冷蔵庫の扉を開けたとき、微かに冷気が頬に触れた。整然とした庫内に、見慣れぬ簡易保冷バッグがぽつんと置かれていた。白地に紺のステッチが走ったその小さな布製バッグは、どこか大和の雰囲気に似ていた。目にした瞬間、高田の呼吸が少しだけ詰まった。
誰もいない部屋。物音ひとつしない。静寂という名の沈黙が、室内に深く沈んでいた。冷蔵庫の棚からバッグをそっと取り出し、テーブルに置いた。手つきは丁寧で、どこか恐る恐るという印象を含んでいた。
ファスナーを開けると、なかにはタッパーがひとつ。普段よりも量が控えめで、消化の良いおかずが並んでいた。白粥のように柔らかく炊かれたご飯、出汁の香りが穏やかな煮物、刻んだ野菜がほのかに甘い卵焼き。すべてが、どこか“気遣い”という言葉に満ちていた。
その上に、折りたたまれた紙片が一枚、乗っていた。
高田はそれを指先でつまみ、広げる。筆跡は、見慣れた癖のある丸文字だった。
《気にせんでええ。また行くわ。》
その一文だけが、白い紙の中央にぽつんと記されていた。
目を伏せたまま、高田はその紙を両手で持った。視線がその短い文字列に固定される。言葉が頭の中で反響する。気にせんでええ。また行くわ。たったそれだけの文章なのに、そこに込められた意図を完全には読み取ることができなかった。いや、できなかったのではない。読み取りたくなかったのかもしれない。
なぜ自分は、あんな言い方をしてしまったのだろう。
あのとき、大和が飲み会に誘ってきたとき。胸のなかに咄嗟に生まれた拒否感が、反射的に「無理。行けない」という言葉に変わった。その語調が、どれだけの距離を大和に感じさせたか。いまになってようやく理解が追いついてくる。
感情にまつわるすべてが、自分にとっては過負荷だった。喜びも、戸惑いも、怖れも、すべてが閾値を超える処理不能なデータとして押し寄せる。けれど、それをすぐに言語化する術は、自分にはない。
言葉は、どこまでも不器用な伝達装置だ。少しの選択ミスで、意味が裏返る。少しの声色の揺れで、信頼が揺らぐ。そして何より、それは“伝えたい”という意志がなければ、存在しえない。<
昼前の光はやわらかく、遮光カーテンの隙間から斜めに差し込んでいた。天気は曇りだったが、空気は澄んでいて、部屋の温度もいつもより少しだけ心地よかった。玄関のチャイムが鳴ったとき、高田は机の上にあったマグカップをそっと置いた。音がしないように気を遣った自分に気づき、少しだけ胸の奥がざわついた。予告はなかったが、それでも誰なのかは分かっていた。迷いなく玄関へ向かい、チェーンを外して扉を開ける。大和は、いつものように手に保冷バッグを提げていた。服装はラフだったが、その視線にはこちらを真っ直ぐに見つめる温度がある。高田はそれに一瞬だけ目を逸らし、それでも何も言わずに中へ招き入れた。言葉より先に、空気の重さが和らいでいくのが分かる。弁当を机の上に並べる手つき。袋から取り出されるプラスチック容器。蓋を開けたときに立ち上る湯気と香り。いつもと同じはずのそれらが、今日はなぜか、特別に思えた。箸を割る音に続けて、大和が無言で横に腰を下ろす。その動作すら、なぜか自分の呼吸のリズムに影響していた。高田は気づいていた。この空間に彼がいるときだけ、自分の身体が正常に近づくことを。普段は喉の奥が詰まったような息苦しさがあるのに、彼の隣にいると、自然に酸素が入ってくる。それは意識していなかったが、明確な事実だった。肺がよく動く。胸が静かに開く。「味、合ってる?」と大和がぽつりと尋ねる。高田はうなずくだけだったが、その瞬間も、皮膚の表面にある微細な神経が静かになる感覚があった。視線を交わすたびにざわついていた皮膚が、今は逆に安定を求めている。不快ではない。むしろ、安心を感じている。それが事実であることに、高田は戸惑っていた。完食したあと、大和は食器を片づけるように立ち上がった。その背中を見送りながら、高田はそっと手帳を開く。ペンを持った指が震えていた。午前中は震えなかったのに。午前中は、何も食べられなかったのに。ページの左上に、細い字で日付を書いた。その下に、ためらうように言葉を綴る。「……これは、防衛反応か……それとも……恋……?」喉の奥で
