そして、夜が明けた。
イング隊側から開戦を告げる鏑矢が放たれたにも関わらず、蒼の隊は沈黙を保っている。 イング隊の弓兵隊が矢を射かけても、反撃する素振りすら見せない。 隊列を保ったまま、ただそこにいるだけである。 誰もが妙だと思った。 同時に、何かとんでもない作戦があるのではないかと疑った。 結果、前線を任されているイング隊参謀は、すぐさま後方に控えているロンドベルトに、どう出るべきかうかがいを立てた。 「参謀殿は、混乱されているようですが……」 報告を受け、ヘラはロンドベルトに向き直る。 一方のロンドベルトは、幾度となく最前線を『見よう』としていたが、いずれも失敗に終わった。 おそらくは、突如として参戦した無紋の勇者こと自称不良神官の青年が、蒼の隊全体に何らかの小細工を仕掛けているのだろう。 相手の手の内が見えぬ以上、下手に動けば墓穴を掘る。 何より、自らの目を封じられた以上、離れた場所からでは的確な指示を出すことができない。 おもむろに立ち上がり、歩みだそうとするロンドベルトを、ヘラは必死に押しとどめた。 「いけません。今閣下が出ては、みすみす敵の罠にかかりに行くようなものです」 珍しくロンドベルトの顔には、焦りといらだちが混じり合った表情が浮かんでいる。 けれど辛うじてそれを押さえ込み鋭く舌打ちすると、彼は伝令に告げた。 「参謀に伝えよ。決してこちらから討って出るな。挑発してでも相手から動くように仕向けろ。後は一網打尽だ」 深く一礼すると、伝令は命令を伝えるべく前線へと走り去る。 その後ろ姿を見送りながら、ロンドベルトは低くつぶやいた。 「見えないというのは、もどかしいな。手を伸ばしても届かない。霧の中で足掻いているようだ」 その言葉を受けて、ヘラは思わず苦笑を浮かべる。 そして、何事かと首をかしげるロンドベルトに向かい言った。 「閣下は本来ならば見えないものまで見ておしまいになるんです。多少見えないくらいの方がよろしい周囲を一望できる、かつて城壁だったであろう石垣の上にシエルは立っていた。 そう、敵の精鋭部隊に襲われているミレダ達と再会した場所だ。 足元にはあの時彼自身やユノーが斬り伏せた死体が、今なお転がっている。 眼下の両軍が激しくぶつかっていた平原には、敵ばかりでなく味方の遺骸が手付かずのまま何体も放置されていた。 それらに視線をめぐらせると、シエルは目を閉じ中空に両の手をかざし、静かに祈りの言葉を唱え始める。 独特の旋律を持つ祈りを、唄うように。 そして、最後の一句を唱え終えた時、そこかしこから無数の光の玉が生まれ、天に向かって昇っていく。 それを見送ったシエルは、後方に倒れ込むように腰をつき、そのまま両膝に顔をうずめ、力無くうずくまっていた。 しかし……。「祈りを捧げる貴方の顔には、憐れみの表情は浮かんでいませんでしたよ」 どこからか、皮肉混じりの声が聞こえてくる。 いつの間にかシエルの背後には、黒衣の死神がたたずんでいた。 けれど、シエルは顔も上げずに言い返す。「……のぞき見か。死神殿は本当に立派な趣味をお持ちだな」 シエルの精一杯の反撃にもだがロンドベルトは痛手を受けたようでもなく、いつもの斜に構えた笑みを浮かべる。 そのまま歩を進めシエルの横に立ち、おもむろに口を開いた。「私は見えざるものを信じていません。が、配下の者がそれにすがろうという気持ちは、今多少なりともわかったような気がします」 もっとも私自身は未だ信じるには至りませんが、と笑うロンドベルト。 その時、ようやくシエルは顔を上げた。「それより、こんな所まで何の用で?」 まさか無駄話をするためだけに来た訳ではないだろう。 そう言うように向けられてくる藍色の瞳に、ロンドベルトは声を立てずに笑った。「少々おうかがいしたいことがありまして」「…&h
