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第996話

Auteur: 夜月 アヤメ
若子は、もう何も言いたくなかった。気分は最悪で、ただ西也の腕をそっと振りほどき、数歩だけ後ろに下がる。

胸の奥が苦しくて、立っているのもつらいほどだった。

「若子......」

西也はたまらず、彼女をそっと支える。

「もう戻ろう。ここにはいない方がいい。ゆっくり休もう?」

でも、若子はかすかに首を振った。

「......私は行かない。ここにいなきゃいけないの」

その視線は、沈静に包まれた一角―冴島千景が運び込まれたICUのガラス越しへ向けられていた。

修のことで胸が引き裂かれそうになったとしても、今一番大事なのは―冴島さんのことだった。

修なんてもうどうでもいい。侑子とどうなろうが、知ったことじゃない。

―冴島さん、お願いだから、目を覚まして。お願いだから......

若子はICUのガラスドアの前で、じっと立ち尽くしていた。

その目は不安と焦りに満ちていて、どうしようもない無力感に飲み込まれていた。

病室の中は冷たい空気が支配していて、モニターから発せられる「ピッ、ピッ」という音だけが静寂を破っていた。

千景はベッドに横たわり、まるで眠るように動かない。顔色は真っ青で、まるで命の灯が消えてしまいそうな儚さを漂わせていた。

若子は両手をぎゅっと握りしめた。爪が手のひらに食い込んで、血が滲みそうになっても、痛みなんて感じなかった。

ただただ、目の前の彼に―すべての意識が向いていた。

その時だった。

千景の身体が突然大きく痙攣し始めた。

呼吸は荒く、不規則になり、モニターから「ピーピーピーッ」と警報が鳴り響く。

「医者さん!医者さんっ!!」

若子は我を忘れて叫んだ。

医療スタッフがすぐに駆け込んでくる。

白衣を身にまとい、マスクと手袋で顔と手を覆った彼らは、迷いもなく処置を始めた。

主治医が指示を飛ばしながら、すぐさま胸部の圧迫を行う。

モニターは次々と数値を表示し、警報音が鳴り響く。

若子の目は、監視モニターから一瞬たりとも離れなかった。

恐怖、焦り、そして祈り―胸が張り裂けそうなほどに、感情が渦巻いていた。

―今すぐ中に飛び込みたい。

そう思ったその瞬間、看護師が彼女の腕を制した。

「落ち着いてください。こちらは全力で治療しています」

看護師は若
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    修はそっと目を閉じ、腕の中の侑子をぎゅっと抱きしめた。 大きな手で彼女の後頭部を包み込み、そして額に、静かにキスを落とす。 「侑子......いつも俺のことを考えてくれて、ほんとに......何て言ったらいいか分からない」 「じゃあ......何も言わないで」 侑子は顔を上げて、彼のあごに優しくキスした。 「修さえ望んでくれるなら、私はいつまでも『修の女』でいる。あなたのためなら、何だってする。あなたが幸せでいてくれるなら、それで全部いいの」 そのまま、侑子は照れくさそうに彼の胸元に顔をうずめ、再び彼に抱きついた。 その手はそっと修の胸に触れ―やがて、彼の頬へと撫で上げていく。 ―もう、これだけ関係が深くなっていて、他に何が必要なの? 自分はもう、完全に「修の女」なのだと。侑子の中では、それは揺るがない事実になっていた。 修はそっと彼女を横抱きにし、そのまま病室へと戻る。 ベッドへゆっくりと彼女を下ろし、慎重に寝かせた。 「侑子......さっきあいつに言った言葉、全部『俺のため』ってのは分かってる。でも、正直なところ......ちょっと無駄だったかもな」 「えっ?どうして?」 侑子は不思議そうに聞き返す。 「忘れたのか?あいつはもうすぐ『塀の中』だ」 侑子の表情が一瞬こわばる。けれどすぐに、照れ隠しのように笑みを浮かべた。 「そっか......あーあ、私ったら。そんな大事なこと、すっかり忘れてた。ごめんね、修。本当に、無駄なことしちゃった。 しかも、ちょっと感情入れて彼の手まで握っちゃって......あ〜、ほんと恥ずかしいっ」 「恥ずかしがることなんかないさ。お前は、俺のためにやったんだろ?」 修は、少し眉を下げて、優しく言った。 「でも―もう、そんなことしないで。俺、そういうの......辛いんだよ」 侑子はにっこり微笑んだ。 「たぶんね、心臓が悪いからかな。記憶力までダメになっちゃったのかも」 「構わないよ」 修は、彼女の頬に優しく手を添えて、静かに微笑んだ。 「責めたりなんかしない。あんな風に言ってくれて......俺、本当に感動したんだ。侑子、お前って......本当に優しくて、懐が深い女だよ」 彼のそばにいた女たちは、どの子もみんな―本当にいい子だ