モニタの前に座る高田の指は、Ctrlキーの上で止まったままだった。数秒前までタイピングを続けていたはずの手が、今は動かない。社内チャットの右端に小さく表示されたオンラインインジケーター。その色が緑から赤に変わったとき、彼の心拍は確実に一拍、跳ねた。氷室 弘紀。その名前が表示されたとき、最初に走ったのは思考ではなかった。反射的に脳の奥に焼きついている“笑顔”が、網膜の裏に浮かび上がった。仕事の顔ではない。かつて、唇のすぐそばに頬を寄せられたときの、あの表情だった。音声付きのミーティング招集が届いたのは、その直後だった。クリックして開かれたウィンドウに、穏やかな口元を浮かべた男が映る。柔らかい声、口調、微笑み。画面越しであるにもかかわらず、皮膚がざわめいた。背中を冷たい汗が這い、椅子に深く座っているはずの身体が、なぜか浮き上がるような感覚に襲われる。「……ッ……」声にならない息が喉奥から漏れた。胸が締めつけられたように苦しく、瞬時に映像と音声をミュートにする。指が勝手に動いた。映ってはいけない。聞かれてはいけない。反応してはいけない。そう強く言い聞かせるように、ディスプレイの輝度を落とし、モニタを閉じかける。その動作の途中で、チャットが一件、ポップアップで表示された。《今日の昼、カレー。辛いのあかんかったら言うてな》高田は、一瞬それを見つめた。意味のない内容に見えるはずの短い一文。しかし、その無意味さこそが、今の彼には必要だった。脈絡もない、ただの昼食報告。それがこんなにも、温度を持って胸に届くとは思わなかった。握っていたマウスから指を外し、背もたれに身を預ける。肩が重い。吐息が長く漏れ、視界の端で木漏れ日がカーテンの隙間から差し込んでいた。大和のチャットを、もう一度開く。今度はスクロールし、前日のやり取りまで戻った。弁当の中身の写真。夕飯の報告。見慣れた絵文字や変換ミス。それら一つひとつが、胸のざわめきを少しずつ解いていく。記憶は、突然に戻る。氷室の笑顔の裏にあった、拒絶の声。繰り返された“お前は感情がない”“可愛げがない
雨粒が傘の布地を叩く音が、夜の街のざわめきをやわらかく吸い込んでいた。東京本社からの出張で数日間大阪に滞在していた仁科は、仕事を終えて本町のビルを出たところだった。スーツの裾がわずかに濡れ、足元のヒールが濡れたアスファルトに吸い込まれるように沈む。信号の向こう、街灯に照らされたビル群がぼんやりと歪んで見えた。傘を差しながら、彼女は小さく息をついた。ふっと漏れるため息は、空気と混ざって消えていく。「あの子、本当に変わったのね…」誰に向けるでもなく、ぽつりと漏れた独白だった。その声には、安堵があった。確かにあった。けれど、その奥にほんのかすかに沈殿していたものがある。かつて東京で彼と同じ部署にいて、彼の不器用な優秀さと、孤独と、閉ざされたままの感情に触れようとして、結局届かなかった日々。それを、思い出さないわけにはいかなかった。高田湊という男は、あまりに精密すぎた。人と同じ方法で笑うことができず、人と同じ会話のテンポを掴めず、それでも仕事だけは完璧にこなした。正確すぎるロジックと、壊れたように整った顔。そのどちらもが、彼を「特別」にしすぎていた。あの東京で、誰もが彼を「評価」はしても、「理解」しようとはしなかった。——あるいは、できなかったのかもしれない。仁科は信号が変わるのを待ちつつ、傘の内側にそっと目を伏せた。数日前、大阪支社で見かけた高田の顔。話しかけたときの表情。そして、それを見つめていた一人の青年の視線。あのとき、彼女は確かに見たのだ。高田の目が、誰かを「見返して」いたということを。それは、東京では決して見られなかった姿だった。あの子は、いつもどこか遠くを見ていた。話しかければ反応は返ってくるが、それは演算のようなもので、感情とは別の次元にあった。けれど、いまの彼は違っていた。見つめ、問いかけられ、それに応じて、ほんのわずかに笑っていた。その相手が、あの関西弁の青年——大和だった。仁科は口の端に微かな笑みを浮かべた。やさしいものでもあり、そしてほんの少しの、苦味を帯びていた。「……あんな目、初
夜のオフィスはまるで無音の水槽のように静かだった。天井の蛍光灯が等間隔に並び、淡い光を床に落とす。その光は硬質で、冷たく、どこか現実感を欠いていた。人の気配のないフロアに、パソコンの待機音と空調の低い唸りだけが、わずかに空気の流れを示している。高田は、その静けさの中心に立っていた。白く均一な照明の下、まるで舞台に一人きりで置かれたような錯覚すら覚える。ディスプレイの前に立ち、ログイン画面を見つめる。その画面はただの入口にすぎない。だが、いまの彼には、扉の前に立つだけで精一杯だった。初めての出社。そう、それはたった一歩、部屋の敷居をまたぐこと。誰かに呼ばれたわけでも、何か特別な任務があったわけでもない。ただ、彼は今日、自分の意思でこの場所に来ようと決めた。それは「日常に戻る」という、彼にとっては途方もない決断だった。けれど、その決断は、一つの文字列によって簡単に崩された。社内チャットのオンラインステータス。「氷室 弘紀(東京)」という名前が、ふと視界の端に現れた瞬間だった。何の飾り気もない、ただの文字列。それなのに、身体の深層に埋もれていた過去が、機械的なトリガーで一気に再生された。怒鳴り声。掌の感触。皮膚に残った赤い線。愛と称された支配。