結城おばあさんは内海唯花が孫の好みを聞いてきたので、すぐに夫婦二人に進展があったのだと思った。嬉しそうに孫の数少ない好みを唯花に教えた。孫が普段何色のトランクスを着るのが好きなのかという秘密まで全て彼女に教えてくれた。結城理仁が着ているものはすべてオーダーメイドで、出来上がると家まで届けてくれるのだ。おばあさんはその時に、孫がどんな色のトランクスを着るのが好きなのか観察していたのだ。「唯花ちゃん、理仁が特に好きなものってそんなに多くないの。あなたもそんなに悩まないでいいわ。適当に服を選べばいいのよ。服のサイズはあなたに教えてあげるから」「もし私が買った服を彼が気に入らなかったら?」おばあさんは笑って「あなたの贈り物をしたいというその気持ちが大切でしょ。彼がそれを受け取って着るか着ないかは彼が決めることよ。でも、私は理仁はもらったものを絶対に着ると思うわ」と言った。あの子は思うことを絶対口に出さないところがあるんだよ。おばあさんが彼に買った服を、彼は嫌いな素振りを見せるが、実際はその服を着て会社に行き見せびらかしているのだ。おばあさんは彼の会社のことには一切関わらないが、孫が会社で何をしているのか知りたいと思えばいつでも知ることができるのだ。結城理仁はいつも九条悟の前で、自分に奥さんがいることを自慢している。おばあさんの話を聞いて、内海唯花は新しい服を二着と、ネクタイを二本買うことに決めた。結城理仁の数少ない好みの物は彼女のお財布の状況を見ると、到底プレゼントできるようなものではないからだ。彼女は昔から現実を見て何事も決める性質の人間なのだ。自分にいくら使えるかを先に考えてから、それに見合うものを買う。その実力がないのに見栄を張るようなことは絶対にしない。そう決めてから、昼の忙しい時間帯が過ぎた後、昼食を食べて電動バイクに乗ってショッピングへと出かけて行った。そのついでに姉と甥っ子を家まで送り届けた。「お姉ちゃん、帰った後、たぶん義兄さんがまた喧嘩し始めると思う」彼女たちが忙しくしていた時、姉に夫から電話がかかってきて、どうしてご飯を作っていないのかと詰問していた。彼女は姉が答えるのを聞いて、考えるまでもなく義兄は姉からご主人様のような待遇を受けていることが分かり、腹が立っていた。佐々木唯月は少し黙った後
「義兄さんは、お姉ちゃんと割り勘にするつもりですよね。お姉ちゃんは今仕事をしていないし、家で義兄さんとの子供を世話してます。義兄さんがこんなふうにするなら、じゃあ私の姉は夫がいるのといないのと、何が違うんですか?義兄さんは姉が家で何もしていないっていつも言いますけど、今日確かに姉は何もしてないですかね。あれ、でも姉は半分はしてるはずですよ。少なくとも食材を買ってきて、お米もあらって炊飯器に水も入れて、義兄さんはボタンを押すだけだし、残りの半分をするだけでいいじゃないですか」佐々木俊介は何か言おうと口を開いたが、内海唯花は彼が話す機会を与えず、続けた。「義兄さんは家の中が毎日きれいなのは、箒に足が生えて勝手に床掃除してるとでも思ってるんですか?陽ちゃんはまだ小さいし、おもちゃで遊んだ後は部屋中散らかってるんですよ。陽ちゃんだって自分で片付けはまだできないし。義兄さんはまさか、あのおもちゃたちにも足が生えて、自分で元の場所に戻ってるとでも思ってるんですか?それから、義兄さんが食べたり、飲んだり、使ったりしてるもの、他はさておき、あなたが毎日着替えている汚れた服も、お姉ちゃんが洗ってないっていうんですか?あなたが毎日食べてる三食のご飯も姉が作ったものじゃないって?いっつも姉が今、お金を稼いでなくて収入がないのを煙たがってるけど、もし姉が家でこの家のことを何もしてなかったら、安心して会社で真面目に働くことなんてできませんよね?この家庭はあなたと姉が共同で築き上げていくものでしょう。あなたは外で働いて、姉は家庭を守る。あなたたち二人は、どっちもこの家庭のために努力してるじゃないですか。姉は今働いてお金を稼いでいないからって、この家庭のために何も努力していないとでも思ってるんですか。実際問題、姉はあなたが会社で働くよりも疲れる仕事をしているんですよ。だったら、あなたと姉と立場を入れ替えてみたらどうです?あなたが家で洗濯、食事の準備、子供の世話、部屋の片付けをして、姉に仕事に行ってもらったら?」姉の結婚前の収入も義兄とそこまで変わらないのだ。佐々木俊介は内海唯花に何度も反論しようと試みたが、何も言い返せなかった。しばらくして、彼はばつが悪そうにこう言った。「唯花ちゃん、俺は一言しか言ってないのに、君はこんなにまくし立ててきて、まるで俺が君のお姉さん
