再びこの家に戻ってきて、若子は思いがけないほど懐かしさを感じた。最初はもう戻ってきたくないと思っていたのに、今は千景がそばにいるから、もう怖くなかった。ふと、かつて暁と一緒にここで暮らしていたことを思い出す。今、暁はもういない―修のもとにいる。そのことを考えると、胸が締めつけられるほど寂しくなり、思わず泣きそうになる。同じ街にいるのに、会いたいときにすぐ会いに行けるのに、それでも身近にいないと心にぽっかり穴が開いた気持ちになる。自分の身体の一部みたいな存在―母親として、そう思うのは当たり前だ。そんな若子の気持ちを察して、千景がそっと抱きしめてくれる。「どうした?元気ない?」「違うの。ちょっと暁のこと思い出しただけ。前は一緒にここで住んでたから、部屋にあるベビーベッドを見るたび、彼のこと思い出しちゃう」「ベビーベッド、片づけようか?また暁が戻ってきたときに出せばいい。毎回見るたびに悲しくなるのは、かわいそうだよ」「うん......お願い」千景はベビーベッドを部屋から運び出して、別の部屋に片づけてくれた。戻ってくると、「今夜、何が食べたい?俺が作るよ」と優しく声をかける。若子はふと、初めて千景と出会ったころを思い出す。「覚えてる?昔は、あなたが私にご飯作ってって言ってたよね」「もう昔の話さ」千景は肩を抱き、「これからは俺が君に作ってあげる。ヒモ男でもなんでも、君のためなら喜んでやるよ」「ヒモ男は楽して暮らすものじゃない?」と若子が冗談めかして言うと、千景は少し考えて、「じゃあ、君の旦那さんになろうかな」と小声でささやき、優しく彼女の耳たぶに噛みついた。若子の顔は耳まで真っ赤になる。どうしてだろう、そんな言葉を聞くと、妙に照れてしまう。彼の声や仕草には、隠れた意味がありそうで、ドキドキが止まらなかった。千景からは、ほんのりと煙草の匂いがして、それがまた心地よかった。「さて、お姫様。冗談はこのくらいにして、本当に食べたいものを教えてよ。何でも作るから」「あなたが作ってくれるものなら、なんでも大好き。私は好き嫌いないし」カップ麺だって、千景が作ってくれたらおいしいと思える。「子豚ちゃんは、育てやすいな」千景が頭を優しく撫でる。若子はむくれて、「私、子豚ちゃんじゃないもん
若子の仕事が終わる前、千景は車で会社まで迎えに行く準備をしていた。今の千景は、自分の安全にとても気を使っていて、運転も慎重そのものだった。もう絶対に自分が危ない目に遭うわけにはいかない―そう強く思っている。ふと、バックミラーに映る一台の車が気になった。曲がるたびに、その車も同じようについてくる。スピードを落とせば、相手もゆっくりになる。千景の全身が一気に緊張し、眉をひそめてハンドルを握る手に力が入った。けれど、その車は突然別の道へ曲がり、交通の波に紛れて消えてしまった。ホッと肩の力が抜ける。きっと考えすぎだ、と自分に言い聞かせる。誰かに追われている気がしてしまうのは、きっと昔の職業病のせい。カフェでも、車を運転している時でも、つい周りを警戒してしまう。でも、今はB国で、若子と一緒にいる。もう昔みたいな暮らしはしない。普通の男として、普通に生きていこうと決めているのだから。仕事が終わり、若子が会社のビルから出てくると、千景は少し離れた階段にしゃがんで、煙草をふかしていた。その背中を見つけた瞬間、若子はホッと胸をなで下ろす。仕事帰りにこうして彼がいてくれる―それだけで幸せを感じた。千景に近づくと、こっそり後ろから驚かそうと駆け足になり、そっと歩みをゆるめて、いきなり背後から抱きついた。その瞬間、千景の体が条件反射で動く。思わず立ち上がって、若子を投げ飛ばしそうになった―けれど、彼女のほのかな香りに気づき、若子が叫ぶと同時に、慌てて抱きとめ直した。危うく地面に叩きつけるところだった。顔面蒼白の若子が「冴島さん......」と小さくつぶやく。千景は動揺しながらも、すぐに彼女をしっかり抱きしめて、背中を優しく撫でた。「ごめん、今の本当にびっくりさせたよね?」千景の手からは、煙草がすっかり地面に落ちていた。火はまだ消えず、煙が風に乗って遠ざかっていく。若子は怖かったけれど、千景の過去を思えば、こういう反応も仕方ないとわかっていた。自分が軽率だったと、ちょっぴり反省する。「私は大丈夫だよ。驚かそうとした私が悪かったの、ごめんね。今度から気をつける」「違う、若子。俺が悪いんだ」千景は、顔を彼女の首元にうずめる。「俺の反応が大きすぎて、危うく君を傷つけるところだった。本当にごめん。これからは、ちゃんと
