音川が通うパーソナルジムは、自宅最寄り駅近くの単身者向けワンルームマンションに店舗を構えている。住居としての使用は無く、中央に本格的なトレーニングマシンがどんと置かれているだけの無機質な空間だ。建物自体が駅近という立地のせいか、税理士事務所やネイルサロンなど事業者ばかりで、居住者は極少数らしい。
数年前に腰痛のリハビリ目的で最初に通い始めたのは、全国に店舗がある大型のフィットネスクラブだった。重症で1ヶ月ほどまともに動くこともできなかったため、まずはスイミングから初め、足腰がまともに動くようになってからマンツーマンのトレーニングコースに乗り換えた。元来の完璧主義で音川はやると決めたことは徹底的にやる。食事指導も加えて、高負荷のトレーニングを毎日こなしていると、まるで水を得た魚のようにみるみると筋肉が育ち初めた。すぐに盛り上がった上腕二頭筋によりTシャツの袖が窮屈になり、そこから伸びる両腕は薄い脂肪が更に削られて力強い血管が浮き出している。背筋は二列の丘のように盛り上がりまっすぐに伸び、細くくびれた腰を十分に補強することができ、それだけで腰痛対策は完了と言えたが、音川自身が自分のカラダの変化に面白みを感じていた。ちょうどその頃、担当トレーナーが独立してパーソナルジムを開業するというのでそのまま引っ張られるかたちで契約した。純粋に筋トレだけをする空間でプールもシャワーも無いが、『飢えたドラキュラのよう』と言われるほど青白く細かった音川を、現在の筋骨隆々な男に作り変えた信頼は大きかった。もちろん、腰痛は再発していない。それに、完全予約制のパーソナルジムという逃げられないシステムが、音川に合っていた。ドタキャンなど絶対にできない性分で、しかもキャンセルの連絡を入れるのが面倒なのだ。そんな性格だから、仕事でも私用でもまず横槍が入る可能性が低い平日の朝一番を定常としている。ジムの後はそのままモーニングを食べに行く習慣で、無論シャワーも浴びていなければ着替えもしていない。
これまで一度も考えたことがなかったそれに気が付いたのは、今まさに喫茶のドアを開けようとしている瞬間だった。しかし躊躇したのは一瞬だけで、音川はそのままドアを引いた。一度帰って13時からの打ち合わせまであと5分という時、ソファで寝入っていた泉の身体がびくりと動き、マックスが驚いて飛び降り、音川は1人と1匹を撫でていた両手をパッと宙に上げた。どうやら泉のスマートウォッチが会議のアラートを発したようだ。泉は束の間もぞもぞとしていたが、急にガバっと起き上がり「音川さん!」とコーヒーテーブルに腰掛けた音川の太腿にすがるように手を置いた。「会社、間に合わないですよね?」「ここから繋げばいいよ」「すみません……」「いや、俺が起こさなかったせいだから」「そんな……寝ちゃったの僕ですし」先週までの泉のがんばりを考えれば、週が開けても疲弊していて当然だ。脳も筋肉と同じように、使いすぎると回復に時間がかかる。——それは事実だろうが、音川にとっては都合のいい言い訳でもある。泉を起こさなかったのは間違いなく音川の意図で、両の掌に等しく残っているふわりとした柔らかい感触が名残惜しい。「じゃあ、泉を寝かしつけていたマックスさんのせいということで」「あ……」初めて名を呼び捨てにされ、泉はぐいと心臓を掴まれたような気がして思わず胸を押さえた。音川にはそれが物理的な痛さに写ったようで、「5キロあるから重かっただろ」と無頓着に言う。「俺は仕事部屋から繋ぐよ。あと、カメラはOFFで」「はい、僕がここに居ることは言わないほうが……?」「今日のところは」泉は敬礼のジェスチャーで了解を表すと、床においていたバックパックから手早くノートパソコンを取り出し、音川からWiFiのパスワードを受け取る。そうしてリビングと仕事部屋に分かれ、それぞれの端末をオンライン会議に接続した。インド側では、高屋がすでに画面を共有して待機しており、挨拶もそこそこに、システムの動作検証が始まった。泉により新たに構築されたサーバー上で、アプリケーションは今まで以上の
音川は喫茶のドアを後ろ手でホールドしたままサングラスをかけて、アスファルトからの照り返しをブロックした。泉は律儀に「ありがとうございます」と軽く頭を下げ、同じようにサングラスをかけて「ごちそうさまでした」とこれまた礼儀正しい。1人で過ごすモーニングの時間は、新聞を読んだりその日のやるべきことを整理したりと一日の始めの一時として気に入っていたが、泉との食事は不思議と、1人でいるよりも静かで落ち着く気がした。会話をしているのに、それが全く邪魔にならない。それどころか、泉の柔らかな声により静寂さが冗長しているような感覚だった。そんな時間を過ごせたのだから、礼を言いたいのは音川の方だった。「余分に乗った4駅分の価値はあったか?」