クソ不味い!しかも甘いぞ!なんで甘い?まさか彼は塩と砂糖を入れ間違えたのか?佐々木俊介はキッチンに戻り、調味料入れを持ち上げて見てみると、砂糖と塩、そして味の素が同じケースに入っていた。さっき彼が作っている時、絶対に砂糖と塩を入れ間違えたのだ。結婚する前、佐々木俊介は家にいて母親が食事を作ってくれていて、結婚した後は唯月姉妹が作っていたのだ。だから彼は全くと言っていいほど料理を作ることができない。砂糖と塩を間違える人が作り出した料理を食べられるほうがおかしいだろう。そして炊飯器のご飯を見てみると、それは佐々木唯月が水を入れて用意していたものだから、食べることができる。でも、おかずがないのでは、美味しい物を食べ甘やかされてきた佐々木俊介には白米だけを食べることはできないのだ。自分が会社で半日働き、家に帰って熱々の料理を食べることができないことを思い、佐々木俊介は怒りがどっとこみ上げてきた。頭に血が上ったまま部屋まで行き、唯月がベッドの上で携帯をいじっているのを見て、怒りが更に燃え上がった。急ぎ足で彼女のもとへ向かって行き、片手で唯月の携帯を叩き落とすと、髪を引っ張り、そのまま床に引きずり下ろした。そして、彼女に殴る蹴るの暴行を加えた。その時、彼は子供が目を覚まさないように、怒鳴ったりしなかった。佐々木唯月は油断していて、彼に髪を掴まれて床に倒されてしまったのだ。彼女はハッと我に返ると、すぐに彼に抵抗した。佐々木俊介は男でもあるし、先手を取った側だから、唯月がいくら抵抗しても不利な状況だった。佐々木俊介に殴られて顔に青あざができ、鼻が腫れても、唯月は負けを認めようとはしなかった。彼女は以前、同僚から夫婦が殴り合いの喧嘩になった時に、何があっても勝て、負けてはいけないと言っていたのを覚えていた。男に自分は簡単にはいじめられない女なのだと分からせるためなのだと。そうすれば、男を抑え込むことができる。もし負けてしまえば、男のほうは暴力に覚えて癖になってしまうのだ。家庭内暴力は、一度許してしまえば、それは永遠に繰り返されることになる。佐々木俊介がまた拳を振り下ろして、彼女が激痛を感じている時でも必死に彼のその手を掴み、腕を思い切り噛み付いた。力いっぱいに噛み付かれて俊介は叫び声を上げ、もう片方の手で彼女の髪の毛を引っ張った
佐々木唯月は包丁を握りしめ彼を追いかけた。佐々木俊介は唯月が、まさかここまでやるとは思っていなかった。結婚してから、彼女はいつも優しく思いやりがあった。ここしばらくの間、彼がいつも彼女を怒鳴っても、あまりにひどい場合を除いて、彼女が怒って彼と喧嘩をすることなどなかった。今回彼が手を出すと、彼女は狂人のようになってしまった。彼に殴り返してきただけでなく、包丁まで持ち出してきた。佐々木俊介は家を出て、外に逃げていった。佐々木唯月も引き続き、包丁を握り彼を追いかけて行った。夫婦二人は追いつ追われつで、下の階まで走っていった。この騒ぎが同じコミュニティに暮らす人たちをとても驚かせた。唯月が包丁を持って佐々木俊介を五つの通りを過ぎるまで追いかけ、疲れて動けなくやってようやく息を切らせて道端に座り込んだ。佐々木俊介も疲れていた。彼女とかなり距離を取って座った。彼の両親と姉が急いで駆けつけ、彼らを見た時、佐々木俊介はどれほど辛い思いをしたことか。佐々木家の父親と母親は自分の可愛い息子が狼狽しきった様子で、両頬が大きく腫れ上がっているのを見て、死ぬほど怒り狂った。姉のほうは服のそでをまくり上げて、怒鳴った。「このクソ女、うちの弟に手を出しやがって、殴り殺してやろうか!」母親は息子の様子に心を痛めて涙を流し、佐々木唯月を怒鳴りつけた。「息子に何か恨みでもあるのか?うちの息子をこんなひどい有様にして、前言ったでしょ、彼女の両親が死んでから誰もちゃんと教育する人がいなかったのよ。彼女はがさつで嫁には相応しくないって。それでも結婚するって言うんだもの。あなたは一人の立派な大人の男性よ。たった一人の女にすら勝てないなんて。いつも私たちの前では彼女に教育してやるんだなんて大きな態度を取っておいて、今の自分の状況を見てごらんなさいな」佐々木家の母親は当時、家族全員が唯月に早く嫁いで来いと願っていたことなど忘れてしまっていた。その時、唯月の収入がとても高かったからだ。それが今は彼女を嫌って相手にしていない。佐々木家の父親は「うちの息子をここまで育て上げた俺ですら殴ろうとはしないのに、唯月の奴、酷すぎるぞ。彼女は今どこにいるんだ、父さんが行ってお前の敵をとってやろう。あいつが降参するまで、こてんぱんに叩きのめしてやるから。お前の