翌朝早く、若子と千景が起きたとき、修の姿はどこにもなかった。どこへ行ったのか見当もつかず、若子が執事に聞いてみると、修は朝早くから出かけたらしい。きっとわざと自分たちを避けているのだろう、と若子は思った。それ以上は何も聞かず、静かに受け止めた。今日は仕事があるので、朝食を千景と一緒にとった後、暁とも別れを告げる。「暁、ごめんね。もうママと一緒に住めないけど、会いに来るからね。パパがちゃんと面倒見てくれるし、三か月後にはまたママと暮らそう」そう言いながら、若子は涙をこらえきれず、子どもを強く抱きしめた。頬にキスをして、ぎゅっと胸に抱きしめながら、「ごめんね、暁、本当にごめん」と何度も繰り返す。暁は、何が起きているのかわからないような顔で母親を見つめていたが、小さな手を伸ばして、若子の頬の涙をそっとぬぐってくれた。「ママ、ないちゃダメ」まだ言葉はおぼつかないけれど、その一生懸命な気持ちはしっかり伝わってくる。若子は子どもの手を握り、「ママ、お仕事に行ってくるね」とやさしく告げた。子どもを執事に預けるとき、若子はこう伝える。「執事さん、修が帰ってきたら伝えてください。もし暁に何かあったら、すぐに連絡してほしいし、修も自分の体を大事にするようにって。それと、また子どもに会いに戻りますので」執事は「わかりました、必ず伝えます」とうなずいた。若子はもう一度だけ暁の姿を見つめ、それから千景と手をつないで家を出る。千景が運転する車で、若子は会社まで送ってもらった。「冴島さん、今日は帰って、必ず家で待ってて。私、仕事が終わったらすぐ帰るから。勝手に出かけないで、もし外出するなら電話をしてね」千景は優しく若子の髪を撫でて、「わかった。仕事が終わったら迎えに行くよ」と微笑んだ。若子は千景の頬にそっとキスをして、「じゃあ、行ってきます。運転気をつけてね」と声をかける。千景はうなずき、やさしく若子の顔を撫で、温かいまなざしで見つめていた。若子が車を降りて振り返ると、千景の車が去っていくのを見送ってから、会社のビルへ入っていった。......千景はそのまま、若子が以前借りていた部屋に戻った。しばらく誰も住んでいなかったせいか、部屋にはこもった空気が漂っている。すぐにすべての窓を開けて換気し、袖をまく
「兄妹なんて......」修は苦笑した。「昔、俺も同じこと言ったの覚えてる?そのとき、お前すごく怒ったよね」若子は目を伏せて何も言えなかった。―状況が違う。昔と今を一緒にはできない。「若子、もしお前がいつか幸せじゃなくなったら......必ず戻ってきて」修はずっとここで、彼女を待っているつもりだった。「修......」何を言っても、すべて空しく聞こえてしまう。「もしあいつがお前を泣かせたり、ひどいことをしたら、ちゃんと俺に教えてよ」「修......」若子の目から涙があふれる。「......最後に、もう一度だけ抱きしめてもいい?」少しだけ迷ってから、若子はうなずき、そっと修の元へ歩み寄った。修はすぐに若子を強く抱きしめた。彼の体が震えているのが伝わってくる。すすり泣きが彼の胸元から響く。若子は黙ったまま、それを受け止めるしかできなかった。「修、どうか元気でいて。人生はまだまだこれからだよ。いつか、きっと本当に愛せる誰かに出会えるから」自分には、この言葉くらいしか言えなかった。修は何も返さず、ただ、いつまでも若子を抱きしめていた。しばらくして、千景が部屋に入ってきて、その光景に立ち止まった。若子は慌てて修をそっと押し離した。修は振り向き、千景をじっと見つめて言った。「......一度だけ抱きしめただけだ、構わないよな?」千景は落ち着いた声で答えた。「若子がいいなら、俺も構わない。彼女のことを信じてるから」「二人は、結婚の予定はもう決まってるのか?」「まだ日取りは決めていない。でも、結婚したらちゃんと伝えるよ」「いや、知らせなくていい。俺は二人の結婚式になんて出たくない......もし結婚することになっても、俺にはもう知らせないでくれ」自分の心を、これ以上傷つけたくなかった。若子はうなずいた。「分かった、そうする」その瞬間、修はもうこらえきれなくなった。目は真っ赤に腫れ、黙って部屋を飛び出していく。若子は慌てて後を追う。修は自分の部屋に戻ると、ドアを乱暴に閉めて、中から低いうめき声のような泣き声が響いてきた。若子は心配でドアに手をかけようとしたが―千景がそっとその手を止めた。「若子、今はそっとしておこう......あいつの感情