泉はそのふいの問に、『10駅でもお釣りが来るほど』と勢いで言いかけたが止めた。音川と過ごせるのならどんなに遠くても出向くつもりだが、それが本音であっても大げさに聞こえてしまったら逆効果な気がした。「また来てもいいですか?」「ああ、いつでも。日曜と月曜が店の定休日だ。もし俺が不在ならツケといてよ」「それって……約束をしなくても……毎日でもいいってことですか?」「俺は社交辞令なんてできねえよ」音川は少しサングラスをずらし、泉の顔を覗き込んだ。「あそこなら副業の方も大っぴらに話せるからね」「……確かに、そうですね」「13時だったな、インドとの検証。俺は一旦家に帰るよ。さすがにこれじゃあ」自分の身体を見渡すように頭を動かす音川に、泉は「似合っていますけど」とさり気なく本音を漏らす。素晴らしいバランスの身体を世間に見せびらかせて欲しい気持ちと同時に、他人には見せたくないような矛盾した独占欲を自覚しながら。「そりゃどうも」「僕はこのまま出社します。10時過ぎてしまいますが……遅刻ですよね?」「いや、出社時間はもう、どうでもいいよ」「と言うと?」「正式にはまた話すが、とにかく、今はインドの件だ
音川が通うパーソナルジムは、自宅最寄り駅近くの単身者向けワンルームマンションに店舗を構えている。住居としての使用は無く、中央に本格的なトレーニングマシンがどんと置かれているだけの無機質な空間だ。建物自体が駅近という立地のせいか、税理士事務所やネイルサロンなど事業者ばかりで、居住者は極少数らしい。数年前に腰痛のリハビリ目的で最初に通い始めたのは、全国に店舗がある大型のフィットネスクラブだった。重症で1ヶ月ほどまともに動くこともできなかったため、まずはスイミングから初め、足腰がまともに動くようになってからマンツーマンのトレーニングコースに乗り換えた。元来の完璧主義で音川はやると決めたことは徹底的にやる。食事指導も加えて、高負荷のトレーニングを毎日こなしていると、まるで水を得た魚のようにみるみると筋肉が育ち初めた。すぐに盛り上がった上腕二頭筋によりTシャツの袖が窮屈になり、そこから伸びる両腕は薄い脂肪が更に削られて力強い血管が浮き出している。背筋は二列の丘のように盛り上がりまっすぐに伸び、細くくびれた腰を十分に補強することができ、それだけで腰痛対策は完了と言えたが、音川自身が自分のカラダの変化に面白みを感じていた。ちょうどその頃、担当トレーナーが独立してパーソナルジムを開業するというのでそのまま引っ張られるかたちで契約した。純粋に筋トレだけをする空間でプールもシャワーも無いが、『飢えたドラキュラのよう』と言われるほど青白く細かった音川を、現在の筋骨隆々な男に作り変えた信頼は大きかった。もちろん、腰痛は再発していない。それに、完全予約制のパーソナルジムという逃げられないシステムが、音川に合っていた。ドタキャンなど絶対にできない性分で、しかもキャンセルの連絡を入れるのが面倒なのだ。そんな性格だから、仕事でも私用でもまず横槍が入る可能性が低い平日の朝一番を定常としている。ジムの後はそのままモーニングを食べに行く習慣で、無論シャワーも浴びていなければ着替えもしていない。これまで一度も考えたことがなかったそれに気が付いたのは、今まさに喫茶のドアを開けようとしている瞬間だった。しかし躊躇したのは一瞬だけで、音川はそのままドアを引いた。一度帰って
土曜日のコルカタは曇りで、天気予報によると今日の最高気温は33℃。高屋と速水はそれぞれホテルで一番良いランクに当たる部屋に宿泊しているが、そこは『現地では』と註釈が付く。湯は1日10分ほどしか使えず、エアコンはあるが殆ど用を成さず、毎朝寝汗で不快だ。それでも建物には風格があり、石造りの柱は触れるとひんやりとしているし、清掃は徹底的に行き届いている。ランドリーサービスはなんと全て手洗いという丁寧さだ。そしてなによりもメシがなかなかに美味い。高屋は普段より遅く起きて、部屋に英国式の朝食を運んでもらった。使い込まれた朝食用の銀食器一式が気に入って、少年のような年齢のボーイにそれを伝える。少し誇らしげにはにかむ様子が可愛らしい。朝食を終えると速水の部屋に内線を掛けて、支度ができたと伝えて部屋を出る。今日は、ホテルのシェフが市場に連れて行ってくれる予定だ。ロビーに降りてきた速水に、「助かるよ」と感謝すると、「買い物に行きたかったし、それに、俺こういうの楽しめるタイプなんだよね」とメガネの奥の理知的な目を光らせる。何か面白いことが起こるとでも思っているらしい。料理長は10時の待ち合わせにやや遅れてやってきた。速水がいるのを認めるなり、「君も行くのかい?大歓迎だよ」と満面の笑みを作って見せ、「アヴィットだ。よろしく」と握手を求めた。「ハヤミ。お邪魔じゃなければいいが」と握手を返しながらジャブを打ってみると、「人数が多い方が楽しいからね!さあ、行こう」と笑顔のままで返された。速水は笑顔を作りながら、内心では苦笑いだ。分かりやすく邪険にしてくれればまだやりようがある。これは手強い相手かもしれないと腹を括って、用意されていた車に高屋と乗り込んだ。アヴィットはハンドルを握り、時々後部座席にいる高屋たちを振り返りながら、軽く自己紹介を始めた。イギリス出身のインド系で、両親と兄弟は皆ロンドンに居ること。3〜4年間隔で各地のホテルへ異動があること。ペラペラと淀みない様子から、慣れているようにも聞こえた。「東京にも系列のホテルがあるよ」「へえ、どの辺り?」「忘れ
