鈴は言葉に詰まった。芝居がかった懇願も通じないと見るや、ふいに玄関前の階段に腰を下ろし、足を抱え込むように座り込んだ。「お義姉さん、中に入れてくれないなら、ここでずっと動かないから」「ご自由に」紗枝は背を向けたまま、冷たく言い放った。そのまま家に入り、果物を洗って盛り付け、ソファに腰を下ろした。リモコンを手に取り、テレビをつけて新作ドラマを探し始めた。せめて賑やかなストーリーの中だけでも、心のざわめきを忘れていたかった。いくつかチャンネルを回してみたが、気を引かれる番組はなかった。ふと気まぐれに経済ニュースに切り替えると、稲葉グループに関する報道が流れていた。先週、株価が大幅に下落。そして今週、稲葉世隆会長が全株式を売却。新会社IMによる正式な買収が完了した、という内容だった。「......IM?」その名前に、紗枝は一瞬まばたきをした。どこかで聞いたことがあるような気がしたが、すぐには思い出せなかった。そのまま考え込んでいると、スマホが鳴った。画面に表示された名前は――太郎。「姉ちゃん!ニュース見たか?あいつの会社、潰れたぞ!」電話越しの太郎の声は、興奮を隠しきれていなかった。元々、稲葉世隆は夏目家の再建を手助けするどころか、ことあるごとに太郎を侮辱し続けてきた。「ええ、今見てたところよ」淡々とした返事の裏で、「姉」と呼ばれるたびに、胸の奥が微かに痛んだ。もし美希の言葉が本当なら、太郎はもう弟ではないのだから。「俺が経営のこと何もわかってないってバカにしてたのに、結局は自分の会社が他社に買われるなんてな。ざまあみろ、って感じだよな!」そう言ってから一呼吸置き、太郎は話題を変えた。「姉ちゃん、稲葉家って賠償金払ったの?」「......数十億だけね」「それだけ!?俺があいつらに持ってかれた資産は少なく見積もっても千億はあるし、あと姉ちゃんの嫁入り道具や結納金も......!」太郎は一気にしゃべり始めたが、紗枝は深いため息をついて言葉をかぶせた。「今さらそんなこと言っても仕方ないでしょ。そもそも、あれはあなたのミスよ?資産を赤の他人に移すなんて、ありえない」「あれは母さんのせいだよ!」電話越しに、太郎の怒声が響いた。「世隆は信頼できる人間だって母さんは言い張ってさ。死ねば財産は
「怒ってないよ。だから、帰らなくていい」拓司の声は落ち着いていて、感情の起伏を感じさせなかった。だが、鈴の目には疑念が浮かび、足はその場に縫い付けられたように動けなかった。「お前が兄貴のことを本気で想っているなら、きちんと世話をしてあげなさい。二人が一緒になれたら、親戚同士でもっと絆が深まるだろう?」その言葉に、鈴はパッと顔を上げた。目を見開き、まるで夢でも見ているかのような光を瞳に宿して、尋ねた。「......本当?」「もちろん本当さ」だがその直後、拓司は声を低くし、視線に濃い影を落とした。「ただし、紗枝を傷つけるようなことは、絶対にするな。彼女に何かあったら、お前を生き地獄に突き落としてやる......わかったな?」鈴はなぜ拓司がそこまで紗枝を庇うのか、理解できなかった。だが、恐怖に駆られたように、すぐに首を縦に振った。「わかった!絶対に義姉さんには手出ししない、約束する!」「彼女は黒木家に曾孫を授けた大切な存在だ。俺もそこまで心が狭いわけじゃない」そう言ったあと、拓司は少し間を置き、さらに続けた。「これから奴らの周辺で何か動きがあれば、真っ先に俺に知らせろ」「はいっ!」鈴は即座に返事をした。まるで合格の印をもらった子供のように、嬉しさと安堵が混ざった表情を浮かべた。拓司の姿が廊下の奥に消えるまで、鈴は背中にかかっていた重苦しい圧力がふっと消えるのを感じた。ようやく深く息を吸い込み、彼が戻ってこないうちにと、足早にオフィスを後にした。タクシーに乗り込んだその瞬間、スマホの通知音が鳴った。画面に表示されたのは、たった一行のメッセージ。【紗枝さんは今、夏目家の旧宅に住んでいます】夢美からだった。紗枝が引っ越してからというもの、鈴はどこを探しても居所がつかめず、仕方なく夢美に頼ったのだった。桃洲に長く暮らしている夢美は、土地の事情にも紗枝の動向にも詳しい。住所を知った鈴は、運転手に向かうよう急かしながら、口元に確信めいた笑みを浮かべた。「私を振り切れるとでも思ってるの?甘いわね」夏目家・旧宅。紗枝は家に着くとすぐ、簡単に掃除を始めた。父が生前使っていた書斎に足を踏み入れた。机の一番下の引き出しを開け、記憶を頼りに手を伸ばすと、すぐに一枚の写真が見つかった。そこには、か
