Chapter: よい夢を秋も深まった11月。その夜は、ヒューゴの誕生日を2人きりで祝い、シャンパンが無くなるのを待ちかねたように、ベッドになだれ込んだ。いつもにも増して、長くとろけるような愛撫を与えられ、この後に起こることを期待しておれの身体はじくじくと熱くなる。毎週末の逢瀬のごとに乳首を蹂躙され、その射精を伴わない長い絶頂の最中にヒューゴは1本2本と指を増やしておれの内側に強烈な快楽を教えていった。覚悟していたよりも早くに慣れていく自分の身体が怖かったが、それにも増して喜びが大きかった。乳首から脳がどろどろに溶けるほどの快感を与えながら、ヒューゴはおれのものをぬるりと咥え、後ろにも指をそっと挿入する。2本目の指が入ってきた瞬間、少しだけ射精してしまう。「なんて身体してんの」「おまえの、せい、だろッ」もっと、とねだったのはおれだが。「才能だと思うけどね」ぜえぜえと全身で呼吸を整えるおれを尻目に、ヒューゴはからかうような笑顔で横臥し、余裕綽々だ。「苦しい?少し休憩する?」口ではそう言いながら、覆いかぶさってくる。「続けて……」「うん。透の身体も、僕を待ってるみたいだ」再びつるりと指が入れられ、またぞくぞくと電流が腰に走る。気持ちいい場所すべてを同時に責め立てられ、何がなんだか分からない状態に、目を閉じてただ身を任せる。「透。こっちを見て」目を開けると、荒い呼吸で上体を微かに上下させながら見下ろしている鋭い瞳とぶつかった。おれの足は大きく広げられ、尻にはヒューゴの脛が差し込まれている。絶対に足を閉じることも伸ばすこともできないようにしておいて、ヒューゴはぐいと自分のそそり立ったものを掴み、先端をおれの方へ向ける。雄々しく輝く瞳に見据えられ、ぞくりとする。「おれの中、ヒューで満たして」そう言った瞬間に内部を広げていたヒューゴの指がずるりと引き抜かれ、衝撃に悲鳴を上げてしまう。「うあ、あ、」間髪入れ
Last Updated: 2025-09-13
Chapter: いっしょにいこうよ目覚めて最初に視界に入ったのはヒューゴの首元だ。エアコンが効きすぎた部屋で温かいものに包まれての目覚め、やっぱり最高。身じろぎすると、「起きた……?」とヒューゴの声がじんわり染み、その甘さに思わず目をギュッと閉じてしまった。金色の獣はふっと笑っておれの耳を唇でくすぐる。ああ、もうそれだけで……「まだ残ってる……?」「ちょっと怖い、自分が」「でも、すごく気持ちよさそうだったよ」「うん」おれが即答すると、「good boy」とヒューゴはおれのこめかみに軽く口付ける。「じゃあ……まだ夕方までたっぷり時間はあるし」ヒューゴはおれの胸に顔を埋め、初めて、手を下半身へ伸ばした。乳首をゆっくり舌で弾かれながら、掴んだ手で上下に扱かれると、すぐにおれはよく知る感覚に襲われる。ヒューゴは動きを止めて、ジッとおれを見ると、「どうする?」と低く囁く。その声があまりに色っぽくて、おれは我慢できずに、はやく、とねだるしかなかった。ヒューゴはおれの瞼にキスをして「きれいだよ、透」と言ってくれる。身体がまた仰け反って、ビクビク跳ねる。あ、出る……その瞬間、ヒューゴはおれのをギュッと掴んで射精を止めてしまう。でも、絶頂間はそのままで……さらに乳首に歯を立てられ、また強烈な快感がやってくる。それでも手を離してくれず。何度も追い詰めれて、その度にいかせてくれと懇願した。なのに、このもどかしくて気が狂いそうな感じもすごく良くて。終わりたくない。もっとおれを壊して欲しい。ヒューゴはそんな状態をまるで百も承知かのように、懇願を聞き入れてくれず、吸って、擦って、止めて、口付けて……おれのアタマとカラダを強引にコントロールする。おれは絶頂手前の永遠に続く快楽の中でヒューゴのそれに手を伸ばした。「透、僕はいいから&h
Last Updated: 2025-09-13
