「んっ……ぁ、ぅあ……!」
水音がたつほど潤滑は十分でも、それによって生まれる異物感や圧迫感まではどうにもできない。もしかしたら痛みもあるのかもしれない。それでも今度こそやめろとは言わない河原の、切なげに歪むその眉間に唇を押し当てる。
宥めるように、慰めるように。……こんなにも好きだと伝えるように。「……さっきはああ言ったけど、無理強いはしねぇから」
指を増やしたばかりだった手を一旦止めて、うっすらと汗を浮かせた額に口付けながら呟く。するとややして河原が小さく睫毛を震わせ、濡れた瞳を覗かせた。
「あ……や、その……ちょっと怖い、けど……」
河原は躊躇うように双眸を揺らし、けれども次にはそっと手を伸ばす。頭を浮かせて瞬く俺の首へと、掲げた腕を絡めてくる。
「かわは……」
「でも俺、お前に触れられるの、いやじゃないし……」 「――……」 「いやじゃないっていうか……むしろ、好きみたい、っていうか……」俺は河原の顔を見た。河原は真っ赤に染まった表情を隠すように俺の肩口へと顔を寄せ、回した腕にぎゅっと力をこめた。
「だから、その……」
ほとんど呼気だけのような声が、耳を掠める。思わず息を呑んだ。
改めて心臓を射貫かれたような気分になり、刹那には一気に体温が上がる。「――わかった」
返した声は、自分でも笑えるくらい余裕がなかった。
「ふ……っ」
時間をかけて馴染ませた胎内から、指先を引き抜く。河原の背筋が小さく震え、細い糸を引いていた体液がぷつりと途切れた。
あえかに漏れる吐息にすら腰の奥が重くなる。束の間ほっとしたように脱力する河原を見下ろしたまま、俺は無言で顔を近付けた。整いきらない呼吸を直に感じながら唇を重ね、その傍ら、自らの下衣を寛げる。「ん、んっ……」
表面を触れ合わせるだけだった口付けを徐々に深める。唇を食み、合わせを舐めた舌先で歯列を割って口蓋をなぞる。一方で河原の膝裏に両手を添えると、そのまま掬うように
どこか入りたい店の希望があるかと訊かれ、どこでもいいですよと答えたのは確かに俺だ。だけどそれは、正直なところすぐ近場の店に入ると思っていたからこその答えだった。 それがあろうことか、「一度行ってみたいレストランがあったのよね」 言うなり彼女はてきぱきとタクシーを拾い、戸惑う俺を引っ張り込むと、「アリアってお店までお願い」 不意打ちのように、行き先として俺の職場を選んだのだった。 *** もうすぐ十四時《にじ》……。 結局断ることも出来ず、連れ立って店内に入ると、予想はしていたけれど、見知った店員の視線を一斉に浴びた。 特に木崎なんて、元々大きな瞳をこれ以上ないくらいに大きくして、ぱちぱちと音がしそうなほどの瞬きをしていた。 別に見られて恥ずかしいとか、そんな風に思うような状況でもないのに、気分は妙に落ち着かず、案内されたテーブルについてからも、心臓の音はずっとうるさいままだった。 ……今日は、普通に遅番だったよな。 落ち着け、と自分に言い聞かせながら、俺は静かに息を吐く。 幸いなことに、暮科はまだ出勤していなかった。 いや、ここで幸いと思うのはおかしいのかもしれないけど、その時はなんとなくそう思ってしまった。なんて言うか直感的に、暮科にだけはこの光景を見られたくないような気がしたのだ。 ……別に、やましいことなんてないはずなのにな。 心の中で首を傾げても、理由はよく分からない。 そんな俺の向かい席で、塔子さんは早速メニューを広げると、「なにがお勧めなのかしらね。スイーツも全部美味しそうだし…」 楽しそうに呟きながらも、存外真剣な目付きでそれを眺めていた。「ね、英理くんはなににする? 前はコーヒーだけってことも多かったわよね」 問いのような、独り言のような。俺の方をちらちら見ては、また嬉しそうにメニュー表に視線を落とす。ある意味無邪気ともとれる塔子さんの振る舞いに、次第に俺の肩からも
クリスマスが近くなり、俺は公休日に一人、当ても無いまま買い物に出かけた。 暮科と出会って三年弱。暮科とそういう関係になって初めてのクリスマスだ。付き合い始めて間もないとはいえ、特別な相手がいるクリスマスはさすがに俺だって意識する。 どうして俺が同性に? とか、本当に暮科はこんな俺を? とか。そもそも同性で付き合うってどういうことなんだろう……なんて、ある意味今更ともとれる思いはまだ俺の中から消えていない。 でも、それでも、自分が暮科のことをどう思っているかという部分だけは、ちゃんと理解しているつもりで、「うん、だって俺は……暮科が好き……」 そして結果だけ見れば、俺はいま暮科と付き合っている――と言う関係なわけで。