある
もう結果はほとんど明らかだった。辰琉があとで何を言おうと、もはや意味はない。皆がここに集まって待っているのは、ただ鑑定結果が出るのを聞くためだ。今ではジェイソンの方が、むしろ辰琉以上にその時を待ち望んでいた。口を塞ぐことはできても、心の中までは縛れない。そういうものだから仕方がない。二人がそれぞれ焦燥を抱えながら時間だけが過ぎていき、やがて場の全員が待ちくたびれてきた。辰琉でさえ、恐怖よりも焦りの方が勝ち始めていた。どうか、ここの連中が皆間抜けでありますように......この薬の正体なんて分からないでくれますように......心の中で何度も祈り続け、ようやく胸を落ち着けようとしたその時――「結果が出ました」中から医師の声が響いた。その瞬間、辰琉とジェイソン、二人同時に目を向けた。だが、視線に込められた意味はまるで正反対。一方は不安と恐怖に震え、もう一方は抑えきれぬ期待に胸を高鳴らせていた。ジェイソンは心から喜んでいた。ずっと解明できなかった紗雪の昏睡の原因――それが、この薬によってようやく答えが得られるかもしれない。これで京弥にきちんと説明できる。そして自分の医師としての名誉も守られる。ここに来るまで、ジェイソン自身でさえ腕を疑いかけていた。K国でも分からず、A国に来て最新の機械を使っても成果なし。そのせいで長く気落ちしていたのだ。だが、ようやく答えに辿り着ける――そう確信していた。一方で辰琉は、背中に冷や汗をかいていた。彼にはわかっていた。この薬がどういうものかを。だからこそ紗雪はあんなに長い間眠り続けていたのだ。量は少なくとも、効果は絶大だった。だが今、それが明らかになろうとしている。捕まった自分には、もう逃げ道はない。緒莉は今どこに?頭をよぎるのは、あの女の顔。もしあの女に誘われなければ、自分はここに来ることもなかった。家にいて真白と平穏に暮らしていればよかったのに。ずっと緒莉を持ち上げてきたのに、結局何の見返りもなかった。思い返せば、結婚の約束すら一度もしてもらえなかった。ただひたすら騙され、利用されてきただけだ。惨めな自分の現状を思うと、緒莉への怒りと嫉妬で胸が焼ける。そこへ突然、聞き慣れた女の