口先だけのやさしさと、その裏にあった執着。心の奥で封じ込めていた記憶が、一つ、また一つと解凍されていくように、高田の意識に侵入してくる。呼吸が、うまくできなくなった。鼻から吸った空気が胸まで届かない。肩がわずかに上下しているのに、酸素はどこかで蒸発していた。視界が霞んで、キーボードの輪郭が曖昧になっていく。座ろうとした椅子に手を伸ばしたが、その指は震え、触れることすらできなかった。頭ではわかっていた。これは過去で、氷室はもう“終わった”存在だと。でも、身体はそう認識しなかった。心臓が、筋肉が、神経が、その名前に反応している。それはもはや理性では抑えきれないレベルの記憶だった。身体が動かない。ここにいる意味を失いかけていた。引き返そうと、足を動かそうとしたとき——背後で、エレベーターの音が響いた。閉ざされた静寂に、金属が擦れるようなその音は
社内ポータルに通知が上がったのは、午後四時を回ったころだった。いつものようにターミナルを操作しながら、業務連絡の一覧に目を走らせていた高田の視界に、その名前は唐突に、無言で割り込んできた。「システム統合に伴う開発チームの再編について(人事異動通知)」軽い気持ちで開いたその告知文。文章の半ばに並んだ名前のひとつに、視線がぴたりと止まる。氷室 弘紀(東京開発部より異動)何も言っていないのに、なにかが崩れた音がした気がした。高田の背筋にひやりと冷たいものが這い上がり、体が瞬時に強張った。指先がタッチパッドを離れ、わずかに震えを帯びて空中に止まる。読み慣れたサンセリフ体のフォントが、その瞬間だけ、別の言語のように感じられた。ページを閉じることができなかった。いや、できなかったのではない。閉じる判断すら、どこかに置き忘れていた。モニタの前で身動きもせず、まるで自分の存在までもフリーズしてしまったかのようだった。椅子の肘掛けを無意識に握りしめた指に、じわじわと力が入る。肩にまで緊張が伝播し、背中が硬直する。息を吸ったはずなのに、胸の奥には冷たい空気しか届いてこない。血が巡らないような感覚。それでも、心臓だけは強く、脈打っていた。「……なんで……」喉から漏れた声は、聞き取れるかどうかのかすれ声だった。自分の耳にさえ届いているか怪しかったが、それは確かに言葉の形を取っていた。どうして、このタイミングで。どうして、また同じ職場に。どうして、僕の視界のなかに。問いは次々と浮かぶのに、どれひとつとして言葉にならなかった。手帳を開こうとするも、手は浮いたまま、ページに触れない。鉛筆の位置が分かっていても、それを握る感覚が戻ってこない。頭のどこかで、「これは、記録してはならない」と言っていた。書けば、その存在を自分の中で“現実”にしてしまう気がした。氷室という名前を、もう二度と目にすることはないと、どこかで思い込んでいた。あれほど距離をとったのに、あれほど忘れようとしたのに——だが、現実は変わら
オフィスビルの会議室。曇り空が窓の外に広がり、灰色に濁った光がブラインドの隙間から差し込んでいた。大阪支社の五階、来客対応用の無機質なテーブルの向かい側に、大和は静かに座っていた。正面にいるのは、東京本社の管理職、仁科。タイトスカートにジャケットという端正な装い。けれどどこか、その表情は硬く、少し冷たい印象を残す。面談の始まりは、建前通りだった。新規開発チームの統合に伴う人事調整、連携のフロー確認、スケジューリングの共有。それらを淡々とこなしていくうち、大和は徐々に気づいた。仁科の視線は、時折妙な間を置いて自分を観察している。その眼差しは、業務の確認ではなく、もっと個人的な何かを探るような色を含んでいた。一通りの説明が終わったあと、仁科は資料を閉じて、大和の顔をまっすぐに見た。「……高田くんは、最近出社していないのね?」唐突ともいえるその問いに、大和は一瞬だけ言葉を探したが、嘘はつかないと決めていた。「ええ。ずっとリモートです。でも、体調も仕事のパフォーマンスも悪くないです。連絡も、こまめに取ってますし」仁科は、ふっと薄く笑った。その笑みに、意地悪さや皮肉は感じられなかった。ただ、ある種の“知っている”という響きがあった。「“元気そうに見せる”のが上手な人よ。あの子は」大和の眉が、わずかに動いた。仁科は構わず、話し続けた。「あなた、高田くんの“前のこと”は知ってるの?」問いというより、試すような視線だった。大和は少しだけ首を傾げた。「氷室、って人のことですか?」仁科は頷く。「ええ。あなたの部署にも、いずれ合流するはずよ。開発チームの統合で」その名前を聞いた瞬間、大和の体の奥がわずかに熱を帯びた。名前だけで、なぜこれほど心臓がざわつくのか、自分でも分からなかった。けれど、それは“敵”と認識するには十分すぎる感情だった。「……正直、詳しいことは、聞いてないです。でも…&hellip