佐々木唯月は冷ややかに笑った。「彼がどうしても割り勘にするって言うから、彼が言った通りにやっただけよ。彼が怒ったからって私に手を出してもいいわけなの。あなたたち彼のあんな姿を見て心を痛めてるけど、私が彼にボコボコにされたのが見えないわけ?あなたたちの息子は両親がいて、産んで育ててくれたのよね。まさか私には私を産んで育ててくれた親がいないとでも?そうよ、私の両親は亡くなったわ。でも、親がいない孤児だからって、あなたたちにいじめられて殴られる筋合いなんかないわよ。あなたたち一人ずつ?それともまとめて?どうでもいいからかかってきなさいよ。今まで言えなかった事を今日全部吐き出すわ。私と一緒にいたくないなら、直接言いなさいよ。家庭内暴力をするつもり?私はそう簡単にやられたりしないわ!あんたたちまだ私をいじめて殴ろうって言うなら、死んでもおまえらを地獄に引きずり下ろしてやる!佐々木俊介、前に言ったわよね。私を殴ろうっていうなら、その場で私を殴り殺さないかぎり、寝ない方が身の為だってね。寝ている隙に私があんたをズタズタに切り刻んでやるんだから!」唯月は凶悪な目つきで佐々木一家を睨みつけた。彼らが彼女に手を出そうものなら、彼女は共に滅びる覚悟なのだ!佐々木家の面々「......」「こんの気性の荒いクソ女が、理屈が通じなくて手の付けようがないよ!」佐々木家の父親は唯月を罵ると、息子に向かって言った。「俊介、行こう。私たちと一緒に家に帰ろう」佐々木俊介も今日の唯月にとても驚いていた。知り合ってから今まで、12年は経っているが、彼は彼女がこんなに反骨精神を持っているとは知らなかった。唯月の凶悪な様子を思い出して、俊介は両足をガタガタと震わせていた。そして両親と姉と一緒に帰って行った。同時に会社に連絡し、数日間休みを取った。彼は家でゆっくりと傷を癒さないといけないからだ。佐々木家の姉は車で来ていた。一家四人は車に乗ると、姉は「俊介、彼女と離婚しちゃいなさいよ。陽くんの親権を取って、あんな女は捨ててしまいましょう。そうなればあの女はまだ偉そうにしていられるかしらね」と言った。佐々木俊介は口元の血を拭うと、両親に向かって言った。「あの女と離婚することになったら、父さんと母さんは陽の面倒を見てくれる?」「父さんと母さんは私の子の世話
佐々木俊介は家族が知っていても、彼を責めないのを見て言った。「唯月は子供の出産の後、だんだん太っていったもんだから嫌いになったんだ。莉奈は人の気持ちが分かる子だし、若くてきれいだ。彼女に対する愛こそ本物の愛だと感じるんだよ」佐々木家の母親は「相手はあなたの身分や地位、収入に惹きつけられたのよ。以前のように普通のサラリーマンだったら、誰があなたを好きになるの?」と急所をずばりと言い当てた。「唯月は確かにちょっと凶暴であなたをこんな有様にしちゃったけど、まじめな話、彼女は結婚して長年、あなたのお世話をしっかりしていたわ。あの家もきれいに片付けてるしね。苦労を耐え忍んで暮らして、家事をこなせる人だわ。あの女性は唯月には及ばないわ」佐々木母は確かに息子を贔屓しているが、唯月への評価は的を射ている。「良い妻と結婚しなくちゃ。俊介、あなたが外でどう遊ぼうが、母さんは何も言わないわ。でもね、あのお嬢さんと結婚したいと思うなら、絶対に慎重になりなさいよ。将来後悔したくなかったらね」多くの男が離婚して浮気相手を妻として迎えた後、こんなはずじゃなかったと後悔するのだ。母親は実際は息子の現状に非常に満足していた。だから、息子が愛人を娶って幸せになれず報いを受けるのは望んでいなかった。しかし姉はこう言った。「唯月のどこが良いって言うの?俊介がこんな目に遭ったんだから、私たち家族はこんな嫁を許しちゃダメよ。俊介、お姉ちゃんはあなたと莉奈ちゃんのことを応援してるからね。うまく暮らしていけるかなんて、一緒に生活し始めてからようやく分かるものよ。誰にも分からないでしょ?結婚する当初だって唯月は教養もあるし、礼儀正しかったでしょう。その時、誰も彼女がまさか包丁を持って、街中を俊介を追い回すなんて思ってもみなかったじゃない。あの子が俊介をどんな姿にした?」佐々木家の親二人は何も言わなかった。「俊介、数日は家に戻らないで。お金もあの子にあげちゃダメよ。彼女に謝ったりしないで、彼女から先に過ちを認めて謝罪されるのよ。今度こんなことは絶対しないと約束させてから戻りなさい」姉は「今離婚しないとしても、彼女を調子に乗らせてはいけないわ。さもないと、あなたは家庭内での立場が落ちちゃうわ。大の男は家庭内でも外でも上に立たなくちゃ。女になめられちゃダメなんだって」とアドバイ
「じゃあ、お願いするわね」牧野明凛は笑った。「私たちの仲でしょ、ずっとあなたが店を閉めてくれてたんだから、あなたに損させちゃってたじゃん。今日は私の番、そうすれば私もスッキリだしね」内海唯花も親友に遠慮せず、買った服を持って親友に挨拶し、店を後にした。彼女は車のドアを開け、服を助手席に置くと、結城理仁にこう言った。「先に帰ってて、電動バイクで食材買いに行ってくるから。お米を炊く準備ができるなら、先にお米を洗って炊いといてね。できないなら、私が帰ってからやるわ」結城理仁は彼女の電動バイクを見て言った。「君の新車は?」「今日家を出るのが遅くなったから、渋滞に巻き込まれるのが嫌で電動バイクで来たの」内海唯花はヘルメットを被ると「じゃ、行くわね」と言った。