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    ―たぶん、この世で唯一、彼の嘘を「叶えてあげよう」と思えるのは、この女性だけかもしれない。 どんな嘘でも、どんな無茶な要求でも、疑いもせずに受け入れてくれる。 それが侑子だった。 ......どうして、こんなにいい子なんだろう。 その「良さ」が、むしろ痛ましいほどに胸に響く。 ―もしかしたら、いつか本当に彼女を愛してしまうかもしれない。 「遠藤さん、少しだけ、お話してもいいですか?」 侑子はそう言って、そっと修の手を離し、西也の方へ歩いていった。 だが、修がすぐにその手を引き留める。 「行くな」 「修、大丈夫。ほんの少し話すだけ。心配しないで。遠藤さんが、こんな場所で私を傷つけたりするような人だとは思ってないから。 ここは病院だし、監視カメラだって山ほどあるしね。彼だって、さすがに壊せないでしょ?」 ―「監視カメラ」。 それはあの日、西也が修の家に乗り込んできて、すべてのカメラを壊した件を指している。 西也はその含みをすぐに察し、鼻で笑った。 侑子は西也の前まで来ると、穏やかに口を開いた。 「遠藤さん、あなたと修の間にある因縁......その始まりは、あなたの奥さんだったと聞いています。でも、時が経てば、きっとふたりとも冷静になれる日が来ると思っています。 どんな事情があったとしても、私は―あなたに、どうかお願いしたいことがあります。 あなたの奥さんを、大切にしてあげてください。彼女は修の『前妻』であり、幼なじみであり、まるで妹のような存在なんです」 その言葉に、侑子はちらりと修へ目を向ける。 「だから、松本さんの幸せが一番大切なんです。私はそう信じています。遠藤さん、あなたなら―きっと彼女を幸せにできるって」 西也は目を細め、じっと侑子を見つめていた。 ―この女、何を言い出すつもりだ?今さら、こんなクソみたいな話をして、何を狙ってる? 「遠藤さん......修の妹は、私にとっても妹なんです。修が大切に思う人なら、私も大切にします......それが誰であろうと」 侑子は涙ぐみながら一歩前へ進むと、そっと西也の手を取った。 「遠藤さん......お願いします。松本さんのこと、あなたに託します」 西也の眉がピクリと動いた。 まさか、彼女が―いきなり自分の手を握って

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第997話

    「分かったわ、修。次は絶対にこんなことしない。全部、私が悪かったの。あんなこと、言っちゃいけないなんて知らなかったし......こういうの、私には経験がなくて、だから修に嫌われるのが怖くて......」 修はそっと手を伸ばし、侑子の髪に優しく触れた。 「もう言うな。これからは―若子とも会わないようにしろ」 「......じゃあ、修は?修は、もう彼女と会わないの?」 その問いに、修は少しの間だけ黙り込む。 彼の沈黙が、すべてを語っていた。 侑子は、その目の奥で何かを悟る。 修ですら、自分でも分かってないんだ。もう一度、若子に会うかどうかなんて。 偶然、会うかもしれない。もしくは、修から会いに行くのかも。あるいは―若子の方から、恥知らずに近づいてくるのか。 どっちにしろ―全部若子のせい。修に非は、ひとつもない。 その時。 「藤沢」 病室の外から、低く響く声が聞こえた。 修が顔を向けると、そこには西也が立っていた。鋭い視線で、じっとこちらを見ている。 侑子は不安げに修の腕を握る。 「修......彼、どうしてここに?」 修は彼女の手を包み込むように握り返す。 「大丈夫だ、侑子。ここで待ってろ。絶対に外へ出るな」 侑子はこくんと頷いた。 修はそれから、病室を出て西也の前に立つ。 「で、遠藤。何の用だ?」 「俺の方が聞きたいね。女連れて、若子を傷つけに来たんじゃないのか?」 「考えすぎだ」 修の声は冷たく、淡々としていた。 「ただ、侑子の身体の検査に来ただけだ」 「検査する病院なんていくらでもあるだろ。よりによってここを選んだのは―わざとじゃないのか?」 「俺はここの病院に詳しいし、付き合いもある。だから便利なんだ。それの何が悪い?」 修は肩をすくめると、ニヤリと笑う。 「それより、お前がここに来てる方が不自然だな。まさかまた俺と殴り合いでもしたくて来たんじゃないだろうな?そんでまた若子に泣きつく気か?『あいつにやられた』ってな」 「ふっ......」 西也は鼻で笑った。 「安心しろ。ここで手を出すつもりなんてないよ。ただ伝えに来ただけだ。ヴィンセントが目を覚ましたってな」 修の眉がぴくりと動く。 「......目を覚ましたのか?」 そのこと

