啓司は、はっとして突然手を離した。紗枝はすぐに手首を引き抜いて、さすりながら軽く揉んだ。彼がどれだけ力を込めていたのか分からないけれど、本当にちょっと痛い。立ち去ろうとした紗枝を、啓司はもう一度ベッドに押し戻した。「誰に教わったんだ?」声が少しかすれている。紗枝は呆れたような、それでいて半ば笑っているような表情で言った。「ただ頬にキスしただけでしょ。そんなの、わざわざ誰かに教わる必要なんてないわよ」啓司は表情こそ落ち着いて見えたが、紗枝は彼の耳たぶが真っ赤に染まっているのに気づいた。今にも血が出そうなほどだ。自分でもなぜか分からないまま、紗枝はそっと手を伸ばして彼の耳たぶに触れた。その瞬間、啓司はまた彼女の手首を掴んだ。でも、さっきとは違って力は強くなかった。「辰夫に教わったんじゃないのか?」と彼が訊いた。「自分で覚えたらダメなの?」紗枝は少しムッとした顔になった。何かあるたびに、すぐ辰夫のせいにする気?彼女は思い切って、今度は啓司のもう一方の頬にキスをした。「これで信じた?自分で覚えたのよ」啓司は冷たく笑ってみせた。「ってことは、俺の勘違いか。他に覚えたことがあるなら、見せてみろよ」啓司は顔をぐっと近づけて、紗枝にキスをしようとした。ちょうどそのとき、牧野が朝食を持って部屋に入ってきた。本当は部下に運ばせるつもりだったが、ついでに啓司の様子を見ようと、自分で来たのだった。運悪くドアは開いていて、そのまま中に入った牧野は、まさかの光景を目撃してしまった。「牧野さん!」紗枝は慌てて手で口を覆いながら、啓司を押しのけた。「牧野は今ごろ外国で商談中なんだろ?何をそんなに焦ってるんだよ」啓司は軽く言い返した。紗枝は呆れたように言った。「牧野さん、何か言ってやってくださいよ」牧野は仕方なく、低い声で咳払いした。「社長」その聞き慣れた声に、啓司はすぐに背筋を伸ばし、振り返った。「お前......M国に行かせたはずじゃ......?」と啓司が訊いた。牧野は一瞬固まったが、すぐに紗枝の意味ありげな目配せに気づいて、察した。また記憶が混乱している。でも、今はどこまで覚えているのか分からない。「社長、それは話せば長くなります。ゆっくりご説明します」牧野はそう言って
今回のキスは、ひときわ優しかった。しばらくして、啓司はさらに紗枝を引き寄せた。「知ってる?俺、辰夫に嫉妬してるんだ」その言葉に、紗枝はハッとした。「今になってやっとわかった。お前が、どれだけ大事な存在かって。あのときは、俺が間違ってた......もう一度、俺のそばに戻ってきてくれないか?」一滴の涙が、紗枝の肩に落ちた。まさか、あのいつも傲慢な啓司が泣いているなんて。信じられなかった。紗枝はそっと腕を伸ばし、彼を抱きしめた。「これは夢じゃないよ」――そう伝えることはしなかった。ただ静かに寄り添った。しばらくして、啓司はまた頭痛に襲われたのか、苦しそうに横になった。再び眠りについた彼を見つめながら、紗枝はそっと目元に手を伸ばした。まだ、少しだけ濡れていた。啓司が泣く姿を見るのは、これが初めてだった。彼も、本当に自分のことを大切に思ってくれてたんだ。そう実感したのも、初めてだった。喉の奥が苦くなって、紗枝はベッドのそばに座り込むと、そのままうつ伏せで眠ってしまった。目を覚ましたとき、紗枝は病院のベッドにいた。顔を横に向けると、部屋の端に立っている啓司の、細く長い後ろ姿が目に入った。タバコに火をつけて――まるで、昔の啓司に戻ったかのようだった。「......啓司」紗枝が声をかけると、彼は振り返ったが、視線はどこか宙を彷徨っていた。ゆっくりとこちらへ歩いてくる。「起きたか」「うん、大丈夫......?」「当たり前だ」その言葉に、紗枝は少しほっとした。この二日間の彼の様子を話そうとした矢先、啓司が唐突に言った。「お前、死んだはずだろ?地獄から戻ってきたのか?」紗枝はその場で固まった。この人、全然治ってないじゃない。「それはあんたの方でしょ......」紗枝は小さくぼやいた。啓司はそのまま紗枝の目の前まで来ると、目を細めて言った。「違うのか?死んだふりして楽しかったか?なんでそのまま死んでなかった?なんで戻ってきた?」昨夜の出来事は夢じゃなかった。啓司はそう確信していた。そして、自分の目が見えなくなっていることにも。紗枝が何か言おうとする前に、さらに畳みかけるように言った。「答えろ、俺に何をした!?」その必死さがどこか可笑しくて、紗枝は思わず笑ってしまっ
