しかし、深く調査を進めていくうちに、事態は想像以上に複雑であることが明らかになった。千尋も衝撃を受けていた。今の明日香は、かつての彼女とはまるで別人のようだった。だが彼女は明らかに藤崎を裏切り、遼一と密かに関係を重ねていた。その目的は、スカイブルーにもたらす利益のためだった。婚約が目前に迫っているというのに、こんな事件が起きる。あまりに出来すぎてはいないか。ちょうどこのタイミングで。彼らは、明日香と遼一が密かに連絡を取り合い、不貞を働いた証拠を確保していた。どの証拠も、明日香に死刑を宣告できるほど致命的だったが、千尋はどこか違和感を覚えつつも、その正体を言葉にできずにいた。遼一は康生が自ら育てた後継者だ。その策略と手腕は極めて深く、重要な写真をメールボックスに保存したうえ、パスワードも設定していないなんて――あまりに単純すぎるのではないか。さらに奇妙なのは、メールボックスにそれ以外のファイルが一切存在しなかったことだ。月島家は帝都の顔役として知られ、警察が二十年間密かに犯罪証拠を調査しても、いまだに確実な結果を出せなかった。千尋は考え込む。重要な写真が、こんなにも簡単に彼らの手に渡ったとは、やはり信じがたいことだ。夜、樹はひどく酔い、飲酒運転で車を飛ばし、命の危険を冒して藤崎家の屋敷へ戻ってきた。「ドン――!」大きな音とともに門に激突する。明日香は夕食の箸を手から落とし、飛び上がるほど驚いた。使用人が門に駆け寄り、その損傷に驚きの声をあげる。「まあ!門が……!」明日香が近づくと、門には衝突による凹みと、車のフロントの跡が鮮明に残っていた。使用人が急いでドアを開けると、見覚えのある車と、ふらふらと降りてくる樹の姿があった。服は乱れ、顔には青あざと血痕が浮かび、まるで誰かと喧嘩をしたかのようだった。使用人が駆け寄り、支えようと声をかける。「若様、どうなさったのですか?どうしてお怪我を……」「どけ!」樹は怒声を上げ、使用人を退けた。樹は玄関に入り、傍らに立つ明日香を目にしたが、まるで存在を無視するかのように彼女の横を通り過ぎた。明日香は慌てず、急ぎ足にもならず、彼の後をついて行く。転びそうになる樹を見て、手を伸ばして支えた。「樹、飲酒運転は危険ですよ」「いつまで演技を続けるつもりだ?そんな
心の中で怒りの炎が絶えず燃え盛り、樹はまるで理性を失ったかのようにアクセルを力任せに踏み込み、鬱憤を晴らすように学校の門まで車を飛ばした。明日香には、なぜ彼が突然あんな様子になったのか、皆目見当もつかなかった。車内の空気は凍りつくように冷たく、張り詰めていた。「降りろ」明日香は黙ってシートベルトを外し、ゆっくりと車を降りた。樹は彼女の後ろ姿をじっと見つめる。その眼差しは暗く、怒りと嫉妬に濡れていた。明日香が自分を裏切ったという事実は、樹にとって到底受け入れられるものではなかった。許せというのか。どうやって許せというのだ。見て見ぬふりをするのか。それとも、何もなかったことにして、彼女と共に過ごすのか。あれほど愛した彼女に、何度も、何度も欺かれ続けた。拳を車の窓に叩きつける。あまりの力に拳の関節の皮膚は裂け、血が滲んだ。マイバッハは学校の門前で十分以上停車していた。樹は苛立ちを押さえ込み、心の奥の凶暴な感情を必死に抑えていた。掌の中で指輪を強く握りしめながら。ほどなく、樹の携帯が鳴る。千尋からの電話だった。声には明らかな動揺が混じっていた。「……社長、ご依頼の件、すべて調査が完了しました」樹の目に影が差す。「話せ」「明日香様は……その……確かに佐倉遼一と親密な関係にありました。彼の消費履歴を調べたところ、以前ランジェリーショップで大量の……セクシーな下着を購入していました……」この報告に、千尋自身も心中穏やかではない様子だった。「すべて、明日香様のサイズに合わせて購入されていました。明日香様が失踪していた期間も、ほとんどの時間を遼一と共に過ごしており、街頭の防犯カメラには、彼が明日香様の借りていた部屋に出入りする様子がはっきりと映っていました。それだけでなく、ハッカーを使い遼一のメールボックスに侵入したところ、明日香様とのやり取りが多数見つかりました。それに、写真も……」「写真……?どんな写真だ」「それは……」千尋は言葉を濁す。普段は冷静な彼の声に、珍しく動揺が混じっていた。「早く言え」「社長、関連資料はすでに社長のメールアドレス宛に送付済みです」見なくても、樹にはそれがどのような写真か、十分理解できた。樹の声は極限まで冷え切っていた。「以前作成したスカイブルーへの出資契約書を持って