結城理仁が何か言うのを待たず、彼女は電動バイクに跨り走り去ってしまった。結城理仁「......」彼女はたまにそそっかしくて、彼の落ち着いた性格とは正反対だった。そして助手席に置いてある袋を見て、それを手に取り中身を出して見てみた。すると、中には紳士服が入っていたので、彼は眉間にしわを寄せた。彼女は一体どこのオス馬の骨に服を買ってやったのだ?服のサイズを確認し、自分のサイズと同じだと気づいた。しかも全部黒で、まさか彼に買ったのではないだろうな?そう思い、結城理仁はさっきの不愉快さが跡形もなく消え去った。牧野明凛が店から出て来て、彼は彼女に会釈した。それを挨拶代わりにして車を走らせて行った。彼が去った後、金城琉生がちょうどやって来た。牧野明凛は自分の従弟を見て驚き、手を伸ばして従弟の顎に生えた髭を引っ張って言った。「琉生、しばらく見ないうちに、なんでこんな髭伸ばしてるのよ?これ、もう剃ったほうがいいんじゃない。まだ若いんだから、髭なんて生やさないでよ、年取って見えるわよ。あなたもしかして最近めっちゃ忙しくて疲れてるんじゃない?なんか全体的に憔悴しきって元気がないわよ。若者だから張り切って頑張るのはいいけど、限度ってものがあるんだからね。健康じゃないと何もできないでしょ、体を大切にしなきゃ」「大丈夫だよ。ただ仕事がちょっと忙しだけだから」金城琉生は実際は内海唯花のために髭を伸ばしているのだ。その髭もそんなに長く伸びているわけではないが、普段彼の顔はスッキリときれ
牧野明凛はそう言った後、従弟をいぶかしそうに見つめ尋ねた。「琉生、なんでこんなこと聞くのよ?金城琉生はもちろん自分が内海唯花に密かな恋心を抱いていて、彼女が離婚するのを期待しているとは言えず、でたらめを言った。「ただ唯花姉さんの心配してるだけだよ。それ以外の何でもないってば。唯花さんはあんなに優秀な女性なんだ、もし旦那さんが彼女を好きにならないなら、早めに離婚するのも良いと思ってさ。彼女のよさを良く理解してる男性を見つければ幸せになれるに決まってるよ。「それはそうよ。唯花はとっても良い子なんだから、私は結城さんが唯花のことを愛するようになるって思うわ。もしかしたら唯花が彼を好きになるより、彼のほうが先に唯花のことを好きになっちゃうかもよ」牧野明凛は親友が幸せな日々を過ごしていくことを望んでいるのだ。金城琉生はそれを聞いて気が塞いだ。従姉にも彼が内海唯花に片思いしているなんて告白できないし。従姉がそれを母親に言うのが怖いのだ。彼が内海唯花より年下なのは言うまでもなく、内海唯花が既婚者だからだ。もし彼女が離婚したとしても、彼の母親はすぐには彼女を受け入れてはくれないだろう。十分に状況把握ができるまでは、金城琉生は自分の気持ちをしっかりと隠しておいて、誰かに知られないようにしているのだ。夕日が西の空に沈み、黒の帳が人々が暮らす大地に降りる。夜がこうして静かに訪れた。トキワ・フラワーガーデンにて。内海唯花はキッチンで忙しくしていた。キッチンから時折香る美味しそうな匂いにつられて、結城理仁がキッチンの入口までやってきた。彼は手伝いをしようと思っていたが、内海唯花がご馳走する側なんだから自分一人でやると言って、彼には休んでてもらったのだ。それで彼はやることがなく、リビングでテレビを見ていたが、特に面白くないと思い、妻が料理を作る様子を見ているほうが面白いと思って来たのだった。内海唯花の賢く優しい様子に、結城理仁は彼女から目を離さずじっと見つめて、ますます柔らかい目つきになった。彼自身がそれに気づいていないだけで、ただ内海唯花の良いところはたくさんあると思っていた。「内海さん」結城理仁はあることを思い出し、突然彼女を呼んだ。唯花は頭を彼のほうへ向けて目線を送り、引き続き料理に取り掛かって尋ねた。「結城さん、なにかある
顔をあげて彼を暫く見つめ、唯花は仕方なく彼の首に手を回し、自分のほうへ引き寄せて甘いキスを彼に捧げた。理仁は妻のほうからキスをしてもらい、上機嫌になって、片手でスーツケースを引き、もう片方の手で唯花の手を繋いで一緒に家を出ていった。おばあさんは一階でこの二人を待っていた。その時、おばあさんと一緒にいて話をしていたのは七瀬だった。唯月の引っ越しを手伝った時、唯花は七瀬も手伝いに来てくれたことに気づき、彼はきちんと報酬がもらえれば、どんな仕事でも請け負うと言っていた。そして、また唯花に会った時、七瀬はもうわたわたと焦ることはなかった。正当な理由をようやく見つけて堂々とできるという感じだ。「結城さん、内海さん、おはようございます」七瀬のほうから挨拶をしてきた。唯花はそれに微笑んで、ついでに「お名前は?あの日、すっかり名刺をいただくのを忘れていました」と言った。七瀬はその時、素早く主人である理仁のほうをちらりと確認し、彼の表情が変わらないのを見て何も恐れることなく彼女に答えた。