狂っているのは、明日香だけではなかった。遼一はまず、明日香の傷を簡単に手当てした。傷は浅く、使ったハサミも毎日消毒されていたため、破傷風の注射の必要はなかった。「少しは気分が楽になったか?」明日香のドレスは血で汚れ、失血のせいでその顔色は青白く沈んでいた。彼女はうつむいたまま、一言も返さなかった。遼一は垂れた髪を耳にかけてやり、「朝食を作ろう。何が食べたい?」と穏やかに問いかけた。「帰って」「じゃあ、麺にしよう」遼一の数少ない得意料理は、麺を茹でることだった。二人の間には、まるで何事もなかったかのような静けさが流れた。遼一は青菜と肉の細切りを入れた麺を作り、テーブルに運んだ。小ぶりの丼を取り出すと、それは明日香のためだった。彼は麺を少し取り分け、丼に入れ、さらにスープを注いだ。スープは縁からこぼれ、テーブルに垂れた。「食べに来い」階段を上がろうとした明日香は足を止めた。だがすぐに男の手に引き戻され、無理やり席に座らされる。手には箸を握らされたが、彼女はそれを叩きつけ、丼ごと投げた。スープ麺は床に散らばり、陶器は砕け散った。「私がこうなったのは、あなたのせいよ!あなたさえ離れてくれれば、あの地獄を思い出さずに済んだし、自分を傷つけることもなかった!お願いだから、帰って!」遼一は怒りも見せず、黙々と片付けを始めた。破片を拾う途中で指を切ったが、それでも顔を上げて彼女を見ると、明日香は怯えたように後ずさりした。まるで、彼が今にも何かしでかすかのように。「食べ終わったら帰る」遼一は自分の丼を彼女の前に押しやり、掃除を終えると外へ出て、玄関先で煙草に火をつけた。午前六時。空気には花の香りと湿った土の匂いが混ざっていた。一方その頃。哲朗はベッドの背にもたれ、床に散らばった服を拾い集め、黙って浴室へ向かう女を横目で見ていた。その時、電話が鳴り、彼は視線を戻した。素早く受話器を取る。「どうした?......明日香に何かあったのか?」哲朗がこの男から電話を受けるのは、いつも明日香に関わることが起きた時だけだった。その美貌に妖艶な笑みを浮かべ、哲朗はベッドから起き上がった。バスローブを羽織り、窓際に立つ。煙草を吸おうとしたが、先ほど女に捨てられたことを思い出し、手を止めた。「用件を言え。
遼一と共にいると、何度も思い出してしまう。とうに忘れたはずの記憶が、今もなお鮮明に蘇るのだ。あの頃、この胸を締め付ける痛みから、どうやって逃れていたのだろうか。自らを傷つけること。身体の痛みをもって、心の悲しみを埋め合わせる。それだけが、唯一の術だった。自傷の痕に痛みはなく、ただ、より大きな快感だけが満ちてゆく。明日香はキッチンからハサミを手に取ると、自らの腕に突き立てた。一筋目では血は滲まなかったが、そのぶん、心の疼きは増すばかりだった。二度、刃を滑らせると、ぷつりと赤が滲んだ。ぽたり、ぽたりと滴る血粒がシンクに落ち、水に溶けては排水口へと吸い込まれていく。明日香の口元が、微かに緩んだ。明かりもない部屋で、まるで憐れな幽鬼のように、ただ笑っていた。三度目――身体を苛む痛みが、精神の苦痛を和らげてくれる。だから。ゆっくりと滴り落ちる血を眺めながら、明日香は自虐的な満足感に浸っていた。流れ出る赤と共に、己が解放されていくような錯覚に陥る。かつて遼一は、彼女の自傷行為を目撃したことがあった。見つかったその時、彼の瞳に浮かんでいたのは心配や悲しみではない。代わりにナイフを手に取ると、明日香の手を掴み、同じ場所にさらに深く刃を突き立てたのだ。骨が覗くほどに、深い傷だった。その後、明日香は失血により意識を失った。そして、次に目覚めた時、部屋に閉じ込められていた。「お前は狂っている」と、彼は言った。だが、明日香は狂ってなどいなかった。自分が何をしているのか、はっきりとわかっていたのだ。遼一に伝えたかった。私はただ、病んでいるだけなのだと。きっと、とても長い時間をかけて、ゆっくりと自分を癒していくしかないのだと。「何をしている?」突如、明かりの消えたリビングに、冷たい声が響き渡る。次の瞬間、遼一が室内の照明をつけた。眩い白光に、思わず目を細める。遼一が大股で歩み寄り、明日香の手から乱暴にハサミを奪い取った。明日香は虚ろな表情で彼を見上げた。だが今回、遼一の瞳には、心配と怒りが入り混じっているのが見て取れた。遼一は彼女の手首を掴むと、危険な光を宿した眼差しでじっと見据えた。今にも爆発しそうな怒りを滲ませ、低く問いかける。「そんなに死にたいのか?」明日香は笑いながら、涙を零した。「