「うん……しかも一応、恋人……? になった、わけだし――」 で、そうなるとやっぱり、俺でもクリスマスくらいはなにかするべきかなぁと、人並みには考えるわけで……。「でも、いったいなにがいいんだろ」 そのくせいざとなると、情けないことに俺には暮科の欲しいものがさっぱり分からない。なにをあげれば喜んでくれるのか、まるで想像もつかなかった。 今日までにそれとなく探りを入れたつもりの質問も、似たような質問で返されてしまって結局答えは得られなかったし、その後はその話題に触れるタイミングすら上手く掴めなくて……。「どうしよう……困ったな」 クリスマス当日までの俺の公休日は、今日を含めてたった二日。 買うならそのどちらかで決めなければと言う状況なのに、どんなに考えてもこれと言ったものは思い浮かばない。「暮科寒がりだし…マフラーとかどうなんだろ。でも結構持ってそうなんだよなぁ……」 俺はふと目にとまった、雑貨屋のショーウィンドウをぼんやり眺めた。クリスマス仕様に変わっていたそこには、男女問わず使えそうなニット帽や手袋、マフラーなどの小物が、クリスマスツリーと共に可愛らしく飾られていた。「マフラーじゃなかったら……なんだろ。灰皿? いや、それこそもう持ってるか。……ていうか、あれ? 男相手にプレゼントって……いや、そこは
「帰れそうか?」 振り返った暮科が、俺の方へと歩いてくる。「ああ、うん。もう大丈夫……」 「急がねぇし、別にゆっくりでいい」 テーブルに灰皿を置きながら、暮科が労るような声で告げる。俺は「ありがとう」と素直に頷いた。 けれども、そこでふと思い出す。俺はぱちりと瞬き、慌てて時計を振り返った。「やっ、でも暮科明日仕事だし、確かまた早番にっ……、ぁ、……っ」 「……!」 勢いよく立ち上がると、くらりと頭が揺れた気がした。堪えきれず前方に傾いた俺の身体を暮科の腕が受け止める。そのまま腰を引き寄せられ、近まった互いの隙間に遅れてコートが滑り落ちた。「……大丈夫か」 「ごめ……」 なんだか妙に呼気が震えて、返す声も掠れてしまう。 て、言うか……。 常よりもずっと鮮烈な煙草の香りが鼻孔をくすぐる。触れた先から体温が、分け合うみたいに伝わってくる。 その時、俺は唐突に意識した。 距離が近い――。 意識すればするほど、過剰とも思えるほどに心臓が跳ねて、急に胸が苦しくなった。離れなければと思いながら、それすら出来なくて、過ぎる困惑に頭が真っ白になった。「……とりあえず、俺明日休みになったから」 暮科の声で、少しだけ景色に色が戻る。「え……」 「代休。もらえた」 辛うじて返事をしながら、おずおずと視線を上げた。暮科はいつになく柔らかい笑みを浮かべていた。 心臓の音が……。 鳴り止まないそれが、今にも暮科に伝わってしまいそうで、恥ずかしくたまらなくなる。知らず頬が熱を持っていたのに気づいて、「明日は……まだなんとか行けそうだからって店長が」 「そうなんだ……」 「あぁ」 「そっか……そっか。良かった……」 俺はほっと息をつきながらも、逃げるように視線を落とした。髪の毛が暮科の首筋にかかるのも構わず俯き、とにかく顔を見られないようにと下向けば自然と肩口に額が触れた。 シフ
いつから惹かれ始めたのかなんて、思い返してもよく解らない。だけど、それを自覚した瞬間だけは、いまでもはっきり憶えている。 あれは俺が、店の事情でどうしてもホールの仕事に回らなければならなかった日――。 極度の上がり症である俺は、勤務先であるファミレス『アリア』に入社したときから、厨房専門のスタッフだった。 人見知りも激しい俺は、やっぱりどう考えてもホールでの接客――不特定多数のお客さんの対応――はハードルが高くて……、それを察してくれたオーナーが、「それなら厨房のみで構わないわ」という契約にしてくれたのだ。元々厨房中心のスタッフもいるにはいたが、その時募集していたのはどちらもこなせるスタッフだったらしいのに。 入社のきっかけが、自他共に認めているらしい面食いオーナーの独断だったからだよ――と、笑顔で背中を叩いてくれたのは同い年の同僚だった。 さすがにそれが全てとは思えなかったけど(そんな自信ないし)、結果として探していた再就職先(しかも好条件)を決めることができたのは確かに僥倖で――そして俺は、本当に滅多なことでもない限り、ホールへと駆り出されることなく過ごせていた。 ――まぁ、その滅多なことがその日は起こってしまったわけだけど。 スタッフの間でたちの悪い風邪がはやり、どうしても人手が足りなくなっていたその日、俺は最低限、基本テーブルのあと片付けだけでもいいからと言うことで、実際、何度かホールの仕事に携わった。 その時の内容や心境なんて言うのは、正直ほとんど覚えていない。覚えていたのは、とにかく緊張したということばかりで――。 ……でも、それでも、仕事を終えたあとのことは、不思議と記憶に鮮明な部分も多かった。 *** 終業時刻を迎え、他のスタッフとともに更衣室に戻った俺は、途端に情けなくも腰が抜けたように立っていられなくなった。 緊張の糸が切れたせいか、そのままへなへなと崩れ落ち、更には貧血みたいに意識まで遠退いて――。 …