Chapter: I’m Yoursヒューゴは後ろ手に部屋のドアを閉めると、おれを玄関の壁に押さえつけて、貪るようなキスをしてきた。「ようやく2人きりになれた」耳元で熱く囁かれたせいでその場で座り込んでしまいそうなり、「嬉しい反応してくれるね」と笑われた。「昨日……おれになんかしただろ」ただでさえ8月半ばの熱帯夜なのに、キスで余計に体温が上がり額に汗が流れる。それさえもヒューゴは舐め取ってしまったが。「とにかくシャワー浴びよう。暑い」腕を掴んでおれを引き起こすと、すぐにヒューゴはおれのシャツを脱がせ始めた。全く同意だ。湿度が高いせいで、バーで付いたタバコの煙や酒の甘ったるい匂いが汗と共に纏わりついたまま取れていない。このまま寝るのなんて論外で、部屋に入るのも気が引ける。温度の低いシャワーで落ち着き、寝支度を済ませたおれたちは、並んでベッドヘッドに背をもたせかける。ヒューゴはタブレットを持ち、なにか検索している。まだ寝るつもりはないようだ。おれの方も、昼間に精力を使い果たした上に、いつもより強いアルコールが入っているにも関わらず、気が高ぶっているのかまだ眠気は遠くに居る。生来の夜型らしく、油断するとすぐに昼夜逆転してしまう。今回然り、いつも長期休暇の最初には、早寝早起きを誓うんだけど、守れた試しがない。一人でリビングに移動し映画を観るなり飲みなおす手もあったが、せっかくだからこのままヒューゴの傍に居ることにした。夏季休暇が終われば、一緒に眠れる夜は週末だけになってしまうから。「なに?」ヒューゴが含み笑いをしながら、こっちを向いた。「ん?」「ずっとこっち見てるから」あ、そうだったか。「見ておかないと、あと5日で夏季休暇が終わるから」「かわいいこと言うよね、たまに」ヒューゴはこめかみに軽くキスをして、またタブレットに向き直った。おれは、ナイトテーブルの上に置いてあった携帯に充電ケーブルを挿しながら、「そう言えば」と切り出す。
Last Updated: 2025-09-13
Chapter: Honey, Did You Go?夢のような3連休だった。透は明日から出社で、しかも長引いた出張のせいで業務が溜まっているらしい。食事を用意しておくからと、どんなに遅くなっても店に寄るよう約束させ、僕はしぶしぶ透を家に送り届けた。マンション前に車を停めて、少しだけキスを交わす。今までで、一番帰したくない夜だった。エントランスに消える透を見届け、その足でクリスの店へ向かった。透と連絡がとれなくなってからの僕を親身になって心配してくれていたから、突然平日に店を訪れた僕を見るなり、クリスは不安気な顔を作った。「ダイジョウブ?」「ああ。心配かけた。透が、戻ってきたよ」音信不通事件の理由を説明し終わると、クリスの顔に安堵が広がる。「怪我がなくて本当によかった」僕も深く頷いた。「それとは別に……とりあえず一番良いシャンパンを」注文と僕の顔を見て、この古い友人はすぐに思い当たったようだ。今夜ばかりはポーカーフェイスではいられない。「まさか!全部話せよ!」と僕につられたのか満面の笑みだ。クリスは上機嫌になり、踊るような滑らかさでシャンパンをグラスに注ぎカウンターから出てくると隣に腰掛けた。今夜は友人として共に飲んでくれるのだろう。僕はスツールの上で軽く居住まいを正した。クリスはだれよりも早く、僕と透のことを知る権利がある。「合鍵を交換して……キスをした。信じられないだろ?透から告白してくれたんだ」「おめでとう。心から」クリスの祝辞に合わせて僕らはそれぞれのシャンパングラスを掲げた。一口飲んで、それがありえないほど良いものだとわかった。尋ねても頑なにボトルを見せてくれないが。「まさかヴィンテージか?」「できたての恋人のために半分残しておきなよ」「あまり驚かないんだな」「トールがあんたに好意を寄せているのなんて、一目瞭然だったでしょ」「そこまで自惚れちゃいねえよ」「おでこにキスされただけで耳ま
Last Updated: 2025-09-12