樹は新聞を置き、ソファからゆっくりと立ち上がった。「ただ、一時的に婚約パーティを延期するだけだ。招待状の日付は後で調整できる」振り返ったその視線は、明日香をじっと見据え、言葉の奥にある微かな感情を読み取ろうとするようだった。しかし蓉子の声が割り込む。「黙りなさい!あなたに聞いているわけじゃない!忘れないで、この結婚話はあなた自身が求めたものよ。帝都中の人が知っていることなのに、あなたの都合で簡単にキャンセルできると思っているの?外部の人が何を言うか、考えたことはあるの?明日香の気持ちを想像したことは?」こんな口調で樹を叱る蓉子は珍しかった。明日香はうつむき、喉に綿が詰まったような感覚に襲われる。長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。「……樹はまだよく考えを整理している途中だと思います。一時的に婚約を延期することにも、きっと彼なりの理由があるのでしょう。これは一生に関わることですから。私も一時的な婚約延期に同意します。父もきちんと説明しますので、父からも異論は出ないと思います。それに、私もすぐ試験です。他のことで気を散らしたくありません。おばあ様、もしお話があるなら、試験が終わってからにしていただけませんか?」蓉子はそれ以上何も言わなかった。明日香の平静な口調の奥に隠れた心の傷を案じ、目にはわずかな心痛が滲んでいた。朝食後、蓉子は樹に明日香を車で送るよう頼んだ。樹は淡々と承知し、拒むこともなかった。明日香は助手席に座り、シートベルトを締める。樹は静かにアクセルを踏み、車は安定した速度で走り出した。信号待ちで停車すると、樹は窓を開け、タバコに火をつけた。窓枠に手を置きながら、低く言う。「婚約を一時延期する件、数日考えさせてくれ。約束は守る。変わらない」明日香は前方の道路を見据え、右手の中指で指輪を回す。「好きなものは好きだし、好きじゃないものは好きじゃない。感情は思うほど複雑じゃない。婚約するかしないかに関わらず、今までしてくれた全てのことに感謝している」これは、招待状を書いて三日目に、樹が選びに連れて行ってくれた指輪だった。簡単に外れるようになっている。「樹……もう私は子供じゃない。あなたより年下だけど、いろんなことは全部わかってる。まだ彼女のことが忘れられないんでしょ?本当に好きなら、追いかけ
明日香はグラスを取り、白湯をひと口含んだ。だが舌に触れたのは冷たい水だった。樹の言葉が耳に残り、胸の奥で静かに波紋を広げていく。睡魔はたちまち霧散し、ただ振り子時計のチクタクという音だけが部屋に響く。五秒、十秒……永遠にも似た沈黙の中で。やがて、明日香は淡々とした眼差しを向け、唇を結んだまま、平静な声で言った。「……わかったわ。一時的に、ここから出て行った方がいい?」その声音には怒りも拗ねた気配もなく、ただ凪いだ湖面のような冷静さがあった。樹にも彼女の中の感情を読み取ることはできなかった。彼女は気づいていた。樹の瞳からは、もうかつての温もりが消え失せている。今の彼の視線は、まるで他人を値踏みするかのように探る色を帯び、彼女の内側を暴こうとするようだった。樹の突然の態度の変化――全く心当たりがないわけではない。ここ数日、彼はほとんど家に戻らず、戻るとしてもいつも真夜中だった。明日香の胸にも答えはあった。あれほど骨身に沁みるほど誰かを愛したのなら、どうして簡単に忘れられるだろう。ましてや、南緒は何ひとつ悪いことをしていないのだ。漆黒の瞳は明日香を見つめていたが、樹は彼女の言葉に乗ることもなく、沈黙を選んだ。明日香は小さく頷き、口の端に微笑を浮かべる。「気に病むことはないわ。あなたの決定を尊重する。先に部屋に戻るから、あなたも早く休んで」そう告げて階上へ。灯りの落ちた部屋に入り、ベッドの端に腰掛けると、手に残った冷めた白湯を一気に飲み干した。ふと視線を化粧台の方へ向けると、暗闇の中から人影が浮かび上がる。椅子に腰掛けるその姿は、しかし顔の輪郭すらはっきりとは見えなかった。「辛かったら泣きなさい。我慢しなくていいのよ。母親から見れば、あなたはいつまでも子供なんだから」その声に、明日香は手の中のグラスを見つめ、指で底をくるくると回した。「辛くなんてないわ。だって、やりたかったことはもうできたもの。お母さん、私、ずっとお母さんみたいな画家になりたかった。お母さんの背中を追って、どこまでも歩いていきたかった。お父さんは一度も応援してくれなかったけど、お母さんは違うよね。私が何をしても、応援してくれるでしょう?」「もちろんよ、明日香。覚えておきなさい。自分をないがしろにしてはだめ。やりたいことがあるなら
