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第194話

Author: かおる
雅臣の顔色がさっと変わった。

「......何だと?!」

報告してきた部下の声は切羽詰まっていた。

「翔太様が湖に落ちました。

今、救急車で病院に搬送されています!」

遊園地。

星の晴れやかな気分は、雅臣からの一本の電話ですっかり打ち砕かれていた。

怜が気を遣うように言う。

「星野おばさん、翔太お兄ちゃんがいなくなったなら、僕たちも探した方がいいよ。

じゃないと、このまま遊んでも楽しめないと思う」

星の瞳は揺れる蝋燭の炎のように、かすかに揺らめいた。

怜はさらに続ける。

「僕と翔太お兄ちゃんは同じ幼稚園だし、普段だって仲のいい友達なんだ。

もし本当に何かあったら、僕も悲しいよ」

星は複雑な眼差しで怜を見下ろす。

翔太は幼稚園でいつも怜をいじめていた。

そのせいで、先生に呼ばれて二人の仲裁をしたことも二度ある。

けれど怜は、そんなことなど気にも留めないかのように「友達だ」と口にする。

その健気さが胸に迫る。

影斗も口を開いた。

「やっぱり探した方がいい。

何にせよ翔太はお前の子だろう。

もし幼稚園の別の子が迷子になったって知ったら、俺たちだって探しに行くじゃないか」

普段は奔放に見える影斗の心根が、実はこんなにも優しいことに星は気づく。

そして、だからこそ怜のような素直で思いやりのある子が育ったのだろう、とも思えた。

しばし考え込んだのち、星は小さくうなずいた。

三人が出口へ向かおうとした時、不意に怜が足を止め、ある方向を呆然と見つめた。

星は異変に気づき、身をかがめて問いかける。

「怜くん、どうしたの?」

「な、なんでもないよ。

パパ、星野おばさん、僕ちょっとトイレに行ってくる」

「ついて行こうか?」

「ううん、大丈夫。

ひとりで行けるから」

怜は自立心の強い子どもだ。

こうしたことは、たいてい親の手を借りずに済ませる。

「わかった。

何かあればすぐ電話して」

そう言って怜を送り出してから間もなく、星の携帯が再び鳴り響く。

表示された名は、またしても――神谷雅臣。

星は眉をひそめ、迷うことなく着信を切った。

雅臣が自分に電話をかけてくることなど、滅多にない。

昔なら、それだけで胸が高鳴っただろう。

だが今はただ、苛立たしい。

切ってわずか一秒。

再び着信音が鳴る。

執拗にかけ
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