啓司は紗枝に寄りかかるようにして、腕の中に閉じ込めると、少しかすれた声で問いかけた。紗枝は戸惑いながら、「どういう意味?」と聞き返した。啓司は答えず、さらに顔を近づけ、大きな手で彼女の頬に触れた。手のひらに感じる温もりで、これが現実なのかを確かめようとしていた。「お前、死んでなかったのか?」彼の喉仏が微かに上下した。紗枝はますます混乱した表情を浮かべる。「私のこと嫌いでも、『死ね』なんて言わないでよ」「2年間、ずっとお前を探してたのに。夢にすら出てきてくれなかったじゃないか。なのに、どうして今日になって現れた?本当に死んでたのか?」啓司は彼女の説明など聞こうとせず、これが夢に違いないと決めつけていた。「人ってさ、死んだときにだけ夢に出てくるって言うだろ?だから、お前は本当に死んでたんじゃないのか?どうして、俺に一度も会いに来てくれなかった?」その時、突然停電が起き、病室が真っ暗になった。啓司はまだ自分が失明していることに気づいていない。一方で紗枝は、彼の言葉から記憶が少しずつ戻ってきていること、自分が行方不明になった後の2年間まで思い出していることに気づきはじめていた。「啓司......あなた、目が――」そう言いかけた瞬間、啓司は彼女の顔を両手で包み込み、そのまま強引にキスをしてきた。紗枝は一瞬、思考が真っ白になり、反応する間もなく、啓司の手が彼女の服にかかる。「け、啓司......!」紗枝はタイミングを見計らって彼の肩を強く叩き、いったん止まって話を聞いてほしいと訴えた。だが、啓司はその声に応じようとしなかった。紗枝は心の中で、今日はもう逃げられないんだと覚悟した。ちょうどそのとき、「キーッ」という扉の音とともに、全ての明かりが一斉に点灯した。そして、白衣を着た澤村が入口に立ち、今の一部始終を目撃していた。目を丸くした澤村は、軽く咳払いをした。「ごめん、邪魔しちゃって」心の中では「えっ、啓司って記憶喪失じゃなかったの?なんでこんなことに......?」と混乱していた。澤村はそのまま立ち去りながら、きちんとドアを閉めた。病室には彼らしかいないとはいえ、万が一他の医者が通りかかるかもしれないからだ。啓司も誰かが入ってきたことに気づき、ようやく紗枝を解放した。紗枝はすぐにその腕から抜け出
唯は口ではああ言っていたけど、実際のところ、新しい仕事の方向性が見えてきたことにホッとしていた。お金に困ってるわけじゃないけど、自分で稼ぐってやっぱり安心感があるのだ。彼女の頭には、かつての恋人・花城の皮肉が今でも残っていた。「金持ちの家に生まれてなかったら、お前、何ができるんだ?」今の自分の収入を見せたら、きっと花城が弁護士として稼いでる額の何十倍にもなるだろう。「ねぇ唯、澤村家ではうまくやってる? 花城からまた連絡きたりしてない?」と紗枝が聞いた。この前、花城と澤村が喧嘩してたのを、紗枝はしっかり覚えている。唯はどこか余裕を漂わせながら答えた。「ちゃんとやってるよ。花城?何回か電話してきたよ」深く息を吸い込んでから、唯はぽつりぽつりと話し始めた。「紗枝は知らないでしょ。あの人、ほんと変なんだから。電話のたびに、『澤村家とは関わるな』とか『澤村とは絶対結婚するな』とか言ってくるの。澤村はろくな奴じゃないってさ」そんな話を思い出すと、唯はもう呆れるしかなかった。「自分は結婚してるくせにさ、人の結婚相手にまで口出すとか、意味わかんないよね」紗枝も思わず首を振って、真剣な表情で唯に忠告した。「唯、澤村家の長老たちが問題ないとしても、結婚のことはちゃんと考えなよ。後悔しないようにね」澤村は気分にムラがあって、気に入らない人にはとことん冷たくなるタイプだ。今は唯に優しくしてるけど、紗枝はどこか引っかかるものを感じていた。「大丈夫、ちゃんと分かってるよ。澤村お爺さんにも言ったの。一年間は一緒に過ごしてみて、それから考えるって」唯は淡々と続けた。「それに澤村とも約束してあるの。一年後、もしお互い何の感情もなかったら、おじいちゃんにちゃんと伝えて、完全に諦めてもらおうって」「そっか、分かった」唯の話を聞き終えて、紗枝はやっと少し安心したようだった。「もうこんな時間だし、今日は帰るね。明日また来るから、そのときはノートパソコン持ってくるよ。じゃないと景ちゃんにまた仕事チェックされちゃうから」唯はため息まじりに言った。子どもなのに、上司よりしっかりしてるんだから。「うん」紗枝は静かに頷いた。彼女は唯を病院の入口まで見送り、唯が車に乗るのを見届けると、中へ戻った。この階には啓司だけが入院していて
