しかし次の瞬間、店員の予想とはまったく違う展開が待っていた――知波はそのまま敏子のそばに歩み寄り、じっと上下に目を走らせたあと、穏やかに言った。「このワンピース、あなたにとても似合ってるわ」知波自身もこのドレスを試してみたが、まあ悪くはない――そんな程度だった。けれど、目の前の女性が身にまとっているのを見ると、明らかに、彼女のほうがよく映えている。サイズが合っているというだけではない。何より、そのドレスが持つ雰囲気と、敏子自身の持つ気配がぴたりと噛み合っていた。知波の雰囲気は、どこか硬質で、角が立ちやすい。柔らかさや温かみには、少し欠けている。だが、敏子は違った。優しげな輪郭、穏やかな笑み。目元も柔らかく、人に安心感を与える顔立ちだった。誰からも嫌われないようなタイプの顔だ。もっとも、そんな優しげな女性は、知波にとって苦手な部類だった。たとえば、義姉の真白。あるいは、先日お茶会で出会った、あの雨宮先生――だが目の前の敏子は、そんな知波にとっても、なぜか妙に目に心地よかった。店員は横で何か言いたげに口を開きかけては閉じ、その繰り返し。その様子を見て、観察眼の鋭い敏子はすぐに状況を察した。そして、ごく自然に知波に微笑みかけた。「そう?ありがとう」にこやかに礼を言いながら、手元にあった別のワンピースを軽く持ち上げて見せる。「あなたはナチュラルな体型だから、こちらのスタイルの方が似合うと思います。よかったら試してみては?」知波の体型はやや砂時計型で、上半身にボリュームがありつつも、ウエストはきゅっと引き締まっている。だからこそ、本来はウエストラインをしっかりと見せるデザインの方が、知波の美しさを引き立てる。今知波が着ているドレスも、生地や仕立ては申し分ない。だが、ウエストが曖昧な分、せっかくのプロポーションが活かされず、どこか野暮ったく見えてしまっていた。一方、敏子が勧めたドレスも黒だったが、細見え効果は抜群で、ウエストを引き締めるシルエットに加え、裾にかけて魚の尾のように広がるハイウエストデザインがどこか余裕を感じさせる。黒の持つかたさを、柔らかく、そして上品に緩和する――そんな絶妙なバランスを持つ一着だった。知波は軽い気持ちで試着してみたのだったが、鏡の前に立った瞬間、その効果に思わず息をのんだ。全身鏡
雨宮家の男の遺伝子は伊達じゃない。慎吾は背が高く、骨格もしっかりしていて、中年に差しかかった今も体型は崩れていない。何着かスーツを試着してみたが、どれもよく似合っていた。「敏子、どのスーツがいいと思う?」慎吾が敏子に尋ねると、隣で見ていた凛も自然と母の顔を見た。敏子は少し考えてから答えた。「どれも似合ってるわ」「じゃあ、どれにする?」「選ぶ必要ないわ。全部買いましょう」敏子は言った。「!」「いやいや、それはダメだって。これ全部でいくらかかるんだよ?一着あれば十分だよ、家にもまだあるし」そう言いながら焦る慎吾をよそに、敏子はすでにバッグからカードを取り出し、さらりと店員に手渡していた。「この3着、お願いします」「お買い上げ、ありがとうございます!」店員はにこにこと満面の笑みで、さっそく会計へと向かっていった。慎吾は、まるで恥ずかしがる新妻のように、そっと敏子の袖を引っぱった。「敏子、これは高すぎるよ……一着だけでも十万円ほどするんだぞ……」「大丈夫、私が買ってあげる」敏子は穏やかで優しい声で言った。「昨日ちょうど印税が入ってきて、300万もあったのよ」「そ、そんなに?」慎吾は目を丸くして驚いた。「ええ~」「俺の嫁、すごいな!」その一言に、敏子の頬がほんのりと赤く染まった。「コホン!」凛がわざとらしく咳払いをした。自分もいるってこと、忘れてませんか?二人とも、ちょっとは自重していただけます?慎吾は試着も早ければ、購入も即決。その潔さは見事だったが――一方の敏子はというと、2階の婦人服売り場で何軒も見て回っていたものの、どうにも満足できる服には出会えていない様子だった。中には、見るなり即却下するものもあり、試着する気すら起きないといった様子。そのとき、凛の頭にふとひとつのブランド名が浮かんだ。フランスの小さなブランドで、知名度はほとんどない。あまりにもマイナーなせいで、店舗の場所もかなりわかりづらく、エレベーターから遠く離れた角の奥まった場所にひっそりとある。しかし、服は確かに素敵だった。敏子が店内に足を踏み入れた瞬間、その目がぱっと輝いた。凛が横から選んであげる必要はなかった。敏子には自分の好みも、しっかりとした審美眼もある。まず手に取ったのは、オレンジと青、色違いの二着のワンピ