Chapter: 嵐に溶け合う遠くで雷鳴が聞こえる。小雨になったものの、不安定な大気は続いているようだ。台風でも来ているのかもしれない。ベッドでごろごろと寛いでいたが一度起き上がり、寝室の窓のブラインドを全開にした。山の斜面に建っているマンションは周辺では一番高さがあり、窓からは、空も市街地も見渡すことができる。それに気付いたヒューゴが、リビングで灯していた小さなキャンドルだけを残して照明を落とし、「雷鑑賞か」と言いながら寝室にやってくると、おれの隣で肘を立てて頭を支えながら横臥する。「あ、光った」細い閃光が空から地上に突き刺さる。ヒューゴは、仰向けのまま窓の外を見ているおれの頭を撫でてくれる。髪をすくうように往復する指先が心地良い。しばらく無言のまま、雷光でフラッシュのように白む空を眺める。頭からじんわりと伝わる温もりに癒されながら。「疲れてる?」「いや、とてつもなくリラックスしてるよ。まだ休みはあるし、おまえが傍にいるし」髪をすくうヒューゴの手に自分の手を重ね、長く筋張った指を撫でた。「透」とヒューゴは小さくおれの名前を呼んだ。「少しだけ、触れてもいい……?」そう耳元で囁かれ、一瞬でカッと身体が熱くなってしまい思わず目を瞑ると、ヒューゴはゆっくりおれに覆いかぶさってきた。腰が触れ、背中に戦慄が走る。「言っただろ、なにをしてもいいって」「少しずつ、ね」ヒューゴは腕をついておれを見下ろしたままで微動だにしない。窓から雷光が差し込み、青い瞳の奥がシルバーに輝く。吸い込まれそう。「透はとてもきれいだ」「全部おまえのだよ」おれがそうささやくと、ヒューゴは照れたように優しく微笑みキスをしてくれる。でもすぐに離れてしまい、おれは広い背中に腕を回して引き寄せた。遠慮と情熱のそれぞれを持て余して悩むヒューゴは魅力的だ。どうにでも好きなようにできると知っているのに。軽く口を開くと熱い舌がおれの舌を絡め取る。今夜のキスは、いつもより柔らかく、
Last Updated: 2025-09-04
Chapter: 純粋な欲望ヒューゴは夜明け頃に焚き火を起こしたようで、おれは半覚醒の中まどろみながら、時折目覚めては、チェアで寛いでいるその姿を見ていた。渓谷に細く降り注ぐ朝日の中にいるヒューゴは、怖いくらいに美しかった。朝日に光る川の小波と、光の届かない暗い岩間の両方をそのまま身に纏うように鋭く暗く輝いている。水の精霊の化身だと言われても納得しそうなほど、人知を超えた魅力がある。まったく、どこにいても絵になる男だな。いつまでも鑑賞していたいが、今は教会で宗教画を眺めているのではなく、河原でキャンプ中だ。日差しが強くなる前に起床せねば。朝食は、昨夜のBBQで残しておいたステーキ肉を使ったホットサンドウィッチだった。コーヒーはヒューゴがアルミのボトルに入れて、川の水で冷やしてくれていた。天然のアイスコーヒーだ。「今日は何する?」サンドウィッチを頬張るおれにヒューゴが尋ねてくる。肉とチーズの他に缶詰のベイクドビーンズが入っていて、それがなんとも言えないアウトドア風味を出している。最高に美味い。「ゴーグル買ってきたから、水の中で魚を見たい。予定はそれだけ」「魚を獲ってみるのは?」「釣具買ってきたの?」「いや、手掴み。僕のやり方が日本の魚に通用するか試したい」「面白そうだな」「捕れたらお昼は魚を食べよう」朝食を食べ終えたおれたちは河に入り、膝より低い水位でゴツゴツと岩が突き出た浅瀬へ、そーっと移動する。料理のできないおれにとっては、生の魚を触ることからもう初めてだ。「あっ」少し大きな声を出してしまい、ヒューゴにシーっと注意される。ビャッと足元で素早く動くものが岩の下へ潜り込んだんだ。「岩の下に手を入れて、魚に触れたら、腹側をそっと何度か撫でる。魚が動かなくなるから、そこを両手で掴む。やってみて」魚の影が入り込んだ岩の下にゆっくり両手を入れて探る。手に、ぬるりとして張りがあるものが触る。ヒューゴに教わった通りに腹をくすぐるように撫でると、たしかに魚の動きが止まった。いまだ!と両手で
Last Updated: 2025-09-03