「変なことは言ってねぇけど……」 河原は先に踏み出すこともせず、不思議そうに首を傾げる。俺は空になったカップを傍らのゴミ箱に落とし、小さく頭を振った。「……こればっかりは俺の問題かもな」 吐息混じりに落とした声は思いの外小さく、河原の耳には届かなかったらしい。「暮科……?」 「ほら、ドア閉まる」 俺は不思議そうに瞬く河原を扉の奥へと押し込み、続いて箱の中へと乗り込んだ。 操作パネルに向き合い、閉扉ボタンと階床ボタンを一つ押す。パネルに灯った明かりは〝6〟の数字の部分だけ。扉が閉まり、箱が上昇し始めるとふわりとした浮遊感に包まれる。「――河原」 俺は不意に振り返り、壁際に立っていた河原へと近づいた。 前髪を掻き上げながら顔を寄せると、わずかに上向けられた双眸が俺を捕らえる。構わず他方の腕を壁につき、何も言わずに更に距離を詰めた。「……くれ、し……」 揺れる眼差しを影の中に閉じ込め、構わず唇をそっと重ねる。「暮科」と呼びかけたその声を阻むみたいに、あるいは直接欲しいみたいに。 触れ合わせただけの表面は乾いていて、少しだけ冷たかった。このまま温めてやりたいと思う気持ちを押しとどめ、名残惜しくも顔を浮かせようとする。それでもやはり離れがたく、最後に柔らかく啄んでからようやく口付けをほどいた。「……っ」 河原は束の間瞠目したあと、困ったように視線を伏せた。 俯いた河原の頬にかかる長めの髪が、すぐさまその表情を隠す。けれども隙間から見える耳の先は赤く染まっていて、口元を押さえているその仕草からもどんな顔をしているかは容易に想像がついた。「――河原」 今度は耳元に顔を寄せ、吐息が掠める距離で囁いてみる。するとその身体が壁に沿ってかくんと位置を下げ、俺は慌ててその腰を支えた。「なんだよ。腰でも抜けそうになったか……?」 腕に力を込めて引き寄せると、河原は大人しく俺の腕の中に収まってくれる。いまだ顔を上げられない河原の、後頭部を宥めるようにぽんぽんと撫でた。気
「将人さんとの再会と、暮科……とのことがさ、俺の中で、本当に大きくて」 素直に嬉しそうにも、はにかむようにも聞こえるその声に含むものは感じられない。それなのに複雑な気分になる自分に自嘲が浮かぶ。 将人……見城将人。 相変わらず面倒な存在だとは思う。 河原の中でのあいつの存在は今でも大きいのだ。それはもう認めないわけにはいかない。 だけど、考えてみれば俺の中にも見城が占める部分はあるわけで、それが今の俺を形成していると言っても過言ではない。 要はお互いさまなのだ。 そしてそれはどうやっても拭えないもの。 だからこそ、これくらいで揺れていてはだめだと思う。揺れる必要はないのだとも思う。 だけど、それでも気になるものは気になるのだ。改めて河原から見城の話を聞くと平常心ではいられなくなる。「……お前さ」 「ん?」 「――まだ見城に手を握ってて欲しいの」 言葉にするほど、胸の奥が締め付けられる。なのに言わずにはいられなくて、独白ような言葉が勝手に口からこぼれていく。 居た堪れなく視線を足元に落とすと、視界の端に意図せず河原の手指が映った。「えっ……手?」 「手。……見城に握っててもらったら安心したんだろ」 カップを口元に寄せたまま返した声が、どこか拗ねたみたいになってしまう。誤魔化そうとカップを傾けようにも、中身はほとんど残っていなかった。「……暮科、もしかして」 そんな俺の顔を、不意に河原が覗き込んでくる。とっさに上体を退いて距離をとろうとするが、意外にも更に間合いを詰められた。 仕方なく顔を上げると、かち合った視線の先でわずかに眉尻を下げて微笑まれる。「ばかだなあ。俺はその……元々同性に興味はないんだから、暮科がそんなふうに心配する必要なんて……」 「いや、俺同性だしな」 この期に及んで当たり前みたいに言う河原に、思わず即答してしまう。けれども、重ねてあてつけるように溜息をついても、河原はきょとんと俺を見返すだけだった。「それはそうだけど。でも暮科は暮科で、男だからってことじゃないしさ」 「そ、……」 それはまぁ、そうなのかもしれない。言いたいことは分からないでもない。 多分河原にとってはそれが全てで、俺が同性だったことも一つの結果でしかないと言いたいのだろう。「だから、そこは安心してよ」