「行かない」啓司の声は平板で、感情の起伏を感じさせなかった。ちょうどそのとき、電話が鳴った。紗枝からかと一瞬思い、受話器を取ると聞こえてきたのは、鈴の甲高く甘えた声だった。「お兄さん?お義姉さんが牡丹別荘から出て行っちゃったから、私ひとりじゃつまらないの。お兄さんの世話をさせてよ。警備員に門を開けさせてくれない?」わざとらしい口調に、啓司は微塵も表情を動かさず、短く言った。「世話は要らない」そう言って電話を切ると、すぐにスマホを牧野へ差し出した。「ブロックしろ」「承知しました」牧野は手際よく操作を済ませた。その頃、入り江別荘の前にいた鈴は、再度かけ直しても話し中の音しか返ってこないことに苛立ちを募らせていた。紗枝が会社に行ったのではないかと思い、彼女は黒木グループへ向かった。だが到着してみると、受付から思いがけない一言を告げられた。紗枝はここ数日、休暇を取って出勤していない。「なによ......この女、勝手に休んで......!」紗枝のオフィスで、誰もいない空間に向かって、鈴は思わず悪態をついた。「......今なんて言った?」背後から声がして、鈴の体がびくりと震えた。振り返ると、そこにいたのは拓司。相変わらず端正な顔立ちに、にこやかな微笑を浮かべている。けれど、彼のその微笑みに、鈴は得体の知れない寒気を覚えた。「た、拓司さん......!別に、何も言ってないよ......ただ、お義姉さんが急にお休みなんて、ちょっと不思議だなって思っただけで......」慌てて取り繕う鈴に対し、拓司は一歩ずつ距離を詰めながら、口元に笑みを浮かべたままじっと見つめてくる。その視線だけで、鈴の背筋は凍りついた。世間が知っているのは、啓司の冷酷さばかり。だが、拓司の裏の顔その腹黒さと計算高さを知っている者は少ない。かつて幼い鈴が淡い恋心を抱いた彼に、恐怖を植えつけられたあの事件を、鈴は決して忘れられなかった。「最近ずっと、紗枝の世話をしていたんだろ?じゃあ、なぜ彼女が休んでいるのか知らないはずがない」淡々とした語調の中に、かすかな威圧が混ざる。鈴はうつむき、指先でスカートの裾をいじりながら、小声で答えた。「し、知らない......お義姉さん、昨日帰ってきたと思ったら、急に荷物まとめて出てい
牧野は紗枝の前まで歩み寄ると、どこか気まずそうな表情を浮かべながら口を開いた。「奥様、申し訳ありません。昨夜、社長から『花を用意しろ』と指示を受けまして......これらの花は、すべて私が手配したものです」紗枝がまだ何も言わぬうちに、隣にいた梓が目を見開き、思わず声を上げた。「わざとやってるの?私怨でやってるんでしょ!」その剣幕に牧野は少したじろぎながらも、彼女の方を向き、声を落とした。「梓ちゃん......そんなこと言わないでくれ。これも仕事なんだ」「仕事?こんなのがあなたの仕事?紗枝に白と黄色の花なんて、何を狙ってるのよ。誰を怒らせたいわけ?」梓はずっと、こんなひどい花束を大企業の社長が妻に贈るはずがないと信じていた。だが、今になってようやく気づいた。まさか自分の婚約者が、その花を用意した張本人だったなんて!いつも「啓司の右腕」だの、「首席秘書」だのと偉そうに言っていたくせに。「昨夜は遅くて、本当に眠気が限界だったから、部下に任せたんだ。まさか、こんな物を用意するなんて......」「また人のせい?」梓はすかさず言葉をかぶせた。その口調には、怒りというよりも呆れが混じっていた。「梓ちゃん、君は僕の彼女だよ」牧野はため息をついた。知り合って数日の紗枝に、ここまで肩入れするとは......一方で、紗枝はというと、怒りに満ちていたはずの心が、目の前で口論を繰り広げるバカップルのおかげで、すっかり冷めてしまっていた。「......誤解なら、いいわ」その一言に、牧野は胸をなでおろした。「すぐに花をすべて処分させます」「待って。全部捨てるなんてもったいないわ」紗枝は彼を制した。「花びらを摘んで、乾燥させて......夜、お風呂に入れるの。せっかくだから、そういう使い方にしましょう」「はい、承知しました」牧野は素直に頷いた。そのやり取りを見届けて、梓もようやく安心した表情を見せた。「紗枝、じゃあ私は仕事行ってくるね。夜、一緒にお風呂入ろう」「いってらっしゃい」紗枝は柔らかく微笑んで送り出した。「お風呂」という単語が耳に入った瞬間、牧野の脳裏に浮かんだのは、梓の入浴シーンだった。いけない、こんなこと考えてる場合じゃない。早く彼女をこっち側に戻さなければ。その思いが