修は視線をそらして、二人の親密な姿をこれ以上見ることができなかった。怒りと絶望に胸を締めつけられながらも、若子の涙を見ると、どうしても責めきれなくなってしまう。やがて、深くため息をつきながら言った。「......それで、これからどうするつもりだ?結局、子どもも連れていくのか?」「修、私と冴島さんは、前に私が借りていたアパートに引っ越すつもり。そこは一年分の家賃も払ってあるし、暁はまずあなたと一緒にいてもらう。三ヶ月経ったら私が迎えに来る。その間、時間が合えば一緒に出かけたりもできるから」「でも、もし子どもが毎晩『ママに会いたい』って泣いたらどうする?お前は毎日来てくれるのか?」「電話してくれれば、私が話すから......最初の三ヶ月はどうしても一緒にいられないけど、これも乗り越えるしかない」「修、きっと大丈夫。あなたは本当にいい父親だし、暁もあなたのことが大好きだから」修は大きく息をついて、「......分かった」としか言えなかった。修が承諾してくれたことで、若子はようやく安堵した。「じゃあ、少し荷物をまとめて、今日はもう彼と帰るね」「......今夜はここに残っていってほしい。みんなで最後に一緒にご飯を食べよう。明日出発すればいい」修の申し出に、若子は一度千景の方を見た。二人で一緒に生きると決めた以上、何もかも自分だけで決めるわけにはいかない。「今日は......どうしよう?」と小声で尋ねると、「子どものために、今夜はみんなで過ごそう」と千景も賛成した。「......うん、分かった。じゃあ、今夜はここにいる」こうして三人で最後の晩ごはんを囲むことになった。夕食中、誰もほとんど口をきかず、重たい空気だけが流れていた。夜になり、それぞれ部屋に戻ると、若子と千景はわざと別々の部屋で寝ることにした。修の気持ちを刺激しないためだった。若子は子どもを揺りかごに入れて、やさしくあやしながら話しかける。「暁、これからはパパの言うことをよく聞いてね。パパはとても優しいから、きっと大切にしてくれる。三ヶ月経ったら、ママがまた迎えに来るからね。パパとママが一緒にいられなくて、ごめんね。でも、無理に一緒にいるのが本当に君の幸せだとは思わないの。ママは『暁のため』なんて理由で、暁を傷つけるようなこと
若子はしばらく迷ってから、口を開いた。「修......もう、ここに住み続けることはできないと思う。私はこれから冴島さんと一緒に生きていくし、この家に居続けるのはやっぱり無理」「二人でここに住めばいい。何も不都合はない」修は、まるで自分の気持ちに蓋をするように、最大限の譲歩を見せていた。若子自身、ここまで言ってくれるとは思わなかった。「ありがとう、修。でも、やっぱり私たちは引っ越すよ。あなたが気にしなくても、私たちが気になってしまう。私は修の気持ちをちゃんとわかってる。私が冴島さんを選んだ以上、毎日ここにいたら、いつかきっとみんな苦しくなる。だから、出ていくしかないの」そのとき、修の顔色が急に険しくなる。「じゃあ、暁はどうする?まさか子どもまで連れていくつもりか?お前は俺がこの子の父親だって言ったよな。子どもを俺から奪うつもりか?」修の声は思わず大きくなった。両手をぎゅっと握りしめ、まるで怒りに満ちた獅子のようだった。若子は思わず怯えて、無意識に千景のそばに身を寄せた。千景も、本能的に彼女の腰に手を回して守る。「修、子どもを奪うつもりなんてないよ。暁は私たち二人の子ども。だからこそ、こうやって一緒に話し合いに来たの」修は激しく息をして、自分の感情を必死に押さえ込む。「......じゃあ、どうしたいんだ?」若子は落ち着いた口調で続けた。「修、暁はあなたの本当の子ども。これだけは絶対に変わらない。ずっと『パパ』って呼ぶよ。たとえ私たちが一緒じゃなくなっても、暁には母親の愛も父親の愛も、両方必要だと思う」「一緒にいなくて、どうやってその愛を与えろっていうんだ?」修は拳を震わせ、目には怒りと悲しみが入り混じっている。「......たとえば、三ヶ月ごとに住む場所を変えたらどうかな。最初の三ヶ月はあなたのところ、次の三ヶ月は私のところ―こうすれば、一年のうち半分ずつ、どちらも平等に過ごせる」それが若子にとって一番公平だと思える方法だった。「つまり、子どもは母親か父親、どちらか一方としか暮らせないってこと?」「違うよ、修。私たちに時間ができたら、一緒に出かけたりもできる。夫婦じゃなくても、友達として協力できるはず。無理に一緒にいるよりも、お互いのためにも子どものためにも、そのほうが幸せになれると