「私は七瀬と申します」そして、ポケットから一枚の紙を取り出して唯花に渡し、申し訳なさそうに言った。「家に帰って名刺がもう切れていることに気づいたんです。まだ印刷しに行っていないので、携帯番号を紙に書いておきました」唯花は彼の電話番号が書かれた紙を受け取り、自分の横にいる夫に言った。「七瀬さんがどんな仕事でも受けてくれるらしいわ。今後自分でできないことは七瀬さんにお願いしようと思って」こう言って理仁がまたヤキモチを焼き始めるのを阻止しようとしたのだ。理仁は低い声で言った。「七瀬さんはとても頼りになるからね。何か力仕事があれば、彼に頼むといい」七瀬は素直に笑った。「はい、その通りです。きちんとお金をいただければ、どんな仕事だっていたしますよ。ところで、結城さん、出張ですか?」理仁は「ええ」とひとこと言った。「では、私はこれで」七瀬は夫婦二人に挨拶をしてからおばあさんに手を振り、自然にその場を離れた。今回、若旦那様は出張に半分のボディーガードしか連れて行かない。その中に七瀬は含まれておらず、ここに残って若奥様の護衛をするのだった。自分の主人の出張について行けないことを七瀬は少しも残念には思っていなかった。なぜなら、女主人にゴマすりで
朝食を終えると、理仁はまた唯花の携帯に百万円送金した。唯花は彼がお金を送ってきたのを見て言った。「別に必要ないよ」彼が彼女に渡していた家庭内の出費用のカードが空になったことは一度もなかった。「俺が出張で家にいないし、いつ帰るかもまだはっきりわかっていないんだ。もうすぐ年越しだし、その準備にもお金がいるだろうから、これくらい送っておけばその準備に問題ないだろう?適当に使ってくれ」お金を送る理由としては彼が言った言葉は十分だった。「年末の28日に、俺の実家に帰って年越ししよう。うちは親戚が多いからたくさん正月の贈り物を用意しないといけないんだ。ばあちゃんに何を買っておいたらいいか聞いてみてくれ、時間がある時に買っておいたほうがいいよ。さっき送った百万で足りないなら、俺に言って。また送金するから」彼がこう言うので、唯花は彼からもらった百万をおとなしく受け取るしかなかった。結婚してからかなり時間が経っていて、彼がはじめて彼女を実家に連れて行く話をしてきた。以前、お互いの家族が顔合わせをする時に、彼は両親とおじ、おば達も来るように伝えていた。おばあさんはそれを聞いて瞳をキラキラと輝かせたが、何も言わずにただニコニコと微笑んでいた。唯花がベランダの花に水をやりに行っている時、おばあさんはシロを抱きかかえて孫の傍に腰をおろし、小声で彼に尋ねた。「年越しに唯花さんを連れて帰るって、どの家にするの?」理仁の実家である結城家の邸宅か、それとも適当にどこかに部屋を見つけてそこでごまかすのか?「ばあちゃん、うちのご先祖さんが残してくれたほうの実家は片付ければ住めるか?」それを聞いておばあさんはニヤリと笑った。「片付ければ住めるわよ」今、結城家の邸宅はおばあさん夫婦が建てたもので、ある山の上にある家なのだ。そこを琴ヶ丘邸と名付けている。そして結城家の先祖たちが残してくれた邸宅こそが結城家の本当の実家であるのだ。その邸宅は古色蒼然としていて、時代を感じさせる趣ある邸宅だ。そこは琴ヶ丘邸からそこまで遠くなく、車で十分ほどの距離だ。毎年の正月には、おばあさんは子供や孫たちを連れてこの家に行き、先祖たちに新年の挨拶をするのが習わしだった。「今年の正月は、あの家で数日過ごそう」先祖代々続く家のほうが造詣が深い。ただそこは琴ヶ丘邸よ
おばあさんはぶつくさと呟いた。「辰巳か、三番目の奏汰(かなた)にしようかしら?」理仁はそれには何も言わなかった。余計な口を挟んで、他の弟たちから彼のせいにされるのを避けるためにだ。「やっぱり、あなたの次に大きい辰巳にしましょう。辰巳には誰がお似合いかしらね?」この時、理仁はやはり何も言わなかった。そもそも彼自身には知り合いの若い女性など、無に等しい。このことを理仁に任せたら、辰巳が一生結婚できないのと同義だろう。おばあさんも理仁に誰かを紹介してもらおうとは、これっぽっちも期待などしていない。「入りなさいよ」理仁は首を傾げておばあさんのほうを見て、その顔にクエスチョンマークを浮かべていた。おばあさんはやきもきした様子で「あなたもうすぐ出張に行くんでしょうもん、中に入って唯花さんとちょっとお話でもしないの?」と尋ねた。何をするにも彼女が彼に教えてやらないといけないとは。まったく、当時この孫を育てる時には何でも教えてあげたというのに。ただ誰かを愛する方法だけは教えていなかった。その結果、この家の男どもはみんな女心が理解できず、どうやって女性のご機嫌取りをすればいいのかもわからない人間に育ってしまった。おばあさんは、誰かを愛するのは人としての本能みたいなものだから、教える必要などないと考えていたのだった。おばあさんは楽天的に考えすぎていたのだ。