遼一は、明日香を後ろから抱きしめて眠ることを、とても気に入っていた。彼女が寝返ろうとすると、そっと押し戻すほどだった。だから、これほど長い年月が経っても、明日香の横向きで微動だにしない寝癖は直らなかった。考えてみれば当然のことだ。一つの習慣が十年近くも積み重なり、骨の髄まで染みついてしまえば、そう簡単に変えられるものではない。明日香は体をゆっくりと翻し、かつて無数の女性を夢中にさせたその禁欲的な顔に向き合った。記憶の中の遼一は、すでに四十歳近い姿だった。もう一度生き返らなければ、明日香は若き日の彼がどんなだったか、すっかり忘れてしまうところだった。明日香は顔を上げ、真剣に彼を観察する。今目の前にいる、まだ若い遼一と、中年に差し掛かった頃の遼一の顔が重なって見えた。四十代の遼一は、さらに成熟しており、彫りの深い顔立ちはより魅力的だった。彼から漂う独特の落ち着きは、誰にでも備わるものではない。どんなに危険で困難な状況でも、彼がそばにいれば安心感を与え、すべてを任せられる力があった。当時の権力者たちの中で、彼と同年代の男たちは、体型が崩れたり髪が薄くなったりしている者が少なくなかった。遼一は驚くほど自制心が強く、体型から地位まで全てがトップクラスだった。だからこそ、あれほど多くの優れた女性たちが彼を慕い続け、どれほどの愛人が押しかけてきて、明日香に退位を迫ったことか......数え切れないほどだ。しかし、彼の目に映るのは、ただ一人――明日香だけだった。明日香は、極めて寛大で理想的な妻、「幸せな佐倉夫人」を演じていた。争わず、求めず、生ける屍のように、ただその役を全うしていた。思い返せば、記憶の断片の中に幸せだった瞬間はほとんどなく、ほとんどすべてが心の痛みと苦しみだった。心が粉々に砕けても、再び寄せ集められ、そしてまた激しく疼く、そんな日々の連続だった。遼一を絞め殺したいと思ったこともあった。しかし、彼女の力では、目を覚ました遼一には到底敵わなかっただろう。明日香は静かにベッドから抜け出し、パジャマを羽織って階下へ降りていった。自分の臆病さを認めつつも、過去の苦しみから抜け出す手段が、どうすればよいのか、まだわからなかった。明日香ががんになる前、実は心臓病も患っていた。後天的なもので、医師によれば、長年の不安
先刻のもがきで、額には玉の汗が滲み、薄物の寝間着は無惨にも引き裂かれていた。雪のように白い肌は艶かしい光を放ち、羞恥と怒りに歪む表情は、遼一の下腹部に疼くような熱をもたらす。まるで、意のままに手折られるのを待つ花のようだった。遼一は明日香を嬲るように見つめる。その視線は熱を帯び、彼女の内奥までも見透かすかのようだ。明日香はその視線から逃れるように顔を背け、分厚いカーテンに目をやった。男は身を乗り出すと、その繊細な鎖骨の窪みに唇を寄せ、己がものだと示すように、一つ、また一つと痕を刻んでいく。芳江が帰ってしまった今、明日香がどれほど抵抗しようと、もはや逃れられぬ運命だった。別荘には、二人きり。明日香の末路は、定まったも同然だった。どう足掻こうと、彼女は辱められる。たとえ......遼一が最後の一線を越えず、その内には入らぬとしても......一度火がつけば理性の箍が外れてしまう男だと、明日香は知っていた。康生が去った今、月島家は完全に彼の意のままだった。遼一の、けして長くはない忍耐も、とうに尽き果てていた。「ならば、俺が選んでやろう」男は既に金属のボタンを外し、ジッパーを引き下ろしていた。その醜悪なものが明日香の顎に触れそうになり、熱さに身を捩って激しくもがく。彼女は固く目を閉じ、絞り出すように呻いた。「この......っ、くそ野郎!どいて......ッ!」「シィー......すぐに、終わらせてやる」四十分後。明日香は手近な何かを掴むと、胸や顔に付着したものを拭い、それを彼の頭めがけて叩きつけた。「......本当に、殺してやりたい。このくそ野郎、出て行って!」遼一は怒るでもなく、破れたシャツを脱ぎ捨てて隅に放ると、裸のまま立ち上がり、ベッドの上の明日香を抱え上げた。明日香が脚を伸ばして蹴りつけようとするが、遼一は素早く身を躱す。その隙に、明日香は反対側からベッドを滑り降りた。部屋のドアがわずかに開くかと思えば、次の瞬間、凄まじい音を立てて閉められる。遼一は彼女を引き寄せ、ドアに強く押し付けた。しなやかに描かれる背中の曲線。腰の窪み。世界的なモデルとて、これほど見事な腰の窪みを持つ女はそうはいない。遼一はビジネスの世界で様々な権力と色事の取引を目にしてきたが、これまで出会ったどんな女も、今腕