亜希子は男の去っていく背中をじっと見つめていた。今日になってようやく気づいた。あの車はポルシェ、身につけているのはアルマーニのオーダースーツ、手首にはパテックフィリップの腕時計――視線を落とし、手に持ったケーキを見つめた。そのまなざしは、どこか奥深いものに変わっていた。一方その頃、凛が学校に姿を見せなかったのは、敏子の買い物に付き合っていたからだった。専門科目の先生には事前に休みを申し出ており、幸いなことに今日は特別な新しい内容はなく、先週のグループ課題のまとめ発表だけだった。これなら早苗と学而でも十分対応できると判断され、先生も快く許可してくれた。明日はサイン会。ここ数年、敏子はこうした正式な場にほとんど顔を出していなかった。敏子はクローゼットを開けて何着か手に取ってみたが、どうにも決まらない。着られないわけじゃない。ただ――どれも何かが足りない気がしてしまうのだった。慎吾はまっすぐな目で言った。「敏子は何を着てもきれいだよ、本当に!」けれど、敏子はいつものようにその一言で笑うことはなかった。凛はすぐに気づいて声をかけた。「お母さん、新しいの買いに行こう!帝都には大きなデパートがたくさんあるから、きっと気に入るのが見つかるよ!」敏子の目がぱっと輝いた。「いいわね、行こう!」慎吾はぽりぽりと頭をかきながら、きょとんとした。なんでだ?さっきの全力の褒め言葉、今日はまったく効いてないんだけど?……SKPデパート。三人は観光エレベーターに乗って上階へ向かっていた。ガラス越しに見える1階の高級ブランド店がだんだん視界から遠ざかり、やがて全体のフロアレイアウトが一望できるようになる。その様子に、敏子は思わず声を上げた。「このデパート、すごく大きいわ!」衣類は2階と3階にあったが、エレベーターの階数ボタンを押すのが遅れ、そのまま4階まで運ばれてしまった。そのとき、少し離れた場所にあった書棚のポスターに敏子の視線が引き寄せられた。一家三人は予定を変え、そのまま4階で降りることにした。店舗の上にはSKPRENDEZ-VOUSという看板が掲げられている。一見すると書店のようだが、どこか普通の書店とは違っていた。ここは、書店とカフェ、軽食スペースが融合したスタイルの複合店舗だった。入り口はカフェになっており、空
「それならまあまあ。早く言ってくれればよかったのに〜」そう言って、早苗は学而の腕にしっかりと手を回し、嬉しそうに校門の外へと駆け出した。学而は一瞬ぎこちない表情になり、腕を引こうとした。すると早苗がすかさず引き止めた。「もう、照れないの!私たち、仲良しの姉妹じゃん!」そう言いながら、そのまま小走りになる。「……!」引っ張っても離れない。なんでこんなに力が強いんだ……?二人がちょうど校門を出たそのときだった。向かい側からスポーツカーが止まり、海斗がドアを開けて降りてきた。手にはホールケーキの箱を提げている。……っ。早苗は眉をひそめた。「なんであの人、毎回校門の前に車停めるの?交通渋滞になるって思わないのかな」学而は少し考えてから言った。「……多分、それがかっこいいと思ってるんだろう」「どこがかっこいいのよ?ポルシェのドア開けて降りてきて、みんなの注目集めるところ?」「……まあ、そんな感じ?」早苗は目を丸くした。「えっ、学而もそう思ってるの?」学而は首を横に振った。「うちは、メルセデス・ベンツが一番かっこいいって思ってる」「私と父さん、それに村のおじさんたちは、レクサスこそが一番って意見一致してるけどね」つまり――「じゃあ、なんであの人、いつもポルシェなんだろう?」二人は顔を見合わせたが、答えは見つからなかった。でも……「彼が持ってるケーキ、めちゃくちゃ美味しそうなんだけど」早苗がそう言いながら喉を鳴らすのを見て、学而は言葉なく視線を向けた。「……」海斗は、何度か校門で凛を待ち伏せするうち、彼女がいつも早苗と学而と一緒にいることに気づいていた。回数を重ねるうちに、二人の顔も自然と覚えてしまっていた。海斗は迷いなく近づいてきて、問いかけた。「凛は?今日は見かけてないけど」早苗は率直に答えた。「凛さんはいないよ」「どこに行ったの?」「休みを取った」「……何のために?」「それは私たちにも分からないよ」早苗は言った。海斗は眉をひそめ、さらに何か聞こうとしたが――早苗はすでに学而の腕を引っ張っていた。「ちょっと用事あるから、先に失礼するね」空振りだった。スーツ姿のまま、小さなミニオンがプリントされたケーキ箱を手に、海斗は人通りの多い大学の正門に立ち尽くしてい