Chapter: #28 優しさの正体泉がイーサンの誘いに応じたのは、出向が開始してから四度目の月曜日だった。夜は、晩夏の湿度に、ほんの僅かながら秋風の気配が交じる。あと二ヶ月——イーサンの頭では既にカウントダウンが動き始めていた。さほど焦りは無い。むしろ、確信めいた冷静さがそこにはあった。離れた場所にいる男の影など、さほど脅威ではない。「プライベートな予定があるなら、無理に誘わないよ」社屋の前に縦列駐車しているタクシーのひとつに乗り込みながらイーサンがことさらにやんわり確認すると、少し遅れて「……ありません」と泉が口を結ぶ。「では、食事をしながら、少し話がしたい。仕事のことでも、それ以外でも」目的地は銀座の鉄板焼店だった。夜の街がゆっくりと深夜へと表情を変える頃、店の入口には和紙を通した明かりが滲み、訪れる客の気配を静かに迎える。鉄板焼と聞いて、泉は派手なナイフパフォーマンスを想像していたが、料理もサービスもまるで列車の時刻表のように狂いがなく、見事な職人技が光る演出だった。会話は、思いのほか弾んだ。イーサンの話し方は柔らかく、どこか異国の大きな公園を歩いているような静けさがあった。泉が足を止めれば必ず少し前で待っている。時折織り交ざる冗談は控えめで知的、決して押し付けがましくない笑いを誘う。泉の反応を寸分違わず読み取りながら、話題を選んでいるようだ。こうして肩を並べて過ごしていると、会食を拒む理由はなんだったのか、拒む必要があったのかどうか曖昧に思えてくる。求められて出向しているのだから、勤務時間外の交流は応えるべき礼節なのではないか——そう考え始めていた。——けれど、ふとした瞬間に目が合うたび、イーサンの目の奥に潜んでいる冷たさを見るような気がして——研磨された精密機械に反射する光のような。この、眼の前に差し出されている穏やかな時間や心地よさが、もしかしたら計算し尽くされた手綱かもしれないと考えてしまう。出向して1ヶ月経とうとしているが、未だ
Last Updated: 2025-09-26
Chapter: #27 声なき宣戦布告オフィスを出てマンションに戻る足取りは、今夜に限ってやけに重たかった。イーサンからの食事の誘いを断ったのは、これで三度目だ。にもかかわらず、彼は笑顔のまま言う。「気にしないで、イズミ。今日は金曜日で、僕はフリーだから誘っているだけ。定時後は君の時間だ。自由にするといい」一見、紳士的で余裕のある態度。けれどその言葉の隅々に微かな圧力が潜んでいるように受け取ってしまう。ただ、それはイーサンが母国語でない日本語を使用してくれている所為だとも十分考えられるため、あまり気にすべきでないのかもしれない。出向初日は、歓迎会を兼ねてと言われ誘われるがままに食事を共にした。たしか、Bコンサルティング社の日本支社からほど近いホテルのフレンチレストランで、メニューに金額の記載がなく、高級店のようだった。泉は、そこでのイーサンとの会話が脳裏に蘇り、思わず顔をしかめた。「このレストランはね、東京、パリ、ニューヨーク、ハンブルクにあるんだ。僕はどれも行ったことがあるけれど、パリが一番美味しいですね」フランス料理なのだからそうあるべきだろうな、と泉は冷めた意見を飲み込み愛想笑いでやりすごしたが、イーサンは続けて「美味しいでしょう?」と上機嫌でワイングラスを傾けていた。「はい、とても。でもフランス料理のフルコースなんて食べ慣れないので……他と比べることはできませんが」「例えば家族のイベントなどで食事に行かない?」「まあ、結婚式の披露宴ではあります。それくらいですね」そう答えた泉を、イーサンは目を細めて見てきた。「じゃ、会社でも……あの音川サンにも、連れて行ってもらったことが無いんだね。彼なら知っていそうなのに」なぜそこで音川の名が——?理由はわからない。ただ、あの視線。冗談めかした言葉の端々。——妙に自分を『優位に見せよう』としてくる物腰。B社が借り上げているマンションは、オフィスから歩いて20分ほどの距離にある。立地の良さはさること
Last Updated: 2025-09-22