どれほど眠っていたのだろうか。むせ返るような強い酒の匂いで、明日香は意識を取り戻した。朦朧とする意識のなか、何者かに重くのしかかられ、息苦しさに喘ぐ。首筋には、ひやりと冷たいものが触れていた。「んっ......」明日香は苦しげに呻いた。何かを言おうと唇を開いた瞬間、声は不意に塞がれた。それは嵐のような口づけだった。男の片手はスカートを乱暴にたくし上げるとその内側へと滑り込み、もう片方の手は雪のように白い胸の膨らみを鷲掴みにし、無慈悲に揉みしだく。明日香は幼い頃から人より発育が良く、その豊満な胸は、片手で到底収まるものではなかった。男は慈悲のかけらもなく、ただ勝手気ままにそれを弄び続ける。明日香は痛みに耐え、か細い呻きを漏らすのが精一杯だった。その痛みが、混濁していた意識を徐々に覚醒させていく。肌を撫でる夜気の冷たさに、はっと身を震わせた。部屋は真の闇に包まれていたが、男にもたらされるこの感触には、あまりにも覚えがあった。遼一は明日香を嬲るのが常だった。特に、彼女が眠りに落ちている間を狙っては、徐々に力を込め、ついには泣き喚かせるのを楽しんでいた。明日香が助けを求めて泣き声を上げるたび、男は止めるどころか、かえって興奮を増し、より一層激しく彼女を貪るのだった。やがて全身から力が抜け、彼のなすがままに身を委ねるしかなくなる。どうやって部屋に入ってきたのだろう。ドアは防犯性の高いものに替え、暗証番号も変えたはずなのに。彼女は男の胸を力の限りに叩き、掠れた声で懇願した。「もう......やめてっ!」だが、その声は拒絶というより、むしろ甘えているかのように響いた。遼一は明日香を解放するつもりなど毛頭なく、彼女の唇を貪りながら、腰の金属バックルを外し、ジッパーを引き下ろした。不意に唇が解放されたかと思うと、すぐさま両手首をまとめて掴まれ、頭上へと縫い付けられた。荒い息遣いが、耳元で甘く囁くように響く。「......兄さんを、助けてくれよ。ん?」明日香の胸が激しく波打つ。太腿の間に押しつけられた硬い熱塊が、ぐり、と蠢くのを感じた。遼一はかつて明日香を「名器」だと評した。何度体を重ねても、まるで処女のように瑞々しい、と。彼女と交わっている最中に果てることができたなら本望だ、とさえ言った。閨では、
南緒は、再び戻ってきた。ドアの外で立ちすくむ珠子は、中から漏れ聞こえる会話に全身の力を奪われ、壁にもたれかかりながら、両手で口を押さえて声を漏らさないようにしていた。その瞳には恐怖が宿り、まるで禁断の秘密を覗き見てしまったかのような表情を浮かべている。珠子は知らなかった。遼一が、これほどまでに多くの秘密を抱えていたとは。彼は、人を殺したことがあるのだろうか。なぜ、彼女の命を奪おうとしたのだろう。いや......そんなはずはない。珠子の記憶に残る遼一は、彼女が飢えに苦しんでいたとき、誰の前でも跪いて食べ物を乞うてくれた人だった。まるで野良動物を拾うような心優しさで、月島家に養子として迎えられた後も、毎年自分の金で施設に寄付し、子どもたちの教育を支援していた。そんな彼が、こんなことをするはずがない。珠子はどうやって自分の部屋に戻ったのかも覚えていない。ベッドに座ったまま、長い間、茫然としたままだった。遼一は電話を切り、振り返って机の上で光る画面をじっと見つめた。明日香が樹の傷の手当てを終えたとき、すでに夜は明けていた。一晩中降り続いた豪雨と強風のあと、折れた枝や落ち葉が庭に散乱し、辺りは荒れ果てた様子を呈していた。芳江が静かに部屋に入ってきて言う。「お嬢様、ちょっと休まれんさいや。一晩中お疲れじゃろうし......さっき確認したら通信も直っとって、あの電話かけたらすぐ迎えに来るって言うとりましたわ」明日香は立ち上がろうとしたが、体がふらつく。芳江は慌てて彼女を支えた。「熱はもう下がっていますし、他に大きな問題もありません。もし目を覚ましたら、私が出かけたとお伝えください」「はい、かしこまりました」芳江は続ける。「朝ごはんも用意しとりますんや。ちょびっとでも召し上がってくれたら、胃が楽になるんじゃろおもいます」「彼の部下が迎えに来たら、あなたも二日ほど休んでください。久しぶりに帰省されるのもいいでしょう」明日香は頷き、部屋を出て行った。芳江は彼女の言葉を放っておくわけにはいかなかった。急いで階下に降り、数品の料理を作ってガラスの器に入れ蓋をし、忘れないよう冷蔵庫にメモを貼った。芳江に学はなかった。せいぜい料理ができるだけで、以前使用人として働いていたときは粗雑で方言がきついと言われ、数