『嫌なんだよね』 これは自分に向けた発言だった。泉が身体を持たせ掛けてきた時、音川は胸がジンと湧き立ったのを自覚したが、それは飼っている猫がすり寄ってきた時に抱く庇護欲に近いもののようであり、しかし全くの別物のようでもあった。 心地よい感覚と同時に、ざわざわと不安にも似た焦り。 彼の何かが障るというのではない。自分が勝手に『そう』反応するだけで、相手に何の落ち度もないのは分かっているのだが——その理由が探し出せない。 泉については、慕ってくる(ように見える)後輩なのか、それとも『そうあってほしい』と願う姿なのか。 会話を心地よく感じるのも、社内で泉にだけプライベートな連絡先を教えたのも事実であり自覚できている。しかし問題は、彼が相手だと、考えもなしに脊髄反射の言動を行ってしまうことだ。 ——もし、あの震える拳を包み、辛そうに伏せられた視線をすくい上げていれば—— それで——どうなる?何が変わる? 行先不明の思考に不快感を感じ、頭を振って打ち消す。 正直、泉がこの場を去ってくれたのはありがたい拒否だった。 音川ができることは、これらの事実をしっかりと認識して、上司として適切な距離を保つことだ。泉が座っていた席に雑誌を置き、部屋に施錠をしてから無人の廊下に出て、中央にあるエレベーターを呼ぶ。左手が開発部、右手がデザイン部と左右できっぱり分かれた配置だ。 首筋に少しの強張りを感じて伸ばすようにひねると、休憩室の隣にある喫煙所で目線が止まる。無性にタバコが吸いたくなった。社会人になってからきっぱり止めて、1本も吸っていないというのに。 良くない傾向だ。小さく舌打ちをして、喫煙所から目線を引き剥がす。 とてもじゃないがこのまま家に直帰する気分にはなれず、しかしこんな夜に飲み屋に寄ってしまうと、またタバコの誘惑に飲まれかねない。 それなら禁煙の喫茶店でも、と会社の最寄り駅でめぼしい店がないか思い出そうとするが、すぐに喫茶店と先程の泉の悲痛な顔がリンクして脳裏を覆ってしまう。 行き先が決まらないまま、もやもやとエレベーターに乗り込み階下へのボタンを押す。このまま地中深くに潜り続けてどこにも到着し
「すまん、金曜日に残業なんて」音川が発する申し訳無さそうな声色は本心から来るものだと、泉はちゃんと分かっていた。とりあえず謝っておけばいいというおざなりさとは感情の深みが違う。 それに、静かに合わされた視線が——優しい。「本当にいいんですよ。むしろ、嬉しいです」「残業好きなの?変わったヤツだな」「違います。早く検証して貰いたかったので」「そうか。まあこれまでの単体テストでも問題は無かったから、今日は総仕上げだな。検証用サーバーで動きだけ見れたらいいよ。ぱぱっと終わらせて早く帰ろう」「お急ぎですか?」「俺?いや、そういうわけじゃ……」音川としては、泉が早く帰りたいだろうと思ってのことだった。残業好きでないというのなら。「この後、ジムの予約があるとか?」「それは朝」「うわ、すごい」「すごかねぇよ。どうせモーニング食いに駅前の喫茶まで行くからな」「毎朝モーニングですか?」2人は話しながらテキパキとテレフォンカンファレンスの機材を片付け、モニター等々の電源を落としたことを確認してから会議室を後にした。 出社する人数が極端に減った今、会議室はほとんど使われておらず、うっかり付けっぱなしにしておくといつまでもそのままになってしまう。「ウォーキングを兼ねてな。雨なら行かない」「面倒なんですね」「うん。ジムの日なら雨でも車で行くけどね」「僕、いわゆる喫茶のモーニングって食べたことがないです」「ほんまに?」「あ。音川さんの関西弁、始めて聞きます」ドアの傍で立ち止まり、音川は口をあんぐりと開けた。 大阪を離れ20年ほど経った今では、実家の家族や友達と会う時でさえ最初は標準語が出てしまう。それがまさか、職場で、しかも部下の前で咄嗟に関西弁が出てしまうとは自分でも信じがたい。 さらに大阪弁が出るかもしれないと思えば迂闊に口を開けない。いや、別に何の問題もないのだが、またしても『らしくない』自分の行動に少し動揺しそうになり、軽く咳払