「先生、大丈夫ですか?」凛の声に、陽一はようやくはっと我に返った。「……はい」「ありがとうございます」陽一はもう一度、凛の腰元に視線を落とした。艶めかしい感情があったわけではない。ただ――あまりにも痩せすぎだ。ちゃんと食事してないんじゃないか?……海斗は化粧台の前に座ったまま、昼から夕暮れ、そして夜が明けるまで動かなかった。眠りたくないのではない。眠れなかったのだ。脳は疲れを知らず、過去を際限なく思い返し続けていた。二人で過ごした甘く幸せなひとときも、そして、自分が最低だった数々の瞬間も。空がほのかに明るみ始めるころ、海斗はようやく記憶の泥沼から抜け出した。朝の八時は、ちょうど通勤ラッシュの真っ只中だった。海斗は清潔な服に着替え、車を走らせて北川通りで一番人気のスイーツ店へ向かった。普段なら三十分で着く距離だったが、今日は丸一時間もかかった。「マンゴークレープを一つ」店員は一瞬驚いたようにしてから尋ねた。「ホールですか?それともカットですか?」「ホールで」「運がいいですね。ちょうど今、一台焼き上がったばかりで、これからカットするところだったんです。あと二分遅れてたら、次の焼き上がりまでお待ちいただくところでした」海斗は軽くうなずいた。店員はケーキを包みながら、何気なく話しかけた。「朝からケーキなんて、急ぎですか?」「元カノが好きだった」その短い一言、若い店員の脳裏には一冊の恋愛小説が広がっていった。ただ、誰が主人公で、誰が脇役なのかはわからない。海斗はそれ以上話す気もなく、ケーキを受け取ると車に乗ってそのまま店を後にした。カウンターに立っていた店員は、ガラス越しに走り去る車を見てつぶやいた。「へえ……スポーツカーか……」ますます小説のような話だった。……午前中の二コマの授業が終わり、早苗と学而は実験室へ向かおうとしていた。教室棟を出たとたん、早苗が口をとがらせた。「ちょっと喉渇いたな」学而は黙ったまま。彼の無口にはとっくに慣れていたので、早苗は返事を期待せずに一人で続けた。「ねえ、学校の外で飲み物買ってから実験室に行かない?何飲みたい?私がおごるよ!」「……」またか、と言いたげな沈黙。でも返事がなくたって意味はない。どうせ早苗は
粉々になった。慎吾が陽一に示した熱意と、彼に対する冷たい態度の対比は、あまりにも明白だった。その後の会話は、もう海斗の耳には届かなかった。彼はすでに二階分、階段を下りていた。かすかに、ドアの閉まる音が背後から響く。きっと、陽一が凛の家へ入ったのだろう。海斗は、渡すことのできなかった贈り物の袋を抱えたまま、別荘へと戻った。田中はすでに掃除を終えて帰っていた。家には誰もおらず、凛が去った時の寂しさが戻ってきた。彼は階段を上がり、主寝室に入った。ベッドの足元に置かれたドレッサーは、長い間手つかずのまま。その上には、使いかけのスキンケア用品がいくつか並んでいた。けれど、それらの持ち主はもう、二度と戻ってこない。まるで彼女自身が、それらも、自分も――もう必要としていないかのように。海斗はそっと、下の引き出しに手を伸ばした。そこには以前、小切手と土地の譲渡契約書、そしてダイヤモンドのブレスレットが入っていた。いくつかの小さなダイヤモンドが、射手座の星座を形作るように並んでいた。それは、凛が22歳の誕生日を迎えた年のことだった。海斗は、有名デザイナーのジョン・スミスに特別に依頼し、凛一人のためだけにブレスレットをデザインさせた。込められた意味は――「彼の人生における、永遠の星」サプライズにしようと、海斗はわざと凛と喧嘩をした。電話にも出ず、LINEもブロックして、わざと冷たく突き放した。そして誕生日当日の深夜0時、そのブレスレットを手にして、海斗はB大学の正門に現れた。全ては、凛にとって一番の「不意打ちの贈り物」にするためだった。凛は確かに、それを受け取ってくれた。二人は誤解も解けて、元通り仲直りもした。けれど、凛はなぜか、あまり嬉しそうではなかった。その後、凛がそのブレスレットを身につけている姿を、何度か見かけた。しかし、まるで何かの呪いにかかったように、凛がこのブレスレットを着けるたびに、二人は大喧嘩をした。その後、凛はブレスレットをそっと引き出しにしまい込み、もう二度と身につけることはなかった。「カイ……喧嘩なんてしたくない。本当に、したくないの。喧嘩するたびに、私たちの気持ちが少しずつ離れていく気がするの。あなたとも、どんどん遠くなっていく気がして……」あの時、凛は椅子に腰を下ろし、真剣な表情