Chapter: #26 また、ふたりで食べたいね音川は泉のキャリアと将来性を、私情よりも上位に置いた。誰よりもそばにいたい、という感情を振り切り、自分を律することで、彼への想いを貫くことが正しいと判断した。泉を傷つけることになっても、だ。それでも——分かっていながら、傍に居たいという本心を伝えたかった。私情を押し殺すことでしか、進めない関係であっても——未来を信じてほしいと願った。音川と同じマンションに暮らすようになれば、保木の件も心配がいらないと明るく言った彼を思うと胸が痛む。言葉や態度の端々から、音川の存在に安心を抱いてくれていることは分かっていた。保木の件は、この期間内で必ず解決すべきであった。まさか出向について情報が漏れることはあるまい。泉にしても、東京の雑踏に紛れて生活するほうが、この件を忘れていられるのではないか。未知の環境で、それも初めての出向業務だ。勝手のわからないことだらけで戸惑いも多いだろうし、なにより、言語のキャッチアップが大変だろう。イーサンの周囲では大半のコミュニケーションが英語で行われるはずだ。——泉が東京へと立つ日。音川から大型のスーツケースを拝借し、実家から持ってきた着替えやら、音川のお下がりのあれこれを詰めた泉は、いつもより心なしかよく喋った。音川はそれを緊張のせいだと受け止め、軽口にも、不安げな独白をも丁寧に拾って応えた。昨夜、東京まで車で送りたいと申し出た音川だったが、泉には辞されてしまった。その時に添えられた「離れたくなくなるから」という泉の小さなつぶやきに背筋を震わせた。泉が東京へと出発する新幹線のホームで、音川は別れ際に握手を求め、こう伝えた。「向こうでも、きみらしくしていればいい」泉は口角を上げてにっこりと微笑み、「はい!」と握り返してくる手は、音川に決意をつたえるかのように力強かった。駅からの帰り道、午後からの業務に向けて頭を切り替えながら愛車のランドクルーザーを自宅へ走らせていると、ふと助手席の背もたれに猫の毛が数本ついていることに気がついた。獣医への訪問時は後部座席にケ
Last Updated: 2025-09-21
Chapter: #25 帰る場所の名を知る夜風夜更けのことだった。リビングの奥から低く、静かに名を呼ばれた泉は、天井を見つめていた目をゆっくりと伏せた。布団に身を沈めたまま、眠りは遠く、まるで目の裏側に朝の気配が訪れることなど決してないかのようだった。足元で丸まっていたマックスが、気配を察してぐいと背を伸ばし、泉の手に鼻先を寄せる。「はい。起きてます」「よかったら、少し飲まないか」音川の睡眠が浅いことは知っていたが、こんなふうに深夜に声をかけられるのは初めてだった。「ちょうどよかったです。眠れそうになくて……」「うん」リビングに出ると、開け放たれた窓から晩夏の風がふわりと入り込み、カーテンの影を揺らしていた。照明は落とされ、夜の気配だけが部屋を静かに満たしている。コーヒーテーブルの上、グラスに注がれたラムが、かすかに甘い香りを放っていた。ほのかに曇ったガラス越しに、月光が床に揺れる。この味も、こうして夜を分け合うことも、音川と過ごすようになってから覚えたものだ。泉の心の奥に、それはひっそりと沈殿し、名もない情のように澱んでいる。沈黙を割って、音川が口を開いた。「出向は、有益だ。……念願だった一人暮らしも、こんな形で叶うとはね」東京での住まいはB社の用意する法人契約のマンション。期限は三ヶ月、自社からも手当が出る。割り切ったはずの事実が、音川の声で語られるだけで、泉の胸の奥が不意にきしむ。「まずは三ヶ月。延長や満了については、前もって双方の合意が必要になる。だから……階下の部屋を借りる予定だったけど、キャンセルしようか」泉は小さく息を呑んだ。当然のことだった。けれど、いざ言葉にされると、足元の地面が少しだけ沈んだような気がした。「延長は……考えたくありません。でも、また業務命令だったら……」「うちとしても、優秀な人材をそう簡単に手放すつもりはないよ。延長の
Last Updated: 2025-09-20