「呪い......?何の話だ?」啓司には、まったく心当たりがなかった。もし本当に紗枝を殺そうとしているなら、こんなまどろっこしい方法を取るはずがない――そう、本気で思っていた。「自分で送った花、見たでしょ?家の前にずらっと並べて......白や黄色の花ばっかり。あれ、どう見ても呪ってるみたいじゃない!」紗枝の声はわずかに震えていた。妊娠中の情緒不安定のせいかもしれない。けれど、白や黄色の菊が死者を弔う花だということは、常識の範囲だ。啓司は何も言わず、無言のまま通話を切った。その画面を見た瞬間、紗枝の怒りはさらに燃え上がった。怒りを抑えながら、そばにいた梓に聞いた。「ねえ、私......考えすぎかな?」梓はきっぱりと首を振った。「そんなことないよ。ヒナギクなんて贈る人、いるわけないでしょ。ハクチョウゲならまだしも」「......そうよね。怒らないようにしなきゃ。怒ると赤ちゃんに悪いもの」紗枝は大きく深呼吸をした。鬱を患っていた頃、医者に言われた言葉がふと脳裏をよぎる。「怒るより、怒らせた方が精神的にいい」と。まずは逸之を学校に送ってから、改めて啓司に言いたいことを言おう。そう心に決めた。玄関を出ると、雷七がすでに車を準備して待っていた。逸之を後部座席に乗せ、紗枝はいくつか注意事項を伝える。出発前、逸之がそっと紗枝の手を握った。「パパは......きっと、わざとじゃないよ。だから、怒らないでね」「うん、大丈夫。ママ、ちゃんとわかってるから」紗枝は微笑みながら答えた。子どもにまで気を遣わせるようなこと、もう二度としたくなかった。逸之を見送ったあと、紗枝は改めて啓司に電話をかけた。今度はすぐに出た。「すぐに牧野が行く」啓司は先ほど、部下の牧野に連絡し、事情を聞いたうえで紗枝のもとへ向かわせていた。「牧野が来て......何するの?離婚協議書でも届けに来るの?」紗枝の声には、氷のような冷たさが宿っていた。「昨日のことは......誤解だった」啓司は一拍置き、言葉を続けた。「お前が妻として、ちゃんと子どもを育ててくれるなら......俺は離婚しない」その一言を聞いて、紗枝はようやく理解した。自分が、なぜあの頃、鬱になったのか。啓司は自分の過ちを、決して過ちとして認めない。
翌朝早く、紗枝は目を覚ますと、逸之と梓のために朝食を用意した。洗面を終えた梓がリビングに戻ってくると、テーブルいっぱいに朝ごはんが並んでいた。肉まん、海老入りの茶碗蒸し、味玉に焼き餃子。「紗枝、これ全部あなたが作ったの?」梓が目を輝かせてそう尋ねると、紗枝はにっこりとうなずいた。「うん、どうぞ、召し上がって」「うわぁ......美味しそう!私って本当に幸せ者だわ」梓はうきうきと椅子を引き、逸之が部屋から出てくるのを待って、三人で朝食を囲んだ。「私ね、毎朝起きられなくて、いつもコンビニで適当に買って済ませてるの。こうして誰かが朝ごはん作ってくれるなんて、夢みたい」豪邸に住んで、気の合う友達もできて、しかも美味しい朝食つき。梓は今、幸せの絶頂だった。「夜、帰ってきたら夕飯も作ってあげる」紗枝がにこやかに言うと、「やった!今日早めに仕事終わらせて帰るわ。私も手伝うから」と梓は笑顔で返した。紗枝も、かつては料理が苦手だった。でも、啓司の影響で少しずつ覚えていったのだ。彼が美味しそうに食べてくれる姿を見るだけで、満たされた気持ちになれた。今では、誰かに「美味しい」と言ってもらえるだけで嬉しくて、また作りたくなる。「ママ、梓さん、僕も手伝うよ」逸之も元気よく手を挙げた。「じゃあ、今夜はみんなで料理しましょ」紗枝は優しく笑った。家の中は和やかで、穏やかな時間が流れていた。まるで本当の家族のように、三人が並んで座って朝のひとときを楽しんでいた。そのとき、玄関のインターホンが鳴った。紗枝は立ち上がり、モニターを確認する。画面には、邸宅の前にずらりと並んだ数台の車の姿が映っていた。「ちょっと見てくるね」スリッパを履いて外へ出ると、梓と逸之もあとに続いた。門の外には、スポーツカーが何台も停まっていて、その車には小さな花が大量に積まれていた。少し離れた場所からその様子を見た逸之は、思わずつぶやいた。「......バカパパも、たまにはいいことするんだな」ボディーガードたちは揃いのスーツに身を包み、車のトランクから花束を降ろしては、邸宅の前に整然と並べていく。その光景は、どこか異様だった。「何してるの?」紗枝が近づいて尋ねると、「奥様、これは社長からの贈り物です」と、ボディーガードが恭しく答え