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第996話

    若子は、もう何も言いたくなかった。気分は最悪で、ただ西也の腕をそっと振りほどき、数歩だけ後ろに下がる。 胸の奥が苦しくて、立っているのもつらいほどだった。 「若子......」 西也はたまらず、彼女をそっと支える。 「もう戻ろう。ここにはいない方がいい。ゆっくり休もう?」 でも、若子はかすかに首を振った。 「......私は行かない。ここにいなきゃいけないの」 その視線は、沈静に包まれた一角―冴島千景が運び込まれたICUのガラス越しへ向けられていた。 修のことで胸が引き裂かれそうになったとしても、今一番大事なのは―冴島さんのことだった。 修なんてもうどうでもいい。侑子とどうなろうが、知ったことじゃない。 ―冴島さん、お願いだから、目を覚まして。お願いだから...... 若子はICUのガラスドアの前で、じっと立ち尽くしていた。 その目は不安と焦りに満ちていて、どうしようもない無力感に飲み込まれていた。 病室の中は冷たい空気が支配していて、モニターから発せられる「ピッ、ピッ」という音だけが静寂を破っていた。 千景はベッドに横たわり、まるで眠るように動かない。顔色は真っ青で、まるで命の灯が消えてしまいそうな儚さを漂わせていた。 若子は両手をぎゅっと握りしめた。爪が手のひらに食い込んで、血が滲みそうになっても、痛みなんて感じなかった。 ただただ、目の前の彼に―すべての意識が向いていた。 その時だった。 千景の身体が突然大きく痙攣し始めた。 呼吸は荒く、不規則になり、モニターから「ピーピーピーッ」と警報が鳴り響く。 「医者さん!医者さんっ!!」 若子は我を忘れて叫んだ。 医療スタッフがすぐに駆け込んでくる。 白衣を身にまとい、マスクと手袋で顔と手を覆った彼らは、迷いもなく処置を始めた。 主治医が指示を飛ばしながら、すぐさま胸部の圧迫を行う。 モニターは次々と数値を表示し、警報音が鳴り響く。 若子の目は、監視モニターから一瞬たりとも離れなかった。 恐怖、焦り、そして祈り―胸が張り裂けそうなほどに、感情が渦巻いていた。 ―今すぐ中に飛び込みたい。 そう思ったその瞬間、看護師が彼女の腕を制した。 「落ち着いてください。こちらは全力で治療しています」 看護師は若

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第995話

    若子の声にはかすかな震えが混じっていた。目元は潤んでいたけれど、それでも彼女は涙をこぼすまいと必死にこらえていた。 ―私は、あなたの前でなんて、絶対に弱さを見せない。 最初に西也と結婚した時、たしかにその関係は「本物」なんかじゃなかった。 でも、あれこれと出来事が積み重なって、気づいたらすべてがぐちゃぐちゃに絡まり合っていた。 そして今となっては、もう誰にもどうにもできないほど、取り返しがつかなくなっていた。 修はふいに手を伸ばした。若子の肩に触れようとする―その一瞬。 「触んないでッ!」 彼女は彼の手を激しく振り払って、次の瞬間、またしても彼の頬を平手で打った。 すでに腫れ上がっていた修の顔は、さらに赤く膨れ上がる。 ―なのに。 若子の胸には、少しもスッキリする感覚なんてなかった。 怒鳴り返すわけでも、手を上げるわけでもなく、ただ黙って打たれ続ける修の姿を見て、怒りと苦しさだけがますます募っていった。 「それで満足なの?これが、あなたの答えなの?」 彼女は拳を握ったまま、彼の胸元を何度も何度も打ちつけた。 「こんなの......私、もうイヤなの!大っ嫌いよ、あなたなんか......っ!なんで、なんでいつもそうなの!?なんで離れてくれないの!?どうしてよっ!!」 「もうやめてぇぇ!!」 侑子がとうとう堪えきれず、駆け寄ってきた。 そして若子の腕をつかむと、そのまま力いっぱい突き飛ばす。 若子の体は、床に叩きつけられるように倒れた。 侑子はすぐに修の前に立ちふさがり、まるで子どもを庇うように、彼を守るような姿勢になった。 「お願い......もう殴らないで。これ以上、もうやめてよ......お願いだから......」 「若子!」 修はすぐに侑子を押しのけて、若子の元へ駆け寄る。 そして倒れた彼女をそっと抱き起こした。 「若子、大丈夫か!?」 「触らないで!!」 彼女はその手を振り払い、怒りのままに叫ぶ。 侑子はその光景を、ただ呆然と立ち尽くして見ていた。 修が―迷いもなく、若子のもとへ向かったこと。 その姿に、彼女の全身から力が抜けていった。 ―どうして、こうなっちゃったの? 侑子は胸を押さえ、そのまま「ドサッ」と音を立てて倒れ込む。 息が、

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