Chapter: #24 交渉の皮を被った狩人イーサンからの提案は、社内の人事を大いに沸かせた。なんせ、世界有数のコンサルティング会社であるB社のチーフコンサルタント直々の要望だ。子会社だけに収まらず、事態は本社の人事へとエスカレーションされた。まず最初に話が行ったのは、前職場がB社である高屋だった。高屋が出社するやいなや、本社の人事部長直々に声を掛けられ、子会社にいる『イズミ・アオキ』について雑談を装った下調べが入ったのだ。高屋は慎重だった。インドのトラブルの立役者は泉であること、エンジニアとしての実力は申し分ないことをしっかり伝えた上で、泉の将来を考えれば、『短期間の出向』は有益だろうと強調した。無論、音川にも詳しいヒアリングが行われた。音川は、泉のプレゼンテーションが鮮烈だったことを褒め、また、当日すでにイーサンが泉を称賛していたことも正直に述べた。隠すようなことでもないし、泉が会社に認められることは音川にとっても誇りだ。そして高屋と同じく、『期間を限定した出向』ならば賛成の意を表した。人事からは、泉の立場のためにも、と吹き込まれたのが決定打だった。まだ開発部での実績はインドの件のみであるにもかかわらず、音川の一存で最高技術責任者補佐となるのは、さすがに社内人事に反発が懸念される。それを覆すには、他のエンジニアが持っていない実績が効果的であり、今回のオファーはもってこいだと言うのだ。それは確かだった。泉の類まれな能力は、まだ音川にしか理解できない。何件か案件をこなせば周囲も知ることになるだろうが。泉を出向させる——数日後には決断が下された。本社人事部の意向は、そのまま会社命令として泉に伝達された。契約書の取り交わしのため、わざわざ社へ出向いてきたイーサンを、本社も子会社も歓迎した。「出向という形であれば、我々としても柔軟に対応できます」イーサンの言葉が会議室に響く。丁寧な日本語だった。泉と音川は並んでイーサンの向かいに座り、書面に目を通しながら営業トークともとれるような提案に耳を傾ける。形式としてはヘッドハンティングではなく、移籍でもない。期間を区切った『共同育成』のような扱い。海外の大手と協働し、若手を送り込むことは会社の評価にもつながるため、会社は全面的に賛成だった。それでもイーサンは、念を押すように、泉の将来性に強い関心を抱いたということを何度も口にした
Last Updated: 2025-09-19
Chapter: #23 沈黙のまま流れ行く時間『本日19時、現地集合』金曜日、速水は飲み会のメンバー全員にリマインドを送った。子会社側の音川と泉は間違いなくリモート勤務で、本社で出社をしているのは速水と高屋だけだ。阿部は毎週金曜日は在宅だから恐らく集合時間より前に出向き、あの美貌の北欧騎士を鑑賞する可能性は高いと速水は踏んでいた。出社組がヒューゴの店に到着するとほぼ同時に、音川と泉を乗せたタクシーが公園脇に横付けされる。「こんな洋館が近くにあったんだな」音川が感心したように建物を見上げて言った。祖父母が住んでいるクラコウを彷彿とさせるほど、本格的にヨーロッパ風の建築だ。会社とその最寄り駅の中間地点ほどにあるこの公園は、いつか高屋のマンションへ所用で向かった際に通りがかったが、音川のマンションからほど近い街道でつながっているため車のほうが断然移動距離が短い。電車ならアルファベットのDの湾曲した線をなぞる長さとなり、しかも駅から徒歩は少々時間がかかる。「おれも見つけた時は感動したよ。まだこっちに越してきたばかりで……公園の景色と合わさって、異国情緒たっぷりだよね」そう言いながら高屋が重厚なドアを開こうとノブに手を掛けると、速水が「待て」と眼鏡をクイと直して皆の前に立ちはだかった。「このドアの向こうには脅威の美貌の男がいる。弊社の音川も、俺達は見慣れているがそれなりに顔が良い。この外国産イケメン2人の衝突によりビッグバンみたいなものが誕生し、俺たち全員が異次元に飛ばされてしまうかもしれない。覚悟はいいか?」「それなりか?」と音川が不平を漏らしたのを聞き逃さなかった泉が「やっぱり自分で言うんだ」とつっこみをいれ、そして「ヒューゴと同じ次元なら別にいいけど」と高屋が平然と応える。それぞれが好き勝手なことを言っているのを後ろに聞きながら、幹事の速水が重厚なドアを引くと、コロンと小気味よい鐘の音。「こんばんわ、みなさん。ようこそ」速水の懸念は無駄となり、脅威の美貌であるオーナーのヒューゴは極上の笑みで一行を迎え入れた。その恋人からの視線をにっこりと受け入れた高屋だが、そこで一瞬、彼の視線が自分の背後にぶれたことに気
Last Updated: 2025-09-14