唯はしばらくぼんやりしてから、ベッドに横たわる整った顔立ちの男性を振り返った。啓司は、もう寝言を言っていなかった。彼女は深く息を吸い込み、からかうように言った。「社長の頭って、普通の人とはちょっと違うんじゃない?」その言葉に紗枝も思わず笑ってしまい、「たぶんね。普段は記憶力バツグンで、一度見たものは絶対に忘れないくらいなのに、そんな人が記憶喪失になるなんて、信じられないよ」と答えた。二人は啓司のすぐそばで、まるで彼がそこにいないかのように、遠慮なくあれこれ言い合っていた。やがて食事の時間になっても、啓司はまだ目を覚まさなかった。牧野は気を利かせて、紗枝に何を食べたいかを聞くために人を遣わせた。「火鍋とザリガニと蟹が食べたい!」唯は遠慮なくリクエストした。紗枝は妊娠中で、ここ最近ずっと食事に気をつけていたため、こういった味の濃い料理はずっと控えていた。来たスタッフに向かって、「友達のリクエスト通りにお願いします。ただし、火鍋は仕切りがあるお鍋で。それから、私の栄養食もいつも通り用意してくださいね」と指示した。お腹の赤ちゃんのことは、どうしても気を配らなければならない。「あっ、そうだ!すっかり忘れてた。あなた妊娠中だったよね!」唯は自分のおでこをポンと軽く叩いた。「大丈夫だよ。私も火鍋もザリガニも蟹も、ずっと食べてなかったから、今日はちょっとだけ食べるつもり」紗枝はにっこりと笑って言った。「ならよかった」しばらくして、二人が注文した料理が運ばれてきた。啓司が滞在しているのは広々としたVIP病室で、リビングやダイニングも完備されていた。ただ、どれだけ部屋が広くても、食欲をそそる香りは寝室まで漂ってきて、啓司の眠りを浅くさせた。彼の頭の中には「牧野を呼び出して、『なんでオフィスにこんな強烈な匂いがするんだ?』って聞いてやりたい」って気持ちが渦巻いていた。唯と一緒にいると、紗枝は時間があっという間に過ぎていくように感じた。二人はおしゃべりを楽しみながら過ごし、外はだんだんと暗くなっていった。その時、唯のスマホに景之から電話がかかってきた。「唯おばさん、なんで電話出るの遅いの?僕が家にいないからって、サボってるんじゃないでしょうね?」彼は唯が紗枝に会いに来ていることを知らなかった。「景ちゃん、こっちは最近バタバ
銀灰色のビジネスカーが玄関に停まった。しばらくして、紗枝が啓司を支えながら降りてきて、牧野がそのすぐ後ろについていた。「啓司さん、お義姉さん......これ、マジでどういう状況だよ?」澤村の声には焦りがにじんでいたが、「お義姉さん」という言葉が、啓司の耳に妙に引っかかった。澤村なんて、前はずっと紗枝のことを「耳が遠いやつ」なんて呼んで、あんなに嫌ってたくせに。今さら「お義姉さん」なんて呼び方、何を気取ってるんだか。「話すと長くなるの。詳しくは牧野さんに聞いて」紗枝の澤村に対する態度は、相変わらず冷ややかだった。でも澤村はそれを気にする様子もなく、まず二人を中に案内してから、牧野に事情を尋ねた。牧野は、一から十まで、これまでの経緯を丁寧に説明した。「睦月のやつ、命が惜しくないのか?」澤村は吐き捨てるように言い、目には明らかな怒りが宿っていた。「神楽坂家の連中なんて、みんな気が小さいと思ってたのに。啓司さんに手を出すなんて、どうかしてるだろ」牧野も、まさかの展開に驚きを隠せなかった。これまで神楽坂家はずっと低姿勢だったからだ。「啓司さんの担当医はもう手配しといたから。俺、ちょっと出かけてくるわ」澤村がそう言って立ち上がると、牧野が慌てて彼を引き止めた。「澤村さん、社長が完全に回復されるまで、何事も慎重に動いた方がいいかと」この状況でじっとしていられるような性格ではない澤村に向かって、牧野はさらに一言付け加えた。「睦月と辰夫は、夫人のご友人でもありますから」その言葉を聞いて、澤村は珍しく冷静さを取り戻した。「......じゃあ、啓司さんが回復されるまで待つよ」牧野は驚いた。あの啓司の言葉しか耳に入らない澤村家の御曹司が、こんなにあっさり引き下がるなんて。啓司が検査に回されている間、紗枝たちは外で待機していた。啓司の状態を完全に把握した澤村は、ふと口を開いた。「前に、海外の神経科の専門家がこういうケースの話をしてたことがある。でも、その人の記憶は永久に戻らなかったらしい」「その患者さん、結局治療はできたんですか?」と紗枝が尋ねた。澤村は静かに首を振った。「今の医療じゃ、この現象の原因をはっきり突き止めるのは難しいらしい」昼になっても検査は続き、ようやく終わったころには、啓司は完全に疲れ切