理仁は少し黙ってから、どもりながら言った。「彼女が荷造りをしながら楽しそうに鼻歌を歌っているのが見えないのか?」おばあさん「……」唯花は荷物をまとめ終わった後、理仁が日常生活に必要な物が全部揃っているかをもう一度確認してからスーツケースを閉めた。そして、携帯を取り出してそのまとめあげた荷物の写真を撮った。そして、携帯をまたポケットになおして、スーツケースを引っ張って持って行こうとした時、数歩歩いてから部屋の入り口に理仁とおばあさんが立っているのに気がついた。「おばあちゃん」唯花は笑っておばあさんにそう声をかけてから、スーツケースを引っ張って彼らのもとへとやって来た。「理仁さんが出張するから、荷物をまとめてあげていたの」孫の嫁が孫に対してとても優しく気配りをしてくれて、おばあさんは心のうちはとても喜んでいたが「次はこの子に自分で用意させていいわよ。お腹が空いたで
佐々木英子は弟に電話をかけた。「姉ちゃん、今向かってる途中だ」俊介は両親と姉たちが皆来るのを知ってすぐに起き、莉奈も起こして二人は簡単に身なりを整え、急いで久光崎のマンションへと向かった。「俊介、私たち、まだ朝ご飯も食べていないのよ」「姉ちゃん、今向かってるからさ。後で朝ごはんを食べに行こうよ」英子は言った。「あんた成瀬さんと一緒に住んでるんじゃないの?彼女に私たちの朝食を用意させればいいじゃない。外で食べたりしたら、人数も多いし、二、三千円はかかっちゃうでしょうもん」「姉ちゃん、俺たちも今はホテルに泊まってるんだ。まだ部屋を探しに行く時間がなくてさ。あっちの家には今何もないから、料理はできないんだって」唯月が自分のやり方で内装費を回収したので、今俊介のあの家は水も電気も使える状態ではなかった。キッチンなんてほとんど何も残っておらず、莉奈が彼らのためにご飯を作ろうにも、どうしようもないのだ。英子は少し黙ってから言った。「唯月のやつ、うちらをブロックしてるのに、あんたはどうやって彼女に連絡するの?陽ちゃんに会いたくたって、会えないんじゃないの?」「陽は普通唯花の本屋にいるから、あそこに行けば会えるさ。別に唯月に連絡する必要もないって」唯月に自分がブロックされても俊介は全く意に介していないようだった。唯月が家の内装をめちゃくちゃにしたので、俊介はかなり怒りを溜めていたが、それでも全く後悔などしていなかった。彼は離婚してから莉奈が嫉妬するといけないので、唯月には連絡したくなかった。「連絡がつかなくったっていいけどね。陽ちゃんの養育費を払えない口実にできることだし。そしたら毎月六万も節約できるのよ」英子はただそう思い込むことでしか、自分を納得させられなかった。俊介は何も返事しなかった。彼は家族に、すでに一年分の養育費を支払い済みだということを教えていないのだ。「姉ちゃん、今運転中だから、後で会った時にまた話そうよ」「わかったわ」英子は電話を切った後、両親に言った。「俊介、今来てる途中だって。家は水も電気も使えない状態だから、料理できないらしいわ。だから外で朝ごはんを食べようって言ってたよ。しばらく朝食なんて外食してなかったし、どこかレストランに行って食べましょうよ」佐々木母はお金を使うことをつらそう
佐々木父は暗い顔で妻を睨んで、問い詰めた。「どのじいさんにそれを頼んだんだ?」「唯花の実のじいさん以外、他に誰がいるんだい?彼女のばあさんが入院しているでしょ?病院へ行ってお願いしたのよ。そしたら、あのじいさんが図々しくて、口を開けるとすぐ二百万を要求してきたのよ。もちろんそれは受け入れられなかったから、散々値切って、結局百二十万渡すことになったわ。絶対唯花を説得するって何度も保証したくせに、全くできなかったのよ。唯花は全然唯月を説得しなかったわ。お金を取って何もしてくれなかったってことでしょ?」佐々木母が言い終わると、佐々木父は彼女の腕をビシッと叩いた。「お前、アホじゃないか!唯月の実家の連中が信用できると思ったのか。それに、唯花は実家の人たちと仲が悪いって知ってるだろうが!誰に頼んでも、あいつらに頼む馬鹿がいるか!普段は賢いのに、とんでもない真似をしやがって!百二十万!百二十万を渡したって?」佐々木父は妻の愚かさに目の前が暗くなり、卒倒しそうだった。佐々木母は悔しそうに言った。「唯花はあまり話が通じないからさ、内海家の人間に出てきてもらったら、どうなっても内海家の家族同士の喧嘩になるし、私が唯花のせいで辛い思いをしなくてもいいって思ったのよ。あのじいさんはちょうど病院に奥さんの医療費を八十万円請求されて困っていて、私が百二十万払ってあげたら、残った四十万を唯花を説得する費用にするって言ったのよ」内海ばあさんの治療費は最初は彼女自身が貯金で支払ったが、後で子供たちに少しずつ出させたのだった。最近そのお金を使い切ったところに、また八十万円を請求され、ちょうど佐々木母が訪ねて来たのを、内海じいさんはチャンスと捉えたのだ。「本当にどうしようもない馬鹿だな。あの連中にお金をやったら、海に水を注ぐのと同じだろう、全く無意味なことなんだぞ!」英子も言った。「お母さん。内海家の人間に頼んでって言ったけど、お金を払えとは言ってないじゃないの」そう言いながら、心の中で母親にはまだそんなにへそくりがあったのかと思った。俊介が普段両親にたくさんお金を渡しているようだ。両親が彼女の家に使ったお金は、俊介が渡したお金の半分しかないだろう。「内海じいさんからお金を取り返さなくちゃ。約束を果たしてくれないんだから、きっちり返してもらわない