明日香は食事を早々に切り上げると、足早に二階へ上がった。他のことを考えている余裕などなかった。試験まで残された日は、十日に満たない。最高の状態で臨まなければならない。たとえ、彼女がすでに中央美術学院の合格を手にしていたとしても。今回の試験で惨憺たる結果を取るわけにはいかなかった。夜の十一時半。寝支度の前に単語をいくつか覚え、手にしていた本を枕元に置いて照明を消そうとしたそのとき、ベッドの下にいた茶トラの子猫が軽やかに飛び乗り、彼女の枕元で丸くなった。小さな両足で交互にふみふみを繰り返す。明日香はベッドサイドランプだけを残し、柔らかくその頭を撫でながら微笑んだ。「こんなに大きくなったのに、まだふみふみするの?おやすみ、トラちゃん」そう囁き、目を閉じて両手を頬の下に添えると、ほどなくして夢の世界へと落ちていった。樹が屋敷に戻ったのは、深夜三時近くだった。「おかえりなさいませ、若様」出迎えた使用人は、樹の唇に走る傷を見て、息を呑んだ。経験から、それがどういう経緯でできたものか、すぐに察してしまう。出ていったときには何の傷もなかった。それなのに、戻ってきた彼の口元には明らかな痕跡。理由を口にする必要すらなかった。樹の全身には疲労が色濃く滲み、その身からは陰鬱な気配が立ちのぼっていた。「……明日香は?」「もうお休みになりました」「彼女は、何か聞いてきたか?」不可解な光が樹の目にちらつく。使用人は静かに首を振った。「いいえ、特には。ただ……明日香様がお戻りになったのは二十一時近くでした。夕食を終えるとすぐに二階へ。お疲れだったのでしょう。若様、お食事は?料理はまだ温かいですが」「結構だ」樹はほとんど無表情のまま答え、二階へと足を向ける。「もし彼女に聞かれたら、俺は戻っていないと言え」「……え?あ、はい……わかりました」使用人は、階段を上がっていくその背中を凝視し、沈思する。二人はまた何か揉めたのか?朝出ていったときは何もなかったはずなのに、戻ってきた彼は、まるで別人のようだった。翌朝。山の稜線から、わずかに赤みを帯びた朝日が顔をのぞかせる頃。雨上がりの空気は清らかで、光はどこまでも透明に広がっていた。明日香は髪を二つに編み、階段を駆け降りてきた。「これから毎日二時間の試験があ
試験を終えた明日香は、傘を差したまま校門の前に立っていた。跳ね返る雨粒でタイツの裾がじっとりと濡れていく。いつもなら、彼が必ず迎えに来てくれる。しかも遅れることなどほとんどなかった。十分ほど待っても姿は見えず、明日香はついに携帯を取り出して電話をかけた。耳に届いたのは、無機質な音声アナウンス。「おかけになった番号は、サービスエリア外にあるため……」小さく肩をすくめ、明日香は両腕を抱きながら画面に視線を落とし、メッセージを送った。続けざまにいくつも送信したが、返事は返ってこない。今日は婚約写真の撮影の日。彼が遅れるはずはなかったのに。「何か事情があるのかな」小さくつぶやいたあと、千尋に連絡しようと思い立つ。だが、その番号を知らないことに、今さらながら気づいた。雨脚はさらに強まり、明日香は近くの喫茶店に駆け込み、窓際の席に腰を下ろした。鞄から宿題を取り出し、鉛筆を走らせながら時をやり過ごす。どれほど集中していたのか、声をかけられるまで気づかなかった。「お嬢さん、もうすぐ閉店のお時間です」「す、すみません。すぐに出ます」慌てて荷物をまとめながら、こんなにも長い時間、課題に没頭していた自分に驚いた。外に出ると、空はすっかり夜に沈み、大通りには夜間学校帰りの生徒たちを除けば人影もまばらだった。待った時間は二時間にも満たない。それでも、樹は現れなかった。胸の奥に渦巻くのは、言葉にならない感情。寂しさ、と問われれば、確かに少しはそうかもしれない。けれど、こんなふうに彼を待ちぼうけにするのは、もう日常の一部のようにも思えた。この時間からタクシーを捕まえるには、街の中心部にある広場まで歩かねばならない。足を進めようとしたとき、道端から一匹の茶トラの子猫が飛び出してきた。ずぶ濡れの体を明日香の足にすり寄せ、喉を鳴らしながら「ニャー」と鳴いた。「病気なの?」しゃがみ込んでそっと見つめる。「ごめんね、今はお家に連れて帰ってあげられないの。遅いから……でも、明日また会いに来るから、それでいい?」子猫がもう一度鳴く。明日香はそれを、同意の返事だと勝手に受け取った。「明日香さん!」呼ばれて顔を上げると、いつの間にか見慣れた車がすぐそばに停まっていた。ハンドルを握っていたのは田中だっ