「何だ……?」 違和感を覚えたのか、シエルは何故か視線をめぐらせる。 ほぼ同時に、両軍から停戦を告げる角笛が鳴り響いていた。 「……どうして?」 突然のことに、疑問の色を隠せないシエル。 その思考をさえぎったのは、ロンドベルトの叫び声だった。 「副官⁉」 見ると、先刻まで恐怖と戦いながらシエルと対峙していたヘラが、糸の切れた人形のように大地へと崩れ落ちるところだった。 かたわらにひざまずき、珍しく色を失うロンドベルト。 シエルはそんな両者をしばし眺めていたが、何を思ったか剣を鞘に収め、ゆっくりと歩み寄る。 そして、ロンドベルトの正面に膝を付き、ヘラの額に手をかざす。 その口からは、何時しか静かな祈りの言葉が紡がれていた。 「……汝に平安あれ」 祈りが終わると同時に、ヘラのまぶたがぴくりと動く。 それを確認すると、シエルは無言のまま立ち上がり、振り向きざまに言った 「……達成率が低いから時間はかかるけど、しばらくしたら目が覚める」 そして、何かを言いたげなロンドベルトから逃れるようにして、その場を足早に立ち去った。 ※ シエルが本陣に戻ると、そこは異様な雰囲気に包まれていた。 一体何があったのか。 状況がつかめずにいるシエルを出迎えたミレダは、開口一番こう言った。 「……大丈夫なのか? お前、血まみれじゃないか。まさか、どこかに怪我をしたんじゃ……?」 不安げに向けられる眼差しに、シエルは無言で首を左右に振る。 ミレダは安堵の表情を浮かべるも、今度はユノーが問いかける。 「とりあえずご無事で何よりです。それで……その、大変失礼ですが、トーループ将軍はいかがなさいました?」 再びシエルは首を左右に振り、小さな声で撃ちもらした、とつぶやく。 と、ミレダとユノーは、ほぼ同時に心底ほっとしたように吐息をもらした。 「……俺がしくじ
戦況は一向に変わらない。 蒼の隊はまったく動く気配はなく、こちらも攻めあぐねている。 変わりばえのしない前線からの報告を受けるたび、ロンドベルトはいら立ちを募らせる。 不安げにその様子をうかがうヘラを気にかける余裕も無いようだった。 卓の上に広げられた地図に手をかざし、幾度となくその場を『見よう』とするのだが、千里眼と称されたその視界は開けることは無かった。 不意にロンドベルトは卓に両手を付き立ち上がる。 その顔には、珍しく怒りの表情が浮かんでいた。 「閣下、いかがなさいました?」 表情そのままの不安げな声で尋ねるヘラに、ロンドベルトは光を映さぬ瞳を向ける。 そして、内心の怒りをかみ殺すように言った。 「……馬を。本隊全てを投入して、敵を殲滅する」 「何をおっしゃられるんですか、閣下? それでは……」 「私が受けた命令は、敵を討ち果たし勝利することだ。いかにあの御仁が罠を張ろうとも、それは言い訳にならない」 「いけません! それでは……」 ヘラの言葉は、突然の叫び声で遮られた。 何事かと両者は顔を見合わせる。 程なくして、負傷した兵士が一人、転がるように駆け込んできた。 「何事だ⁉」 ロンドベルトの怒号に、兵士はその場に思わずひれ伏す。 そして、顔を上げることなく震える声で告げた。 「て……敵襲! すでに最終防衛線まで突破されています!」 色を失うヘラ。 ロンドベルトはそんな副官を守るようにその前に立ち、更に兵士に問う。 「敵は何人だ? どこから攻めてきた?」 「部隊後方から突如攻撃してきました! その数は……」 その時だった。 ごく至近から鬨の声が上がる。 剣のぶつかる音が響く。 やがて、断末魔の悲鳴と共に、人間が大地に崩れ落ちる音が聞こえてくる。 遂に来たか。 ロンドベルトは自らの剣に手をかける。
そして、夜が明けた。 イング隊側から開戦を告げる鏑矢が放たれたにも関わらず、蒼の隊は沈黙を保っている。 イング隊の弓兵隊が矢を射かけても、反撃する素振りすら見せない。 隊列を保ったまま、ただそこにいるだけである。 誰もが妙だと思った。 同時に、何かとんでもない作戦があるのではないかと疑った。 結果、前線を任されているイング隊参謀は、すぐさま後方に控えているロンドベルトに、どう出るべきかうかがいを立てた。 「参謀殿は、混乱されているようですが……」 報告を受け、ヘラはロンドベルトに向き直る。 一方のロンドベルトは、幾度となく最前線を『見よう』としていたが、いずれも失敗に終わった。 おそらくは、突如として参戦した無紋の勇者こと自称不良神官の青年が、蒼の隊全体に何らかの小細工を仕掛けているのだろう。 相手の手の内が見えぬ以上、下手に動けば墓穴を掘る。 何より、自らの目を封じられた以上、離れた場所からでは的確な指示を出すことができない。 おもむろに立ち上がり、歩みだそうとするロンドベルトを、ヘラは必死に押しとどめた。 「いけません。今閣下が出ては、みすみす敵の罠にかかりに行くようなものです」 珍しくロンドベルトの顔には、焦りといらだちが混じり合った表情が浮かんでいる。 