唯花は嘲笑するように言った。「佐々木英子さん、今すぐトイレへ行って、洗面器に水を汲んで……あ、すみませんね、蛇口がなかったわね。水道のパイプも姉がお金を出して取り付けたものだから、私たちがそれを外したのよ。じゃあ、仕方ないね、今すぐ雨が降るよう祈っていてね。それで、そこら辺に水溜まりが出来たら、それを鏡にして、自分の顔をちゃんと観察しなさいよ。どれだけ厚かましい顔しているかわかると思うから。姉はお宅の弟ともう離婚して、赤の他人になったのよ。よくもまあ、姉にあんたらの住む場所を探せだなんて言えるわね。姉のせいで住む場所がなくなったって?それは自業自得よ!もしちゃんと話し合って、姉の損失分もきっちり払って別れてたら、今頃ちゃんと住む場所が残ってたはずよ。ああ、今日は本当に寒いわ。あんなボロボロで風が自由に出入りできる部屋でちゃんと寝られるかしら?まあ、あなた達の皮膚は顔と同じように厚いことだし、人も多いから。一緒に詰め寄って寝れば、この寒さも凌げるでしょうね。じゃ、他の用事がなければ、電話切るよ。布団の中が本当に暖かくて気持ちいいから、もう一度寝直すわね。じゃあね」言い終わると、唯花は電話を切った。そして、すぐ佐々木母の電話番号もブロックした。これでしつこく電話をかけてくる心配もなくなった。唯花に電話を切られた英子は怒りが頂点に達し大声で罵った。「あの唯花め、本当にムカつくわ!こんなに口が悪いなんて、あんな女と結婚した男が本気で耐えられるかしら。お母さん、どうすればいいのよ」彼女は母親を見た。「もう家族全員ここまで来たし、実家の人達にも大都市で年越しするって伝えたよ。まさかこのまま帰るの?」「ママ、だっこ!」恭弥が父親の腕の中で目を覚まし、母親に手を伸ばし抱っこをねだってきた。英子はイライラしながら息子を抱き上げた。そして、佐々木父に言った。「お父さん、前も言ったでしょ。こんなに早く唯月の要求を受け入れるんじゃない、お金も送らないでってさ。ほら、今どうなってるのか見てよ。お金をもらったら、もう私たちのことなんて眼中にないわよ。これから陽ちゃんに会いたくても難しくなるでしょう。お父さんたちは彼女に騙されてしまったのよ」英子は最近何をやってもうまくいかず、気性も荒くなってきていた。会社でやるべき仕事がほとん
「内海唯花!あんたのお姉さんは?彼女に電話をかわりなさい!」佐々木母の声は怒りで震えていた。それを聞いたら誰でも彼女が腹を立てているのがわかる。「姉に用事でもあるの?もうあなた達とは何の関係もないけど。それで?要件は?」唯花は怠そうに尋ねた。佐々木母が自分の家から戻り、俊介の家の内装がめちゃくちゃにされていたのを見て、あまりの怒りで姉を責めるつもりだろう。あまりにも反応が遅かった。佐々木母が今まで気づかなかったのも無理はない。あの日、唯月と俊介が離婚手続きを終えた後、佐々木俊介の両親二人は直接タクシーで自分の家に帰った。そして、翌日に引っ越してくるつもりにしていたのだ。しかし、英子の子供たちが学校で成績表を受け取るため、一日遅れることになった。そして今日、小学校はようやく冬休みに入った。佐々木家の両親は娘一家を連れて、車二台に荷物を詰めて星城へ向かい、ここで年越しするつもりだった。こんなに朝早く出発するのも、佐々木母が思うところがあったからだ。それは早く来て、莉奈に朝食を作らせるためだ。つまり佐々木家の威厳を見せつけようとしたのだ。ところが、荷物を持って部屋に入り、目の前の光景に驚いたせいで、荷物まで床に落としてしまった。最初は家を間違えたかと思ったが、何回も確認すると、間違いなくそこは息子の家だった。そして、英子は直ちに弟に電話をした。俊介はここ二日間、ずっと取引先が突然契約を解除しようとした問題に対処していたので、あまりにも忙しくて、家族に家の内装が壊されたことを伝えるのを完全に忘れてしまっていた。姉からの電話を受けた時、俊介は何を言われているのかすぐに理解できなかった。家族全員が星城に来ているのを知り、俊介はようやく内装のことを思い出し、説明したのだ。それを聞いた佐々木母はすぐに唯月に電話しようとしたが、番号がブロックされたため、全く通じなかったので、仕方なく唯花に電話したというわけだ。「お姉さんはそっちにいない?」佐々木母は責めるように言った。「一体どういうつもりなの?うちの息子の家をめちゃくちゃに壊したでしょう?これは犯罪よ、警察に通報するわ!」唯花は冷たく言った。「お宅の息子さんが家を買った時は今のような状態だったでしょ?それを姉が八百万くらいかけて内装したのよ。あな
「私の記憶力そんなに悪くないよ、結婚したばかりの頃じゃあるまいし」唯花はあくびをしながら言った。「理仁さん、寝ましょう。明日出張でしょ?しっかり休んで、英気を養わないと」彼女は上半身を起こし、身を乗り出して彼の唇に軽くキスをした。「理仁、おやすみなさい」理仁は夜空のような黒い瞳で彼女を見つめて、手を伸ばし彼女の腰を抱き寄せ、キスをしてきた彼女が離れようとするのを許さなかった。その目には炎が燃えたような熱さが宿り、彼女の美しい顔に止まった。普段あまり化粧しない彼女はいつもすっぴんだが、肌のケアはしっかりしているので、触るとすべすべで手触りがとてもよかった。彼女の飾らない美しさはとても自然だった。理仁が初めて彼女に会った時、すでにそう思っていたのだ。ただ、彼が出会ってきた美人は多すぎたので、初対面では特に何も思わなかっただけだった。「唯花さん、今なんて呼んだ?」彼が初めて彼女のことを名前だけで呼んだ時、彼女は何の反応も示さなかった。後でそれを考えると、理仁は少し落ち込んでいた。名前で呼んだとき、全く感情が籠っていなかったからだと反省し、それからもうそんな風に呼ばなかった。しかし、彼女が「理仁」と呼んだ時、その声が電流のように彼の心を打ちぬけた。「理仁さん」「そうじゃない、さっき俺の名前だけ呼んだだろう」「そうよ、何?だめだったの?あなたは私の旦那さんでしょ」理仁は彼女の頭を押さえ、熱い唇でその燃えるような感情を表した。濃厚なキスが終わると、唯花は彼の大胆な手を押しのけ、彼に背を向けて横になった。「寝ましょう、もう遅いから」理仁の声がかすれていた。「先に寝て。お、俺はシャワーを浴びてくる」そう言い終わると、彼は布団を剥がし、ベッドをおりて、急いでバスルームに逃げ込んだ。夫婦の感情が絶賛上昇中には、ディープキスは禁物だ。さっき彼は危うく理性を失いそうになるところだった。今はとにかく都合が悪い。寒い日に冷たい水でシャワーをするなんて、本当に散々だ!バスルームから聞こえる水音を聞きながら、唯花は少し姿勢を変え、仰向けになり、ぶつぶつと呟いた。「本当に欲張りなんだから」彼女は今は都合の悪い時期だとよく理解しているから、彼にキスするたびに、いつも軽くキスをして、度を越さないようにして
彼らの家には貸出している不動産がたくさんあり、家賃をもらうだけでもちゃんと食べていけるということを誰が想像できるだろう?牧野家はまさにこれだ。「やっぱり、九条さんと付き合ってみるように勧めてみよう。彼女も九条さんと親しくなれば、きっと愛が芽生えるはずよ」明凛から悟について聞いた後、唯花は悟と明凛が似た者同士だと感じた。二人とも賑やかなのが好きで、悟から一番早く面白いゴシップが聞けるだろうし。「悟に聞いたんだ。彼は牧野さんが印象深い女性だって言ってたぞ。少し時間をあげればきっと行動するよ。今はもうすぐ年越しだろう、社員全員が忙しいから、悟のような立場の人はなおさらだ。年明けの休みに入れば、彼も余裕があって、プライベートに費やす時間ができるよ」彼が出張している間、悟は辰巳と一緒に会社を管理しなければならないから、当然忙しくなるのだ。唯花は頷いた。彼女も明凛が結婚して遠くに行ってしまうのが嫌だった。もし明凛が悟とうまくいけば、そう、理仁にもメリットがあるのだ。彼は悟のバックアップがあり、昇進や昇給もでき、唯花たちは今よりも裕福になるだろう。だがしかし、なんだか友達を売ってお金を稼いでいるようだが……夫婦二入は赤い糸を引く話で盛り上がり、唯花は時間だと気づいて、フェイスパックを外しに立ち上がり、洗面所へ行った。暫くして洗面所から出てくると、まっすぐベッドに向かい、ベッドに上がりながらスリッパを脱いだ。彼女はベッドに横になると、隣のスペースを叩いて理仁に言った。「理仁さん、早くこっち来て。抱き付いて温まりたいの。そうしたらよく寝れるから」理仁は顔色が暗くなった。「俺のことをホッカイロか何かと思っているの?」「ホッカイロは時間がきたら冷めるけど、理仁さんならずっと温かいし、ホッカイロより長持ちで便利なのよ」理仁「……」彼は近づき、彼女の隣に寝た。横向きになって彼女に向き合い、軽く彼女の頭を叩いた。「俺は君にとってただの暖を取るものなのか?他にないの?」「今の私にはほかに何が考えられるっていうの?」唯花は自然に彼の胸に潜り込んだ。「暖房をつけようって言ったら、乾燥して耐えられないってあなたが言ったでしょ?最近特に寒いし、あなたに抱きついて暖かくするしかないよ」ドアと窓をきっちり閉めても、やはり寒い。最大の原因は彼