けれど辛うじてそれを押さえ込み鋭く舌打ちすると、彼は伝令に告げた。 「参謀に伝えよ。決してこちらから討って出るな。挑発してでも相手から動くように仕向けろ。後は一網打尽だ」 深く一礼すると、伝令は命令を伝えるべく前線へと走り去る。 その後ろ姿を見送りながら、ロンドベルトは低くつぶやいた。 「見えないというのは、もどかしいな。手を伸ばしても届かない。霧の中で足掻いているようだ」 その言葉を受けて、ヘラは思わず苦笑を浮かべる。 そして、何事かと首をかしげるロンドベルトに向かい言った。 「閣下は本来ならば見えないものまで見ておしまいになるんです。多少見えないくらいの方がよろしい
「さっきも言った通り、殿下とロンダート卿二人の許可が降りなければ、俺一人で強行するつもりはさらさら無い。けれど、このままにらみ合いを続けていたんじゃどうあがいても戦況は好転しない」 夜が明けるたびに小競り合いを起こしていても、じわじわと数を削り取られていくだけだ。 かと言って正攻法で正面からぶつかっても、これだけの兵力差では到底勝ち目はない。 下手に抵抗して敵の逆鱗に触れるよりは、戦うふりをしつつ退くのが一番利口なのかもしれない。 シエルは面白くなさそうに頬杖をつきながらそううそぶく。 確かにシエルの言うとおりだった。 だがユノーは寂しげに首を横に振る。「それでは、殿下をお守りすることはできません。皇都にどうにか戻れたとしても、結局敗戦の責任を負わされて……」 言いさして、ユノーは口をつぐむ。 そして、おもむろに立ち上がると、一同に向かい深々と頭を下げる。「本当に、申し訳ありません。小官にそのすべてを負えるだけの家柄なり戦歴があれば、自分一人の首で済んだものを、殿下まで巻き込んでしまって……」 だが、ミレダはわずかに目を伏せ頭を揺らした。「ロンダート卿のせいじゃない。宰相と姉上の狙いは、最初から私の命だ。巻き込んだのはむしろ私の方だ」「ですが……」 更に何か言おうとするユノーを、ミレダは軽く手を上げてさえぎり無言で座るよううながした。 納得が行かない様子のユノーは、だがその命に従い吐息と共に腰を下ろす。 それを確認してから、改めてミレダは全幅の信頼を寄せている神官騎士に向き直ると、こう問うた。「お前がことを成すまで、だいたいどのくらいの時間がかかる?」 その言葉に、ただ一人を除いてその場の人々は一様に驚きの表情を浮かべる。 同時に、天幕の中には言い難い空気が流れる。 一方で問われた側は、つまらなそうな面持ちで頬杖を付いたまま
ランスグレンでは、にらみ合いが続いていた。 いや、正確に言えば互いに牽制しあい、膠着状態に陥っていた。 そんな夜、ルウツ側では軍議が行われることとなった。 雑務を終えたユノーが本陣にたどり着いた時、既に主な面々は出そろっていた。 すなわち、総大将のミレダ、蒼の隊からシグマと各分隊長、参戦を許される形となった朱の隊の中隊長、そして斥候隊長ペドロ。 いつものように末席に着こうとしたユノーだったが、そこには既に先客がいた。 言うまでもなく、突然乱入してきた神官騎士である。 空いている席は、ミレダの隣……つまり上座しかない。 どうしたものかと立ち尽くすユノーに、いらだち混じりのミレダの声が飛んだ。「いいから早く来い。この際、どこでもいいじゃないか」 そう言われてしまっては仕方がない。 ユノーは恐縮するように居並ぶ人々に頭を下げながら進み、渋々上座へ着いた。 ちら、とその様子を横目で見やってから、ミレダはおもむろに口を開く。「……皆の犠牲と頑張りのお陰で、私はこうして命をつなぐことができている。心より礼を言う」 言い終えてミレダは立ち上がり、と頭を垂れる。 朱の隊中隊長はあわてふためき、シグマは水臭いことは言わないでください、と声をかける。 ペドロは神妙な面持ちで、末席の神官騎士は面白く無さそうにその様子を見つめていた。「……ところで、今後の戦の進め方についてだが……」 ミレダに視線を向けられて、斥候隊長ペドロは立ち上がる。 そして、例のごとくぼそぼそとした声で配下から上がってきた状況を告げる。「あまりかんばしくはありません。敵本隊は既に先鋒隊と合流しています。加えてこちらの損害も無視できません」 重苦しい空気が流れる中、ある人物が手を上げた。「何か策があるのか、シエル?」